マルコによる福音書

2016年4月24日説教「ポンテオ・ピラトの前で」金田幸雄牧師

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聖書:マルコによる』福音書15章
1 夜が明けるとすぐ、祭司長たちは、長老や律法学者たちと共に、つまり最高法院全体で相談した後、イエスを縛って引いて行き、ピラトに渡した。
2 ピラトがイエスに、「お前がユダヤ人の王なのか」と尋問すると、イエスは、「それは、あなたが言っていることです」と答えられた。
3 そこで祭司長たちが、いろいろとイエスを訴えた。
4 ピラトが再び尋問した。「何も答えないのか。彼らがあのようにお前を訴えているのに。」
5 しかし、イエスがもはや何もお答えにならなかったので、ピラトは不思議に思った。

教要旨 マルコ15:1-5.doc クリックで説教が読めます

礼拝後にギデオン協会 西岡 巧兄の報告と証がありました。
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2016年04月24日 | カテゴリー: マルコによる福音書

2016年4月17日説教「キリストの苦難・ペテロの否認」金田幸男牧師

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マルコによる福音書14章66~72節
66 ペトロが下の中庭にいたとき、大祭司に仕える女中の一人が来て、
67 ペトロが火にあたっているのを目にすると、じっと見つめて言った。「あなたも、あのナザレのイエスと一緒にいた。」
68 しかし、ペトロは打ち消して、「あなたが何のことを言っているのか、わたしには分からないし、見当もつかない」と言った。そして、出口の方へ出て行くと、鶏が鳴いた。
69 女中はペトロを見て、周りの人々に、「この人は、あの人たちの仲間です」とまた言いだした。
70 ペトロは、再び打ち消した。しばらくして、今度は、居合わせた人々がペトロに言った。「確かに、お前はあの連中の仲間だ。ガリラヤの者だから。」
71 すると、ペトロは呪いの言葉さえ口にしながら、「あなたがたの言っているそんな人は知らない」と誓い始めた。
72 するとすぐ、鶏が再び鳴いた。ペトロは、「鶏が二度鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」とイエスが言われた言葉を思い出して、いきなり泣きだした。

本日午後
ラフェスタ プリマベラ2016(クラシックカー公道パレード)で会堂前を通過した
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2016年04月17日 | カテゴリー: マルコによる福音書

2016年4月10日説教「イエス・キリストの苦難/裁判」金田幸男牧師

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説教要旨 マルコ14:53-65.doc高法院で裁判を受けるイエス・キリスト



木村秀樹神学生かおり姉歓迎会IMG_7244.JPGIMG_7242.JPG
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2016年04月11日 | カテゴリー: マルコによる福音書

2016年4月3日説教「イエス・キリストの苦難/逮捕」金田幸雄牧師

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聖書:マルコ福音書14章
14:43 さて、イエスがまだ話しておられると、十二人の一人であるユダが進み寄って来た。祭司長、律法学者、長老たちの遣わした群衆も、剣や棒を持って一緒に来た。
14:44 イエスを裏切ろうとしていたユダは、「わたしが接吻するのが、その人だ。捕まえて、逃がさないように連れて行け」と、前もって合図を決めていた。
14:45 ユダはやって来るとすぐに、イエスに近寄り、「先生」と言って接吻した。
14:46 人々は、イエスに手をかけて捕らえた。
14:47 居合わせた人々のうちのある者が、剣を抜いて大祭司の手下に打ってかかり、片方の耳を切り落とした。
14:48 そこで、イエスは彼らに言われた。「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持って捕らえに来たのか。
14:49 わたしは毎日、神殿の境内で一緒にいて教えていたのに、あなたたちはわたしを捕らえなかった。しかし、これは聖書の言葉が実現するためである。」
14:50 弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった。
一人の若者、逃げる
14:51 一人の若者が、素肌に亜麻布をまとってイエスについて来ていた。人々が捕らえようとすると、
14:52 亜麻布を捨てて裸で逃げてしまった。


2016年04月03日 | カテゴリー: マルコによる福音書

2016年3月27日説教「死人の中からの甦り」金田幸男牧師

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教要旨 マルコ16:1-8イースター説教.doc


説教要旨 「死人の中からのよみがえり」マルコ16:1-8

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2016年03月27日 | カテゴリー: マルコによる福音書

2016年3月20日説教「ゲッセマネの園の祈り」金田幸男牧師

説教要旨 マルコ14:32-42.doc

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説教「ゲッセマネの園の祈り」

聖書 マルコ14章32-42

32 一同がゲツセマネという所に来ると、イエスは弟子たちに、「わたしが祈っている間、ここに座っていなさい」と言われた。

33 そして、ペトロ、ヤコブ、ヨハネを伴われたが、イエスはひどく恐れてもだえ始め、
34 彼らに言われた。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、目を覚ましていなさい。」
35 少し進んで行って地面にひれ伏し、できることなら、この苦しみの時が自分から過ぎ去るようにと祈り、
36 こう言われた。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」
37 それから、戻って御覧になると、弟子たちは眠っていたので、ペトロに言われた。「シモン、眠っているのか。わずか一時も目を覚ましていられなかったのか。
38 誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。」
39 更に、向こうへ行って、同じ言葉で祈られた。
40 再び戻って御覧になると、弟子たちは眠っていた。ひどく眠かったのである。彼らは、イエスにどう言えばよいのか、分からなかった。
41 イエスは三度目に戻って来て言われた。「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。もうこれでいい。時が来た。人の子は罪人たちの手に引き渡される。
42 立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た。」

 


2016年03月20日 | カテゴリー: マルコによる福音書

2016年3月13日説教「散らされる羊たち」金田幸男牧師

説教要旨 マルコ14:27-31.doc 
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説教「散らされる羊たち」

聖書:マルコ14章27-31

27 そのとき、イエスは弟子たちに言われた、「あなたがたは皆、わたしにつまずくであろう。『わたしは羊飼を打つ。そして、羊は散らされるであろう』と書いてあるからである。
28 しかしわたしは、よみがえってから、あなたがたより先にガリラヤへ行くであろう」。
29 するとペテロはイエスに言った、「たとい、みんなの者がつまずいても、わたしはつまずきません」。
30 イエスは言われた、「あなたによく言っておく。きょう、今夜、にわとりが二度鳴く前に、そう言うあなたが、三度わたしを知らないと言うだろう」。
31 ペテロは力をこめて言った、「たといあなたと一緒に死なねばならなくなっても、あなたを知らないなどとは、決して申しません」。みんなの者もまた、同じようなことを言った。



2016年03月13日 | カテゴリー: マルコによる福音書

2016年3月6日説教「主の晩餐の制定」金田幸男牧師

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説教要旨 マルコ14:22-26.doc

の晩餐(マルコ福音書14章)
22 一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取りなさい。これはわたしの体である。」
23 また、杯を取り、感謝の祈りを唱えて、彼らにお渡しになった。彼らは皆その杯から飲んだ。
24 そして、イエスは言われた。「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。
25 はっきり言っておく。神の国で新たに飲むその日まで、ぶどうの実から作ったものを飲むことはもう決してあるまい。」


2016年03月07日 | カテゴリー: マルコによる福音書

2016年2月28日「過ぎ越しの食事」金田幸雄牧師

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聖  書        マルコによる福音書14章12~21節(新共同訳新約聖書91頁)
過越の食事をする
12 除酵祭の第一日、すなわち過越の小羊を屠る日、弟子たちがイエスに、「過越の食事をなさるのに、どこへ行って用意いたしましょうか」と言った。
13 そこで、イエスは次のように言って、二人の弟子を使いに出された。「都へ行きなさい。すると、水がめを運んでいる男に出会う。その人について行きなさい。
14 その人が入って行く家の主人にはこう言いなさい。『先生が、「弟子たちと一緒に過越の食事をするわたしの部屋はどこか」と言っています。』
15 すると、席が整って用意のできた二階の広間を見せてくれるから、そこにわたしたちのために準備をしておきなさい。」
16 弟子たちは出かけて都に行ってみると、イエスが言われたとおりだったので、過越の食事を準備した。
17 夕方になると、イエスは十二人と一緒にそこへ行かれた。
18 一同が席に着いて食事をしているとき、イエスは言われた。「はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人で、わたしと一緒に食事をしている者が、わたしを裏切ろうとしている。」
19 弟子たちは心を痛めて、「まさかわたしのことでは」と代わる代わる言い始めた。
20 イエスは言われた。「十二人のうちの一人で、わたしと一緒に鉢に食べ物を浸している者がそれだ。
21 人の子は、聖書に書いてあるとおりに、去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった。」

説教「過越の備え」金田幸男牧師

聖書:マルコ福音書14章10-21

 

要旨

【ユダの裏切】

 14章10-11に、イスカリオテのユダがキリストを裏切って祭司長や律法学者たちの手に渡そうと決心したことが記されています。なぜユダがキリストを裏切ろうとしたのか。今までいろいろな説が語られてきました。しかし、謎のままです。いろいろな憶測はあります。例えば、ユダはキリストのユダヤの社会改革運動に期待していたのだ。今や、エルサレムに多くの民衆の歓呼も受けて入城した。ところがキリストは立ち上がろうとしない。ユダは期待を裏切られと思い、その不信感からキリストを裏切ったのだというのです。

 

けれども、ユダがそのような革命思想を抱いていたという証拠はどこにもなく、まして、彼がキリストにそんな期待を寄せていたという痕跡も見いだされません。また、お金が欲しかったからだという説もあります。ベタニヤでラザロの姉妹マリヤが300デナリオンの香油を惜しみなく注いだとき、ユダはクレームをつけました。福音書記者のヨハネは、ユダがイエスの弟子たちの財布係をしていてその中身をごまかしていた。そのようにお金に『汚い』性格の人間だからマリヤの行為を批判したと書いています。そこから、こういう説が出てくるのですが、イエスを裏切って得た収益は銀30枚でした(マタイ26:15)これではあまりにも金額が低すぎます。銀30枚は30デナリオンに相当しますが、自分の師を売渡すにはあまりにも少額です(30万円そこそこ)。

 

マタイ26章では確かにユダから祭司長らに申し出た金額のように書かれてありますが、ユダにはこの金額でなければならない必然性はなさそうです。結局のところ、ユダがなぜキリストを裏切ったのか福音書記者には分からないのだと思います。ヨハネは「ユダにサタンが入った」と表現しますが(13:27)、この表現が具体的にどういうことなのか分かりません。むしろ、誰もユダの内心をはかることができなかったので、このような曖昧な表現となったのではないかと思います。   

 

ただ、分かることは、祭司長や律法学者たちは過ぎ越しの期間では、イエスを捕らえて殺そうとする計画は騒ぎになるおそれがあるので実行を延期したのですが、ユダのこの決心で事態が変わった。つまり、キリストの十字架へと、人間の企てや思いを越えて、神の計画が実行されようとしています。キリストの苦難と十字架は不可避です。ユダの裏切りもその一つの要素です。

 

【過越の小羊が屠られる日】

12節から、もう一つのことが記されます。除酵祭の第一日、過越の小羊が屠られる日とあります。正確にはこの二つの日付にはずれがあります。過越はユダヤの暦ではニサンの月(太陽暦では3月もしくは4月)の15日に行われます。

 

【過越の小羊】

過越の祭とは、過越の食事を取ることが主なる行事でした。過越の食事では、小羊の肉、イースト菌の入っていないパン、ぶどう酒、苦菜のはいったスープを食べることになっています。メインは、過越の小羊で、小羊は前日のニサンの14日に屠られることになっていました。ユダヤ人ならば必ずこの食事をとらなければなりませんでした。その上、エルサレムに上ってくる巡礼の場合は、エルサレムの城壁の内側で過越の食事をしなければならないという習慣もありました。ところが、ニサンの14日になっても、キリストが過越の食事について何も指示していなかったと思われます。弟子たちは業を煮やして、いったい今回の過越はどうなるのかと心に焦りを感じて、キリストに問うたのだと思います。弟子たちはエルサレムの住民ではありません。早く場所を確保しなければ過越を守れなくなる可能性があります。それは信仰厚いユダヤ人の弟子たちにしてみればあってはならないことです。

 

キリストはこの弟子たちの心の動揺をご存知であったと思われます。二人の弟子をエルサレムに派遣したことが記されます。都に行け。そこで水がめを持った人に出会う。実は水がめを運ぶのは女性の仕事であったとされています。男性が水がめを運ぶことはまれでした。町に入ればすぐその人であることが分かります。その人の後をついていったら、過越の食事をするべき部屋の家の所有者に会える。そこで準備万端整えよ。このような指示を与えられました。この一連のキリストの言葉は一種の予見だという見方もできます。しかし、ここはそのように考える必要はないと思います。キリストは予め手はずを整えておられたと考えらます。つまり、この準備に特別奇跡的要素はないということです。

 

キリストは弟子たちには知られないように、過越を支障なく行えるように準備をされたのです。キリストご自身が過越を是非とも守ろうとされたのです。このたびの過越はいつもの過越とは異なって、キリストが率先して是非とも弟子たちと共に守ろうとされたのです。

 

なぜ、そのようなことをされたのか。過越はなぜ守らなければならないのか。それは単なる行事とか儀式ではありません。行事とか儀式というと何か軽く扱われているように思います。しかし、どのような宗教にでも行われている行事、その中には祭りも含まれます。また儀式には祭儀と言われるものも含まれます。これらは過去にあったことをつねに想起するという意味が含まれています。過去にあったことはそれだけではなく、未来にも起こるという期待を伴います。ですから、行事や儀式は宗教にとって極めて大きな意味を持っています。イスラエルの場合も同じでした。

 

【出エジプト最大の禍:最初に生まれた男子は死ぬ】

イスラエルはエジプトでは奴隷状態のなかで苦しめられていました。その時、神はモーセを立ててイスラエルの民を解放しようとされます。モーセはエジプトの王ファラオの前でさまざまな奇跡を行って見せますが、ファラオは心を頑なしにし続けて、モーセの要求を拒否し続けます。ついにモーセは神の最後の命令を伝えます。その夜、エジプト中を、災いを下すみ使いが駆け巡る。その時、小羊を殺してその血を玄関の鴨居に塗りつけてある家を災いは通り過ぎていく。しかし、それをしていない家では、人間だけではなく、家畜に至るまで、最初に生まれた男子は死ぬ。出エジプト記12章12-36節に記されています。そして、この過越を覚えるために、イスラエルでは例年、過越の小羊を屠ってこれを食べるように命じられます。その都度、イスラエルは、神がエジプトで先祖たちに何をなされたのか思い起こしたのです。単に過去を想起するだけではなく、神を信頼する民にはかつてと同様に神の救済のわざにあずかれると確信したのです。

 

過越はイスラエルの人々にとって救いの神を思い起こす機会となりました。神は決してイスラエルを忘れられない。頼るものを神は必ず守られる。その証拠が何よりも出エジプトの出来事であったのです。

 

イエス・キリストは過越を特に守ろうとされたのは、一般のユダヤ人がしているような習慣の遵守のためではありません。明らかに間もなくご自身の上に起きる受難、特に十字架の死と、過越が示している意味を結びつけるためでした。どちらも、犠牲によって災いを受けなくされるという点で共通しています。キリストは過越の小羊のように殺されます。しかし、それによって、神は罪のもたらす最高の災いである滅びから私たちを救われるのです。キリストはご自身が過越の小羊として殺され、それによってすべての罪人を救われようと願われたのです。

 

旧約聖書はこの点で新約聖書と密接に結びつきます。旧約聖書のないキリスト教はありえないのです。旧約聖書から使信を引き継いで新約の喜ばしい知らせがあるのです。だから、キリスト者は旧約聖書から救いの希望を聞き取ることができるのです。

キリストが過越を弟子たちと共に守りたいと願われたもう一つの目的があったと思います。先に遣わされた二人の弟子たち(ペトロとヨハネ ルカ22:8)は食事を整えます。食事に必要な食材とそれから、クッションとかテーブルなども用意されたはずです。ニサンの15日は夕方から始まります。二人の弟子はベタニヤまで急いで戻ったか、それともキリスト一行を待ったのか分かりませんが、過越は、ニサンの15日が始まる日没後、ただちにかあるいは深夜までの間に行われることになっていました。

 

【裏切り者ユダ】

イエス一行は準備された家の二階間に到着し、早速過越の食事を開始します。その時、キリストは裏切り者のことを持ち出されます。このところを読んで誰も不思議に思うことが、これだけはっきりと裏切りと言う事実がすでにおきていること、そして、キリストはイスカリオテのユダに向って裏切りのことを分かっていると言われているのに、弟子たちはそれが誰のことをいっているのか分からなかったという点です。ここでもやはりキリストの弟子たちはイスカリオテのユダの心に入り込んだ裏切りを悟ることができなかったということを示しています。彼らはユダの内心を彼のそぶりからは知ることができなかったのです。

 

イエス・キリストはそのユダを過越の食事に加えておられます。ここまで分かっているのであれば、ユダの参加を拒んでもよかったのではないでしょうか。いっそのこと、裏切り者がユダであると名指ししてもよかったのではないでしょうか。なぜそれをされなかったのか。

 

キリストはユダに翻意、つまり、最後の悔い改めのチャンスを与えようとされているではないかと思います。すべての計画は進行中です。それは神の計画です。ユダの裏切りもその中の一環です。それなのに、キリストは過越の食事を共にしようとされています。過越の意味は無論ユダも承知していたはずです。小羊の血と言う犠牲によって罪のもたらす災いを避けることができる。ユダは裏切り者、そのままであれば、この世に生まれてこなかったほうがその人のためといわれる大きな罪です。しかし、その罪をも許すことができるのは神の子キリストの尊い十字架の血、その犠牲なのです。キリストは最後の最後までユダに心を入れ替えることを求めておられます。(おわり)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2016年02月28日 | カテゴリー: マルコによる福音書

2016年2月21日「最高の奉仕」金田幸雄牧師

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説教要旨 マルコ14:1-9.doc
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説教「最高の奉仕」

 

聖書:マルコ福音書14章1-9

1 さて、過越と除酵との祭の二日前になった。祭司長たちや律法学者たちは、策略をもってイエスを捕えたうえ、なんとかして殺そうと計っていた。2 彼らは、「祭の間はいけない。民衆が騒ぎを起すかも知れない」と言っていた。

3 イエスがベタニヤで、らい病人シモンの家にいて、食卓についておられたとき、ひとりの女が、非常に高価で純粋なナルドの香油が入れてある石膏のつぼを持ってきて、それをこわし、香油をイエスの頭に注ぎかけた。4 すると、ある人々が憤って互に言った、「なんのために香油をこんなにむだにするのか。5 この香油を三百デナリ以上にでも売って、貧しい人たちに施すことができたのに」。そして女をきびしくとがめた。

6 するとイエスは言われた、「するままにさせておきなさい。なぜ女を困らせるのか。わたしによい事をしてくれたのだ。7 貧しい人たちはいつもあなたがたと一緒にいるから、したいときにはいつでも、よい事をしてやれる。しかし、わたしはあなたがたといつも一緒にいるわけではない。

8 この女はできる限りの事をしたのだ。すなわち、わたしのからだに油を注いで、あらかじめ葬りの用意をしてくれたのである。9 よく聞きなさい。全世界のどこででも、福音が宣べ伝えられる所では、この女のした事も記念として語られるであろう」。

 


2016年02月21日 | カテゴリー: マルコによる福音書

2016年2月14日説教「目を覚ましていなさい」金田幸男牧師

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マルコ福音書13章32~37節
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説教「目を覚ましていなさい」

聖書:マルコ13章32-36

 

要旨 

【神殿の崩壊はいつ起こるか】

 イエス・キリストがオリーブ山で弟子たち、特にペトロ、ヤコブ、ヨハネ、アンデレの4人(13:3)に語られたいわゆる「オリーブ山説教」を4回にわたって学んできました。今回で5回目になります。オリーブ山説教の主題は、4人の弟子たちが「そのことはいつ起こるのか」という問いに対する答として語られたものです。「そのこと」とは、イエス・キリストが語られた神殿の崩壊(3:2)を指しています。

 

しかし、キリストはエルサレム神殿の崩壊だけを語られたのではありません。それは、終わりのときの予兆の一つだとされます。戦争、飢饉、地震、そして、迫害、内部の争いといった艱難は終わりの日の前に起きます。それらの艱難の一つがエルサレム神殿の破壊なのです。弟子たちは、いつエルサレムが滅ぼされるのか、と問いますが、エルサレムの崩壊は神がこの世界を滅ぼされる終わりの日を予兆するものなのです。

 

【主イエスの再臨】

 終わりの時に起きるのは、人の子の来臨です。第1回目の来臨はベツレヘムの馬小屋でした。しかし、第二回目の来臨(再臨)は栄光と力を持って来られます。それはさばきの日でありますが、また、新しい世界が完成するときもあります。

 

 その日はいつ来るのか。弟子たちの関心事はそこにありましたし、この個所を読むものすべてにとっても大いに興味を引く問題です。いったいその日はいつなのか。聖書をあちらこちら引用し、終わりの日を西暦何年何月何日と正確に日を預言する人たちがいますが、キリストご自身がその日がいつかは誰も知らないと言います。ここでは、天使も御子も知らないと記されますが、使徒言行録1:6-7では新しいイスラエルの再建あるいは神の国の完成のときについては誰も知らない、ただ、御父だけがご存知であると語られています。

 

【神の子の受肉】

 御子が知らないということに躓きを覚える方がいるかもしれません。神の子であるはずのイエス・キリストが知らないはずがない、知らないのは神の子ではないからだ、という主張ですが、これは受肉の教理に対する誤解から来ています。

 

受肉とは神の御子は私たち人間と罪を除いては全く等しいものになられたという教説です。クリスマスにはこのことが繰り返されます。御子が私たちと全く同じになられたということは、私たち人間が終わりのときを知らないという限界まで同じになってくださったという意味です。それほどまでキリストはへりくだってくださいました。私たち人間の知識の限界まで身を低くしてくださいました。だから、キリストがその日を知らないとしても不思議ではありません。

 

【どう備えるか】

 誰もその日は知らない。でも終わりの日は必ずやってきます。だからどうすればいいのか。どういう備えをすべきなのか。誰も将来のことは分かりません。数時間先のことも知らないのです。だから、先のことなど考えてもしかたがないと諦め、終わりの日に関して思考停止にする人の何と多いことでしょうか。しかし、知らないから思考停止にすることは正しくありません。

 

キリストはたとえその日がいつか分からなくても、相当の準備をせよといわれます。大抵の人は備えなどしないままに日を過ごしますが、終わりの日は必ずあります。初めがある以上終わりもあるからです。終りのときが来ないなどということは誰も断定できない真理です。終わりは必ず来ます。それがこの世界の冷徹な真実です。この厳かなキリストの預言を軽く見ることは決してできません。それほど重大問題です。

 

【旅に出る主人の譬え】

 そのために、キリストは譬えを語られます。それは旅に出る主人の話です。この主人はたくさんの使用人(奴隷)を抱えていました。当然大きな邸宅の持ち主でもあったと思います。彼は長い旅に出なければなりませんでした。そこで、家人に仕事を割り当て、責任を課します。それはただ厄介な重荷を与えるということだけではなく、使用人を信頼しているから仕事を割り当てたのです。

 

そして、門番には特に厳重に命令を与えます。当時、物騒な世の中でした。特に強盗は厄介でした。そのためにしなければならないのは厳重な戸締りです。扉をしっかり閉じておけば強盗団は侵入できません。しかし、門番は、主人が戻ってきたらすぐの扉を開かねばなりません。戸締りをするのはいいのですが、主人が帰ってきたとき門を開けられないでは困ります。当時、旅人が夜に行動することは珍しくありません。季節によりますが、夏などは日中の日差しを避けて夜に行動するほうが少々危険があっても楽でした。主人は夜に帰館することは大いにありえました。

 

【門番の務め】

 門番は盗人が侵入してこないように寝ずの番をしなればなりませんでした。そして、主人が帰ってきたら家のものを起さなければなりません。主人が帰ってきたときに寝込んでいたら懲罰をこうむるに違いありません。このように門番は大変重大な仕事を課せられたということになります。

 

ここで、夕方、夜中、鶏の鳴くとき、明け方という言葉が並んでいますが、これはローマの夜の時間の区分を指します。鶏が鳴く時間とは午前3時か4時ごろだろうと思います。夜明けは、5時か6時ごろになるでしょうか。ローマ人は夜を等分に分割していませんでした。朝方のほうが短時間になります。そして、この時間の節目に夜の警備兵が交替します。このような習慣が民間でも採用されていたということでしょう。門番は、このように時間の区切りで交替します。朝方のほうが短時間であるのは合理的です。朝方のほうが眠気に襲われやすく、そのために時間が短くされていました。任務に当たる門番はその間は緊張して待たなければなりません。その間眠りこけていることは許されません。

 

 主人が帰ってきたら大声で他のものを起こします。こうして全員で主人の帰りを喜びます。

 以上が譬えの内容です。私たちはこの譬えから何を学ぶのでしょうか。

 

 門番が私たちを表わしていることは明白です。門番は緊張して待たなければなりません。緊張して待つというには並大抵のことではありません。わたしなど待つのが大いに苦手とします。特に、大きな病院で待たなければならないのは苦手です。予約制になっていても自分の名が呼ばれるまで待たなければなりません。その間本で読めればいいのですが、いつ名を呼ばれるか分かりませんので、何もできず、ひたすら待たなければなりません。この間の長い時間の感覚にうんざりします。待つことは骨が折れるものです。けれども、待たなければなりません。

 

いつ終わりの日が来るのか私たちには知らされていません。だからその日に私たちの名が呼ばれたときいつでも返事ができる準備が必要です。

 

 使用人たちも割り当てられた仕事をまっとうし、責任を果たしておかなければなりません。いつ主人から呼び出され、その仕事の成果を報告できるようにしておかなければなりません。一番してはならないことは怠慢です。仕事を怠り、仕事を忘れてしまえば厳しい懲罰を受けること間違いありません。奴隷ならば主人が生殺与奪の権を持っているのですから、処罰を避けることはできません。

 

 私たちも同様です。割り当てられた仕事はそれぞれ置かれた場所で忠実さを現わすべきものです。私たちはいつ何時でも主の前に立つ準備をしていなければなりません。そして、自分のしていることについて弁明できるようにしておかなければならないのです。恥ずべきところのないものとして神にいい訳ができるかどうか。

 

 このように言われますと、誰もがとても主の前に立てない、今終わりの日があると困る・・・このように思い戸惑うばかりに陥ってしまいます。それが誰にも現実であると思います。ですから終わりの日の教説を不安と恐怖心だけをもって受け止めている人も多いと思います。

 

【終わりの日は喜びの日】

 私たちは終わりの日をただ恐れだけをもって迎えるとすれば不幸なことです。譬えを思い出してください。主人が戻ってくること自体喜びです。今日と違い旅は危険この上ありませんでした。旅の途中追いはぎに狙われることもあります。大水や洪水にも襲われます。特に航海は危険で、難破の恐れと隣り合わせでした。主人が戻ってきた時、使用人は歓呼して迎えたはずです。もし主人に事故があれば一家は離散し、使用人たちは仕事を失い、流浪の身になりかねません。そして、主人は大切な仕事を終えて戻るのですから、その益に使用人たちも預かれます。土産話も楽しいものでした。テレビやネットワークのない時代です。旅人の話が最新のニュースとなります。主人からそのような話を聞くだけでも喜びであったでしょう。

 

 そのように、終わりの日の到来は喜びの日の到来でもあります。その日は、ただ終わりの日というのではありません。あるいは滅びの日というだけではありません。確かにその日は滅びの日です。滅びは存在を失うことを意味します。しかし、その日は新天新地が来る日でもあります。その日に起きることはキリストの再臨であり、そのとき神の国は完成します。神の国に選ばれた者たちはそのときよみがえらされます。もはや朽ちない体に復活させられます。もはや二度と死ぬことのない命を与えられ、苦しみも悩みもない喜びの神の民に加えられます。

 

 終わりの日は素晴らしい喜びの日ですから、私たちは苦虫を噛み潰したようにしてこの日を待つことは愚かなことです。むしろ待望の心をもってその日を迎えることができるように願って今を生きていくことこそ肝心であるといえるでしょう。

 

 終わりの日は私たちの終わりと直結しています。私たちが終わると、終わりの日が時間的ではありませんが、論理的に連結しているということを覚えたいと思います。(おわり)

2016年02月14日 | カテゴリー: マルコによる福音書

2016年2月7日説教「神の言葉は滅びない」金田幸男牧師

説教「神の言葉は滅びない」 

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聖書:マルコによる福音書1328~31

28 「いちじくの木から教えを学びなさい。枝が柔らかくなり、葉が伸びると、夏の近づいたことが分かる。29 それと同じように、あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、人の子が戸口に近づいていると悟りなさい。30 はっきり言っておく。これらのことがみな起こるまでは、この時代は決して滅びない。31 天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」

 

要旨

 【いちじくの葉が出る頃】

いちじくの木はパレスティナでは大変よく知られた果樹で、ぶどう、やし、ざくろと並んでその果実はよく食用に供されています。もともと小アジア原産でしたが、古くから移植され、広く栽培されていました。果実は生のままか、乾燥されて食べられていました。熱帯では常緑樹なのですが、山地では冬(12月ごろ)、葉が落ち、早春の3月ごろ、小枝の先に小さな緑のこぶしができ、そこから葉が出てきて、その葉のところに青い実がなり、夏ごろ急激に大きくなって食用になります。

 

いちじくは聖書にもしばしば登場しますが、マルコ2-14,20-22に出てきます。そこでは実がなかったためにイエスに呪われて一晩で枯れてしまった木のことが記されていました。

 

【エルサレム神殿崩壊とこれらのこと】

ぶどうはしばしばイスラエルを象徴し、神の豊かさを表わすものとして描かれますが、なぜかいちじくの木は神の裁きと結び付けられています。想像をたくましくすれば何か言えるかもしれませんが、ここからだけではその理由は分かりません。植物は季節に敏感です。自然現象を見て季節の変わり目を知るという農民や漁師の感覚を私たちは驚きをもって経験します。いちじくの葉が伸びてくると夏が近いと悟る。そのように「これらのこと」を見たら、人の子が戸口に立っていると悟れ。この「これらのこと」が何を指しているのか、という問題があります。この主の言葉が語られて40年後のローマ軍によるエルサレム、その神殿の破壊を指しているとする考え方もありますが、ここはそれも含めて、キリストがすでに語られた苦難を指していると見たほうがよいと思われます。   

 

【人の子の来臨】

戦争、飢饉、地震、迫害、内部告発などキリストの弟子たちが味わうであろう苦難のすべてが起きるのを目撃したら、人の子の来臨の近さを知りなさい。キリストはこのように言われたと解釈されます。

 30節を見ますと、はっきり言っておく、という主の言葉がでてきます。主が来られる終わりのときの接近に当たって、私たちはどういう姿勢、態度を示すべきなのか。このはっきり言っておく、という言葉をキリストはしばしば用いられますが、このことは重要だから決して軽く見ないようにという警告を含みます。アーメン、然り、わたしはあなた方に言う。キリストは厳かに命じられます。しかし、それはまた、聞くものがおうおうにして軽く評価をしているということを意味します。

 

キリストが言われていることは重視せず、どうでもいいことに時間を費やし、精神力を消耗するのがつねです。主の来臨、接近を私たちは軽々に判断してはならないのです。

 

【人の子が戸口に立っている】

 人の子が戸口に立っている。このキリストの来臨の言葉は聖書のほかのところでも出てきます。

 

ヤコブ書5:7-9「兄弟たち、主が来られるときまで忍耐しなさい。農夫は、秋の雨と春の雨が降るまで忍耐しながら、大地の尊い実りを待つのです。あなたがたも忍耐しなさい。心を固く保ちなさい。主が来られる時が迫っているからです。兄弟たち、裁きを受けないようにするためには、互いに不平を言わぬことです。裁く方が戸口に立っておられます。」

 

【忍耐していなさい】

主が来られる。そのために忍耐していなさい、とヤコブは命じます。忍耐とはただ我慢のことではありません。動揺せず、神を信じ、心を堅く保つことを指しています。ここでは、主の来られるときとは終わりのときを指していることは明らかです。主が終わりのときに再び私たちのところに来られるという事実を、戸口に立つと証言されます。

 

【悔い改めよ】

終わりの日を直接指しているわけではありませんが、ヨハネの黙示録3・19-20では、「悔い改めよ。見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。」と語られています。

 

主が来られるときの私たちの備え方は悔い改めだと言われます。このように、主が近いという事実を前にして、私たちはもっともっと真剣にならなければならないのです。

 

 これらのことはみな起きるだろう。しかし、これらのことが起きるまで、この時代は決して滅びない。この主の言葉には二つのことが含意されます。ひとつは、終わりがくるまでこれらの災難、苦難、危機、困難はまだまだ起きるという警告と取ることができます。キリストは弟子たちに、終わりのときがまだ来ていない以上、神の民を襲う苦難はまだまだ続く。そのように言われます。だから苦難を避けることはできません。それはいつまで続くのか誰も分かりませんが、それまでは災いは終わることがない、そのように覚悟をしなければなりません。これでもか、これでもかと災いは襲ってくる。これが現実でもあります。

 

【滅び】

 もうひとつの点は必ず終わりが来るという予告です。すべて計画されていることは実行されます。実行されるべき計画が終われば必ず滅びがきます。

 

 滅びとは何でしょうか。私たちは存在しています。私たちがここにあるということは自明の真理で動かしがたい真実であると私たちは思っています。ところがどうなのでしょうか。存在しているこのことほど脆いものはないのではないでしょうか。存在するものは何かの上に存在している=立っていると言うことができると思います。エルサレムの壮大なヘロデが建てた神殿は大きな基礎の上に建てられていました。その土台の上の神殿は不動のものと思われていました。しかし、それは簡単に倒されます。存在しているものは、実は危うい基礎の上に建てられているに過ぎません。

 

【私たちの存在の基盤】

わたしはここにある。存在するものはそれ自体存在している。何ものにも依存していないと思っていますし、そう確信しています。それは反面、事実です。しかし、その基礎はあっけなく崩壊してしまいます。この世界は何の上に建てられているか。私たちは大地の上にしっかり足を踏ん張っているように思います。都市はしっかりとした地盤のうえに建てられたと思っています。ところがあっけなく崩れます。地震は来て大揺れにゆり動いたものは崩壊します。大地という基礎はさほど堅固ではなかったということです。私たちの人生もそうです。私たちの人生は基礎の上に建てられています。資産、学歴、健康、良運、人間関係、その他の人生にとって基礎と思われるものが多くあります。そのような基礎の上に立てられた私たちの人生は堅固そのものと思いますが、それは錯覚に過ぎません。その基礎はそんなに強固ではないのです。人生を強固としていたものは一夜にして失われます。

 

 滅びとはその基礎を失うことです。神はこの世界の基礎を失わせます。終わりの日に起きることです。終わりの日とはこの世界を成り立たせていたものはことごとく失われ、存在していたものがもはや存在できなることを意味しています。あらゆるものは失われるときが必ず来ます。それが終末です。

 

【最後の審判】

 終わりが来たら一切は消滅します。存在していたものはことごとく失われます。終わりとはそのように思っている人が多いのではないでしょうか。まさしく、終わりとは存在していたものが存在しなくなること。それはゼロに帰することなのだ、何もなくなることだ、というふうに考える人が多いと思います。

 この世界の終わりとは何もなくなること。そういう観念はどこから来たのでしょうか。それは滅びに対する誤解です。根拠がありません。滅びは神のさばきが行われることであり、恐るべき審判の行われる日であるという理解は間違っていません。しかし、それだけなのでしょうか。

 キリストはこの世界はことごとく滅びると宣告されます。同時に、「わたしの言葉は滅びない、決して滅びることはない」と断言されます。

 

【新しい創造】

 キリストの言葉とは単なる音声ではありません。語られたことは必ず実現するという言葉です。終わりの日に一切合切終わり、何もなくなるというのではありません。終わりの時、キリストが来られる時、天と地は全く新しくされます。終わりではなく、新しい創造が起きるのです。すべてが刷新されます。終わりの日はこのまったく新しい天地の始まりでもあります。終わりの日はそれで究極の終末というわけではないのです。イエス・キリストが約束されたことはことごとく成就します。キリストが予告されたことはすべて実現します。神の主権と威厳は完全に回復し、神の栄光が明らかになります。死んだものも生き残っていたものも、すべての神の民が結集されます。

 終わりの時、世界は一新されます。キリストの言葉は滅びてしまい消滅するようなことはありません。

 

【私たちの人生の終末】

 そして、大切なことは、世界の終末を考える場合、私たちの終わりも考えるべきだということです。この世界が終わるように、私たちの人生も終わります。私たちの死はあらゆる意味で終わりを意味するのでしょうか。死をそのように受け止める人のなんと多いことでしょうか。死はあらゆる意味で終わり。それで終結。後は何にもない。しかし、このような死生観を持っている人はそれを証明できたわけではありません。それは根拠のない話です。

 

だれが死んでしまえば一切おしまいといったのでしょうか。根拠なしにそう思っているだけです。イエス・キリストは「わたしの言葉は滅びない」。つまり存在を失うのではないと言われます。キリストはおられる限り、私たちは滅びることはありません。存在しなくなるわけではなく、それどころか、終わりの時は新しい始まりとなります。

 このようなことは信じるしかありません。終わりの時はいつか分かりませんが、今から言えば、まだ将来のことですし、未来のことは誰にも分かりません。私たちはただキリストのみ言葉を信じるだけです。信仰とはまさしく信じるだけなのです。(おわり)

2016年02月08日 | カテゴリー: マルコによる福音書 , 新約聖書

2016年1月31日説教「人の子が来る」金田幸男牧師

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説教 「人の子が来る」

 

聖書:マルコによる福音書13

24 「それらの日には、このような苦難の後、/太陽は暗くなり、/月は光を放たず、

25 星は空から落ち、/天体は揺り動かされる。

26 そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。

27 そのとき、人の子は天使たちを遣わし、地の果てから天の果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める。」

 

要旨 

【それらの日】

オリーブ山でキリストが弟子たちの語られて、いわゆるオリーブ山の説教を学んでいます。マルコ13章24に「それらの日」という表現が出てきますが、13章19にも同じ言葉がでてきます。天と地が創造されてからも、そして将来も起こることのないような苦難、大事件がその日に起こると記されています。このような前代未聞の大きな出来事が起こるのは、終わりの日、この世の終末を指していることは明らかです。

 

 この世界はいつまでも続くものではなく、終わりなどないと思われています。しかしまた、はじめのあるもは必ず終わると何となく思っている人もいます。

 

この二つの思いを両方抱えている人が多いのではないでしょうか。矛盾しているようですが、一方ではこの世界は永続すると信じ、少なくともあと何億年は存在すると思い、他方では、こんな世界はいつまでも続かない、間もなく終わるのではないかと不安がちに思っているのです。将来のことは分かりません。しかし、聖書は終末について明確に語ります。旧約聖書でも語られていました。

 

【旧約聖書イザヤ書13章10】

イエス・キリストはその旧約聖書のイザヤ書13章10を引用しておられます。

 

イザヤ13章9-10見よ、主の日が来る 残忍な、怒りと憤りの日が。大地を荒廃させ そこから罪人を絶つために。天のもろもろの星とその星座は光を放たず 太陽は昇っても闇に閉ざされ 月も光を輝かさない。」

 

イザヤはバビロンという罪に満ちた国家の滅亡を預言するのですが、それはまた腐敗した国家、都市に対して下される神のさばきの予兆と見ています。これは主の日に起きます。主の日とはキリスト者にとって日曜日を指す言葉でありますが、ここはそうではなく、主が主権、権威、権勢を明らかにされる恐るべき終わりの日を示しています。これを引用されるとき、キリストは、40年後にやってくるローマによるエルサレム侵略と、そして、それがあらかじめ指し示す終わりのときの予告に当てはめられています。

 

罪と腐敗に満ちた世界は滅ぼされなければならないのです。終わりのときは必ず来ます。キリストはそのように明言されています。旧約聖書はほかにも同様の終末を語ります。イザヤ24章33,34章4、ヨエル2章30-31、アモス8章9、エゼキエル32章7-8など。キリストは旧約の預言者たちが証言したことを肯定されているのです。

 

 その時、恐るべき現象が起きるとイザヤは語り、キリストはそれを引用されます。この天体の異変は文字通り起きるのか、それとも比ゆ的な表現に過ぎないのか、解釈に違いがあります。ある人は核戦争のような人間が引き起こす災禍とし、ある人は日食や月食、あるいは流星のような天体の現象だと解釈します。イエス・キリストはそのような現実世界でありえるような出来事のことを語っておられるように思えません。ここに記されていることはもっと大きな、この世界が破滅するような大事件です。それでは何を指しているのでしょうか。文字通りでありますが、私たちには想像もつかないような激しく大規模で、つまり宇宙規模で、凄まじく、言葉ではとても言い表すことができないような天体現象だという人もいますし、他方では、そのような激しい現象をこのように表現されたのであって、実際に起きることそのものではないと解する人もいます。わたしはどちらであるか決定しないほうがいいと思います。両者のうち、どちらの可能性もあるからです。

 

 終わりの日に、この世界がもはや存在できないような激しい現象が起きる。それだけ聞いただけで恐怖を引き起こし、不安に駆られます。

 

【人の子が来る】

 26節で、その日に、もう一つの大きな出来事が生じると予告されています、人の子が来る、というものです。大いなる栄光と力を持って、天から降ってくる。人の子はイエス・キリストがご自身を指して使われた表現です。そのイエス・キリストは今度は栄光と偉大な力を持ってその姿を現されます。第一回目はベツレヘムの馬小屋にキリストは来られました。第二回目の来臨は栄光の輝きと共に来られます。終わりのときとは、キリストは再び来られる「再臨」を指しています。終わりのときとキリストの再臨は同時だといってもいいでしょう。

 

 このことは、ダニエルがすでに予告していたと語るために、キリストはダニエル書7章13を引用されます。

「夜の幻をなお見ていると、 見よ、『人の子』のような者が天の雲に乗り 『日の老いたる者』の前に来て、そのもとに進み 権威、威光、王権を受けた。」

 

ダニエルも「人の子」がくること、「日の老いたるもの=神」の前で、栄光の姿を取り、大きな力を発揮されます。このダニエルの黙示は、イエス・キリストの再臨のとき実現します。キリストはダニエルの言葉が実現すると言われます。

 

【バビロン滅亡を預言】

 ダニエルがまず直接語っているのはバビロンのことです。バビロンは歴史上最大の軍事的専制国家であったアッシリアをあっけなく滅ぼした強大国家でした。ダニエルは黙示的表現を用いてそのバビロンも滅亡を預言するのですが、それがただ単にバビロンという国の滅亡だけを語っているのではなく、明らかに、もっと大きな出来事の到来が告知されます。それこそ終わりのときなのです。

 

【イエス・キリストの再臨】

 ここでいう「人の子」をイエス・キリストと同定することを拒否する人々が多いのですが、ここはやはり、イエス・キリストのことを語っていると受け止めざるをえません。イエス・キリストはダニエルが予告した預言の言葉はご自身において成就すると語っておられます。そして、そのキリストが栄光を持って降るとき世界は終わると言われています。終わりのときとはイエス・キリストの第二の来臨に他なりません。

 

 終末の教理を聞いていると誰でも恐怖心を起され、不安に駆られるに違いありません。実際に終末を語って動揺を引き起した宗教集団は数多くありました。終末を語ることでもたらされる結果として、熱狂的になった人々、異常な心理的状態に陥った人たち、孤立して、山中などに逃れていった人々、こういう現象には枚挙の暇がありません。終末の教えを武器にした宗派は瞬く間に人心を集めます。しかしながらその多くはまやかしであり、危険な教えに堕してしまいます。

 終末を正しく理解しなければなりません。

 

【地の果てから選民を召し集める】

 キリストは天使を送って、地の果てから選民を召し集めるとも語られました。このことはどういう意味でしょうか。天使が送られるといわれますが、天使は見ることのできない存在です。地の果てまで送られるのですが、それを見る人はいません。誰にも見えないからです。ではどうして天使が地の果てまで送られることがわかるのでしょうか。また選民が集められるとはどういうことでしょうか。

 選民とはまことに神を信じ、従う者たちのことです。正しい教会のメンバーと言ってもよいでしょう。彼らがそのようになったきっかけは福音が宣教され、その福音を信じたことによります。福音は伝道者を通して、あるいは、キリスト者により、宣べ伝えられたものです。今はさまざまなメディアが使用されますが、手段方法は変わっても福音は世界中に宣教されています。そして、福音を信じ、教会に所属するようになります。地の果てまで天使が派遣された結果です。終わりの時、地の果てまで天使が働いているのです。

 

 終わりのときはいつか誰も分かりません。キリストの直接命令により、福音が宣教されてもう2000年近く経っています。天使が世界中に行き巡ったのではないかと思う人がいます。それなのに、まだ終わりが来ていない、これからも来ないのではないかと疑う人もいます。それは誤りです。

 

主にあっては一日は千年のごとく、千年は一日の如し、終わりの日は明日かもしれません。明後日かもしれません。そういうことは知らされていませんが、今日起らないから明日もないなどとはいえません。福音がこのように世界中に宣教されたということは終わりの接近を予告しているのかもしれません。私たちにとってそれは信じながら緊張して待つ日なのです。

 

 終わりの時、私たちはキリストに招かれ、召し出されます。そのときすでに墓に入れられていたものもまた、キリストに招かれ、集められます。キリストは、そのときただ私たちを呼び集めるだけではありません。

 

【さばきの日は希望の日】

 終わりのときはさばきの日でもあります。私たちが裁き主なる神の前に出るとき、どうなるでしょうか。大抵人たちはそんなことがあったら神に処罰されるだけだと思うでしょう。しかし、私たちはそう思いません。思う必要がありません。そのときキリストは私たちのために執り成しをしてくださいます。罪のあがないを全うされたキリストは私たちの傍らに立って苛酷な処罰ではなく、無罪を宣告され、全く清いものとされ、神の前にはばかることなく近づくことができます。私たちはもはや死ぬことのない新しいからだによみがえり、永遠に神を喜ぶことができるのです。終末は恐怖の日どころか、それは希望の日となります。私たちは大きな期待と思って終末を待ち望むことができます。

 終わりのときまで私たちは生き残っているかどうか分かりません。しかし、ここではっきり確認しておかなければなりません。私たちの人生の終わりのときはそれで一切の消滅を意味していません。それどころか、終わりの日に、私たちは新しいからだのよみがえりという幸い、祝福を受ける約束をいただいています。私たちの終わりのときはその日に直結しています。生き残ってキリストの再臨に出くわすものも、そのときこの世を去っているものも同様の祝福にあずかることができます。(おわり)



2016年02月01日 | カテゴリー: マルコによる福音書

2016年1月17日説教「終わりの時の到来のしるし」金田幸男牧師

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説教「終わりの時の到来のしるし」

 

聖書:マルコによる福音書13

1 イエスが神殿の境内を出て行かれるとき、弟子の一人が言った。「先生、御覧ください。なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう。」2 イエスは言われた。「これらの大きな建物を見ているのか。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない。」

終末の徴

3 イエスがオリーブ山で神殿の方を向いて座っておられると、ペトロ、ヤコブ、ヨハネ、アンデレが、ひそかに尋ねた。4 「おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。また、そのことがすべて実現するときには、どんな徴があるのですか。」

5 イエスは話し始められた。「人に惑わされないように気をつけなさい。6 わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがそれだ』と言って、多くの人を惑わすだろう。7 戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞いても、慌ててはいけない。そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない。8 民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に地震があり、飢饉が起こる。これらは産みの苦しみの始まりである。9 あなたがたは自分のことに気をつけていなさい。あなたがたは地方法院に引き渡され、会堂で打ちたたかれる。また、わたしのために総督や王の前に立たされて、証しをすることになる。10 しかし、まず、福音があらゆる民に宣べ伝えられねばならない。

11 引き渡され、連れて行かれるとき、何を言おうかと取り越し苦労をしてはならない。そのときには、教えられることを話せばよい。実は、話すのはあなたがたではなく、聖霊なのだ。12 兄弟は兄弟を、父は子を死に追いやり、子は親に反抗して殺すだろう。13 また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。」

 

 

 

要旨  マルコによる福音書13章全体は、オリーブ山の説教と言われているところで、終わりのとき、終末について語られています。

 

【二つの誤った考え】

 終わりのときについて、二つの誤った考えがあります。

 

ひとつは否定です。世界は永久に続くというもので、もし終わりがあるとしても何億年も先のこととされます。太陽がエネルギーを失い、大膨張し、太陽系そのものが消滅するとされたときとか、宇宙そのものが消滅するときです。

 

もうひとつは終わりのときは間もないとか、あるいは何年何月まで計算され、その日が近いというものです。聖書のあちこちを引用しながら、終わりのときの接近を叫び、早急の対処を求めます。恐怖心をあおったり、宗教的熱心を促したりします。

 

 確かに、終わりのときはあります。私たちの理性がそのように判断します。この世界には初めがあります。始めのあるものには終わりがあります。私たち自身の人生がそうです。出生があれば死亡があります。罪ある世界では、どのようなものも存在する限り、最初があり、時間と共に古び、そして、失われます。聖書もまた、終わりについて語っています。イエス・キリストがそれを証言してくれています。このマルコ13章もそのひとつです。

 

【最後の審判と希望】

聖書は、終わりのときが単なる存在の終焉に止めません。終わりのときは神のさばきのときでもあります。キリストはこのことについても明言されています。ただ、ここではっきり言わなければならないことは、キリストは終わりについて語られる場合、読者である私たちを恐怖に陥れる意図は決してありません。むしろ、終わりのときはキリストにあるものは終わりのときこそ完全な救いのときとなるのであり、終末は期待して待つ希望の終わりのときなのです。キリストからこのことを学び取りましょう。

 

【神殿の賞賛】

 キリストは神殿を去ろうとされます。そして、キデロンの谷を隔てている、いつも休みを取られるオリーブ山に行かれます。神殿から出て行こうとされたとき、弟子たちは神殿の建物を賞賛します。当時、ヘロデ大王によって新しい神殿の建物が建築中でありました。

 

最初のエルサレムの神殿は、BC958年ごろソロモンによって建てられます。これがエルサレム第一神殿と呼ばれ、その壮大さは当時類を見ないほど壮大で華美を窮めました。多くの装飾がなされ、堅固な建築物でした。ところが、この神殿はBC587年にバビロンによって破壊されてしまいます。その後、BC536年に指導者のゼルバベルの指導下で再建されます〔エズラ6:15〕。

 

これが第二神殿ですが、捕囚となった人々がその厳しい条件下で再建した建物で、再建に多くの民は感激しましたが〔エズラ3:11-13〕実際には、第一神殿に比べて規模も外観も内部装飾も、おそらくみすぼらしいものであると思われます。そして、この神殿はしばしば外国の略奪を経験します。BC169年にはセレコウス朝シリアに、そして、その後またローマに占領されます。

 

こうして第二神殿はかなり破損し、痛んでいました。そこで、ユダヤの王となったヘロデ大王は、自分が外国人であり、ローマと結託して権力を握った手前、その力を誇示するためにも、エルサレム神殿の増築を手がけるようになります。BC20年ごろ着工し、AD64年に完工します。イエス・キリストと弟子たちがエルサレムに上られたときはまだ建築中であったことが分かります。しかし、そのころ工事はかなり進行していて、神殿の建物はすでに出来上がり、工事はおそらく神殿を囲む壁とか、神殿の庭の装飾などに時間がかけられていたのではないかと思われます。弟子たちはすでに出来上がった建物を見て、その壮大さに感嘆します。神殿に用いられた当時のローマの土木・建築技術は最高水準のもので、大きな石がふんだんに使用されていました。弟子たちの大半はガリラヤの出身です。彼らのふるさとの地にはエルサレムの神殿のような大きな施設はなかったでしょう。ヘロデは自身の権力を示すために当時の異教の神殿建築以上に資材を投入したと言われています。弟子たちが驚嘆の声を挙げても不思議ではないほど立派で、多額のお金が使われました。

 

【主は神殿崩壊を預言】

 ところがイエス・キリストはこのヘロデの第三神殿の崩壊を預言されます。弟子たちはそれを聞き、おそらく驚愕したのではないでしょうか。こんな堅固で壮大な建物が壊れてしまうなどということはありえないと思った弟子もいたに違いありません。あまりにも意外なことばを聞いた弟子たちはキリストの言葉にどう考えていいのか全然分からなかったのではないでしょうか。沈黙して、キリストと共にキデロンの谷を通って行きました。キリストはオリーブ山の頂上だと推測できますが、そこに座っておられたとあります。谷を隔てて神殿の建物がよく見えたはずです。

 

【終末のときはいつか?】

そこで4人の弟子たちがやってきます。彼らは恐る恐るやってきたのかもしれません。内容が内容だけに他の弟子たちは尋ねることができなかったのかもしれません。あるいは彼らが他の弟子たちを代表して質問をしているのかもしれません。

 

 弟子たちは、エルサレム神殿の破壊は、単に建物の崩壊だけと認識していたのではないことが分かります。彼らはエルサレム神殿の破壊は終末のときであると受け止めていました。神殿のような、神がそこにいますことが堅く約束されている、ユダヤ人にとっては信仰の拠り所が破壊されるときというのは尋常なことではありません、それはありえない、しかしもし起きればたいへんなことが起きるに違いない、このように考えていたことは明らかです。

 

【終末の到来の兆候は】

 弟子たちは、神殿破壊とは終末の到来と思ったのでしょう。そのときはいつか。そして、その日の到来のしるし、兆候は何か、と問います。この世界の終わりについて緊張しつつ問うたはずです。

 

 キリストは答えられています。13節までに、四つのしるしが語られます。終わりのときの到来、接近を示すしるしはあるのだ。キリストはそのように語られます。

 

【キリストの名を騙るものの登場】

 第一は、キリストの名をかたるものの登場です。彼らは人を惑わします。イエスの名を語り、イエスの名でかたり、教えます。偽ってそうしますので、彼らのことを偽キリストと呼ぶことができます。キリストは救い主、救世主のことです。偽キリストは宗教的な事柄だけではなく、あらゆる領域でも人類の救済を叫びます。独裁者はこの手法を用います。独裁者の言っていることを受け入れることが国家の安泰、国民生活の安定、繁栄を伴うと宣伝されます。独裁者はしばしば救済者であるかのように振る舞います。むろん、宗教界においても救済者はあとを絶ちません。

 

当時、ローマ帝国の支配に対抗し、その転覆をはかるものがメシヤを自称したことが知られています。偽キリストは何度も現れては消え、また現れてきます。

 

【戦争、地震、飢饉】

第二は、戦争、地震、飢饉です。戦争のうわさはいつも叫ばれます。21世紀になっても戦争はやみません。それどころか、かたちを変えた戦争が増えています。国、特に、民族と民族の戦争は、ついに世界大戦にまで発展します。国際的な戦争だけではなく、国内では民族紛争が絶えません。

 

飢饉は、未だに収束することはありません。一方では飽食があり、他方では何万人もの人たちが栄養失調になり、餓死するものさえあります。このような災害は地震のような自然災害、そして人間が作り出す人災とその数その種類は数え上げることもできません。人間の科学的知識や技術は進歩しましたが、悲劇は繰り返されています。

 

【迫害】

第三は迫害です。キリストの弟子たちは、その信仰のゆえに迫害を受けます。キリストがここに上げられているのは当時の裁判の手順です。宗教的な犯罪も含め、まず訴えられたものは地方の裁判所に連れて行かれます。それに付随して、ユダヤ人の会堂で取調べを受けます、取調べといっても拷問に他なりません。そして、さらに上級の裁判は地域の支配者によって行われます。信仰のゆえにキリスト者はどの時代でも裁判を受けたり、取調べを受けたり、そして投獄され、処刑されました。

 

【家族の離反】

第四は、家族の離反、争い、そして、命を奪われることも珍しくありません。

 

以上のようなことが終わりのときのしるし、兆候だとキリストは言われますが、ここで考えてみると、これらは特別な現象、出来事でありません。終わりは必ず来ます。そのしるしは何か。特別な不思議な現象が起きると思いがちです。ところがキリストが言われているしるしは常に、あらゆるところで起きている事件に過ぎません。つまり、終わりのときのしるしだとすぐに見分けられるようなしるしではなく、その兆候はいつどこにでも起きている事件なのです。

 

 するとどうなのでしょうか。私たちは終わりの日の到来をどうすれば予測できるのでしょうか。特別明瞭なしるしでなければどうすればいいのでしょうか。

 

【いつ、その日が来てもいいように備えをすること】

 わたしにできることはいつその日が来てもいいように備えをすることです。終わりに日に備えて準備をすることです。ではどういう準備をするのか。キリストは迫害が拡大する、それは福音が地の果てまで宣教されることであり、その宣教が終わるまで終わりの日は来ないと言われます。宣教は福音の宣教にほかなりません。

 

【救いの完成のとき】

神の救いの恵みがあまねくすべての人に伝えられるとき、そこに救いが宣言されます。これは終わりの日の到来を示すのであれば、終わりの日は悲劇的な苛酷な時の到来ではなく救いの完成のときとなります。福音が宣教され、信じるものが満たされるときこそが終わりのときですから。その日の到来は信じるものには神の大いなる御業を経験するときとなります。さらに、最後まで忍耐するものは救われると約束されます。それまでの間は大きな困難に見舞われます。耐えがたい苦痛と苦悩を経験するでしょう。しかし、その期間が終われば救いは完成します。備えをするとはこの希望を持って忍耐することに他なりません。終わりの日は恐るべき、そんな日が来たら困るという日ではありません。むしろ、その逆なのです。私たちには終わりのときは救いの完成のときであり、待ち遠しく思われる日なのです。(おわり)



2016年01月17日 | カテゴリー: マルコによる福音書

2016年1月10日説教「献げるとは」  金田幸男牧師

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説教「献げるとは」金田幸男牧師

 

聖書:マルコによる福音書12

41 イエスは賽銭箱の向かいに座って、群衆がそれに金を入れる様子を見ておられた。大勢の金持ちがたくさん入れていた。

42 ところが、一人の貧しいやもめが来て、レプトン銅貨二枚、すなわち一クァドランスを入れた。

43 イエスは、弟子たちを呼び寄せて言われた。「はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。

44 皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。」

 

要旨

【献金】

 イエス・キリストはエルサレム神殿の庭で教えを語られていましたが、13:1で、神殿の境内を去っていかれたとありますので、神殿で教える働きを終えてしまわれます。その神殿の境内での出来事の最後にあったことが記されています。場所は賽銭箱の置かれていたところとあります。

 

神殿の一番奥は聖所で、そこは祭司しか入ることが許されていませんでした。その後がイスラエルの庭で、さらにその外に「婦人の庭」があり、そのさらに外側が異邦人の庭とされ、異邦人で改宗者がそこまでは入ることができました。ユダヤ教徒ではない異邦人は異邦人の庭にも入ることができませんでした。

 

その婦人の庭には宝物庫がありました(ヨハネ8:20)。この婦人の庭には、賽銭箱が置かれていました。トランペットの形をした金属製の賽銭箱が13個もずらっと並べられていたそうです。賽銭=献金が奨励されていましたが、イスラエルの人々には2種類の献金が奨励されていました。ひとつは義務的なもので、イスラエルの男性に割り当てられていた献金です(出エジプト30:13,14、1年につき、銀半シェケルと決められています)。もう一つが自主的な献金で(列王記下11:5-6)、この献金は神殿の修復のために集められました。新約の時代にはこの献金はイスラエルの貧しい人たちのために使われたといわれています。イエス・キリストは婦人の庭で賽銭箱の前に陣取って様子をご覧になっていたとあります。トランペット型の賽銭箱は金属性で作られていましたから、賽銭が投げ込まれるとチャリンチャリンと音がします。キリストはその音をじっと聞かれていたのかもしれません。

 

【金持ちの献金】

 この賽銭箱に献金を投げ込んでいたのは多くの金持ちでした。婦人の庭は、イスラエルの庭への通過点となります。当時は過ぎ越しの祭り直前でたくさんのユダヤ人がさらに奥のイスラエルの庭を目指します。とうぜん、金持ちたちが献金しているのはよく見えます。チャリンチャリンと大きな音がする上に、巡礼者たちがここを通過して行きますので、金持ちたちの行動は他の人からよく目立ちます。

 

 献金はその人の敬虔、信心の表現と理解されていました。献金することで、金持ちたちが善行をしているとみなされます。そうすれば社会的に尊敬に値するとみなされます。

 献金は献身のしるしです。少なくともそのような内面の心のあり方の、外側への現われが献金とみなされていました。このこと自体は非難されるべきことではありません。献金はまさしく献身のしるしです。献金することでイスラエルの中で尊敬に値する人物と評価されます。金持ちたちは少なくとも人々から、敬虔で善人という評判を求めた。これが金持ちたちの本心であったと思われます。献金が信仰、特に献身のしるしであるという考えはイスラエルの中でも浸透していました。たくさんの人が通っていく婦人の庭の賽銭箱に献金をするならばその人はたいへんよく目立ちます。だから、金持ちは人に見られ、善人だと思われるためにささげものをしていたのです。このようなみせかけの善行は非難されるべきです。しかし、献金が献身のしるしというのは全く正当な見方です。金持ちたちはその献金の原則を曲解していたのです。

 

【貧しいやもめの献金】

 それに引き換え、貧しいやもめが2レプトン銅貨を献金したことが評価されています。2レプトン銅貨が1クァドランスだと記されます。1クァドランスは64分の1デナリオンに相当するとされています。1デナリオンは当時の労働者1日分の賃金であったとされますが、現在の金銭に変換すれば1万円くらいでしょうか。すると、1クァドランスはせいぜい200円くらいということになります。そして、これがやもめの一日分の生活費であったと記されていますが、1日200円で生きていこうとするのはほぼ不可能なことです。

 

 このやもめが何歳であったかは記されていません。老齢のやもめである可能性が大きいと思います。しかし、若いやもめであったことも否定は出来ません。

 キリストは様子をご覧になっておられました。金属製の賽銭箱にお金が投げられるときチャリンチャリンと音がするのを面白がって見ておられたのかもしれません。

 

キリストは弟子たちを呼ばれます。そして、厳かな言葉で語られます。「はっきり言っておく。」これは極めて重要なのだという意図をはっきりするためにこの言葉が使われます。弟子たちにも重大な問題であると意識させるために使われます。私たちも聞き漏らしてはならない重大な意味が隠されています。弟子たちはこのとき、キリストと同じくベンチに座って様子を見ていたのではなさそうです。

 

 イエス・キリストは金持ちたちの行動を批判されていることは確かです。しかし、どの点を批判されたのか。やもめは評価されていますが、どの点を評価されたのでしょうか。

 

 資産に対する献金額の割合でしょうか。やもめは有り金全部を献金しました。その点では彼女は100パーセント献金しました。金持ちは割合からすれば財産に比してわずかというべきでしょう。 

 

キリストは収入や財産に比べて大きな割合でささげることを評価され、だから多額をささげよと教えられているのでしょうか。そのようなことは考えられません。できるだけ多額の献金をするものが信心深いということにはなりません。しばしば露骨に言われなくとも、献金を多くする人は熱心な信仰の持ち主だという考え方は消えることはありません。

 

 金持ちが批判されるのはみせかけの敬虔や信心を献金で表わそうとしたところにあります。それではこのやもめのどこが評価されるのでしょうか。

 

【同労者】

 献金には多くの意味が含まれています。献金の勧めをする場合、その献金の意味を教会員に教える作業を伴わなければなりません。それは恵みの機会の提供です。例えば献金は、遠くにいる働き人と共同作業を可能にします。遠くに同行することができなくても献金で働き人と共に働きます。

 

【献金における罪の赦しと恵み】

献金は罪の赦しを求めてささげられることもあります。それは決して取引などではありません。純粋に、神に対する思いを献金で表現することは決して間違っていません。

 

 しばしば、献金を奨励する場合、何かお金集めに過ぎないと批判にさらされることがあります。献金など形式に過ぎないと批評され、献金の勧めをためらう人も多くいます。

 

しかし、それは誤解です。献金の勧めは恵みにあずかるようにとの勧めに他なりません。伝道のための献金で、私たちが福音宣教の第一戦に立つ働き人と共にたつこと、共に働くことが可能ならばこれこそ神の聖なる大事業に参画することになります。

【主は貧しいやもめの献金の何を賞賛されたか】

 貧しいやもめの献金をキリストはどうして評価されたのでしょうか。彼女が生活費と比べて大きな割合の献金をしたことではありません。貧しい人たちはその日暮らしのために悪戦苦闘しています。キリストはそういう民衆の生き様を否定されるはずがありません。信仰とはそんな日々の営みなどを忘れてひたすら業、修行などに励むこととされたりします。通常の営みを放棄してもっぱらその宗教団体のために奉仕することが価値あることだというような教えが語られたりします。そういう熱心を示すことが厚い信仰とされたりします。

 

 キリストはそういう熱狂を奨励されているわけではありません。

 

【献金は、祈り】

 では何を評価されているのでしょうか。献金は、祈りである、これが多くの宗教に見られる考え方です。賽銭を投げ入れるとき。交通安全とか商売繁盛の祈願がささげられます。献金はその意味で願いをささげることです。むろんその献金の多寡で願いが成就するのだという考えもありますが、献金の多寡よりも献金そのものが祈りとしてささげられることが稀ではありません。

 

【やもめの苦境】

 このやもめがどういう状況に置かれていたのか私たちには分かりません。やもめの年齢も分かりません。当時夫をなくした女性は経済的困窮に陥る場合が多くありました。生きていくために必死になり、その上、よくない評判に巻き込まれることもあったでしょう。老いたやもめならば身よりもなく、生きていくこと自体が困難になってしまうでしょう。ある人は病を負っていたかも知れません。精神的な苦痛と戦っている人もいたでしょう。とにかく、生きていく上でどうすることもできない状態に陥っていたかもしれません。

そういうところで何ができたのでしょうか。最終的に何ができるのか。神だけが頼りである。彼女が行き着いた最後の場面は、神の前で祈りをささげることであったと考えても差し支えないのではないでしょうか。

 

【最後に頼れるお方】

 最後のところで、ただ神だけが頼りである。これこそ「神頼み」です。しかし、神頼みなど弱い、あるいは怠惰な人間のすることだという誤解があります。最後まで努力することこそ大事だと言うのです。しかし、人間にはどうすることもできない局面に遭遇することも珍しくありません。そういう時、神すらも頼りにできない、そういう絶望を味わうしかない人がいます。それに比べて、最後の最後で神を信頼することができるのは幸いというべきでしょう。

 

このやもめがそこにあったからこそあとのことも考えないでささげものをし、祈ったのでしょう。神だけが頼りであると信じきっていたからこそあとのことなど考えないで献金をしたと考えてよいのだと思います。

 

 必死に祈りました。それは神が必ず助けてくださると信じたからです。キリストが評価されたのはこの神への信頼の姿であったと思います。

 

 私たちはやもめのような信心までいたっていないかもしれません。しかし、彼女は私たちの信仰の模範となっています。神が最終的に助けてくださる。どんなに追い込まれても神は助け主である。この信仰に私たちも立っていくように召されています。(おわり)

2016年01月11日 | カテゴリー: マルコによる福音書

2015年12月27日説教「本当のメシヤ・キリスト」金田幸男牧師

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新約聖書
マルコによる福音書12章
35 イエスが宮で教えておられたとき、こう言われた、「律法学者たちは、どうしてキリストをダビデの子だと言うのか。
36 ダビデ自身が聖霊に感じて言った、『主はわが主に仰せになった、あなたの敵をあなたの足もとに置くときまでは、わたしの右に座していなさい』。
37 このように、ダビデ自身がキリストを主と呼んでいる。それなら、どうしてキリストはダビデの子であろうか」。大ぜいの群衆は、喜んでイエスに耳を傾けていた。

説教「本当のメシヤ・キリスト」

聖書:マルコ12:35-37

 

要旨

【メシヤはダビデの子とは?】

 イエス・キリストは、このときもエルサレム神殿の境内で教えを語られていましたが、注目すべきことは、今までは質問を受ける側に立つキリストが描かれていましたのに、ここでは、キリストのほうが質問をされています。ただし、答えたのはイエス・キリストご自身、つまり、自問自答の形を取っています。

 

 どうして、律法学者たちは、「メシヤ=油注がれたものというヘブライ語で、ギリシヤ語ではキリストは、ダビデの子だ」と言っているのか、とキリストは問われます。ダビデの子とはダビデの子孫を指しています。大事なことは、ここでイエス・キリストは、メシヤはダビデの子、つまり、ダビデの子孫からではないといわれているのではないという点です。イエス・キリストの質問は、どのような意味で、律法学者たちはメシヤ=キリストをダビデの子孫だと言っているのかということです。メシヤがダビデの子であり、ダビデの家系から出るということは、これは旧約聖書の一貫した主張です。メシヤはダビデの子である。ユダヤ人はこのことを信じていました。

 

イエス・キリストもエルサレムに入城するときには、ホサナと歓呼の声を受けられましたが、そのときも、ダビデの来るべき国、つまりダビデの子孫が支配する国の王として入場されたのでした。

 

以下の聖書は旧約、特に預言者たちのことばです。イザヤ9:2-7,11:1-9、エレミヤ23:5-6、30:0,33:15,17,22、エゼキエル34:23-24、ホセア3:5、アモス9:11など多数。

 

 律法学者たちは聖書研究の専門家として、メシヤはダビデの子であると認めていました。しかしながらどういう意味でそのようなことを言うのか。この個所では明確に記されていませんが、律法学者も含め、当時のユダヤ人がどのようなメシヤを期待していたか、それはさまざまな資料を通しても知ることができます。 

 

【ユダヤとローマ帝国】

彼らは切実にダビデの王国の再建を願っていました。その当時、ユダヤはローマ帝国に支配下にありました。名目上、ヘロデ王家が支配者でありましたが、ヘロデ家の支配者たちは、ローマ帝国の権勢のもとでの傀儡政権と言っても過言ではありませんでした。ローマ帝国は支配地の政治や経済機構、文化、宗教などを尊重します。ただし、課税と言うことと、それから、ローマに対する忠誠という点では、支配地を縛り付ける方針をとります。ユダヤ人の中にはこのような体制を受け入れるものも多かったのですが、異民族の支配を潔くないと思うものも多数ありました。どんなに寛容な政策が行われても民族の誇りまで消し去ることはできません。ユダヤ人は誇り高い民族であるというだけではなく、ただひとりの神を信じているというだけではなく、その神から選ばれた民であるという自覚に生きていました。ローマの支配はその自覚と対立するものに他なりませんでした。

 

【ユダ国家再建のメシヤ】

だから、ローマ帝国からの独立は悲願であり、そのために手段は選ばないとまで考える愛国者もいました。このような人々にとって、ローマからの独立、主権の回復は大きな願望でした。その国家再建はメシヤによって実現する、このようにあるユダヤ人は切望し、メシヤを期待しました。その王国再建はダビデ家の出身者が起される。このような期待は当時のユダヤ人社会に充満していました。実際、もうしばらくして、ユダヤ人の中の愛国者たち、熱心党という党派が蜂起して対ローマ戦争を引き起こします。熱心党でなくとも、ユダヤ人はメシヤという指導者が登場し、国家の独立を願ったのです。

律法学者たちも過激な政治運動を画策するものたちと同じであったわけではありませんでしたが、このような民族的な願望から距離を置いたのでもありませんでした。彼らも民衆に迎合して、あるいは本心から、メシヤはダビデの子孫から出る、それが神の約束だと主張していたに違いありません。メシヤはそのように期待されていました。

 

メシヤがユダの国家主権を回復してくださる。ユダはダビデ時代のように繁栄を取戻す。ユダは豊かな経済を営み、強大な軍事国家になる。このようなメシヤ期待がますます大きくなってきていた時代です。イエス・キリストはこのような当時の多くのユダヤ人が心に抱いていた思いを総括して自問自答のようなかたちで明らかにされているのです。キリストは、そのような一般的なメシヤ期待をよくご存知で、律法学者たちもその枠の外にいたのではありませんでした。

 

【真のメシヤ】

 キリストは、このようなメシヤ観に対して否定をされます。当時のユダヤ人が考えていたメシヤと違う、しかし聖書が明らかにするメシヤとはどのようなものか。イエス・キリストは答えとして詩編110:1を引用されます。

 

この詩編はダビデの詩と理解されていました。その中で、主がわが主にお告げになった、とあります。主はヤハウエといわれる主なる神のことです。それは主なる神ご自身です。その神がダビデから見ればわが主、つまり、キリストに対して語られたというのです。主なる神とメシヤとダビデは別個の存在として描かれています。ダビデから見れば、メシヤはわが「主」=主人を表わしています。さらに、そのメシヤはその右の座に座ることを命じられます。右の座に座するものとは、王と同等の権威権力を持って支配することを意味しています。つまり、神の右に座するものとは神そのものといったも過言ではありません。

 

主なる神が仰せになった相手は、単なるダビデ家に属するメシヤというのではなく、もっと偉大な存在である、それは神に等しいものだと詩編自体が明らかにしている。これがキリストの言葉でした。メシヤはダビデ自身が主と呼ぶほどの偉大なものだとキリストは詩編を解釈されます。これは重大な解釈です。キリスト自身が詩編をこのように読み取っておられます。これは決して無視してはならない事実です。

 

【ダビデ以上に偉大な方】

メシヤはダビデ自身が詩編で明らかにしているように、ダビデ王家以上の権威と力、栄光を持っておられるのです。ダビデの子孫であることから見れば、ダビデに比べれば低いかもしれません。しかし、実際にはダビデに比べてはるかに偉大な方、それがメシヤであるとイエス・キリストが明らかにされたのでした。メシヤは神なのです。

 

 キリストはここで結局メシヤとは誰かという問題を突きつけておられます。いったいメシヤをどのような意味で信じ告白するのか。当時もいろいろのメシヤ観がありました。その最大のものがダビデ王国の再建でありました。あるいは再来と言ってもいいかもしれません。すでに数百年もダビデ家が滅んでいましたが、ダビデの子孫がイスラエルを再建し、かつてと同じ版図に拡大し、ユダを強大国にするような偉大な支配者の出現を人々は待望していました。

 

 同じような問いが私たちにも示されます。キリストをどう見るか。ある人は偉大な宗教家、宗派の開祖だと信じています。釈迦や孔子、あるいはマホメットと同じような偉大な宗教的天才であると認めます。ある人は混沌とした現代社会を変革する革命理論を明らかにした人物とみます。あるいは、博愛主義者で、隣人への献身的な親切の実行者、だから、私たちはキリストに倣うものとならなければならないと主張されます。ある場合、キリストというのは狂信者で、結局大言壮語してローマ政府から疑いの目で見られ、ついに逮捕され、殺害された人生の敗残者に過ぎないとさえ言うものもいます。

 

 今日、ますます、イエス・キリストを誰とするかに関して混乱は甚だしくなってきているように思われます。そして、私たちもまたこのことについて自己吟味する作業を怠ってはならないと思います。気づかないうちにキリストを見損なっていることもありえます。

 

【キリストは神】

 イエス・キリストとはいったいどういう者か。キリストは自ら答えられています。詩編110:1を引用されていますが、二つのことに注目させられます。まず第一にメシヤは神の右に座するものと言われるところです。メシヤは単にダビデの子孫というのにとどまりません。また、かつてのダビデ王国の王と同じようにユダを強国にする英雄、あるいは独裁的権力者というのではありません。キリストはまさしく神であられます。

 

 そして、このキリストは敵を打ち滅ぼされる方です。敵を屈服させる方と言われますが、ただ地上の戦争に勝利する軍隊の司令官という意味ではありません。キリストが打ち滅ぼす相手はあくまで霊的な勢力をも指しています。ときには、神の民を滅ぼそうとする国家権力であり、神を信じるものを憎む暴君です。あるいは、宗教的な見せ掛けをして、自分の弟子にしようとする偽キリストの場合もあります。その勢力は拡大し続けます。そして、この世を自らの権力の下に置こうとする霊的な勢力もあります。神に反抗する勢力であり、神の国の建設を極力押さえ込もうとする反キリストが支配する連中です。キリストはこのようなものを破壊する救い主です。

 

【罪の力を滅ぼすためにキリストは世に降られた】

 そのような神に敵対する勢力を動かしているのは罪です。この罪は、私たちに根深く突き刺さっています。キリストはこの罪の力を破壊するために、メシヤとして来られました。

 

 今私たちが学んでいるこのところの直後に記されているのは、キリストの十字架です。キリストは間もなくゴルゴタの丘の上で十字架につけられます。その十字架の上でキリストが死ぬことによって私たちの罪もそこで十字架につけられます。私たちはキリストの犠牲によって罪が許されます。

 

キリストとは誰か。どのような意味でメシヤはダビデの子というのか。ダビデの子孫として生まれてこられますが、単にダビデの子孫というのはなく、それ以上のお方としてこの世に来られました。神として、神に敵対するあらゆるものを破壊し、滅ぼす方としてこられました。私たちはこの方こそダビデの子、まことのメシヤとして受け入れ信じるのです。(おわり)


2015年12月27日 | カテゴリー: マルコによる福音書

2015年⒓月⒔日説教「もっとも大切な戒め」金田幸男牧師

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2015年12月13日 | カテゴリー: マルコによる福音書

2015年12月6日説教「神は生きているものの神である」金田幸男牧師

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説教「神は生けるものの神」

 

聖書:マルコによる福音書12

18 復活ということはないと主張していたサドカイ人たちが、イエスのもとにきて質問した、

19 「先生、モーセは、わたしたちのためにこう書いています、『もし、ある人の兄が死んで、その残された妻に、子がない場合には、弟はこの女をめとって、兄のために子をもうけねばならない』。

20 ここに、七人の兄弟がいました。長男は妻をめとりましたが、子がなくて死に、21 次男がその女をめとって、また子をもうけずに死に、三男も同様でした。

22 こうして、七人ともみな子孫を残しませんでした。最後にその女も死にました。23 復活のとき、彼らが皆よみがえった場合、この女はだれの妻なのでしょうか。七人とも彼女を妻にしたのですが」。

 

24 イエスは言われた、「あなたがたがそんな思い違いをしているのは、聖書も神の力も知らないからではないか。

25 彼らが死人の中からよみがえるときには、めとったり、とついだりすることはない。彼らは天にいる御使のようなものである。

26 死人がよみがえることについては、モーセの書の柴の篇で、神がモーセに仰せられた言葉を読んだことがないのか。『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。

27 神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神である。あなたがたは非常な思い違いをしている」。

 

 

要旨

【サドカイ派】

 イエス・キリストは人々が集まる神殿の庭で教えを語られていました。次々とイエスと論争を企てるものが押しかけてきます。このたびはサドカイ派がキリストを陥れようとして議論を吹っかけてきます。

 

サドカイ派とは、ダビデの重臣団の一人、祭司ツァドクに由来すると考えられています(サムエル下8:17)。ツァドクをギリシヤ語で読みますと、サッドゥクとなります。ここからサドカイ派という名称が出てきたらしいのですが、ツァドクとサドカイ派の関係は不明です。サドカイ派がユダの大祭司一族とどのような関わりがあったのか不明だからです。

 

新約聖書でもサドカイ派は何度か登場しますが、ファリサイ派ほどではありません(ファリサイ派は100回以上、サドカイ派は14回だけ)。そして、紀元70年のユダヤ戦争の際のエルサレム陥落と共に姿を消します。このようなところから、サドカイ派は、エルサレムを中心に活動していたようですが、ユダの上流階級に属し、知識人が多く、民衆からは尊敬を受けていなかったというようなことが推量されています。

 

新約聖書では、サドカイ派が復活を否定していたグループであったことが分かります。このマルコ12:18-27もそうですが、使徒言行録23:6でパウロは最高議会から審問を受けたとき、議会の構成がファリサイ派とサドカイ派からなり、両者がからだのよみがえりについて見解が全く対立しているのを見て、「死者の復活に望みを置く」と語って、議論を混乱させたことが記されます。サドカイ派は復活などないという彼らの立場を聖書の実例から証明をしようとします。サドカイ派は聖書からその証拠を引き出してきます。律法に記されている、いわゆるレビラート婚を材料にしてからだの復活否定を試みます。

 

【レビラート婚】

 レビラート婚というのは、申命記25:5-10に記されています。レビラートとは、ラテン語のレビールから派生した言葉で、子どもがない夫婦で、夫が先に死んだ場合、寡婦となった女性は夫の弟と結婚し、こどもが生まれたら、その子に亡夫の血統、財産を相続させるという規定です。サドカイ派はこの聖書に規定されている定めを持ち出してきて、復活否定を展開します。

 そのために持ち出したサドカイ派の考えは、おそらくからだのよみがえりに関して論争相手であったファリサイ派を揶揄し、嘲弄するための、作り話であったようです。7人の兄弟がいた。長男夫婦はこどもなくして夫が亡くなります。レビラート婚の規定に従って、次男が兄の未亡人を娶ります。ところが、この次男も子どもを残さないで死にます。三男が、未亡人を妻にしますが、彼も先に子どもを残さないで死んでしまいます。次々と兄弟が死に、女性は、次々に夫の兄弟と結婚しますが、結局子どもを残さないままに、兄弟のほうは7人とも死に、最後に女性も死んでしまいます。すると、復活があると困ったことになるとサドカイ派は主張します。再婚を繰り返した女性はいったい誰の妻になるのか。復活があるとしたらとても不合理な事態が生じます。いったい誰の妻か分からなくなる。これはたいへん困った事態です。

 

 サドカイ派は、復活否定のためにレビラート婚の規定、つまり聖書から証明をしようとしています。復活などあったらややこしい問題が起きます。

 サドカイ派は聖書から、彼らの考え方を証明しようとはかります。他でもない、聖書からの論証で、これには反論の余地がなくなります。聖書を用いて、復活を否定する。これにはたいていの人は反対できなくなります。サドカイ派が狙ったのはこの点でした。

 

 イエス・キリストはこのようなサドカイ派に明確に反駁されます。サドカイ派はイエス・キリストを侮蔑して、「先生」と呼びかけていますが、本心からではありません。イエス・キリストから何がしかの教えを聞くために「先生」などとは言いません。サドカイ派は、聖書に通じていると自負していたはずです。わざわざイエス・キリストに耳を傾けるつもりなどありませんでした。

 

【あなた方は聖書も神の力も知らない】

 キリストは答えられます。あなた方は聖書も神の力も知らない。サドカイ派はこの言葉を聞いて激昂したかもしれません。彼らは聖書をよく読んでいた人々であったと想像されます。ファリサイ派と真っ向から論じ合う実力があると思っていたかもしれません。聖書に通じていたと自覚していたのです。聖書を知らない、とキリストから決め付けられてしまうには心外であったはずです。キリストは聖書だけではなく、神の力を認識していないと指摘されます。

 

【天使のように】

 神の力は人間の力以上です。人間の知恵,力に比べれば比較にならないほど、神の力は強大なもののはずです。死者の復活のとき、人間的に見れば、レビラート婚で再婚した女性の立場は困ったものです。しかし、そのとき、天使のようになるといわれます。そうしますと、娶ったり、嫁いだりするようなことはない。天使のようになれば、人間のしがらみは消え去ります。

 

 聖書を学び、そのときに、神の力という視点から読み解釈される必要があります。レビラート婚の記事を人間的視点で見るならば、復活は不合理な考え方になります。しかし、神の力で見るとき、この地上世界に見られるような人間関係のしがらみはもうありません。神の力でレビラート婚を読み取るとは、神の大きな力に対する信仰の目をもって見るということになります。復活否定など起こりません。

 

【夫を亡くした女性】

 レビラート婚を信仰の目をもって見るとどうなるでしょうか。夫を亡くした女性はたちまち困窮にさらされます。親から多額の財産を所持するというようなことがなければ、本来は子どもに養われるべきなのですが、子どもがいないと身の置き所もなくなります。女性にはたいへんな自体になります。レビラート婚には救済的な側面があったのです。それはいうまでもなく、神の憐れみの表現です。神は社会的に不利な立場に置かれるもののためにおきてを定められました。レビラート婚をキリストの復活否定のために引き合いに出すことなどできなかったのです。

 

【死人の復活と夫と妻、親と子、兄弟姉妹の関係】

 終わりのとき、死人は復活します。そのとき、夫と妻、親と子、兄弟姉妹の関係が亡くなるというと悲しくなる人が出てくるかもしれません。復活のとき、もう夫婦ではなくなる。そんなことは受け入れがたい。そう思う人がいても不思議ではありません。ここでも神の力の観点から読み込めば、別の視点も出てくるはずです。神が地上の人間関係などくだらない、価値のないことと切り捨てられるはずがありません。むしろ、さまざまな思いを聖化してくださる神です。私たちの思いを越えて神は素晴らしいことをなさいます。

 

【】

 キリストは、今度は聖書から、復活の真実性を証明されます。聖書に文字通りに書かれていないことはたくさんあります。キリスト教信仰の重大な教理には文字でそのように書かれていない教理もあります。例えば三位一体の神です。しかし、私たちは聖書を信仰の眼をもって眺めるとき、重大な真理を読み取ることができます。文字通り書かれていないから真理ではないなどとはいえません。

 

【アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神】

 キリストは、出エジプト記3章を引用されます。ここでは、モーセに神が現われ、自らを、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と自己紹介されます。ところで、モーセにこの啓示が与えられたとき、すでにアブラハムから数百年過ぎています。もう彼らの姿はどこにもありません。遺体は墓に収められましたが、もうすでに土に帰ってしまい、形の上ではもうどこにも存在しなかったかもしれません。とっくに無くなっていた。死はあらゆるものを無に帰してします。死は一切の終わり。死んでしまえばもう何もかもなくなるのだと思われています。この考えは何も現代人だけの特徴ではありません。モーセのころ、アブラハムもイサクもヤコブも消滅していたと考える人もいたでしょう。ところがキリストはこの出エジプト記の記事を取り上げて解釈されます。出エジプト記3:6をキリストは取り上げられます。すでに数百年の年月が過ぎ去り、モーセの父祖らは消え去っていたと見えます。

 

【永遠の契約】

 神はアブラハム、イサク、ヤコブを忘れていなかったというだけではありません。神は、彼らと契約を結ばれました。特にアブラハムにはあなたの子孫は海の砂、天の星のようになると約束されます。また彼らに、乳と蜜の流れる約束の地を与えると言われ、契約を結ばれました。この約束は反故にされることはありません。アブラハムたちが死んでも約束は消えません。約束は必ず実現します。契約の内容は必ず実現します。アブラハムの死と共に神の約束は消滅したのではありません。とすれば神は復活を前提にアブラハムに約束をされたと言うことになります。

 

 神は死んでしまい、もうそれで一切が終了してしまったものの神ではなく、一度は死んでもそれでもなお約束が必ず成就するようにされる神です。神はいのちを与えるかたでもあります。約束は必ず実現します。

 

堅く契約を守られるという信仰をもって、この個所を読みます。すると、神は生けるものの神であるということが分かります。信仰を持って聖書を読むときにこそ真理が明らかになります。信仰を持って、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と自分を明らかにされた神は当然のことながら、今は死んでいるかもしれないが、いつまででも死んだままの者の神ではなく、必ず終わりのときにキリストによりもはや死ぬことのないいのちを与えられたものたちの神なのです。キリストと同じく、その神は私たちをも永遠の命によみがえらされます。おわり

 

 

 

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2015年12月06日 | カテゴリー: マルコによる福音書

2015年11月29日説教「神のものは神に返しなさい」金田幸男牧師

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新約聖書
マルコによる福音書12章13-17
13 さて、人々はパリサイ人やヘロデ党の者を数人、イエスのもとにつかわして、その言葉じりを捕えようとした。
14 彼らはきてイエスに言った、「先生、わたしたちはあなたが真実なかたで、だれをも、はばかられないことを知っています。あなたは人に分け隔てをなさらないで、真理に基いて神の道を教えてくださいます。ところで、カイザルに税金を納めてよいでしょうか、いけないでしょうか。納めるべきでしょうか、納めてはならないのでしょうか」。
15 イエスは彼らの偽善を見抜いて言われた、「なぜわたしをためそうとするのか。デナリを持ってきて見せなさい」。
16 彼らはそれを持ってきた。そこでイエスは言われた、「これは、だれの肖像、だれの記号か」。彼らは「カイザルのです」と答えた。
17 するとイエスは言われた、「カイザルのものはカイザルに、神のものは神に返しなさい」。彼らはイエスに驚嘆した。

要旨 

【ヘロデ派とファリサイ派】

12章13によりますと、ある人々が、イエスの言葉尻をとらえようとして論争を仕掛けたと記されます。今回の居場所や時間は記されていません。11章27~12章12ではイエスは神殿の庭で祭司長たちと論じ合ったと記されますが、ここではヘロデ派とファリサイ派と論争相手が選手交替をしています。イエスは神殿の庭で教えをされたので場所は神殿の庭であろうとも思われますすが、時間はその翌日であったと推測されます。

 

 ところで、ヘロデ派とファリサイ派はふだんは敵対していました。ヘロデ派は当時ユダヤを支配したヘロデ王家の支持者たちでした。ヘロデ家はローマ帝国と結託してユダヤの支配権を確保していた権力者であり、ヘロデ派はその支持者たちでした。

 

一方ファリサイ派はユダヤ人の信仰と生活の規準である律法を重視し。民衆にも律法の遵守を奨励しました。当然のことながら、ヘロデ派のようにローマ帝国に媚を送るような考え方を嫌悪しました。ですからヘロデ派とファリサイ派は日頃は対立関係にありました。しかし、彼らは共通の敵イエスに対しては共同戦線をとります。敵対者が力をあわせて攻めてくる。それは強大な力を発揮することになります。この世の中で神を信じて生きていこうとするものに、普段は対立しているものたちが手を組んで攻撃してきますが、それは大きな勢力となり、恐るべき敵対者となります。

 

【美辞麗句を用いて】

 彼らはイエス・キリストに論争を仕掛けるにあたり、美辞麗句を用います。「彼らは来て、イエスに言った。「先生、わたしたちは、あなたが真実な方で、だれをもはばからない方であることを知っています。人々を分け隔てせず、真理に基づいて神の道を教えておられるからです。」。

 

むろん本心から出た言葉ではありません。うわべだけの言葉ですが、しかし、これほどイエス・キリストが誰か、どんな働きをしているのかを明瞭に語られているところはありません。的を得ていますが、それだけ敵対者の心はキリストから離れています。これは皮肉と言えば皮肉です。これ以上キリストとは誰か、的を得た言葉を語りながら空虚な言葉でしかありません。

 

【ところで、皇帝に税金を納めるのは・・】

反対者の質問は、「ところで、皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。納めるべきでしょうか、納めてはならないのでしょうか。というものです。皇帝に税金を収めることが律法、つまり、聖書の教えに一致しているか。これは律法に合致しているかどうかだけの問題ではありませんでした。イエスがこれを語られたときから約30年ほど前のAD6年、ヘロデ大王の息子アルケラオの失政のためにローマ帝国はユダヤを属州にしてしまいます。属州は、ローマの直轄領で、総督が派遣され、そのもとで地方政治が行われます。アルケラオの領土はユダヤ州と呼ばれるようになります。

 

【納税の義務】

ローマは属州にはかなりの自治を認めますが、ただ、納税だけは厳格に守ることを求めます。税金さえ納めておれば属州は中央からあまり干渉を受けることもありませんでした。しかし、納税を履行しないとこがあれば帝国政府は苛酷な圧迫を加えます。納税を求められることこそ、ユダヤがローマの支配下にあることを示します。ユダヤ人にはそれは屈辱的な事態でした。それだけではありません。

 

【ローマのコイン】

ローマ政府はローマのコイン、銀貨で納税することを求めます。ところで、そのコインには皇帝の肖像が刻まれ、王の権力を示す銘が彫られていました。ローマ帝国の東部地方では皇帝を神として崇める宗教生活が徐々に展開していました。ギリシヤ人にとっては人間が神になることはその宗教の特質でもありました。ユダヤ人たちはこの意味でコインの肖像を警戒します。それは単なる人間の肖像ではなく、神の偶像なのだとされます。当然ユダヤ人は嫌悪をします。

 

【ロマ皇帝の神格化】

 キリストが地上で活躍されたとき、皇帝を神格化する動きが盛んでした。ユダヤ人からすればこれはとても不愉快な事柄であり、信仰に反しますし、嫌悪すべきでありました。しかし、それは帝国政府に反旗を翻すことになります。だから、たいていのユダヤ人は表面上は反抗しませんでしたが、快く思いませんでした。極度に反感を持ったユダヤ人の一派もありました。熱心党と呼ばれいる党派で、彼らはローマの支配に反抗し、独立を取戻そうとしました。当然、皇帝に税金を納めることに反対し、拒否します。このために、武装闘争の道を選び、ついに二度にわたりローマとの戦争に突き進みました。キリストは地上での働きをされていたとき、すでに熱心党はかなりの影響力を持ち始めていました。このような反ローマ的は動きをローマ政府は見逃すことはできませんでした。

 

 このような複雑な問題につながっていく微妙な問題をファリサイ派、ヘロデ派の共同戦線が攻撃してきたのです。

 実際、ポンテオ・ピラトの裁判のとき、キリストを訴える偽証言者の言葉に、キリストが皇帝への税金の納入を拒否したと言うものがありました。この罠にかかればイエスは、ローマ政府から処罰されたり、あるいは答え次第でユダヤ人民衆の支持を失うことになります。このような下心から質問が投げつけられたのです。

 

【聖書に書かれていない問題】

 ところで、律法には皇帝への納税のことなど記されていません。聖書に書かれていない問題をどうするのか、敵対者は問います。

 

 聖書を何もかも教科書のように見る人がいます。しかし、聖書はあらゆる人間の営みについて書かれてあるわけではありません。書かれていないこともたくさんあります。書かれていない事柄はどうなるのか。たいていの人は、自由だと言う考え方を持っています。聖書に書かれていないことは自分で判断すればいいというのです。

 

こういう立場の人は結局自由だと言っても答えは簡単ではないので、世間で通用しているような考え方を取ります。聖書に書かれていないことはこの世の価値基準を採用します。ここでは分裂が起きてしまいます。信仰と世俗が分裂し、結局は信仰よりもこの世的な規範が支配的になります。世俗的は、信仰に反するこの世の常識が生き方の原則になります。そういう生き方の末路は結局信仰なしの生き様になります。

 

 もう一つのやり方は、聖書に書かれていないことはたくさんあることと認め、そこに伝承とか伝統を重視します。当時のユダヤ人も今日のユダヤ教でも共通することですが、むかしのラビ(律法研究者)の聖書の解釈などを価値あるものとみなし、聖書に書かれていないことついての規準や規範を引き出すのです。カトリック教会も聖書に並んで、教会が保持する伝承を聖書と同等の価値を認めます。

 

 このような聖書に対する考え方は聖書を軽視するものとなりかねません。では、どう考えればいいのでしょうか。イエス・キリストはどういう考え方をされるのでしょうか。

 

【皇帝のものは皇帝に】

キリストの答えは次のようなものでした。イエスは、彼らがそれを持って来ると、イエスは、「これは、だれの肖像と銘か」と言われた。彼らが、「皇帝のものです」と言うと、イエスは言われた。「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」彼らは、イエスの答えに驚き入った。そこに皇帝の肖像が書かれてあるとしてもそんなものと関わりなく皇帝に税を納めよ。ファリサイ派はためらいながら税を納めていました。キリストはためらうことなく税金を払えと言われます。ここでは、[返す]と言う言葉が用いられますが、元に戻せ、つまり、本来のもち手に返せという意味です。本来、ローマのコイン=お金は皇帝のもの、それならば返せばよい。

 

 ここまでですと、キリストはただ皇帝に税を納めることを肯定しているだけです。異民族で、異教徒のローマ人の支配にただ服従しておればいいということになります。政治的に無関心であれとも取れます。

 

【神のものは神に】

しかし、キリストは、神のものは神に返せ、と言われます。神は全世界の創造者であり、支配者です。神に返せとはすべてを返せということになります。皇帝と神は同等ではありません。神に返せとはすべてを返せということになります。あらゆるものは神に属します。私たちの所有は何もありません。本来は神のもの。皇帝に納税することの是非よりも、地上での私たちの生活が一切神の主権のもとにあるということに注目すべきなのです。皇帝への納税の問題よりも、神に如何に借りたもの、つまり、あずかったものをどのようの返却していくのか、そのような人生のほうが重要な問題だと教えられます。

 

【信仰的判断】

 聖書に書かれていないことは自由ではなく、信仰的に判断しなければなりません。信仰をもってどう考えるかのほうが重要なのです。聖書に書かれていないことであっても、聖書に育まれて信仰的に判断するのです。だから、私たちは日々聖書を学ばなければなりません。どれがキリスト教的ものの考え方なのか、信仰者としてどう考えればいいのか。このように毎日具体的な事柄で私たちは判断を下すべきなのです。

 

このために、私たちに必要なことは教会で、あるいはキリスト信者の交わりにおいて、聖書の考え方を学び、信仰を育まれ、キリスト教的なものの見方を身につけていき、信仰によって決着していくのです。聖書に書かれていないからといってキリスト教信仰と関わりのない結論を出すのではなく、聖霊の導きのもと、信者として一番ふさわしい決定をしていくのです。人生の重大な局面でこそ、このことができるかどうか、それが大きな課題となってきます。聖句一つだけで判断せず、毎日聖書を学びながら、総合的に聖書を読み、その知識でもって具体的な事柄に決着をつけていくのです。(おわり)

 




2015年11月29日 | カテゴリー: マルコによる福音書

2015年11月22日説教「土台となる捨てられた石」金田幸男牧師

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マルコによる福音書12章
1 イエスは、たとえで彼らに話し始められた。「ある人がぶどう園を作り、垣を巡らし、搾り場を掘り、見張りのやぐらを立て、これを農夫たちに貸して旅に出た。
2 収穫の時になったので、ぶどう園の収穫を受け取るために、僕を農夫たちのところへ送った。
3 だが、農夫たちは、この僕を捕まえて袋だたきにし、何も持たせないで帰した。
4 そこでまた、他の僕を送ったが、農夫たちはその頭を殴り、侮辱した。
5 更に、もう一人を送ったが、今度は殺した。そのほかに多くの僕を送ったが、ある者は殴られ、ある者は殺された。
6 まだ一人、愛する息子がいた。『わたしの息子なら敬ってくれるだろう』と言って、最後に息子を送った。
7 農夫たちは話し合った。『これは跡取りだ。さあ、殺してしまおう。そうすれば、相続財産は我々のものになる。』
8 そして、息子を捕まえて殺し、ぶどう園の外にほうり出してしまった。
9 さて、このぶどう園の主人は、どうするだろうか。戻って来て農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるにちがいない。
10 聖書にこう書いてあるのを読んだことがないのか。『家を建てる者の捨てた石、/これが隅の親石となった。
11 これは、主がなさったことで、/わたしたちの目には不思議に見える。』」
12 彼らは、イエスが自分たちに当てつけてこのたとえを話されたと気づいたので、イエスを捕らえようとしたが、群衆を恐れた。それで、イエスをその場に残して立ち去った。


 

要旨

【権威のついて論争】

  イエス・キリストが三度目、神殿に来た時、当時のユダヤの宗教、政治の指導者らと権威のついて論争をされました(11:27-33)。そのつづきが今日の12:1-12で、まず、イエス・キリストは譬えを語られています。このたとえは今までのように一般の聞き手に語られたのでもなく、内容も今までの譬えのような「牧歌的」雰囲気は皆目ありません。

 

相手は、権威を振りかざす祭司長、律法学者、長老たちでありました。譬えで語られたのは、そこで彼らの隠された心を暴露するためであって、直接語られなかったのは、まだそのとき、つまり彼らと決定的衝突を回避されるためであったと考えてよいのではないだろうかと思います。

 

 この譬えは内容がとても深刻で、しかも敵対者の心の中を見抜いています。あまりにも露骨なのでイエスが本当に語ったのか疑問視されることもあります。しかし、その信憑性は疑いようありません。真正なイエス・キリストの言葉として受け入れてよいと思います。

 

【ぶどう園】

この譬えですが、舞台はぶどう園です。ぶどう園は旧約聖書にしばしば登場します。このキリストの譬えはイザヤ書5章1-7をすぐさま思い起こさせます。

 

わたしは歌おう、わたしの愛する者のために/そのぶどう畑の愛の歌を。わたしの愛する者は、肥沃な丘に/ぶどう畑を持っていた。よく耕して石を除き、良いぶどうを植えた。その真ん中に見張りの塔を立て、酒ぶねを掘り/良いぶどうが実るのを待った。

しかし、実ったのは酸っぱいぶどうであった。さあ、エルサレムに住む人、ユダの人よ/わたしとわたしのぶどう畑の間を裁いてみよ。わたしがぶどう畑のためになすべきことで/何か、しなかったことがまだあるというのか。わたしは良いぶどうが実るのを待ったのに/なぜ、酸っぱいぶどうが実ったのか。

さあ、お前たちに告げよう/わたしがこのぶどう畑をどうするか。囲いを取り払い、焼かれるにまかせ/石垣を崩し、踏み荒らされるにまかせ、わたしはこれを見捨てる。枝は刈り込まれず/耕されることもなく/茨やおどろが生い茂るであろう。雨を降らせるな、とわたしは雲に命じる。イスラエルの家は万軍の主のぶどう畑/主が楽しんで植えられたのはユダの人々。主は裁き(ミシュパト)を待っておられたのに/見よ、流血(ミスパハ)。正義(ツェダカ)を待っておられたのに/見よ、叫喚(ツェアカ)。」

 

ここに記されているように、ぶどう園はイスラエルを象徴しています。イエスの譬えでもぶどう園はイスラエル、その指導者たちを表わしていることはすぐ分かります。農園主は主である父なる神を指していることも分かります。

 

【農園主と農夫】

 このぶどう園には、垣、搾り場、見張りの塔が造られます。垣は石で組まれたと思われます。搾り場に設置する搾り機は普通は石を刻んで造られます。そして、見張りの塔は、見張り台であると共に野獣から農夫たちが身を守るための施設です。これだけきちんと設備が整っているぶどう園はすぐれた農園ということができます。当時のぶどう栽培はぶどう酒を醸造するのが目的で、大掛かりな農業になっていました。イエス・キリストはイザヤ書からこの譬えを語られたようですが、当時の実態も反映していると言えます。当時、パレスティナにはローマの占領と共に、資産を持っている裕福な人々が農地を安く買い取りました。彼らは不在地主で、その所有地には住まないで、農園を農夫に貸し、収穫のとき一定の割合で所有者に納めるという契約を結びました。

 

 この譬えでは、所有者である農園主は何か落ち度があるようなことをしていません。彼は自分の農園に多くの資本を投入して、立派な農園を造っていました。そして、農民とは正式の契約を結んだのでありましょう。何も不当なことをしていません。落ち度なく農園主として、収穫の一部を期待したに違いありません。

 

 ところが陰惨な事件が記されます。農園主は収穫期になったので、契約通りに、ぶどう酒を送ってくるように連絡をします。ところが農夫たちは送られてきた農園主の使いにひどいことをします。送られた来たしもべを殴るは、たたくは、袋叩きにしてしまいます。その上、別のしもべを殺してしまいます。

 

 農夫たちはなぜこんなひどいことをしたのか。農園主が外国の占領軍と一緒に入ってきたものだったからかもしれません。しかし、農園主が外国人であったとは記されていません。とにかく、農夫たちは農園主に契約通りの貢納を拒否しました。ひとり息子を殺害したのはなぜか。おそらく、農夫たちは農園主が死んだと思ったのではないでしょうか。そんなうわさが飛んだのかもしれません。農園主が死ねばその財産は一人息子が継承します。しかし、その息子もいなくなれば、農園主はいなくなり、耕作をしているものたちのものになるかもしれません。おそらくの話ですが、農夫たちは豊かにぶどうを生産するこの土地が欲しいと思ったのでしょう。欲しくなると手段を選ばない。

 

農夫たちの動機は欲であったといえるのではないでしょうか。欲しいものを自分のものにしたいと思うと手段を選ばなくなります。殺人も犯す。これが人間の罪ではなくて何なのでしょうか。次々と農園主が送る使者を亡き者にした理由は貪欲、物欲、所有欲であり、その欲望を満たすためならば手段を選ばない。あるいは欲望を阻止しようとするものも殺してしまいたくなる。このような感情は決して作り話ではありません。現実の私たちの姿でもあります。

 

 一つ不思議なのは、なぜ農園主はこれほどまでされながら農夫たちから収穫の一部を獲得しようとしたのか。農夫たちを信頼していたのかもしれません。どんなひどい仕打ちを受けても我慢するほどに、農夫たちが必ず心を入れ替えてくれる。そう信じたのでしょう。

 

 農園主は、農夫たちと契約を結びました。契約は単なる約束ではありません。それが神の前でなされたとすればその契約は決して破られることはない・・・農園主はそう信じたのかもしれません。相手を信じる、これが農園主の心であったと考えることができると思います。

 

 この譬えで送られたしもべらが預言者であったこと、その一人息子こそイエス・キリストであることはすぐ分かります。

 

 イエスの譬え話を聞いて、祭司長たちは自分たちに言われているとすぐに気がつきます。イザヤ書のことは聖書の専門家ならばよく知っていた話であったと思います。

 

 イエス・キリストはこの譬えを閉じるにあたって、息子を殺した農夫たちがどんな結末を迎えるか語られますが、祭司長たちが烈火のごとく怒ったとしても不思議ではありません。イエスをこのままにしておくことができないと思ったでしょう。しかし、群衆が近くにいたので手を出すことができませんでした。

 

 ここまで読むと、キリストは、間もなく起こるであろう、十字架の苦難を予告していると取ることができます。キリストはエルサレムで経験される恐ろしい出来事、祭司長たちの陰謀によって逮捕され、裁判を受け、処刑されるであろうことをよく承知しておられたということを示しています。キリストと祭司長たちの間は険悪となったことを知ります。

 

 ただ、このキリストの譬えはこれで終わりませんでした。キリストは詩編118篇22-23を引用されます。

 

家を建てる者の退けた石が/隅の親石となった。これは主の御業/わたしたちの目には驚くべきこと。」

 

家を作るとき、多くの石材が用いられます。ところがある石は不要とされ、道端に放り出されます。ところが、増築のためか、あるいは近くに新しい建物を新築するためか、捨てられた石が丁度、柱石にすることが適当となります。基礎となる石がしっかりしておればその上に柱を立て、大きな建物を支えることができます。いったん何の役にも立たないとされた石が今は大きな構造物を支える石となります。

 

 譬えの中で、農園主の子どもは、殺されて、農園の外に放り出されます。ユダヤ人は死体が葬られることなく、野ざらしに放置されることほど嫌悪したことはありません。葬られることなく死ぬ、それは一番悲しむべき事実でした。農夫たちは農園主の息子に最大限の侮辱を行ったのでした。許しがたい行為です。

 

 イエス・キリストもまた同じように十字架という残酷で残忍な処刑方法で殺され、木の上に放棄されました。キリストが蒙った辱めは言語に絶するものでありました。

 

 しかし、キリストは、その捨てられたものが神の救いの事業の中核となるのだと語られます。詩編の言葉はキリストにおいて現実となります。これにまさる驚くべき事件はありません。みなから捨てられ、辱められ、卑しめられた方が神の救いの働きを完成させられます。捨てられたキリストこそがまことの救い主なのです。

 

この事実をキリストはご自身の十字架と共に語られました。むろん、祭司長や律法学者たち、長老たちはキリストのこの言葉を全く聞いていません。譬えが自分たちにあてこすりだと感じてあとはもう聞いていません。詩編の引用で、捨てられたキリストこそ、新しいイスラエルの救済者であり、まことの神の家の土台となられたのだと、キリストは明言されています。

 

【裁きと救い:神の愛】

 そこで、キリストが語った譬えだけしか聞かなかったものには厳しいさばきのことばをだけを聞いたことになります。神の御言葉を中途半端に聞けば怒りを引き起こされるだけ、あるいは戸惑いを生じるだけということもしばしばあります。しかし、キリストの意図は、ただ滅びを予告されるというだけではありません。キリストの本当のみ心はそんなところにあるのではありません。神のひとり子を遣わされるほどまで神は私たちを心に留め、愛し、何とかして救おうとしておられるのです。間違いなくそうなのです。(おわり)

 

2015年11月22日 | カテゴリー: マルコによる福音書

2015年11月15日説教「イエス・キリストの権威」金田幸男牧師

(本日の音声説教はありません)

説教「イエス・キリストの権威」

聖書:マルコによる福音書1127~33

27 一行はまたエルサレムに来た。イエスが神殿の境内を歩いておられると、祭司長、律法学者、長老たちがやって来て、28 言った。「何の権威で、このようなことをしているのか。だれが、そうする権威を与えたのか。」

29 イエスは言われた。「では、一つ尋ねるから、それに答えなさい。そうしたら、何の権威でこのようなことをするのか、あなたたちに言おう。30 ヨハネの洗礼は天からのものだったか、それとも、人からのものだったか。答えなさい。」

31 彼らは論じ合った。「『天からのものだ』と言えば、『では、なぜヨハネを信じなかったのか』と言うだろう。

32 しかし、『人からのものだ』と言えば......。」彼らは群衆が怖かった。皆が、ヨハネは本当に預言者だと思っていたからである。

33 そこで、彼らはイエスに、「分からない」と答えた。すると、イエスは言われた。「それなら、何の権威でこのようなことをするのか、わたしも言うまい。」

 

要旨

【最高議会の祭司長、律法学者、長老たち】

 イエス・キリストとその弟子たちは三日目もまた、エルサレムの神殿に入って行かれます。そこで、祭司長、律法学者、長老たちと出会います。これはたまたま出会ったというのではなく、彼らがイエスを探していたと理解すべきです。この人々は、ユダヤ人の最高議会を構成する人たちです。

 

最高議会、サンフェドリンとよびますが、単に法律を定めるというだけではなく、ユダヤの宗教問題を取り扱い、また、各地のユダヤ人社会の揉めごと、民事紛争などの最終的な裁定を下すことになっています。ときには法律違反に対して処罰を下すこともあり、ローマの支配がなかったときは死刑の判決執行の権限も与えられていました。神殿警察を管轄してもいました。イエス・キリストは前日、神殿の境内で、商人たちの机や椅子をひっくり返すという「騒ぎ」を起しています。商人たちから多額の上納金を得ている祭司長たちからすれば、イエス・キリストの行為は許しがたいものと見えたはずです。

 

11章18に、祭司長や律法学者たちがイエスを殺そうと謀議を行ったとありますが、これはイエスを逮捕し、治安を乱すという罪をなすりつけて処刑してしまおうと考えたことを示しています。

 このたびは、イエスをすぐに逮捕して投獄するというようなことをしていません。群衆が周囲にいたからであると思われます。イエス・キリストは神殿の庭を中心に教えを語られていました。(11:17、18)。群衆はその教えに感動していたとあります。群衆の大半がイエスの教えを受け入れたのではなかったでしょうけれども、多くの人がその教えに心を動かされていたのを、祭司長たちも認めざるを得なかったのです。

 

 祭司長たちは、イエスを逮捕するように、同行していた神殿警察に命令を下したりしません。それよりも、穏やかに質問をしたとあります。むろん、穏やかであってもその真意は、キリストの返答次第ではキリストを逮捕してしまおうと考えていたに違いありません。あるいは、その答えによって群衆が失望したり、反感を感じたりする可能性を考えていたということもありましょう。

 

【何の権威によって、このようなことを】

 何の権威によって、このようなことをするのか。「このような」とは、直接には宮清めと言われている商人たちの追い出しを指していると思いますが、また、祭司長たちの許可もなしに勝手に神殿で人を教えていたということもあり、また、三日前、群衆は「ホサナ」と叫んでイエスと共にエルサレムに入城したことも含まれていると思われます。

 

 祭司長たちが問題にしたのが権威の問題でした。実際、祭司長たちこそ当時権威を持つものとされていましたし、彼ら自身そう自覚していました。祭司長は神殿を管轄し、ユダヤの宗教的権威とされていました。政治権力も掌握し、事実上、ユダヤの国家元首のような立場にありました。

 

律法学者は律法の解釈と適用の最高権威と認められていました。律法は単に宗教だけではなくユダヤ人の日常生活を律する役割を持っていました。

 

長老たちは各地のユダヤ人社会の指導者であり、最高議会に送られる前の民事裁判を司ったのです。彼らこそユダヤ人社会の権威でありました。

 

【権威とは】

 権威というものは単なる名目の問題に過ぎないというのではありません。権威はそれ自体威圧する力を持っています。権威は大家とも言われます。ある流派の師匠はその道の権威とされます。権威を持っている以上、その権威の下に人を置き、命令し、あるいは、服従を求めます。権威とはそういうものです。権威が単に名目などというのは言葉の矛盾です。権威はその成員に対して力を振るいます。権威は威圧する力を伴います。

 

 最高議会にとって彼らが持っている権威に対する挑戦は許しがたいとされます。彼らが持っている権威は手放すことなどありません。政治権力がその代表です。いったん政権を掌握するとそれを手放すというようなことは絶対と言っていいほどしません。権力を掌握した政治家はその権威を振りかざします。それが政治というものです。権威を持つものはその権威を振りかざして、多くの人間を権威の下に置こうとします。

 

 イエス・キリストがしていることは最高議会の権威に逆らうものとみなされたのです。イエスを許しておくことができません。誰が神殿でそんなことをしてもよいという許可を与えたのか。そのような許可は最高議会の権能に属するものと思われていました。ところが何の了解も許可も得ずに不埒なことをしている。これが最高議会の受けた印象でした。

 

【イエス・キリストの権威】

 ところがイエスは彼らの思惑にはひっかかることはありませんでした。キリストは最高議会のメンバーに答えるという形ではなく、キリストご自身が質問をします。

 

【ヨハネの洗礼は天からのものか、それとも人からのものか】

 ヨハネの洗礼は天からのものか、それとも人からのものか。天からのものとは神からのものを意味します。洗礼者ヨハネのことは福音書に断片的に記されていますが、マタイ3章2でヨハネの言葉が記されています。これはヨハネの説教の要約と言うことができます。

 

ヨハネは[悔い改めよ、天の国は近づいた]と公言しました。ヨハネはこうして悔い改めたものに洗礼を授けました。洗礼者ヨハネの洗礼とは、悔い改めて受ける洗礼のことです。悔い改めよ、と叫んだヨハネは預言者とみなされていました。聖書の中にその言葉が残されている預言者の系列にあり、神の言葉を受けて、それを語る人々がいました。彼らは神の言葉を語りました。だから預言者と呼ばれていました。今日ではもう、預言者活動は終わっていますが、キリストの時代は預言者も活躍していたのです。神からの託宣を受けたものとして語ります。洗礼者ヨハネは預言者だと思われていたのです。ヨハネはキリストに先立って、御言葉を語りました。

 

 キリストも洗礼者ヨハネから洗礼を受けました。その点で、洗礼者ヨハネと同じようにキリストも預言者と認められていたのです。ヨハネは民衆から預言者だとみなされていました。このことは祭司長たちも認めざるを得ませんでした。

 

むろん、祭司長たちが本心からヨハネが預言者と認めたいたわけではありません。その反対です。ヨハネの権威など認めるはずがありません。もし、ヨハネが預言者であれば、神からもみ言葉を受けたのです。ヨハネが語る言葉は神からの権威によって語られたものです。民衆はヨハネを預言者だと認めているからには、ヨハネの教えもまた神からのものといわなければなりません。

 

 むろん、祭司長たちは、ヨハネが預言者だとか、神からの権威で語っているなどと信じていたわけではありません。むしろ否定をしていたはずです。しかし、では人からの権威に過ぎないといえば、群衆は祭司長たちに反感を持ち、あるいは暴動でも起したかもしれません。ですから、ヨハネが神の権威をもって語っていたとか、まことの預言者だと認めるようなことはできませんが、では人からの権威によって語っているというのではあれば、民衆から袋叩きに会うかもしれません。口が避けても言えないことです。そこで彼らの出した結論は[分かりません]でした。分からないということはむろん答えになっていません。彼らはイエスの質問をはぐらかせたことになります。イエス・キリストはそのような祭司長たちの答えに[自分も何も答えない]と宣言されます。キリストも沈黙をもって答えられます。むろん、キリストは言わずもがなに答えておられます。キリストもまた神からの権威で語っているのだと。

 

【権威を否定する】

 権威というものは、それに直面すれば二つの態度表明の方法があると思われます。ひとつは拒絶です。沈黙であれ、権威に対する反抗であれ、権威を否定するという態度です。自分が持っている権威を固守するためにそうする場合もあります。相手が持っている権威、そのために威圧を持って差し迫ってくるものに、人は反抗する傾向をもともと持っているのではないでしょうか。

 

人が最初に出会う権威は親の権威です。親は親の権威を振りかざして威圧してきます。子どもは3歳くらいでもう反抗します。親の権威に反抗しながら子どもは成長していくものかもしれません。

 

次は教師の権威、学校の権威にたてつきます。生涯にわたって権威を否定し続ける人もいます。権威を嫌悪しながら人生を過ごす。

 

【権威に服従する】

もうひとつの態度は服従です。権威に対して弱いという特性をまた人はもっています。権威にたてつくことばかりしながら、ある権威にはめっぽう弱いという人もいます。

 

 私たちは、ここでキリストの権威に直面します。祭司長たちもそうでした。キリストの権威に直面していたのです。しかし、彼らはむろんキリストの権威を認めるようなことはしません。自分の持っている権威は手放すことがなく、またその権威に並び立つ権威など認めません。しかしながら、私たちもまた同様に、神の権威に直面しているのです。

 

 祭司たちはキリストの言動の権威が神からのものであるということを認めませんでした。そうすることで彼らは自分たちの持つ権威を擁護しようとしました。その権威をもって威圧する態度を変えることはありませんでした。

 

 私たちはここで神の権威を考え直さなければなりません。権威は威圧する力を伴います。神の権威もまた威圧する力を持っています。しかし、この権威は、恩寵という力で、救うという神の意志が明らかになっている威圧を伴います。この威圧に対して相変わらず多くの人たちは反抗します。そんな権威は認めないというのです。

 

【それなら、何の権威でこのようなことをするのか、わたしも言うまい】

 私たちは間違いなく神の権威の直面します。そして服従を示さなければなりません。祭司長たちはその権威を受け入れませんでした。沈黙でもって答えて祭司長たちに対しては神の権威でもっているということを明らかにされないままでした。それはさばきでもあります。(おわり)

2015年11月15日 | カテゴリー: マルコによる福音書

2015年年11月8日説教「神の宮、祈りの家」金田幸男牧師

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聖書:マルコによる福音書11章

15 それから、一行はエルサレムに来た。イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いしていた人々を追い出し始め、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けをひっくり返された。

16 また、境内を通って物を運ぶこともお許しにならなかった。

17 そして、人々に教えて言われた。「こう書いてあるではないか。『わたしの家は、すべての国の人の/祈りの家と呼ばれるべきである。』/ところが、あなたたちは/それを強盗の巣にしてしまった。」

18 祭司長たちや律法学者たちはこれを聞いて、イエスをどのようにして殺そうかと謀った。群衆が皆その教えに打たれていたので、彼らはイエスを恐れたからである。

19 夕方になると、イエスは弟子たちと都の外に出て行かれた。



要旨 

【エルサレムに入場】

 イエス・キリストはホサナと叫ぶ群衆と共に、エルサレムに入場されました。キリストは預言者ゼカリヤの言うようにろばに乗って行かれます。その日はベタニヤ村に戻られ、翌日、再びエルサレムに向かわれます。途中季節外れではあるが実を結んでいないいちじくの木にキリストがのろいの言葉を投げかけられたという記事が挿入されます。

 

【宮清め】

都に入っていくのはキリストとその弟子たちだけで昨日の群衆はもういません。弟子たちと神殿に入って行きますが、そこでキリストがなさった働きを「宮清め」と一般に言われています。ヨハネ福音書にも宮清めの記事が記されていますが、キリストの公的な働きの初期に属します。マタイ、マルコ、ルカ(共観福音書)はその終わりに属します。同じ記事なのに時期が違うのでどちらかが間違いという説もありますが、わたしは二度宮清めがあったと解釈しています。

 

【キリストの怒り】

ところでここに記されているキリストの行動はまことに過激というか、乱暴なものです。神殿で物を売り買いし、両替をしている商人の机や椅子をひっくり返すというものです。明らかにキリストは暴力を使ったというので、あの、おやさしい、心温かいキリストがそんなことをするとは、と驚く人もいるかもしれません。それ以上に、キリストは怒りをあらわにされています。しかし、福音書において、しばしばキリストが怒り、憤ったということが記されています。

 

マルコ10:14では、祝福をしてもらおうと連れてこられた幼児たちを阻もうとした弟子たちにキリストは憤られます。また、ヨハネ11:33では、ラザロという人物が死に、多くの人たちが嘆いているのを見て、激しく憤ったと記されます。その他にもキリストの怒りが爆発する場面が描かれています。キリストは怒る方でした。

 

 怒りはどのような場合に起きるのでしょうか。まず正義が損なわれているところだろうと思います。特に社会的正義と言われるものが無視されたり、蔑ろにされているときにだれもが怒ります。あるいは思っていること、願っていることが実現しないとき人は怒ります。あるいは大きな悲しみに圧倒されるとき激しい怒りにさらされます。

 

 キリストは何を怒られているのでしょうか。

 従来、二つのことが言われてきました。ひとつは、神殿で商売が行われていた点です。神殿にはたくさんの巡礼が各地から上ってきます。神殿では犠牲がささげられます。時期は過越の近くでしたが、過越には子羊がささげられます。また、神殿ではいろいろな儀式が行われています。そのとき、牛や山羊のような家畜が犠牲として屠られました。貧しいものは、鳩のような鳥も変わりにささげられることが認められていました。このような犠牲の動物を遠方から連れてくるのはたいへんです。

 

【両替と宗教的指導者】

そこで、このような家畜を売る商人たちが神殿の庭で店を開いたのです。また、当時はローマ帝国が発行した貨幣が使用されていましたが、その表面には皇帝の像が刻み込まれていました。イスラエルは出エジプト30:11にあるように、イスラエルの男子は年に半シェケルの銀を神殿税として収める義務がありました。当時、人間の像を刻んだローマの貨幣が通用していましたが、神殿税とすることはできません。像が描かれているだけでも忌避されるべきですが、ローマの皇帝は神として崇められてもしていたからです。これでは、神殿にささげられる貨幣としては不都合なので、これと神殿で用いられるシェケルの貨幣と交換する必要がありました。そこで両替商人が神殿で両替の商売をしたのです。当然、犠牲となる動物も市価よりも高く売られたでしょうし、両替商も不当な交換比率を設定していたのです。商人は、神殿を利用して多額の利益を獲得しました。そして、その一部は神殿の祭司長たちに上納金として吸い上げられたはずです。このような仕組みをキリストはよくご存知で、不当な利益を食い物にする連中に対して激しく怒られたのだというのです。今もそうですが、宗教は不当な利益を引き出す口実を作り出しやすいものです。キリストは私服を肥やす宗教的指導者を弾劾しようとしていると読み取ることができます。

 

【異邦人の庭】

 もうひとつの理由は、商売が行われていた場所のゆえです。神殿には三つの庭がありました。第一は「祭司の庭」で、ここは神殿の中枢部を占め、祭司だけが入ることが許されてしました。なかでも至聖所は一年に一度だけ大祭司が入ることが許されている聖なる場所でした。その隣に、「イスラエルの庭」と呼ばれる庭がありました。ここはイスラエルの成人男子だけが入れました。そして、さらにその外側に「異邦人の庭」がありました。商売人が商売をしていたのはここです。

 

【異邦人が神殿で祈りをささげるとき】

イスラエルの女性、あるいは、改宗した異邦人がここで祈りをささげることができたのです。ところがキリストはイザヤ書56章7を引用されて、すべての異邦人が神殿で祈りをささげるときが来るはずだといわれます。ところがその神殿の異邦人の庭は商人たちが商売をするところと化しています。いけにえにする犠牲の動物の鳴き声でそこは喧騒が渦巻くようなところになってしまっていました。また、両替をするものたちの取引の声が張り叫ばれていました。

 

マルコはこの場所が通行人に近道にもされていたと記しています。これでは祈りどころではありません。祈りはむろん騒がしい場所でもできるでしょうけれども普通は静かな場所で祈りがささげられるべきなのです。ところが祈りの場所が騒々しいところになってしまっています。イザヤの預言にもかかわらず、神殿でイスラエル以外の人間が祈るために備えられているところで祈れないという状況が生み出されていました。

 

エレミヤ書7章11のいうとおり、ここは厳粛な祈りの場所ではなく、強盗が割拠しているような場所に成り下がっているのだとキリストは語られます。本来信心、経験の聖なる場所がいまや喧騒の場所となっている、キリストはこれを怒られたのだというのです。

 

【神殿】

 キリストがこのような理由で怒られたことはありえます。他にも、大王と呼ばれたヘロデが建設した第三神殿の壮大さをキリストが怒っておられるという理解もあります。いうまでもなく第一神殿とはソロモンが建設したものです。それはバビロンの手で破壊されてしまいます。捕囚の地から帰国したイスラエルは、ゼルバベルらに指導されて再建を企てます。苦心してようやく神殿を再建しますが、それが第二神殿で、ソロモンの神殿に比べて見劣りのする建物でした。ヘロデは権力の座に着くと、他の地域の異教神殿に劣らない壮大な建築物を建てようとしました。紀元前20年ごろから開始され、紀元後64年ごろになって完成したと言われます。その後数年してローマとの戦争でこの神殿も破壊されてしまいます。キリストが見られた神殿はまだ建築中であったかもしれませんが、それでも規模や構造ではどこにも見劣りのしない建築物でした。しかしながら、この神殿はヘロデの権勢を誇るための政治的な意図で建てられたものです。

 

キリストはこのような意図に怒られたかもしれませんが、聖書ではキリストは第三神殿を非難された気配は見い出されません。

 

【信仰の欠如】

 キリストは何に怒られたのか。もうひとつの可能性があると思います。この宮清めの直前いちじくの木を呪われました。いちじくの木はイスラエルを比ゆ的にしまします。そのいちじくは本来3月4月ごろでは実を結ぶはずもありませんが、だからこそ常識に反することが起きると信じる信仰が求められるのです。その信仰は、山を移すほどの信仰でもあります。ところがキリストはイスラエルにその信仰が欠如していることをいちじくに託して厳しく叱責されます。

 

 キリストが神殿で見たのは信仰の欠如でした。前日、群衆はホサナと叫んでキリストの入場を歓迎しました。しかし、翌日そのような声は聞こえてきません。潮が引くように熱狂は薄れていきました。キリストはマラキ書3章1-3の預言を心に抱いておられたのではないでしょうか。

 

見よ、わたしは使者を送る。彼はわが前に道を備える。あなたたちが待望している主は/突如、その聖所に来られる。あなたたちが喜びとしている契約の使者/見よ、彼が来る、と万軍の主は言われる。だが、彼の来る日に誰が身を支えうるか。彼の現れるとき、誰が耐えうるか。彼は精錬する者の火、洗う者の灰汁のようだ。彼は精錬する者、銀を清める者として座し/レビの子らを清め/金や銀のように彼らの汚れを除く。彼らが主に献げ物を/正しくささげる者となるためである。」

 

【真の過越の子羊】

キリストはメシヤ=救い主として神殿に来られました。そのメシヤは過越の時期にこられました。過越とはかつてイスラエルがエジプトで奴隷状態にあったとき、神はモーセを立てて約束に地に脱出させられます。脱出の夜、神はイスラエルの子羊を屠りその戸を玄関の門に塗れと命じられます。そうしないものに神のさばきが下されます。イエス・キリストはその過越の子羊があらかじめ示していたまことのメシヤとして来られました。そして、そのキリストの犠牲によって、イスラエルの罪は贖われます。あがなわれたものは罪の結果である死から免れ、神の国に至る特権を与えられます。

 

 過越はまさしくこのような神の救いのみわざを覚えるときでした。ところが、今どうなっているか。大半の巡礼者たちは神殿の庭の商売人との交渉で大騒ぎをしています。とてつもない多くの群衆がこのとき各地からエルサレムに来ます。一見すればユダヤの宗教の盛んさを見せつけるものです。実際それは見掛けの繁栄に過ぎません。いちじくの木が豊かな葉を茂らせているのと同様です。しかし、外見だけにとどまります。過越がどんなに盛大に守られていてもそこに神の赦しに対する信仰が欠けています。まさしく信仰の欠如がそこに見い出されます。キリストはこの信仰の決定的な欠落を見抜いておられるということができるのではないでしょうか。そして、そこには過越の祭が指し示している神の大いなる業(わざ)はかき消されています。これこそキリストが厳しい目で見られている問題の根源ではないかと思います。(おわり)


2015年11月08日 | カテゴリー: マルコによる福音書

2015年11月1日説教「実を結ばない者」金田幸男牧師

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聖書:マルコによる福音書11章
12 翌日、彼らがベタニヤから出かけてきたとき、イエスは空腹をおぼえられた。
13 そして、葉の茂ったいちじくの木を遠くからごらんになって、その木に何かありはしないかと近寄られたが、葉のほかは何も見当らなかった。いちじくの季節でなかったからである。
14 そこで、イエスはその木にむかって、「今から後いつまでも、おまえの実を食べる者がないように」と言われた。弟子たちはこれを聞いていた。

20 朝はやく道をとおっていると、彼らは先のいちじくが根元から枯れているのを見た。
21 そこで、ペテロは思い出してイエスに言った、「先生、ごらんなさい。あなたがのろわれたいちじくが、枯れています」。
22 イエスは答えて言われた、「神を信じなさい。
23 よく聞いておくがよい。だれでもこの山に、動き出して、海の中にはいれと言い、その言ったことは必ず成ると、心に疑わないで信じるなら、そのとおりに成るであろう。
24 そこで、あなたがたに言うが、なんでも祈り求めることは、すでにかなえられたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになるであろう。
25 また立って祈るとき、だれかに対して、何か恨み事があるならば、ゆるしてやりなさい。そうすれば、天にいますあなたがたの父も、あなたがたのあやまちを、ゆるしてくださるであろう。
26 〔もしゆるさないならば、天にいますあなたがたの父も、あなたがたのあやまちを、ゆるしてくださらないであろう〕」。



説教「みを結ばないもの」

聖書:マルコ福音書11章12-14、20-26

 

要旨 

【いちじくの木を呪われる主】

 ホサナと歌いながら大声で賛美する群衆と共にエルサレムに上られたイエス・キリストは、その夜はベタニヤ村に戻り、そこで泊まられます。そして、翌朝、再びエルサレムに上って行かれます。このたびは、人々を多数同行しているように思われません。翌日も続々と巡礼者たちはエルサレムに上って行ったはずですが、この日は、イエス・キリストが早朝に出発された可能性があります。

あるいは人に気づかれないように目立たずに出発されたのかもしれません。その途中キリストはひどく空腹をおぼえられました。キリストは木の葉が茂ったいちじくの木をご覧になられます。

 

ところがその木には実がつけられていませんでした。いちじくはだいたい6月ごろに実を結びます。イエス・キリストがエルサレムに上ろうとされたのは過越しの祭のときです。過越しは太陽暦で言えば3月か4月の中旬になります。実がなっているはずもないのですが、キリストはこの木に向かって「今からのち、いつまでもお前から実を食べるものがないように」と言われます。呪詛といってもよいことがらです。11:20を見ますとそこにはこのいちじくの木が根元から倒れ、枯れてしまっていたのでした。

 

 この物語の解釈はたいへん難しいとされています。その理由を三つ挙げたいと思います。

 

まず第一は、こんな奇跡はあるはずがないというものです。キリストは言葉を発しただけです。ところがその言葉が呪いとなっていちじくの木を倒してしまいます。単に言葉ひとつで奇跡が起こります。

 

第二に、キリストは意志も感情もない木に向かって語っておられます。しかも、その木が枯れてしまうという言葉です。あたかも人に向かって語っています。なんとも奇異に感じられるはずです。

 

そして、第三。イエス・キリストは、実を結ぶはずもない時期にその果実を要求しているように思われます。実際、実は夏にできるはずです。過越しの時期、3/4月のころに実を求めること自体無理難題というものです。イエスの言われていることはまったく常識外れです。道理に適っていません。以上の3点だけ挙げてもこの物語は矛盾だらけ、解釈が難しいところです。

 

【奇跡】

 奇跡そのものがありえないならば、この物語は読むに耐えない愚劣な話ということになります。奇跡などありえるはずがないという前提であれば奇跡はありません。あるかないかというだけならば、奇跡がないと信じている人に奇跡はあるはずもありません。しかし、奇跡は存在するかしないかの問題ではなく、認識の問題です。つまり、奇跡と認識するかしないかです。イエス・キリストは神の子であり、全能者の御子であれば、奇跡を行いうるお方です。とすれば、この前提に立ちさえすれば奇跡はありえます。起こりえます。

 

 第二の問題についてはどうでしょうか。イエス・キリストはしばしば譬え話を語られますが、そのとき、さまざまな植物を用いられます。旧約聖書もまた同じような譬えを用いています。

 

いちじくについては、ホセア9:10。「荒れ野でぶどうを見いだすように/わたしはイスラエルを見いだした。いちじくが初めてつけた実のように/お前たちの先祖をわたしは見た。」ここでぶどうの木もいちじくもイスラエルを表わしています。

 

ナホム3:12、イザヤ28:4、ミカ7:1などでもイスラエルはいちじくにたとえられます。イエス・キリストは実物をたとえに用いられていると見ることが出来ると思います。では何をたとえているのでしょうか。エルサレムにキリストは上って行こうとされています。そこにはヘロデ(大王)が建てた壮大な神殿が聳え立っていました。それは異教の神殿に匹敵するほど立派な建築物であったとされています。そこには多くの祭司が儀式を司っていました。特に過越しが近づき神殿はますます華やかな儀式が執り行われています。

 

そして、その神殿には各地から巡礼が大勢上ってきます。神殿は大賑わいでした。しかし、キリストが神殿で見たものは何であったのでしょうか。11:15-19に記されているように、神殿は商売人たちが商売をするとことなり、その喧騒でエルサレム神殿はどこかの市場と変わらなくなってしまっていたと思われます。どんなにたくさんの巡礼が遠くから上って来てもそこで行われている儀式は形式的なもの、人々は習慣として祭を行っているだけでした。過越しにおいて神がなされた救いのみわざのことは忘れられていました。このような当時のイスラエルの信仰は、いちじくの木と同じです。見かけは青々として茂る葉に覆われ、活気があるように思われます。しかし、それは外見だけであって、イスラエルの信仰の実態は何も実を結んではいないのです。そして、イエス・キリストに対しては何ら貢献できていないというべき状態です。

 

このいちじくの有様はイスラエルの現状を反映しています。実を結ばないいちじくの木は倒されるしかないように、主に対して不誠実、不真実なものは神にさばかれ、滅ぼされるしかありません。

 

 そして、第三のこと。この時期、実を結ぶはずもないいちじくが実を結んでいないから枯らし倒れさせるというのは理不尽ではないか。自然の理に反することをキリストは要求しているということになります。

 

【神を信じなさい】

 私たちは自然法則のもとに生きています。常識に沿って生きています。それが当然だと思っています。自然の道理に反することは起きるべくもないと思っています。しかし、キリストはありえないことを信じるように求められています。神を信じなさい。この物語の核心はここにあると言っても過言ではありません。キリストはその常識に反することを行われました。自然の理に適わないことを行われます。

 

 キリストの周囲にいた人たち、ここではキリストの弟子たちですが、彼らは信仰を求められたのです。この実を結ぶはずもない一時期が実を結ぶ。こんなことはありえないと思うのは当然ですが、信仰はその常識を超えます。ありえないと思い込んでいるのが私たちです。しかし、キリストはここでその常識が壊されるようにされています。

 

 信じるならば、ありえないこともありえます。

 23節以降は、22節と切り離して考えるべきだという解釈者がいます。23節以後は他の福音書に出てくるみ言葉でもあります。(マタイ6:13-14,7:7,17:20,18:19、ルカ11:9,17:6など)つまり、他の福音書の個所の聖句の羅列ということになります。しかし、なぜそんな言葉をこの個所でわざわざ急に羅列しなければならないのか理由がありません。

 

 むしろ、キリストは信仰を求められました。その信仰がいかなるものかを弟子たちにさらに語っておられると理解すればいいのだと思います。

 実のなるはずもない時期に実を結ぶ奇跡を信じることが信仰とされます。ありえないことがあると信じることが信仰です。私たちがいつも常識で考えている限り、あるいは日常がいつも繰り返しに過ぎないと思っている人には、そんなことは起こりえないと一蹴することばかりです。しかし、信仰はそれを乗り越えるものです。

 

 私たちはいつも普通の日常生活で満足しています。自然の理を歪めてしまうようなことはありえないと思っています。しかし、本当にそうだろうかと思います。私たちの常識を超えて何かが起こる。私たちはそのように私たちの生きている世界を見る必要もあるのではないでしょうか。

 常識では割り切れないことが多々あります。それを無視するか、あるいは信じるか。二者択一です。

 

【信仰の世界、信仰体験】

私たちは常識だけで生きられません。あるいは自然法則にのかっかってだけ生きているべきでしょうか。この世界にあるさまざまな法則にだけ流されている、そういう人生が人生でしょうか。そうではない。信仰の世界があります。信仰体験があります。山に移れ、海に飛び込めというとその通りになる。それが信仰です。そして、神の約束によれば信仰の通りになります。

 

【祈りはかなえられる】

 このあり方は祈りと共通します。祈りは単なる願望ではありません。祈りはかなえられるものです。実現すると信じて祈る、それが祈祷です。実際、その通りになります。祈り求めるとき、それが実現していなくてもその通りになると信じる、祈りに信仰が必要です。信仰のない祈祷ほど空しいものはありません。祈祷は神に実現を強制するものではありません。しかし、信仰のないところで祈りは成就するはずがありません。

 

【赦しという奇跡】

 そして、第三に赦しが続きます。これが信仰、祈祷とどう関係するのでしょうか。恨みを持っている人がいる。その恨みはなかなか忘れることはできません、まして、赦すなどできないことです。敵対している相手を愛することなどできません。それが普通であり、常識というものです。けれども、赦すことができる。本来私たちの心は変わらない性質を持っています。それが変わる。これは信仰と同じ類の精神であるはずです。心が変わる中に信仰も含まれています。何も信じられないとがんばっている人が信じることができるようになる。そこでは奇跡が起きています。それは信仰の領域に属します。

 

【み言葉の力】

 むろん、私たちは信仰を容易に持つことができず、必ずかなえられると信じて祈ることができず、まして、憎む相手を赦すことなどできるわけがありません。もう一度いちじくの木の物語を見なければなりません。キリストは葉が茂っていちじくの木を一夜で枯らしてしまわれました。むろんキリストは何も手を下したと記されてはいませんが、明らかにこの奇跡を行われたのはキリストですし、キリストのみ言葉には奇跡さえ起す力が含まれています。私たちはキリストのみ言葉を心に留めるときそこで何が起きるのか。キリストは生きて働いておられます。(おわり) 

2015年11月01日 | カテゴリー: マルコによる福音書

2015年10月25日説教「ホサナ、ダビデの子イエスよ」金田幸男牧師

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マルコによる福音書11章
1 一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山のふもとにあるベトファゲとベタニアにさしかかったとき、イエスは二人の弟子を使いに出そうとして、2 言われた。「向こうの村へ行きなさい。村に入るとすぐ、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、連れて来なさい。
3 もし、だれかが、『なぜ、そんなことをするのか』と言ったら、『主がお入り用なのです。すぐここにお返しになります』と言いなさい。」
4 二人は、出かけて行くと、表通りの戸口に子ろばのつないであるのを見つけたので、それをほどいた。
5 すると、そこに居合わせたある人々が、「その子ろばをほどいてどうするのか」と言った。
6 二人が、イエスの言われたとおり話すと、許してくれた。
7 二人が子ろばを連れてイエスのところに戻って来て、その上に自分の服をかけると、イエスはそれにお乗りになった。
8 多くの人が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は野原から葉の付いた枝を切って来て道に敷いた。9 そして、前を行く者も後に従う者も叫んだ。「ホサナ。主の名によって来られる方に、/祝福があるように。10 我らの父ダビデの来るべき国に、/祝福があるように。いと高きところにホサナ。」
11 こうして、イエスはエルサレムに着いて、神殿の境内に入り、辺りの様子を見て回った後、もはや夕方になったので、十二人を連れてベタニアへ出て行かれた。


説教「ホサナ、ダビデの子イエスよ」

聖書:マルコ11章1-11

 

要旨

【エルサレム入城を前に】

 イエス・キリスト一行はエルサレムに近づきます。オリーブ山はエルサレムの城壁から、キデロンの谷を隔てて東側に位置し、小高い山で海抜814メートル。エルサレムは海抜790メートルですから、ほぼ同じ高さの丘と言ってもいいでしょう。オリーブ山の東の麓にはベテファゲとベタニヤという村がありました。イエス・キリストはこれらの村を通過してエルサレムに入って行こうとされます。

 

【二人の弟子を遣わされた】

 キリストはその直前、二人の弟子をその村に送られましたが、その村はどちらであったか記されていません。ただベタニア村にはラザロ、マルタ、マリヤの兄弟姉妹が住み、ハンセン病患者のシモンの家もあり、キリストはそこで休息されています(マタイ21:17,26:6、マルコ14:3)。遣わされた二人の弟子がだれであったかマルコは記していません。

 

【だれも乗ったことのない子ロバ】

 キリストは二人の弟子に細かに指示をされています。用件はだれも乗ったことのない子ロバを用意することでした。キリストがその村にだれものったことのない子ロバがいたことをどうしていったのか。あるいはロバの持ち主がどうしてすぐにわけも聞かずロバを連れて行くのを許可したのか、マルコは詳細に記していません。キリストが予見する能力があったので、二人の弟子たちは障害なくロバを連れてくることができたのか、あるいは、キリストとロバの主人の間ではすでに了解済であったのか、詳しいことはここに記されていません。イエス・キリストがいわば遠目で先のことを知っていたのかもしれません。あるいはロバの主人公はイエス・キリストをよく知っていたのかもしれません。こういう問題は興味あるものには面白いでしょうけれども、この記事が訴えていることからするとあまり関係がありません。とにかく二人の弟子はキリストの言うとおりであったことに気がついています。

 

【なぜ小ロバか】

 二人の弟子はキリストのところへ子ロバを連れてきました。なぜ小ロバであったのか。ロバは今日、頭の悪い家畜であるとか、乗用ではあるが、高級な乗り物ではなかったという誤解があります。しかし、当時のユダヤ人の間ではロバはごく普通の乗り物でありました。身分の高いものはロバを使用しないなどということはありませんでした。

 

 なぜ、キリストはロバ、しかも子どものロバを所望されたのでしょうか。ロバは子どものときは人を乗せることはできません。成熟するまで人を乗せることができなかったのです。キリストはそのような間もなく乗用に供する若いロバを求められました。だれも乗ったことがない、それはこのロバが聖なる目的に用いられるためでした。キリストはご自身が聖なる目的でエルサレムに上って行こうとされます。だれも人を乗せたことのないロバが聖なる目的に用いられるのは相応しかったのです。

 

【預言を成就:見よ、あなたの王が来る・・雌ろばの子に乗って】

 それ以上にキリストは子ロバを用いられる目的がありました。ゼカリヤ書9-10をご覧ください。娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者/高ぶることなく、ろばに乗って来る/雌ろばの子であるろばに乗って。わたしはエフライムから戦車を/エルサレムから軍馬を絶つ。戦いの弓は絶たれ/諸国の民に平和が告げられる。彼の支配は海から海へ/大河から地の果てにまで及ぶ。」

 

 イエス・キリストはこの預言を成就するためにロバを求められました。ゼカリヤは間もなくユダヤにまことの王が立てられると期待していました。その預言を成就するためにキリストはエルサレムに入城する決心をされました。

 

【真に平和をもたらすメシヤ】

この場合、キリストはローマ帝国を打倒し、一大帝国を築くメシヤとしてエルサレムに入っていこうとされたのではありません。あるいは終末的な世界の救済者となるものでもありませんでした。ゼカリヤが預言するメシヤは平和をもたらすメシヤでした。キリストはゼカリヤの預言を成就するためにエルサレムに上って行こうとされています。平和の君としてエルサレムに上って行かれます。

 

【戦車でなく】

当時の勝利者、凱旋する軍隊の司令官は凱旋すると、二頭の馬に引かれた戦車の乗ってその勝利を誇示しました。あるいは人が担ぐ床几の上に乗って祖国に凱旋するのが普通でした。そこで用いられる家畜はロバではありません。イエス・キリストはご自身ゼカリヤの言うようにメシヤとしてエルサレムに上って行かれます。キリストは固くご自身がメシヤであると自覚されていたことを示します。ゼカリヤの預言は成就しなければなりません。ゼカリヤの言うとおり、軍人でもなく、卓越して政治家でもなく、そのような栄光を受けたメシヤではありません。キリストはロバに乗られます。キリストは決して当時の人々が期待するような働きでメシヤであることを知らされませんでした。ロバは普通の人が乗る常用の家畜でした。征服者でも、暴力で覇者になるのではなく、キリストは平和をもたらす救済者でありました。

 

【群衆は上着を脱いで、葉のついた木の枝を】

 二人が村に入るとイエス・キリストの言うとおりでした。ロバの所有者はすぐに応答します。ロバがキリストのところへ連れてこられます。弟子をはじめ人々がしたことが記されます。弟子たちは鞍の代わりにするために上着を脱ぎます。群衆は上着を脱いで、それを道路に敷き詰めます。さらに葉のついた木の枝を切ってきて道路に敷き詰めます。これらの行動は旧約に前例があります。

まず、列王記9:13です。この記事には預言者エリシャが油を注いでイエフが反乱を起す次第がすりされています。エリシャが油を注いで、イエフを王としたのですが、彼の家臣たちが上着を敷きます。いまでも国賓を迎えるとき、じゅうたんが敷かれます。じゅうたんはこのように身分の高い人を賛辞する行為です。ここではそのじゅうたんが即時準備できなかったので、部下たちが上着を敷物にしてイエフを王として迎えました。この故事に倣って、ユダヤ人はキリストをメシヤとして受け入れようとしています。

 

イエフは革命家と言ってもよいでしょうか。ヨラム王に反抗して王位を確保します。イエフを王としようとした人々はこのように急遽じゅうたんを確保できなかったので上着を敷物にしたのですが、この行為はイエス・キリストにおいても繰り返されました。葉のついた木の枝も道路に敷かれます。これも過去のユダヤ人の行動を反映しています。

 

【マカバイ家のシモン】

マカバイ第一、13:51に記されていることですが、紀元前142年ごろ、ユダヤは隣国で強力な力を持っているシリアと戦います。シリアのほうがむろん軍事力では強力であったと考えられます。しかし必死の戦いで、マカバイ家のシモンはシリアからの独立を樹立します。シモンがエルサレムの神殿の近くにある要塞まで登っていくとき、葉のついた木の枝が道路に敷き詰められたのでした。それは棕櫚に気でした。棕櫚の木はエリコのような熱帯性気候の地域ではよく育ちます。人々は棕櫚の木などを切ってきて道路に敷いたのでした。

 これらの記事から分かりますが、人々が求め願ってきたメシヤはユダヤを軍事大国にしようとするメシヤに他なりません。旧約にあったように革命を引き起こし、暴力によって統治しようとするメシヤが期待されていました。

 

【ハレル詩編歌】

 さらに、人々は詩編118;25-26を歌ったと記されます。詩編113-118はハレルの詩編歌といい、仮庵の祭り、過越しの祭といった大きな祭のときエルサレムに上って来る巡礼がこの詩編を歌いました。巡礼を待ち構える神殿の祭司の聖歌隊がこの詩編を歌い、群衆もその詩編で応答しました。この詩編はエルサレムに上っていく人々がメシヤの到来を期待したのです。その詩編は今まで慣習的に歌われていましたが、いまやその歌と共にメシヤがエルサレムに上っていこうとしていると人々は考えたのでした。

 

【ホサナ「今、救ってください」】

 人々はホサナと歌ったとあります。ホサナとは「今、救ってください」という意味ですが、この語は神讃美に用いられるようになっていました。メシヤの到来を喜び讃美する詩編と思われていました。

 このあとキリストは神殿を見てまわり、遅くなったので、ベタニや村に戻っていかれました。

 この記事はイエスのエルサレム入城のことであり、とても華やかな光景とも思えます。棕櫚の日は教会カレンダーでは受難週の開始を告げる、教会行事にはなくてならない大事な日として記憶されました。子どもの聖書物語ではこの場面はイエス・キリストの栄光のみ姿に描かれます。

 

【メシア理解:キリストと群衆の大きな隔て】

 けれども、よく考えてみると、キリストと群衆の理解には大きな隔てがありました。齟齬があったというべきでしょう。あくまで群衆はこの世界に大きな変革をもたらすメシヤを期待していました。ところがキリストはそういうメシヤではありません。

 

 キリストを正しく完璧に理解できるのでしょうか。私たちのキリスト理解ははじめから完全ではありません。その反対です。ここの登場する群衆は過越しを都で守ろうとする巡礼ですが、彼らはもう少し時間が経つと「十字架につけろ」と叫び出す人々です。あまりにも格差があります。

 キリストを正当に理解していない、そのためにキリストを十字架につけてしまいました。無知が解決されず、キリストを十字架に追いやるものたちとなります。

 

 はじめからすべての人がキリストを理解しているわけではありません。時間はかかりますが、キリストを理解することは肝心なことです。次第にキリスト理解は異なっていきます。

 私たちもそうです。何もかも正確にキリストのことが分かっていなくてもいいのです。短期間でキリストのことを完璧に知ることなど不可能なことです。それでもいいのです。徐々にキリストを理解していく。それが肝心なことなのです。

 


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2015年10月25日 | カテゴリー: マルコによる福音書

2015年10月18日「行け、あなたの信仰があなたを救った」金田幸男牧師

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マルコによる福音書 10章46~52節
46 それから、彼らはエリコにきた。そしてイエスが弟子たちや大ぜいの群衆と共にエリコから出かけられたとき、テマイの子、バルテマイという盲人のこじきが、道ばたにすわっていた。47 ところが、ナザレのイエスだと聞いて、彼は「ダビデの子イエスよ、わたしをあわれんでください」と叫び出した。
:48 多くの人々は彼をしかって黙らせようとしたが、彼はますます激しく叫びつづけた、「ダビデの子イエスよ、わたしをあわれんでください」。
:49 イエスは立ちどまって、「彼を呼べ」と命じられた。そこで、人々はその盲人を呼んで言った、「喜べ、立て、おまえを呼んでおられる」。50 そこで彼は上着を脱ぎ捨て、踊りあがってイエスのもとにきた。
:51 イエスは彼にむかって言われた、「わたしに何をしてほしいのか」。その盲人は言った、「先生、見えるようになることです」。52 そこでイエスは言われた、「行け、あなたの信仰があなたを救った」。すると彼は、たちまち見えるようになり、イエスに従って行った。


説教「行け、あなたの信仰があなたを救った」

聖書:マルコ福音書10章35-45

 

要旨

【エリコという町】

  イエス・キリストとその一行はエリコという町の到着したとあります。エリコはヨルダン川が流れ込む死海の北11キロ、ヨルダン川からは西に9キロ、エルサレムからは東北23キロの、高地の麓に位置し、地中海から海抜250メートルで気候は熱帯に属します。現代でもヨルダンの首都アンマンからの主要道の沿線にあります。紀元前8000年紀には人が住んでいたとされ、古い都市で、旧約聖書にも何度も登場します。例えば、ラハブの物語(ヨシュア記5:13-6;27)に舞台として有名です。新約聖書の時代では、ヘロデ大王が冬の宮殿を建設し、とりで、あるいは競技場などを建てていました。福音書でも、よきサマリヤ人のたとえ(ルカ10:30)、ザアカイの話(ルカ19;1)の舞台でもありました。

 

【バルティマイという盲人】

イエス・キリストはエリコからエルサレムの上って行こうとされます。都上りというだけではなく実際、丘の上にある町、エルサレムへは上り道でありました。多くの群衆も一緒であったことが分かります。彼らは過越をエルサレムで守ろうとする各地から登ってきた巡礼です。そのエリコの道路わきにバルティマイという目が見えず、物乞いをしている人物が座っていました。古代世界では障がいのある人々の多くは物乞いをして命を保っているという場合が多かったのです。からだに障がいがあるだけでも苦しみを負わなければならないのですが、彼の場合は人に慈悲に頼って生きていかなければなりませんでした。それは苦痛であり屈辱であったに違いありません。

 

バルティマイという名前が記されています。このことはマルコが福音書を書くとき、その資料にバルティマイの名があったということでしょう。それはマルコが執筆したときバルティマイの名はキリスト者の間でよく知られていた可能性があります。バルティマイ自身がその経験をマルコに語ったかもしれません。つまり、マルコが福音書を書いていたとき、彼も教会に属していたのかもしれません。とすればこの記事はたいへん信憑性があるということになります。

 

【「ダビデの子、わたしを憐れんでください」】

バルティマイの前をキリスト一行が通り過ぎていこうとしていました。彼はイエス・キリストのことを聞いていました。道路際で毎日座って通行人に物乞いをしていたのですから、うわさを聞いていた可能性はあります。ガリラヤで大きな働きをし,奇跡を行い、み言葉を教えていたという話を何度も聞かされていたかもしれません。彼は前をキリストが通過していくと感じ、大声で「ダビデの子、わたしを憐れんでください」と叫びます。

 

「ダビデの子」とは単にダビデの子孫という意味ではありません。当時はメシヤ=救済者はダビデの子孫から出てくると信じられていました。今日もユダヤ人はメシヤが来ると信じていますが、ダビデの子孫であるとは限っていません。バルティマイがこのように叫んでいたのですが、周囲の人たちは黙らせようとします。なぜ黙らせようとしたのか。「ダビデの子」という名称を叫ぶことは危険でありました。ローマに反抗する政治的指導者は、ダビデの子が反旗を掲げると信じられていました。ローマ帝国はローマに対する反抗を極度に警戒していました。ダビデの子など叫べば騒乱が起きかねません。あるいは、イエスがメシヤなどであるはずがないと思っている群衆もたくさんあったはずです。バルティマイの叫びは彼らの思いを逆なでするものです。不快な思いをさせられたくないように、沈黙させようとしたとも受け止められます。

 

バルティマイを静かにさせようとして、それは逆効果となります。目が見えないだけにそれだけに言うことを聞きません。黙らせようとすればするほど大きな声で叫んだのだろうと思われます。その声はキリストに達します。

イエス・キリストは立ち止まります。そして、バルティマイを近くまで来させようとされました。人々はバルティマイに「立ちなさい」と申します。目が見えませんのに、彼は上着を脱いで、踊りあがってキリストのところに駆け寄ります。上着はふだん物乞いのとき敷いていたかもしれません。彼はそれをはおり、それから脱ぎ捨てます。こういう描写はたいへんリアルに聞こえます。つまり、バルティマイは自分の体験をそのまま語れます。イエスが呼ばれたことに大きな喜びを感じ、上着を脱いで、と表現します。からだ中で喜びを表しています。

 

【何をして欲しいのか】

キリストは何をして欲しいのかと尋ねられます。キリストはこのように問われる前からバルティマイの心をご存知です。私たちは以心伝心を好みます。しかし、キリストは私たちが率直に心の中にある思いを言葉にすることを求められます。あえて尋ねられるのはキリストが知らないからではなく、むしろ、個人的な深い関わりを求められるからです。祈る前からキリストは私たちの必要を不ご存知なのですが、私たちに祈れと命じられるのもこのためです。私たちは信頼してキリストに私たちの不足を申し上げ、願いをはっきり言葉にする必要があります。そこまでキリストは求めておられます。親しい関わりこそキリストが求められるのです。私たちはともすればこんなことを求めても恥ずかしいとか、くだらない、つまらないとか考えます。これも同様です。キリストは私たちの心の中を率直に申し上げることを願われます。

 

【目が見えるように】

バルティマイの言葉はどういうものだったでしょうか。そのものズバリ、「目が見えるようになることです」といいます。あまりにも単刀直入で読んでいるものには戸惑いを覚えさせられます。もっと別の言い方があってもよさそうと思うのです。心に平安を、とか、気持ちを穏やかにして欲しいとか、あるいはできうれば、とか。バルティマイはそんな言葉の修飾をしません。彼にとって目が見えないことこそ人生の苦悩をもたらす原因です。これさえなければ、といつも思っています。だからそれが解決することが最大の願いです。

 

【あなたの信仰があなたを救った】

あまりにも率直で、だから粗野と感じるかもしれません。イエス・キリストはバルティマイの願いを退けられたでしょうか。そうはされませんでした。「あなたの信仰があなたを救った」そして、バルティマイの目は見えるようになったと記されています。

私たちはしばしば他人の目を気にします。あるいは人の言っていることに心が塞がれてしまい、こんなことをお願いしても聞かれるはずがないと合点してしまうのです。あるいはこんなことを願っても神様ご自身もためらわれるに違いないと判断してそれ以上のことを停止してしまうのです。

 

果たしてバルティマイの言動は信仰に値するか。イエス・キリストはバルティマイの思いを信仰と認め、その信仰が彼を救ったというのです。

バルティマイの信仰は無知と紙一重です。彼はキリストについて明確に理解をしていたわけではありません。その逆です。殆ど何も知らないのです。ところがキリストはバルティマイの言動を信仰と認められています。これは驚きです。信仰は多くの相応しい知識、敬虔さ、立派な言動、宗教生活があってこそだと思われています。少なくとも疑いとか粗野さとか、無知などは信仰的ではないと思われています。

 

【信仰、希望、愛】

信仰とは何か。バルティマイが示したものは、ただ「期待」に過ぎないと言っても過言ではありません。あるいは希望です。

パウロは信仰、希望、愛という三つの言葉の組み合わせを好みます(1コリント13:13、ガラテヤ5:5-6、1テサロニケ1:3など)。使徒パウロのトライアングル(三角形)とも言われます。これは信仰は希望、あるいは愛という意味だと思います。信仰とは何か。結局希望を抱くことだと思います。

 

私たちの生きているこの時代、失望、絶望の時代ということができるかもしれません。現実問題が大きすぎてとても望みを置けないと思わせられます。だからこそ信仰は希望なのです。希望できないように私たちを押させつけるもの、例えば常識、あるいは科学的精神、この世界の風潮、小学校から教えられているような薄っぺらい宗教心、そういうものが希望をくじこうとします。だからこそ、私たちは希望を持つのです。神が希望となってくださる。これこそ信仰です。

 

バルティマイの信仰など薄っぺらいものだと考えても当然です。彼の信仰などたいしたものではありません。私たちの信仰も同じです。疑いと不信仰が同居しているような心情をいつも心に抱いています。信仰を自己評価して100点満点などという人はまずはいないでしょう。ところがイエス・キリストはそれがあなたの信仰だといわれ、その信仰のゆえにバルティマイの目を見えるようにされました。

 

【奇跡を起こす信仰】

奇跡など起こるはずもない、と私たちは思い、希望を失います。希望のない信仰は所詮生命力を持ちえません。希望を持てないところでこそ神に願い、神に実現の希望を託す。これこそ信仰というべきものです。

 

【イエスに従う愛】

そして、信仰は愛と言えます。バルティマイは目が見えるようになり、それで信仰が完結したのではありません。彼はイエスに従っていきます。その後、キリストと共にエルサレムに上っていったのかそうでないのか何も知ることはできません。しかし、彼は従いました。服従は自発的である限り、キリストを愛する結果です。信仰は愛でもあります。キリストに喜んで従い、キリストの弟子として振舞う。これこそキリストを愛する行動です。

バルティマイはこのように使徒パウロのトライアングルよろしく、イエス・キリストを信じ、キリストに希望を抱き、またキリストを心から愛しました。私たちの倣うべきところです。(おわり)


伊丹教会臨時会員総会(金田牧師協力牧師の任期延長の件)2015年10月18日午後1時30分~  伊丹教会会堂にて


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2015年10月19日 | カテゴリー: マルコによる福音書

2015年10月11日説教「聖書人の死から学ぶ」金田幸男牧師

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説教「聖書人の死から学ぶ」金田幸男

 

聖書:創世記23章1-4

 

要旨

 創世記には一見すると荒唐無稽、到底現代人の感覚では受けいれられないような記事がたくさん記されています。しかし、創世記には現代社会の仕組み、問題の発端、諸課題の解決の糸口について多くの示唆を与えてくれる記事が満載されています。

 

聖書から演繹的に真実を引き出す聖書の読み方こそ今日きわめて重要だと思います。ともすれば聖書を現に遭遇している問題解決のためだけに読んでしまう読み方をしているのではないかと思います。確かに聖書はさまざまな問題に対して答えを提供してくれます。ただそれだけでは聖書はその都度対処方法を示すだけになってしまいます。

 

【旧約聖書】

聖書はもっと根本的な原理原則を示し、その上で私たちは問題の本質を見抜くことができます。旧約聖書は、特に創世記は夫婦、家庭、そして、社会、国家の原型を示します。また、創世記は労働の価値、犯罪、法、諸制度、あるいは人間存在の起源、生と死などの問題にもさまざまなあり様を示します。

 

【創世記は、人間の死について語る】

 創世記は、人間の死について語ろうとします。特に人間はなぜ死ななければならないのか、どうして死ぬべきものとなったのかを語っています。死の問題はだれも避けたいと感じます。死を扱うなどとは不吉だというのです。誰も死を避けることはできません。特に親しいものの死に直面したとき、あるいは大病などをして死にかけるというような経験をしたとき、誰も死を自分の問題とするはずです。そのとき、死はどうして人間世界に入り込んできたのか、死は回避できないのか、考え、できないゆえに絶望し、あるいは激しい憤りをおぼえるものです。

 

【人間の創造と罪の結果・死】

 聖書、創世記は何を語るでしょうか。創世記1章27,2章7で神は人間を創造され、いのちの息を鼻に吹き入れられたと記されます。人間はこうして生きるものとなります。ところが、創造された人間は神の命令を破り、神に並び立とうとします。これこそ罪と呼ばれるもので、その結果、人間は塵に帰るものとされます(創世記3:19)。罪の結果死が入り込みます。

 

死の原因は神が命を取り去るからであり、そうなったのは神への反抗のせいです。人が死ぬのは神が死を賜ったからに他なりませんし、その原因は神への反抗心にあります。この罪がもたらした死をいかにして解決するのか。これこそ聖書の主題といっても過言ではありません。聖書は一貫してこの罪と罪がもたらした死の問題に取り組み、解決策を示します。キリストとキリストの十字架の死による贖いこそ答えなのです。

 

【人は生まれ、死ぬ/創世記5章】

 創世記5章をご覧ください。ここにはアダムの子孫の系図が記されますが、ここに記されるのは、人は生まれ、そして、死ぬということで共通しているという事実です。きわめてありふれた事実ですが、これは真実です。人間は死ぬべきものに過ぎないのです。人生はいろいろな経験があります。人は決して他の人の人生を生きることはできません。偉業を成し遂げ、それが後世まで語り伝えられるという人もいます。しかし、それはきわめて少数、例外です。ところで、この創世記の記事は人は生まれ、そして死ぬだけと語ります。どんな偉業を残したと思われる人も所詮は生まれ死ぬだけなのです。これがアダムの子孫のありのままの姿です。それは今日でも共通です。人は墓碑にその人生を記録できません。大半の人にとっては、記録できるには生まれた日、死んだ日だけなのです。

 

【アベルの死/人類最初の死】

 創世記4章には最初の人類の死のことが記されます。創世記4章8にはアベルの死を告げますが、この死が人類最初の死に他なりません。ところがその死は殺人による死でした。不本意な、理不尽な、無残な死でした。アダムの死がもたらしたおそろしい現実でした。

 

 創世記は5章までが第1部といえるでしょうが、そこに記されていることは見方によれば死人ばかりです。死が累々と折り重なっています。創造された人間を共通に襲うのは死でした。6章以下でノアが主人公となります。ここで記されていることは何か。大洪水の記事です。それによってノアの一族以外、すべてが死に絶えます。ここにも大量の死者が報告されます。自然災害ではありますが、神の前に悪を積み重ねた人類を襲う神のさばきに他なりません。

 

 ノアの時代の人々は死に絶えます。数え切れない人の死がここでも記されます。創世記はこれでもかこれでもかと人間の死を記録しています。創世記を読めば必ず死に直面させられます。回避できない現実です。

 

 創世記にはいろいろのことが記されますが、一貫して死を扱っていると見ることができましょう。すべてを吟味できたわけではありませんが、死の問題を避けて通ることができません。創世記を読み、死の問題に直面させられないような読み方は不完全ではないでしょうか。

 

【エノク】

(他に、エノクのことも触れなければなりません(創世記5章21-24)。エノクは他の人と比べて短命でした。しかし、彼は神と共に歩み、最後は神が取られてしまいます。短命であることがすなわち不幸だとか不運だとはいえません。その人生が神と共に歩む人生であるかどうかこそが問われます。長く生きることが幸いであり、短命は不幸だと単純にはいえません。長寿社会となってますますそれがよく分かります。ただ単に長く生きることを長寿とは単純にいえなくなってしまったのです。エノクの姿が見えなくなったことは姿を消したというだけではなく、むしろ、神に早く受けいれられたことを表しています。また、死を味わうことがなかったという意味でもあるとされることもあります。エノクは短命でありましたが、それが直ちに不幸だとか不運だと決めることもできません。)

 

【アブラハムと妻サラの死】

 創世記11章27以下ではアブラハムが主人公となります。アブラハムこそイスラエルの祖なのです。そのアブラハムも死に直面しています。23章1-20ではアブラハムの妻サラの死が記されます。信仰の人アブラハムは最も親しいものの死を味わうのです。自分の死の問題だけではなく、私たちは最も親しいものの死も経験することになります。アブラハムはそのとき妻を葬る土地を持ちませんでした。妻に遺体の傍らで嘆き悲しみます(23章2-3)。死は悲痛な思いをもたらします。そしてそれに耐えなければなりません。それが死の現実です。アブラハムは妻の墓地のためにヘトの人と交渉し、高額を支払いようやく墓所を確保します。葬りのためにアブラハムは大きな苦労をしなければなりませんでした。死は大きな悲しみ、そして、途方にくれることを経験させます。アブラハムは暗い思いとそれにもかかわらず生き残ったものの義務を果たします。

 

【息子イサクを献げる】

 彼はもう一つの死にも直面します。創世記22章には、神がイサクを焼き尽くす献げものとして殺害せよと命じられます。これはまったく理不尽な命令です。死はしばしばわけの分からない、理にそぐわない事態を招きます。神がそんなことを命じるとは、と誰もが思います。しかし、死は多くの場合、理不尽で、あってはならないことです。死は不条理であり、過酷な苦悩をもたらします。一体誰が絶えられるでしょうか。ところがアブラハムは神の命令に従います。ときには、人はいやおうなくこのような事態に追い込まれるものです。アブラハムはこのような理不尽な神の命令に反抗することをしていません。むしろ神の命令を守ろうとします。私たちも不条理で理不尽な死を経験しなければならないことがあります。そのとき私たちは神に対しても激しく憤ります。そうせざるを得ないのです。それが普通のことです。アブラハムも同じように思ったに違いありません。神はどうされたのでしょうか。代わりに雄羊が屠られ、イサクは解放されます。死は理屈に合わない悲しみをもたらします。人はその悲哀に耐えがたくなります。そのとき、神は身代わりを備えてくださり、そこから救い出されます。

 

【イエス・キリストの贖い】

神は私たちが罪のゆえに滅ぼされるべきにもかかわらず、イエス・キリストを送り、その死によって私たちを死の縄目から解放してくださいます。イサクは助けられました。それは死からの救出です。神は私たちには不条理である死からキリストによって贖い出してくださいます。これは信じがたいほどの神の壮大な救いのみ業です。アブラハムはこのように死を経験しますが、ついに彼自身も死ななければなりませんでした。

 

【満ち足りて死んだアブラハム・イサク】

 創世記25:7に、アブラハムは長寿を全うし、「満ち足りて」死んだと記されます。さらにその子イサクについて創世記は「高齢のうちに満ち足りて死んだ」と記します(35章29)。アブラハムもイサクも死を迎えなければなりませんでした。しかし、彼らの死は「充実した」死でした。死に充実などありえるのかと思われる方もあるでしょう。なぜ充実した死というのでしょうか。むなしい死でありません。それは約束の地カナンで、神がアブラハム、イサクの神であり続けられたからです。

 

【ヤコブ・ヨセフの死】

ところが、ヤコブについては創世記49章29でこの「満ち足りた」死を記していません。また、ヨセフについても同様です(創世記50:26)。これはどうしたことでしょうか。考えられることはヤコブもヨセフも約束の地カナンで生涯を終えることができなかったことと関係があるのではないでしょうか。二人ともエジプトで死にます。ヤコブの遺体はアブラハム、サラの葬られたマクペラの地まで移送されますが、亡くなった地は約束の地ではありませんでした。ヨセフも同様です。神がアブラハムに約束された地こそ祝福に満ちた御国を予表するものです。満ち足りたというのは単に精神状態がそうであったというだけではなく、神の約束に包まれた地、神が臨在しているところであると考えられます。それこそが満ち足りているところなのです。私たちもまたこの充実した死を経験したいものです。(おわり)



2015年10月11日 | カテゴリー: マルコによる福音書

2015年10月4日説教「仕える者が一番偉い」金田幸男牧師

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説教「仕えるものが一番偉い」

聖書:マルコによる福音書10

35 さて、ゼベダイの子ヤコブとヨハネとがイエスのもとにきて言った、「先生、わたしたちがお頼みすることは、なんでもかなえてくださるようにお願いします」。36 イエスは彼らに「何をしてほしいと、願うのか」と言われた。37 すると彼らは言った、「栄光をお受けになるとき、ひとりをあなたの右に、ひとりを左にすわるようにしてください」。38 イエスは言われた、「あなたがたは自分が何を求めているのか、わかっていない。あなたがたは、わたしが飲む杯を飲み、わたしが受けるバプテスマを受けることができるか」。39 彼らは「できます」と答えた。するとイエスは言われた、「あなたがたは、わたしが飲む杯を飲み、わたしが受けるバプテスマを受けるであろう。40 しかし、わたしの右、左にすわらせることは、わたしのすることではなく、ただ備えられている人々だけに許されることである」。

 

41 十人の者はこれを聞いて、ヤコブとヨハネとのことで憤慨し出した。42 そこで、イエスは彼らを呼び寄せて言われた、「あなたがたの知っているとおり、異邦人の支配者と見られている人々は、その民を治め、また偉い人たちは、その民の上に権力をふるっている。43 しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。かえって、あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、仕える人となり、44 あなたがたの間でかしらになりたいと思う者は、すべての人の僕とならねばならない。

 

45 人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためである」。

 

要旨

【仕える者になりなさい】

 イエス・キリストはエルサレムに上って行こうとされる時、エルサレムで経験される苦難と復活を予告されました。これは第三回目の予告です。2回目の予告のとき、その直後で弟子たちは一番偉いのは誰かと議論をしました(9:30-32)。そのときキリストは「一番先になりたい者はすべての人のあとになり、すべての人に仕える者になりなさい」と教えられました。

 

【ゼベダイの子ヤコブとヨハネ】

3回目の予告のあとまた同じことが起きています。ゼベダイの子ヤコブとヨハネが進み出ました。お願いしたいことがある。是非叶えて欲しいと言います。このマルコの記事と平行しているマタイ福音書20章20ではその母がイエスにお願いをしたとありますけれども、二人の兄弟にとっても強い願いであったことは確かです。

キリストは「どんな願いか」尋ねられます。二人がストレートに言わなかったのはその申し出がどんなに重大か分かっていたからでしょう。「あなたが栄光を受けるとき、あなたの右と左に座らせてください。」右と左は真ん中に立つものの側近となることを意味しています。そして、彼らは、イエスがエルサレムに上っていき、そこで「栄光を受ける」と思っていたことを示しています。

 

栄光を受けるときの具体的な内容をマルコは記していません。しかし、栄光を受けるとはエルサレムで大きな力を獲得すると理解していたことは確実です。イエスが王であるメシヤとして権力を獲得すると考えていたかもしれません。あるいは、終末の時代が来て、メシヤであるキリストは天変地異と共に世界を一変させ、その王座に座る偉大な人間を想定していたかもしれません。イエス・キリストは病人を癒し、悪霊を追い出し、自然に圧倒する力を発揮されました。そのようなことをなさるキリストですから、その目撃者である弟子たちにはエルサレムでキリストが大きく表されると期待しても少しも不思議ではありません。キリストはエルサレムで驚くべきみわざをなされる。弟子たちはそれを期待しました。

 

 ヤコブもヨハネも今先ほど語られたエルサレムでのキリストの苦難の予告を全然理解していなかったことだけは確実です。これほど明確にキリストはエルサレムで経験する受難を語られたのですが、弟子たちはそのキリストの言葉を理解できていませんでした。弟子たちの念頭にあったことがキリストの予告の真意理解を妨げたのでした。

 

 キリストは二人に言われます。まず、あなた方は何を願っているのか分かっていない。つまり、自分の言っていることが分かっていないという意味です。そして、わたしが飲む杯、わたしが受ける洗礼をあなた方も受けることができるかと問われます。キリストはエルサレムで苦難を受けられます。それは律法学者や祭司長たちに裁判を受けさせられ、異邦人の手に渡され、侮辱され、ついに処刑されるという苦難です。キリストはエルサレムで受ける苦難を「杯」と「洗礼」と言い換えられます。そして、この二つの言葉は旧約聖書に慣れ親しんでいるものにはよく聞く言葉でした。

 

【杯】

まず杯ですが、詩編75篇9を挙げたいと思います。すでに杯は主の御手にあり/調合された酒が泡立っています。主はこれを注がれます。この地の逆らう者は皆、それを飲み/おりまで飲み干すでしょう。」調合された酒とは劇薬が混ぜられているぶどう酒のことで、酒と一緒に飲めば効果は早く、また確実に効果が出るようになります。主のみ手に毒薬の入った杯があります。それを主に逆らう罪人が仰ぎ飲めば必ず死に至るのです。そのように主は敵対するものをさばかれます。その他、イザヤ51:17、エレミヤ49:12、エゼキエル23:31-34を参照にしてください。

 

【洗礼】

洗礼は、ここではキリスト教の礼典である洗礼を指しているのではありません。水を注ぐことを指しています。旧約聖書において、頭上から大水が注がれることを指しています。詩編69篇2-3「神よ、わたしを救ってください。大水が喉元に達しました。わたしは深い沼にはまり込み/足がかりもありません。大水の深い底にまで沈み/奔流がわたしを押し流します。」洪水が起こり、激流が押し迫り、あらゆるものを押し流していく災害が描かれています。死が待ち構えています。   その他詩編18篇17も参照してください。大水は神の懲らしめ、そこから救い出されるようにとの叫びが発せられます。キリストはエルサレムで杯、大水が示す大きな苦難を忍ばれます。

 

 そして、二人に、あなた方自身も栄光ではなく、それ(杯と洗礼)を受けることができるかと問われます。ヤコブとヨハネは受けることができると平然と語ります。むろん彼は何を言っているのか分かっていません。キリストは二人がご自分と同じ苦難を受けるだろうと明言されます。それが何を意味しているかまだ誰にも分かっていません。さらにキリストはみ国が完成したとき二人がどのような位置を占めるかについても、それは父なる神だけがご存知であると言われました。それはみ父の専権事項なのです。私たちは何事も自分の思い、発想でことがなると思いがちです。しかし、キリストはみ父だけが実行できる事柄に委ねておられます。私たちはキリストがそうされたようにあらゆることを神にお任せすることが求められます。人間の運命に関してキリストはいっさいはみ父の御心の中にあると語られます。それは今でも同じことです。私たちの将来、定め、行くべき道は神が定められます。私たちはその神の意志に委ねること、それが信仰であると思います。

 

【他の10人の弟子たち】

 41節以下を見ます。他の10人の弟子たちが登場します。彼らは憤慨をしています。だれが一番偉いのか議論をした彼らにとってまだまだその関心事は弟子たちが受ける高い地位に関するものでした。イエス・キリストからすでにキリストの弟子たちの中ではだれが一番偉いのか教えられていました。しかし、弟子たちはなおも分かっていません。誰が一番偉いのか。イエス・キリストは間もなくエルサレムにメシヤとして入城されます。そのときだれが権力を掌握するのか。

 キリストは異邦人の中で通用している考え方を指摘されます。異邦人、外国人の問題だけではありません。ユダヤ人も異邦人も関係なく、この世界の人々が何を求めているのか明らかにしておられます。一言で言えば偉くなりたいということです。それは権力を握る、力を獲得することを意味しています。

 

【世的権力】

 人間はだれでも力を得たいと思っています。力は政治的権力が一番分かりやすいでしょう。政治家はこの権力を独占するために悪戦苦闘をします。偉い人間とは権力を掌握するものだと思われています。現在は独裁者が権力を掌握するという事例はたいへん少なくなりました。むろんないわけではありません。ただ民主主義の時代でもだれもが権力あるいは覇権といった力を希求します。力は政治権力だけではありません。軍事力も具体的な力です。諸国間で軍事力の強大化が願われます。今日では力はお金の力でもあります。そして、私たちが知るのはこの力はときに抽象的である場合も多いのです。学歴、出身学校、あるいは、地位という力もあります。抽象的といえば芸術をはじめ文化的な力というものもあります。その力は他を支配する力ともなります。

 

力そのものは悪でも何でもありませんが、その力を行使する人間の本質、罪が作用する時、その力がもたらすものは残酷な結果、悲惨な結末となります。それは言葉では言い表せないような惨事にもなります。なぜそうなるのか。あきらかに、それは罪の結果です。人間の罪性が力と結びつくときにその結果は見るに耐えないものとなります。

 

【仕える者・しもべとなれ】

 キリストは弟子たちの間ではそのような権力志向であってはならないといわれます。むしろ、あなた方の間では偉くなりたいものは仕える者に、上の人になりたい者はしもべとなれと命じられます。これは常識に反する教えです。

 

 しかし、私たちはこのキリストの教えを悟りません。逆に世間で通用する原理や原則を教会に導入しようとします。逆説的な立場は受け入れがたいものではあります。社会で通用しないことがありますと、だから教会は時代遅れだとか世間を知らないと批判する人がいますが、そもそもキリストは世間では通用しないことを真っ向から教えられる方です。教会でこの逆説を実行しようとするとまずは不可能という反応が生じるはずです。確かに世間で通用しない原則を実践することはほぼ不可能ですが、どうすれば可能となりますか。

 

【人の子】

 キリストはご自身が模範となられました。45節は今日学ぶマルコの福音書のクライマックスです。人の子は・・とキリストは言われますが、これは1人称「わたし」の代用ではありません。この言葉が用いられるときはキリストがまさしくメシヤ、救世主であることを厳かに宣言する場合です。キリストはご自身を「身代金」と表現されます。

 

【身代金】

これは本来、奴隷を買い戻すお金を指します。キリストは罪の奴隷状態に陥り、その結果神から離れ去り、神のさばきに値するもののためにご自身を身代金となられました。私たちは罪の奴隷です。その買戻しのためには多額の身代金を要します。私たちの場合、いのちという代価を払わなければ罪とその結果である死から解放されることはありません。そして、私たちは今やキリストが支払ってくださった代金で買い戻され、自由にされました。

 

 キリストが私たちのために最も低いものとなり、仕えるものとなり、しもべとなられました。これをキリストは実践してくださいました。私たちはキリストのようにとてもなれないように思われます。人間的にはそのとおりです。できるわけがありません。不可能なことをどうしてできるでしょうか。しかし、私たちは知ります。キリストが実行した方です。その実行力を私たちにも聖霊なる神によって可能としてくださいます。私たちにとってそれは信じるべき事柄です。(おわり)

2015年10月04日 | カテゴリー: マルコによる福音書

2015年9月27日説教「キリストの死と復活の予告」 金田幸男牧師

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説教「キリストの死と復活の予告」

 

聖書:マルコによる福音書10章32-34

:32 一行がエルサレムへ上って行く途中、イエスは先頭に立って進んで行かれた。それを見て、弟子たちは驚き、従う者たちは恐れた。イエスは再び十二人を呼び寄せて、自分の身に起ころうとしていることを話し始められた。

:33 「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して異邦人に引き渡す。

:34 異邦人は人の子を侮辱し、唾をかけ、鞭打ったうえで殺す。そして、人の子は三日の後に復活する。」

 

要旨

 イエス・キリストはエルサレムに上って行かれます。エルサレムはユダヤ人の都、そこに神殿が聳え立っていました。イスラエルの宗教、政治、文化の中心でもありました。キリストは先頭に立ってどんどんエルサレム方向に足を向けられます。周囲にいた人たちはこれを見て、驚き、恐れたと記されています。その理由をマルコは記してくれていませんが、容易に推測できます。

 

【過越祭】

このとき、エルサレム周辺、それから遠隔地からエルサレムの神殿を詣でるため多くの人がやってきていました。過越の祭が近くなってきていました。過越祭は1年に1度の大きな祭で、エルサレムでそれを祝おうと続々と押しかけてきていました。巡礼者といいます。イエス・キリストの弟子たちだけではなく多くの巡礼はエルサレムに向かいつつあります。大きな祭のときは、町中に店が出たり、踊ったり、歌ったりすることで商売をするものもいたでしょう。過越祭はユダヤの過去の神のわざを想起するときではありますが、また楽しいときではありました。

 

【メシヤ=救済者の期待】

また多くに人たちがエルサレムにやってきます。彼らを扇動して騒ぎを起こそうとするものもありました。民衆を動員して反ローマ帝国騒動を引き起こそうとするものがいたのです。当時はそのようなローマに対する反感が人々の中に沸き立っていました。ローマはユダヤ州を直轄的に支配し、総督が派遣されてきていました。彼らの政治は必ずしも公正ではありませんでした。その他のユダヤ人が多く住む地方ではヘロデの息子たちが領主として支配をしていましたが、ローマ帝国の傀儡に近い統治が行われていました。このようなローマの支配を覆し、ユダヤ人が治める国家を作ろうとするものもいました。

 

 イエス・キリストがこれからエルサレムに上って行こうとされています。キリストがエルサレムで騒動を起そうとしているのかもしれないと疑う人もいたでしょう。キリストの弟子たちの場合はそのような期待があったかもしれません。

 

 イエス・キリストはエルサレムに上っていく。それは異国の軍隊を追い出し、メシヤ=救済者が王となり、イスラエルを支配し、強力な国家を作り上げるという期待が弟子たちの中にもあったはずです。キリストが軍隊を指揮し、ローマ軍を滅ぼし、ユダヤ人の国家が出来上がる。そのようにイエスに対して期待するものもいたでしょう。また、終末的メシヤとでもいうべきか、天変地異が起こり、想像できないような現象が次々起こり、こうしてイエスは世の終わりを来たらせる救済者として君臨することが期待されました。このようにイエスキリストがエルサレムに上ろうとしたとき、多くの人たちにはいろいろな期待が満ちあふれたのです。

 

 ところがキリストが明らかにされるのは政治的な、あるいは軍隊の指揮官としてのメシヤなどではありませんでした。

 

【キリストの予告】

 キリストは弟子のうち12人を呼び寄せられます。そして、彼らにはエルサレムで起きることを予告されます。なぜ12人の弟子たちだけに教えられたのでしょうか。この時点では12人の弟子たちも十分に理解をしていたのではありませんでした。キリストが予告されていることは到底理解しがたいものでした。それほどまでキリストのエルサレム行きは不可解な行動でした。

 

 ここでイエスが予告されている点を見ておきましょう。イエスはここで「人の子」という表現を用います。これは一人称、「わたし」と同義と考えられるときもありますが、ここではやはりイエスは人の子=メシヤと言う考えを示しておられると取ったほうがいいと思います。イエスはメシヤがここに記されているようなことを経験すると予告をされます。

 

【人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡される】

 そのメシヤは①祭司長たちや律法学者に欺かれて引き渡される。これは裏切られるという意味が含まれています。イエス・キリストは裏切られて引き渡されます。銀30枚でイスカリオテのユダがキリストを売り渡してしまいました。それが裏切りです。

 

【彼らは死刑を宣告して】

②祭司長たちは死刑を宣告します。裁判にかけるということを意味しています。キリストはユダヤ人の最高議会でさばかれます。キリストはユダヤ人から裁判を受けたのです。

 

【異邦人に引き渡す】

③キリストは異邦人に渡されます。この場合、ローマ総督を指しています。ユダヤ人はローマ帝国の支配を受けています。ユダヤ人は法律でさばいても死刑に処する権限を与えられていませんでした。だから、異邦人ポンテオ・ピラトに渡されたのでした。

 

【人の子を侮辱し、唾をかけ、鞭打っ】

④異邦人はイエス・キリストをなぶりものにします。唾をかける行為は最大級の辱めでした。鞭打ちは多くは不従順な奴隷に対して執行されます。キリストは奴隷ではないのにまるで奴隷扱いをされました。

 

【殺す】

⑤そして、殺される。ここでマルコは十字架と記しません。十字架刑は当時最悪の処刑方法でした。死刑にもいろいろランクがありました。貴族などが有罪宣告をされたりすると、自死のみを選ばせられます。多くの場合手首を切り、血管を切り開き、大量出血をさせ、死に至るのですが、これは名誉ある処刑方法でした。その逆が十字架刑でした。残酷で、残忍な処刑方法であると共に極悪犯人や政治犯、あるいはローマ市民権を持たない外国人がこの方法を適用されました。キリストは十字架について言及されなかったのは十字架刑そのものに対する恐怖心を弟子たちにここでは与えられないためと思われます。

 

【キリストは復活する】

⑥そして、キリストは復活されます。詳しく語られていませんが、復活とは死んでいたものが生き返ることです。それは死に対する勝利に他なりません。このことはすぐに理解されるはずです。

これらはこれからエルサレムで起こることを正確に述べるものです。私たちは将来のことなど分かりません。1分たりとも私たちは未来に関してはまったく無知です。キリストがこんなに正確にこれから起きることを予告できるはずがないと考える人も多くいます。そのために、ある人はこの部分はのちに起きたことをあたかも予告と書く。つまり「事後預言」だとする人もいます。しかし、キリストは将来のことを予見することができる神の子です。

 

それから、ルカ18:31に記されていますように、預言者が書いたことをキリストは皆実現するために来られました。預言者とはここでは旧約の預言者を意味していますが、それではどの預言かということになります。ある特定の預言書が引用される場合もあります。

たとえば苦難についてはイザヤ52,53章を、復活についてはホセア6:2などが取り上げることもあります。しかし、聖書の一ヶ所や二ヶ所といった少ない個所からキリストの苦難と復活が預言されていると受け止めないほうがいいと思います。旧約聖書全体がキリストの到来を語り、その役割を示しています。聖書の全体から私たちはキリストの苦難の意味を知り、復活の偉大さを学ぶことができます。

 

イエス・キリストはむろん神から直接ご自身のエルサレムにおける使命を示されていたはずですし、さらに、聖書に精通していたキリストはエルサレムで何が起きるかをすでによく知っておられたのです。

 

キリストはエルサレムで起きることを弟子たちに明確に語っておられます。それは弟子たちがキリストの苦難を直接目撃したときにその意味を理解するようになるためでした。弟子たちはキリストが苦難を受けているときすらも逃げ去っています。弟子たちは十分にその当座理解できていませんでしたが、のちには十分に理解するに至ります。

 

キリストがここで語っておられるのはまず苦難でした。十字架の上でキリストは死なれました。それが私たちの罪を身代わりに引き受けての死でした。キリストは私たちのために犠牲となられました。かくして、私たちは罪が許されます。神の前にはばかることなく近づけるようになりました。神は私たちを和解し、神の子としての特権を与え、天の国籍を賦与してくださいます。

 

キリストは復活されました。死人の中から死を克服し、死に対して勝利をあげられました。キリストを信じる信仰によって私たちはキリストの復活にあずかるものとされます。

 

キリストはこのためにエルサレムに上って行かれます。キリストは政治的な権力を奪取するためにエルサレムに向かわれたのではありません。また、終末的な超人的な活躍が期待されるようなメシヤとしてエルサレムに向かわれるのではありません。キリストはご自身の死と復活によって救済者としての働きを全うされます。罪の許し、さらに神の子とされること、神と和解されて神と共に歩むものとされます。

 

このような十字架からの、私たちが受ける恩恵の大きさを信じるときに、真の力が経験できます。この世の人々は政治権力、財の力、あるいは人数の多さこそ力と信じ、それを何とか手に入れようとしています。それが人類を決して幸福などにはしません。むしろ、私たちは十字架のキリストの中に神の御心を味わい知ります。その神の愛と恵みを覚え、心に留め、感謝し、このことを喜ぶことを通じて幸いを経験できます。

 

また世界は天上が真っ二つに裂け、地面が火にあぶりだされ、天変地異が各地に生じ、そのような中で雲に乗ってメシヤが来て世界が終わり、新しい世が始まるといったような終末論的な再臨がエルサレムで起き、キリストが何かを演じるというのではありません。そんなことで世界が救済されるとは教えられません。あくまでキリストの十字架と復活によってのみこの世界は救われます。

私たちはキリストを信じるとき、その復活も信じます。そして、信じるものにはキリストが得られた復活の命を約束されます。キリストを初穂として私たちもまた復活の命を受け、この命に生かされていきます。最大の救いの約束はキリストと共によみがえる希望にあります。ここにだけまことの救いがあります。(おわり)

2015年09月27日 | カテゴリー: マルコによる福音書

2015年9月20日説教「神の国に入るのはむつかしいか」金田幸男牧師

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新約聖書
マルコによる福音書10章23~31
23 それから、イエスは見まわして、弟子たちに言われた、「財産のある者が神の国にはいるのは、なんとむずかしいことであろう」。24 弟子たちはこの言葉に驚き怪しんだ。イエスは更に言われた、「子たちよ、神の国にはいるのは、なんとむずかしいことであろう。25 富んでいる者が神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通る方が、もっとやさしい」。26 すると彼らはますます驚いて、互に言った、「それでは、だれが救われることができるのだろう」。
:27 イエスは彼らを見つめて言われた、「人にはできないが、神にはできる。神はなんでもできるからである」。28 ペテロがイエスに言い出した、「ごらんなさい、わたしたちはいっさいを捨てて、あなたに従って参りました」。29 イエスは言われた、「よく聞いておくがよい。だれでもわたしのために、また福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子、もしくは畑を捨てた者は、30 必ずその百倍を受ける。すなわち、今この時代では家、兄弟、姉妹、母、子および畑を迫害と共に受け、また、きたるべき世では永遠の生命を受ける。31 しかし、多くの先の者はあとになり、あとの者は先になるであろう」。

説教「神の国に入るのは難しいか」

聖書:マルコ10章23-31

 

要旨

【神の国にはいるのに必要なものとは】

 イエス・キリストに従えと言われながら、従うことができなかった議員であり、金持ちであった若者のことを見ました。彼の場合、財産を捨てることができないためにキリストに従えなかったのです。彼は財産を持ったまま神の国を相続しようとしました。彼にとって財産は生きていくうえで不可欠であり、それなしに人生は成り立たないと考えられたのです。しかし、財産だけではなく、私たちにとってそれがないと生きられないと思うようなものがたくさんあります。ある人にとっては名誉地位であり、家族であり、土地であったりすることもあり、健康や職業も人生にとって欠くべからざるものと思われます。

 

宗教の世界でも、宗教への傾倒,熱心さ、あるいは神学研究へ没頭してしまい、それがないと神の国に入れないかのように思われることもあります。私たちの人生経験、価値観、世界観などに影響されて、神の国に入るためにそれ相応の経験や体験を要すると考えられています。それらが神の国に入る交換条件のように錯覚するのです。

 

 イエス・キリストにところにやってきた若者の場合、律法の行いが神の国に入る条件であると思われていました。律法を守りさえすれば神の国には入れるのはないかと思ったのでした。しかし、彼の予想は覆されます。神の国に入るためには財産を放棄すべきであるとされます。

 キリストは、弟子たちに顔を向けられます。キリストは間もなくエルサレムに行こうとされます。そこで十字架にかけられて命を失うことになっています。それは贖いのみわざです。これによって罪人に救いの道が開かれます。弟子たちに救い、つまり、神の国に入るためにはどうすればいいのか改めて教えられます。

 

【財産のあるものは神の国に入れない】

 財産のあるものは神の国に入れない、つまり、永遠の命を獲得できないと言われます。財産のあるものはそれに固執して、結局、財産も救いにとっては不可欠であると錯覚してしまいます。財産がなければ救いは危うくなると思うようになるのです。財産があればこそ救いも安泰と思うようになります。

 

 ユダヤ人は財産を築くことは神の恩寵であると思っていました。そのように資産が増えることは神の祝福であるということには間違いありません。ユダヤ人の中ではイエス・キリストの教えに違和感を感じる人がいても当然です。富のあるものが神に近いと思われていたのです。英国のピューリタンもそうですが、彼らは、事業の成功自体、自分たちが救われ、救いに選ばれていることの証拠、神の祝福であると確信をしていました。アメリカン・ドリームということがありますように。

 

事業の成功は神の祝福であると考えるのです。敬虔で信心深い人が事業に真剣に取り組み、それでもって豊かな生活ができるようになる、それは神の恵みと考えられたのです。特に資本家にとっては、収益増大は予定されているものに対する神の格別の働きに他ならないとまで考えました。その上、彼らは浪費などしません。その儲けを新しい事業に投資する。結果的に資本が増加し、資本主義が栄えるようになるのでした。近代の資本主義促進とピューリタンの関係を説く学者もいます。もし金持ちが神の国に入れないとすると、財産を得ることが神の恵みとする一般ユダヤ人と衝突することになります。このような考えは誤解であることは間違いありません。確かに財産を獲得することができるのは神の恵みです。しかし、その財産が神の国に入るために妨げになることもあるのです。財産があたかも人間の救いを保証するかのように考えられるならば、その財産は救いにとって妨げとなります。

 

【神に国に入ることは難しい】

 イエス・キリストは弟子たちに語り続けられます。神に国に入ることは難しい。まして、金持ちが神の国に入ることはいっそう難しい。ふたつの文章は同じことの繰り返しではなく、別個の問題を明らかにするものです。私たちはしばしば前半を誤解することが多いと思います。つまり、この文章も金持ちを対象にしていると考えてしまうのです。キリストは弟子たちに向かって語られています。金持ちが神の国に入るのはらくだが針の穴を通るよりも難しい。これは不可能だというものです。しかし、弟子たちなら神の国に入れるのでしょうか。キリストはここで弟子たちが神の国に入るのは難しいと言われたのです。弟子たちもまた神の国に入るのは不可能に近い。まして、金持ちはさらに難しい。ここは弟子たちのほうが可能性は若干高いというような感じはまったくありません。神の国相続は誰にとっても困難なのです。

 

 弟子たちはイエスの言葉をそのまま受け入れています。人間のうち、一体で誰が神の国に入る資格を持っているか。だれが果たして救われるのか。イエスの言葉とおりならば、だれも神の国に入れないではないか。

 

【人には出来ないが神には出来る】

 キリストは弟子たちに答えられています。人間にはできない。しかし、全能の神にはできないことはありえない。神は何でもできる。だから、人間的にとっては到底不可能と燃えるようなことが起きるのです。まったく神の国に縁がないと思われるものにも神の国の招きがあるでしょう。人間的には神の国など遠いものと思っているかも知れませんが、神にはできないことはありません。決心されたら神は最も救いに遠いところにいるものにも招き、救いを与えられます。神はそのように救いの道を明らかにされます。

 

 人間は自力ではまったく神の国を相続できるような存在ではありません。しかし、神が可能にしてくださいます。イエス・キリストを十字架につけ、それによって、私たちは神の御前に近づくことが出来るようにされたのでした。人間には救いは不可能であるが、イエス・キリストにあって救いの道を神ご自身が案内されます。

 

ペテロ:「ごらんなさい、わたしたちはいっさいを捨てて、あなたに従って参りました」】

 ところがペトロが登場します。福音書の中でペトロの行動は愚かな質問をし、的外れの答をしたりでとても12人の使徒団のリーダーとは思えません。キリスト復活後のペトロの役割から見るとずいぶん違ったイメージの弟子と思われます。ここでペトロが言いたかったことは、自分たちはキリストの弟子として全てを投げ打ってきた。キリストにすべてをささげている。となると神の国は私たちのものではないか。キリストの弟子たちの中でペトロは人一倍熱心であったことは間違いありません。金持ちの若者は悲しいことに去って行きました。それに比べて弟子たちははるかに神の国に入るために好条件に恵まれているではないか。ペトロの気持ちの中には、われわれはあの金持ちの若者とは違うのだという自負心も感じ取られます。あのような若者に比べれば、我々は神の国に入る相応しさはあると思ったことでしょう。ところがキリストはそういうことを認められませんでした。永遠の命を得るために家屋、家族、財産を捨てるだけではすみません。そこで求められていたのは神に対する絶対的依存の信仰でした。実際、この時点ではペトロは何も分かってはいませんでした。彼は自分こそ神の国で相当の地位を得られると思っていたのでしょうか。 

 

 キリストはペトロを叱りつけたり、非難されていません。直接ペトロの名を挙げてペトロの発言を退けるようなことをされていません。キリストは本当に神のみ国に入れるのは誰かと教えられています。それは、まず家(家屋)、家族、そして、最後に土地(所有)を捨てるものだと言われています。これらを本当に捨てたものだけが救われます。ペトロはどうであったでしょうか。彼はカファルナウムに自宅があったようです。また、妻子もあったようです。キリストの弟子たちの中には裕福なものもいました。例えば収税人もいたのですが、彼らは不正な手段で多くの財産をかき集めていました。マタイは弟子になったときもその財産をすべて失うように決心したのではないと思います。また、キリストの弟子たちの中には財布係もありました。12人以上が団体で行動するのでした。経費が必要であったようです。ペトロが、キリストの弟子たちの中では、筆頭格で、財産を放棄したとありますが、まったく資産を持たなくなったのではありませんでした。

 

【迫害を受ける】

その上、迫害を受けるとも記されています。迫害に耐えられず、脱落していくものもあるでしょう。こうなると神の国を相続できるのは一体誰と誰かということになります。誰もいないのです。

 このように徹底的に放棄できる人ならば神の国に入れるだろうけれども、どのようなキリスト信者も、とても神の国ははるかに遠いものです。あのペトロとて同様です。何もかも捨ててきましたといえるほど彼らは努力を積み重ねてきたはずですが、キリストが示される基準には達しないはずです。ペトロはここで認めなければならなかったのですが、彼にはとても神の国に入る資格はありません。これを認めてただ神の救いの恵みに頼らざるを得なかったのです。人間はどういうことをしても神の国に入ることができません。ただ神にお願いするしかありません。神の恵みにより、信仰によって捉えるものなのです。

 

 それでもなお、自分は神の国に入るために最大限の努力をしてきた、だから神の国に入れる資格はあると強弁するものもいたことでしょう。キリストは言われます。先のものが後になり、あとのものが先になる。このみ言葉はいろいろなところで用いられています。マタイ20:16、ルカ13:20・ただ文脈から見ると違ったところにおかれていますので、キリストはこの言葉をいろいろな場合に用いられたのでしょう。自分は先頭を切って忠実に努めて来た。こういう自負心を持つものも出てくるでしょう。キリストはそういう先頭を切っていたものも最後には脱落寸前にまで追いやられ、勝利者は別人となるといわれます。自ら救いを率先して獲得できると自負するものはかえって神の国を得られず、できないと思い、神に信頼するものはそれを得るのです。(おわり)


2015年09月20日 | カテゴリー: マルコによる福音書

2015年9月13日説教「私に従って来なさい」金田幸男牧師

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説教「わたしに従いなさい」

聖書:マルコ10章17-22

17 イエスが旅に出ようとされると、ある人が走り寄って、ひざまずいて尋ねた。「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。」18 イエスは言われた。「なぜ、わたしを『善い』と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない。

19 『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ。」20 すると彼は、「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と言った。

21 イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた。「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」22 その人はこの言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。


 

要旨

【ある人】

 10章17に「イエスが旅に出ようとされると(ちょうどそのとき)ある人が走り寄って」来た、と記されています。イエスの出発のことは10章1に記され、ユダヤ地方、エルサレムに向かわれます。

 

ある人が急いでキリストに会おうとしています。一刻も早くという思いでやってきたのです。それほど彼にとっては重大問題であり、イエスがこの地を去る前に是非とも答えを得たいと切に願っています。マルコによる福音書では飛び込んできたこの人物のことを詳細に述べていません。

 

【青年・議員】

同じことを記すマタイによる福音書では青年とあります(マタイ19:20)。この言葉は20歳くらいを表します。ルカ福音書では議員とあります(ルカ18:18)。おそらく、ユダヤ人の最高議会の一員であったと想像できます。最高議会(サンフェドリン)は今で言う国会と最高裁判所を兼ねたような国家の機関で、ユダヤ人社会の中では相当地位の高い家柄でなければこの議員にはなれません。

 

【金持ち】

三つの福音書共通にこの人物は金持ちであったと記します。彼は地位も高く、名誉ある立場にあり、また裕福であり、若さもありました。前途洋々たる人生が目の前にありました。

 

【永遠の命】

 イエス・キリストのところにやってきたこの若者は永遠の命を獲得するためにはどうしたらいいのかと尋ねます。永遠の命、いたって宗教的な課題です。この人がなぜ永遠の命を求めたのだろうかと思います。ある人は、この人物は安楽な日々を過ごし、信仰を趣味としているような人間と見ます。

 

【慈しんで語れた】

実際今日、宗教に関心のある人はよほどの暇人と思われています。仕事で忙しい人は宗教などの関心を持たないと思われています。だから一種の趣味のように宗教を考えているに過ぎない軽薄な人物を解されるのです。しかし、イエスはこの若者をじっと見つめ、慈しんで語れたとあります。慈しんで、は「愛を持って」とも訳せます。イエス・キリストはこの若者を切り捨て、取り合わないようにされたのでは決してありません。だから、この人は生半可な思いでイエスに接近してきたのではありません。彼はたいへんまじめにイエスに問うています。若い人は立身出世や目先の栄華を目指しやすいものです。この若者はそういう同世代の人間とは違った道を行きます。彼は永遠の命をどうすれば得られるのかが最大の関心事でありました。

 

【何をしたらいいのか】

永遠の命を獲得するために何をしたらいいのか。このような問いを投げかける若者は当時もそうでしたし、今日も同じです。その点でもこの若者はユニークな存在でした。永遠の命などと言うあまり人が関心を持たないし、特に若者ならばあまり関わりを持とうとしないものを追求していたのです。この人はそういう点で稀有な存在でありました。昔の人も今日の人も永遠の命などに真剣に探求しようなどと思わないでしょう。人はそういう問題よりも今日をどう生きるかに関心があります。今というときを大切に思い、永遠の命など空論だと思うのです。ところがこの若者は真正面から永遠に生きる道を尋ね求めたのでした。

 

 なぜ永遠の命を求めたのか、マルコ福音書は沈黙しています。止むに止まれぬ切羽詰まった情況があったのでしょう。

 

【よい教師・義の教師】

 彼はイエスに向かって「よい教師」と呼びます。よい先生。これは当時のユダヤ人社会の事情を考えなければなりません。ユダヤ人が律法を重視していました。それは神の与えられた掟でありました。この律法を研究し、相応しい解釈を専門的に行う人々が存在していました。律法学者といわれているように律法を深く研究している人たちがいました。ところがそのような律法学者の中に頭だけの信仰ではなく、律法を熱心に行い、それゆえに人々から尊敬を受けるまで自己修練に励む人たちがおりました。彼らは「義の教師」と呼ばれていました。義の教師は特別敬虔な歩みをしています。彼らはただ律法に忠実だと言うだけではなく、その徳を分かち合うことができると信じられていました。あるいは、特別な教え、それは秘密をされるものですが、これを与えることが出来るものと考えられていました。

 

 イエス・キリストは自分はそのような義の教師であることを否定されます。キリストが何か功績を積みそれを他の人に分配すると言った特別な働きをするものではないと証言されます。あるいは特別な秘儀を隠匿しているようで、特別の仕掛けでそれを得られると言ったような教師とは全然違うのです。そういうことは神の領分です。イエス・キリストはみ父にまさって弟子たちに義を分与できる方ではありません。それも律法の行いではなく、ただ神の恵みに依存して得られるもので、それを与えることが出来るのは父なる神だけです。

 

【十戒の後半】

 その上で、キリストは十戒を引用されます。モーセは神から律法を与えられます(出エジプト記20:12-16、申命記5:16-20)。それは石の板2枚に記されています。キリストが引用されているのは第二の板です。よく見るとキリストは十戒を改変されています。ひとつは、父母を敬えという第5の戒めを一番最後にもって来ています。これはおそらく強調のために順序が変えられたのだと思います。もうひとつは第10戒、貪るな、を、奪い取るな、とされています。奪い取ることと貪りとは厳密に言えば違うでしょうけれども、酷似しています。乱暴に、あるいは策略を用いて、他人から大切なものを奪い取り、それを自分のものとしてしまう。それが貪欲と言うものです。

 

【知っているか?】

 さて、ここで注意していただきたいのは、キリストは「知っているか」と尋ねられただけです。ところがこの若者は実行していると答えます。知っていると、実行しているとは異なります。キリストが問題にされたのは律法の意味、もっといえば霊的な意味なのです。律法が本来持っている神意はどこにあるか。キリストは律法をこの観点から捉えられます。山上の説教を見ましょう(マタイ5:21以下)。ここでは兄弟を誹謗するものは殺人罪と同罪であり、裁きを受けなければならないといわれます。あるいは女性を淫らな思いで見るものは姦淫罪を犯しているとキリストは指摘されています。このようにキリストは律法を心の問題にされます。律法が本来持っていた神の意図を読み取らなければなりません。外面的な実行だけが問題ではないのです。

 

【実行しています】

 ところが若者は、知っているかという問いを誤解します。彼は、十戒を小さいときから実行していますと答えます。知っていることと実行することは異なります。しかも、文字面だけではなく、その掟の言葉の奥にある深い神意を知らなければなりません。ところがこの若者は律法を行っているかどうかと言う観点からキリストの言葉を受け止めたのです。

 

この若者は子どものときから掟を守っていると答えますが、ユダヤ人社会では13歳のとき神殿に行って特別の儀式にあずかり、そのとき以来律法を行うべきもの(掟の子)とされたのです。そうは言っても大半の家庭ではさほど厳しく掟の遵守を求められませんでした。この若者の家庭はどうであったか。おそらく他と違って厳格に教育を受けたのでしょう。よき躾を受けていました。この点から見て、若者は品性もまた優れていたと言えると思います。

 

【行け、持ち物を売り払え、施せ、そして、従え】

 キリストはすれ違いをすぐに指摘されません。むしろ、別の言葉を投げかけられます。四つの命令の言葉が並びます。行け、持ち物を売り払え、施せ、そして、従え。若者は永遠の命を得るために律法の行いに務めるべきだという考えを知っていたようです。だから、そういうものは行っている、とすると永遠の命は自分のものとなるか。こういう考えを持っていたのかもしれません。イエスにそれを確かめたかっただけかもしれません。イエス・キリストはそのような若者の考え方に冷水を浴びせられます。

 

【財産を多く持っていたからだ】

 若者は失望しながら去っていきます。なぜなら、財産を多く持っていたからだとされます。イエスから持ち物を全部売り払えと命じられてそれは出来ないと答えます。

 イエスの命令はすべてを捨てよ、という命令と受け止められ、このために、財産を捨て山奥にでも入り隠遁生活をすることしか解決策はないということになります。イエス・キリストはそのような財産放棄をしなければ永遠の命、天の富、天の宝を獲得できないと教えられたのでしょうか。

 

 この若者の生き方を分析すれば、名誉、地位、権力、財産、若さなどの上に永遠の命を重ねようとしています。所詮、永遠の命は彼の人生にひとつを加えるだけなのです。私たちもこういうものをもっています。ある人は学歴、社会的評価、あるいは技能、職業、人生経験、健康、運動能力などを拠り所にし、そのようなものの上に永遠の命を重ねる、それが人生だと思っています。しかし、永遠の命はそのような人生で獲得するものの追加事項ではありません。それはすべてなのです。

 

 律法は、私たちに善行が神の前でいかに無効か、そして、私たちが知るのは掟によっていかに罪深い人間かを知ることです。この若者が律法を行っていてもそれは彼の功績を積み上げるだけに終わります。

 

彼に必要なことは、永遠の命は無償で、ただで受け取るべきものという知識でした。掟はいやおうなく私たちに自力では永遠の命など得られないという事実を突きつけるものです。

 私たちはこの若者のように財産があるわけではありません。しかし、他のものがあります。そして、そういうものを積み重ねていく人生に、さらに究極の永遠の命、天の宝を加えることが幸福だと思っています。しかし、それは誤謬です。永遠の命はあらゆる人間的な救いの可能性を断念し、ただひたすらに神の無償の救いを求めることに他なりません。

 

 イエス・キリストに従うとはどういうことなのかはっきり分かります。ただ、キリストの憐れみを信頼して、救いはそこから来ると確信することなのです。(おわり)

 

 

 

2015年09月14日 | カテゴリー: マルコによる福音書

2015年9月6日説教「子どもを祝福するイエス・キリスト」金田幸男牧師

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説教「子どもを祝福されるイエス・キリスト」

聖書 マルコ福音書10章13-16

 

要旨 今までマルコによる福音書を学んできましたが、子どもが登場する個所が2ヶ所ありました。

 

【主イエスの子ども観、1】

9章36では、弟子らが、自分たちの中で誰が一番偉いのかと論じ合っていたとき、キリストは彼らの真ん中に子どもを立たせ、「わたしの名のために、このような子どもを受け入れるものがわたしを受け入れるのだ」と言われました。イエス・キリストのために、キリストの代わりに子どもを受け入れるようなものこそ一番偉いのだというのです。子どもは価値のないものとされていました。その子どもをキリストのために受け入れ、尊ぶものこそ弟子たちの中で重視されるべきなのです。

 

【主イエスの子ども、2】

第二は9章42で「わたしを信じるこれらの小さいものの一人を躓かせる者は大きな石臼を首にかけられて海に投げ入れられるほうがはるかによい」とあります。小さいものは子どもを指していますが、比ゆ的に用いられていて、小さいものはただキリストを信じるもので、その中でもあまり重視されていないようなものを指しています。弱いものを躓かせ、キリストから引き離すようなことをするものは溺死刑に処せられたほうがよい。

 

【主イエスの子ども、3】

そして、第三に上げられるのは今日学ぼうとしている10章13-16です。子どもがイエスに触れていただくために連れて来られたとあります。この子どもを祝福するイエスの働きについてはマタイとルカ福音書にも記されています。

 

マタイ19章13では「そのとき、イエス手を置いて祈っていただくために」子どもが連れて来られたとあります。当時の習慣では、名声を博している教師、あるいは有名な人が来ると彼らに子どもを祝福してもらうことになっていました。偉い人であればあるほどその祝福の祈祷には効力があると思われていました。そして、祝福は単なる祝福祈願に留まるものではなく、その祝福は現実に実を結ぶと信じられていました。

 

ルカ18章15では、触れていただくためにやってきたものの中には、乳飲み子も含まれていたことが知られます。マタイとマルコの出てくる子どもは12歳くらいの子どもをさす用語ですが、ルカの場合はまるっきりの赤ん坊を指しています。中には泣き叫ぶような小さい赤ちゃんもいたでしょう。さらに、人々と訳されている言葉は「男たち」と訳されてもよい表現です。連れてきたのは一家の長でした。だからその妻も同行し、子どもの兄弟姉妹もいた。となるとこの場は騒然としていたに違いありません。

 

【叱る弟子たち】

 イエスの弟子たちがこれを見て叱りつけたとありますが、理由は容易に推測できます。キリストは長時間教えておられました。今日と違いマイクやスピーカーがあるわけではありません。キリストは声を張り上げて語られたことでしょう。長時間の教えにキリストは疲れきっていました。弟子たちも同様に疲れを覚えていたでしょう。そこでたくさんの人が押し寄せてきたのです。弟子たちはその勢いに怒りをおぼえたのです。疲れきっているキリストをはじめ、弟子たちの休息を邪魔するなどとはとても失礼なものと思ったのでした。

 

【主の憤り】

 ところがキリストはそのような弟子たちの言動に憤られたとあります。なぜ、キリストは腹を立てられたのでしょうか。マルコの福音書では、キリストの感情を率直に記している個所があります。マルコはイエス・キリストをこのように情に動かされるものと見ています。実際キリストは喜怒哀楽を示す方です。決してキリストは冷血漢ではありません。キリストの感情がよく表現されています。マルコの特徴的な表現です。

 

 キリストは子どもたちを祝福したいと切に思われていたに違いありません。ところが弟子たちが阻もうとしています。それに憤られたのです。キリストは子どもたちを祝福したいと願われました。子どもは祝福されなければならないと思われ、祝福したいと願われたのです。

 

 キリストは子どもたちを来させ、神の国はこのようなものたちといわれます。「はっきり言っておく」は厳かに真理を宣言されるときに使われる表現なのですが、神の国の真理をキリストは自らの口で明言されようとしています。

 

【子どもはなぜ祝福されねばならないか】

 ここで私たちは二つのことを十分区別しておかなければなりません。この二つはもちろん相互に深く関係します。ただ、区別が必要なのです。

 

 まず第一のことから見て行きましょう。イエス・キリストは何としても子どもたちを祝福しなければならないと思われます。弟子たちがそれを阻もうとしたとき激しく怒られました。それほどキリストは子どもの祝福を重視されています。

 

 今日、私たちが見ている子どもたちと当時の子どもたちは大いに異なる状況に置かれていました。子どもは弱い、というよりも価値のないものとみなされていました。その弱さは二重の意味を持っています。まず、子どもたちが幼くして死ぬ率は極めて大きなものでした。私たちの中で高齢者と言われている世代には,子どものころに兄弟をなくした方も多いのではないでしょうか。わたしも実は6人兄弟ですが、二人の姉は「赤痢」とか「疫痢」と言われている病気で、一人は6歳,もう一人は3ヶ月で亡くなっています。子どもすべてが順調に育つことのほうが稀な致死率でした。

 

イエス・キリストの時代にはいろいろな病気があり、栄養状態も悪く、それにさまざまな事故で子どもはあっけなく命を失ったのでした。キリストはそのような子どものために祝福を祈ろうとされています。

 

もうひとつの弱さは社会的なもので,子どもは価値のない存在と見なされていました。家父長制家族制度の中で父親は生まれたばかりの子どもを殺害しても犯罪にはなりませんでした。また、子どもを負債のために奴隷に売ってしまう権利を有していました。子どもの置かれた状態はこのように劣悪でありました。それは実はほんの2.3百年前まで続いてきた状況でした。子どもは弱く、価値もなく、重視されていません。まして子どもの人権などまったく認められてはいませんでした。そのような子どもたちをキリストは祝福されたのでした。それは弱いものへの憐れみ、同情を持って祝福するものであったと断言できます。

 

キリストは弱い立場のものへの憐れみを示されます。10章1-12では、離縁された社会的には疎外されている女性への憐れみを示されていますが、ここでは弱いものと見られていた子どもへの深い慈しみを示されます。

 

 ここでキリストは子どもたちを祝福されました。この子どもたちは、劣悪な状況に置かれていましたが、キリストはその子どもたちが苦しみの中にないようにと願われたのです。そして、実際医学の進歩で子どもが小さいときに命を失う状態は少なくなって来ています。ますます医学が進歩して子どもたちが幼いときに死ぬというような悲しみが少しでも少なくなるように私たちは願い、また実現のためにもっともっと教会は関心を払うべきでしょう。

 

キリストの祝福から2000年も過ぎています。その間、キリストのなされた祝福は文字どおりに現実のものとなって来ています。また、社会的に子どもの人権が認められて来ています。子どもたちは大事に育てられています。これこそキリストの祝福の実現です。キリストが祝福されて何百年かかり、祝福が現実のものとなって来ています。だからこそ、世界にも日本にも不幸で悲惨な状態にある子どもが多くいることを覚え、そのような子どもたちが少なくなることを願い祈り、またそのために支援の働きも肝心でしょう。

 

【子どものように】

 もうひとつのことを学ばなければなりません。イエス・キリストは厳粛に真理を宣告されます。神の国は子どものような者たちに属する。子どものように神の国を受け入れる人でなければ決してそこに入ることは出来ない。ここで子どもは比ゆ的なものとして表現されています。

 

子どものように、という表現は二種類の意味があります。ひとつは子どものような無知蒙昧で、知恵がないという意味がありますが、ここでキリストがいわれる意味ではありません。キリストがここで言われているのは、子どものように素直で、純真で、疑うところのない、という意味です。

 

母親がこのような経験をしていることだろうと思います。疑うことなく母親の愛に依存している子どものように、神に疑わず、真実に、神を信じるもの、そのようなものが神の国に入れます。

 神の国とは何か。単語そのものは「神の支配」を意味しますが、抽象的な物言いです。地獄はどういうところか私たちはすでに見ました。(10章42-50)

 地獄は聖書ではどういうところか表現されていませんでした。私たちはこの世界で地獄を見ます。地獄絵を見たと表現されたりします。そのとおり、地獄のような悲惨な有様を、私たちは目にします。戦争、飢餓、疾病、あるいは、天災、このような事件に遭遇してその有様を見た人には地獄をみたかのように思われますが、それは地獄絵なのです。正確に言えば、本当の地獄はそれ以上だということです。想像を超えています。私たちは地獄がどれほど恐るべきか真実に知らされているのではありません。

 

神の国、天国についても同じことが言えます。黙示録21以下に記されている新しいエルサレムはまことの神の国の表象ではありません。あくまで幻です。黙示とはそういうものです。偽りではありません。しかし、それは本当のものを目撃して言い表されたものではありません。神の国はそれ以上なのです。私たちはその神の国に入りたいと思うのであれば子どものように、神を信じ、自らは救いに相応しいものは何もないとへりくだり、ひたすら神からの救いの賜物を期待するしかありません。自分の相応しさを主張し、救いに相応しい実績をもっていると神の前で強弁など出来ないもの、それがここでいう子どものようなものを指しています。ただ、神から恵みを受けられることだけを期待する、それが神の国に相応しい子どものようなものなのです。(おわり)

2015年09月06日 | カテゴリー: マルコによる福音書

2015年8月23日説教「心の頑なさと神の掟」金田幸男牧師

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聖書:ルコによる福音書10章
1 イエスはそこを立ち去って、ユダヤ地方とヨルダン川の向こう側に行かれた。群衆がまた集まって来たので、イエスは再びいつものように教えておられた。
2 ファリサイ派の人々が近寄って、「夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」と尋ねた。イエスを試そうとしたのである。
3 イエスは、「モーセはあなたたちに何と命じたか」と問い返された。
4 彼らは、「モーセは、離縁状を書いて離縁することを許しました」と言った。
5 イエスは言われた。「あなたたちの心が頑固なので、このような掟をモーセは書いたのだ。
6 しかし、天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった。
7 それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、
8 二人は一体となる。だから二人はもはや別々ではなく、一体である。
9 従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」
10 家に戻ってから、弟子たちがまたこのことについて尋ねた。
11 イエスは言われた。「妻を離縁して他の女を妻にする者は、妻に対して姦通の罪を犯すことになる。
12 夫を離縁して他の男を夫にする者も、姦通の罪を犯すことになる。」

説教「心の頑なさと神の掟」

聖書:マルコ10章1-12

要旨

 マルコ10章1で、イエス・キリストは「そこを」立ち去ったとありますが、それはガリラヤ湖周辺のカファルナウム(8:33)を指しています。そこからユダヤ地方とヨルダンの向こう(東側)に向かわれます。ヨルダンの東はペレヤ地方と言い、当時、ヘロデ・アンティパスが領主として治めていました。キリスト一行はペレヤを抜けてそこからエリコの町に入り(10:46)、エルサレムに向かわれます。エルサレムでキリストは十字架の上で贖いの死を遂げられます。

 

【ヘロデ・アンティパス】

ヘロデ・アンティパスは6章14以下に記されていますように、ヘロデヤとの結婚を批判した洗礼者ヨハネを投獄した上、殺害しています。

 イエス・キリストはペレヤでも群衆に教えましたが、ヘロデ・アンティパスの近くで活動されたのです。そこにファリサイ派が登場します。彼らはイエス・キリストの質問をしますが、むろん教えを請うためにやってきたのではありません。

 

2節に「試そうとした」とあります。その試みは悪意から出たものですが、離婚について問うということは、あわよくば、ヨハネと同じ運命に陥らせようとするものであったと考えられます。イエス・キリストがヘロデとヘロデヤの結婚を非難するなら、そのうわさはすぐにヘロデの耳に入るはずです。このようにファリサイ派の質問は決してまじめなものではなくイエスを亡き者にしようとする意図が見え隠れします。ですから、ファリサイ派は離婚の是非を質問したり、論じ合ったりするつもりはなかったと見るべきです。

 

【妻を離縁すること】

 妻を離縁することは律法に適っているかどうか。合法的かどうか。もし、イエスが不法だと言えばどうなるでしょうか。ヘロデを非難することになります。この質問の下心を、イエス・キリストは見抜いておられます。だから、キリストは質問に答えず、逆に質問をします。「モーセの律法には何と書かれているのか。」ファリサイ派は直ちに答えます。妻を離縁することは合法的である、これがファリサイ派の答えです。

 

ファリサイ派が根拠とするのは申命記24章1以下です。「人が妻をめとり、その夫となってから、妻に何か恥ずべきことを見いだし、気に入らなくなったときは、離縁状を書いて彼女の手に渡し、家を去らせる。その女が家を出て行き、別の人の妻となり、次の夫も彼女を嫌って離縁状を書き、それを手に渡して家を去らせるか、あるいは彼女をめとって妻とした次の夫が死んだならば、彼女は汚されているのだから、彼女を去らせた最初の夫は、彼女を再び妻にすることはできない。これは主の御前にいとうべきことである。あなたの神、主が嗣業として与えられる土地を罪で汚してはならない。」(1-4)

 

離縁状を書いて渡せば離縁することが出来る。ファリサイ派はこのように離婚を合法としていました。ただし、ファリサイ派には大きな議論がありました。離縁の理由となる「気に入らなくなる」についての解釈をめぐって厳格派と穏健派が対立していたのです。厳格な立場は妻の不貞が明らかになった場合と解釈しました。穏健派は例えば妻の料理が下手だとかというように広く解釈するものでした。この両者に白熱した議論が交わされていたのです。

 

ファリサイ派の質問には、イエス・キリストがどちらの味方なのかという点をはっきりさせようと思いが見え隠れします。一方の立場を支持すれば反対派からは敵視されます。結局キリストを論争に巻き込む結果となってしまいます。

 

 ファリサイが申命記を持ち出しましたが、よく見るとたいへん恣意的な用い方をしています。そして、当時のユダヤ人の結婚に対する考え方、習慣をも見ていかなければなりません。申命記の規定は離縁状さえ書けば結婚が合法的だなどという意味が主ではありません。ここはそのあとに書かれてあるように、いったん離縁した妻ともう一度再婚はできないということを規定するのが本来の律法の目的なのです。

 

【弱い女性の立場】

 ユダヤ人の社会では、男は女と結婚するのですが、女が男と結婚は本来できない存在でした。女は結婚されるだけであったのです。つまり、結婚の主体ではありませんでした。ですから、離婚も女性は不利な立場におかれます。夫の方に例えばその職業、あるいは夫の不貞、暴力、病気などの原因があり、妻から離婚を申し立てる場合は裁判所に行かなければなりません。裁判でいろいろ尋問され、離婚は認められます。しかし、彼女には汚名が着せられます。夫の場合は離縁状を書けばあっさり離婚は成立します。このような不平等な習慣が通用している社会でした。

 

 イエス・キリストの答えはこのような背景で考えられなければなりません。キリストは指摘されます。モーセの律法は確かに離縁を認めている。しかし、それは結婚を維持できない事情のあることを認めた上での規定とされます。ところがファリサイ派はそれを人間の権利、あるいは特権のように扱います。特に妻を離縁することが夫の自由、恣意的な決定で決まると解釈します。

 

【結婚の意味】

 そこで、キリストは創世記1,2章に記される結婚観を明らかにされます。イエス・キリストはなぜこんな個所を持ち出されたのか。当時の状況を見ていかなければなりません。当時のローマ人社会の家族制度は家父長制度です。家長は特に子どもに対しては、生殺与奪の権すら握っていました。奴隷に売り払うことも合法的であるとされていました。ユダヤ人の間でも家長の権限は大きなものでした。結婚も家長の許可なしに出来ません。しかし、結婚すると、父親は子どもに対してもはや絶対的な権威を振るうことが出来ません。むしろ、結婚したものの絆が固い。

 

ここで、「神が結び合わせたものを切り離すな」と命じられるとされますが、この箇所を離婚を禁じる御言葉だと解釈されてきました。しかし、キリストがここで指摘されているのは、離縁が安易に行われている事実に対するものです。聖書を一箇所引用して、夫が離婚する身勝手さが合法化されます。

 このような聖書も用い方は今日でもしばしば見られます。自分の都合のよいように聖書の言葉を持ち出します。しかも文脈を外れて解釈したものです。あるいは聖書に書かれていないから自由だとされます。カルヴァンは「聖書に書かれていないことは禁じられる」と主張したのもこの人間の恣意的な解釈の弊害を避けるためでした。聖書の全体を十分に理解し、その全体的な理解から聖書の言葉を理解すべきなのです。聖書には必ず答があります。ただし、明瞭に分かる部分もあれば明白ではないところもあります。それを丹念に研究していくときに答えは明らかになってきます。

 

【ファリサイ派の間違い】

 キリストは離婚そのものを罪だとか、よこしまなことだと言われていません。創世記を挙げられているのは結婚の絆が父親の権限以上だといわれているだけです。ですから、今結婚をしているものは固い絆で結ばれている。父親ですらその絆を解くことは出来ないというのです。結婚の本質はその一致の堅さにある。ファリサイ派はそれを安易に評価していました。だから、申命記を用いて男性が妻を離縁しやすいようにしてしまっていたのです。家長は自分の思いとおりに権力を行使するのは間違っているとキリストは言おうとしておられます。

 

【不法な結婚】

 家の中でキリストは弟子たちにさらに教えられたとあります。ここでは三つのことを挙げたいと思います。まず、同じような記事はマタイ19:1-12に記されています。マタイ19:9で「不法な結婚でもないのに」という言葉が記されています。実際、不法な結婚が行われていました。例えば人身売買的な結婚です。そういう結婚で束縛されている人の離婚を不当とすることはできません。

【男女平等】

第二に、キリストは夫と妻の両方を挙げています。妻の場合、離婚の申し立ては不利な立場におかれていました。ところがキリストは区別をされていません。夫も妻も同じように扱われなければならないという意味です。今日では結婚は両性の合意によるのであって、一方的ではないとされていますから、キリストの指摘は当たり前のことにあっていますが、当時はまったく事情は異なります。

 

【姦通の罪】

第三に、妻を離縁して他の女と再婚すると「姦通の罪を犯す」とあります。なんともおどろおどろしい表現のように見えます。しかし、ここは、姦通の罪を犯させると理解すべきです。当時、妻は不当に離婚させられました。つまらない理由で夫が妻を追い出したのです。彼女には何の落ち度もありませんでした。そのような女性は社会的には不遇な立場におかれます。彼女から申し立てた裁判では申し立てどおりになっても彼女は汚名を着せられました。それは不当なことです。その上、離縁されたものの生活は惨めな場合が圧倒的に多かったのです。よほどの財産を持っていなければ離縁された女性の境遇は極めて悲惨でした。だから、再婚するしかありません。不本意な再婚である場合が多かったのです。こういう不本意な再婚を強制的にさせることは罪を犯させることと同じです。離婚そのものをキリストは罪だとか邪悪だとかいわれていません。むしろ、不当な扱いを受けざるをえない女性に対して同情以上に好意的です。言い換えれば恣意的な離婚の権利を振舞わす男性を断罪するものと見てもよいでしょう。弱い立場に追いやられるものの味方になろうとされるのがキリストです。

 

 ここに記されていることは、今日の結婚、あるいは離婚にそのまま当てはめると変な話になります。同時に、不当な扱いをされているもの、それは男女を問いません。そのような苦しむものにとってキリストがどういう考えを持っておられるかを知ることは大きな慰めです。そして、さらに大切なことは自分の欲していることを聖書から合理化して正当とするのではなく、もし過ちがあれば主に許しを求めるべきです。主の十字架を仰いで、許しを求め、許されている幸いを感謝して立ち上がるべきなのです。(おわり)





2015年08月23日 | カテゴリー: マルコによる福音書

2015年8月16日説教「本当に恐れるべきこと」金田幸男牧師

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聖書:マルコによる福音書9章
41 だれでも、キリストについている者だというので、あなたがたに水一杯でも飲ませてくれるものは、よく言っておくが、決してその報いからもれることはないであろう。
42 また、わたしを信じるこれらの小さい者のひとりをつまずかせる者は、大きなひきうすを首にかけられて海に投げ込まれた方が、はるかによい。
43 もし、あなたの片手が罪を犯させるなら、それを切り捨てなさい。両手がそろったままで地獄の消えない火の中に落ち込むよりは、片手になって命に入る方がよい。
44 〔地獄では、うじがつきず、火も消えることがない。〕
45 もし、あなたの片足が罪を犯させるなら、それを切り捨てなさい。両足がそろったままで地獄に投げ入れられるよりは、片足で命に入る方がよい。
46 〔地獄では、うじがつきず、火も消えることがない。〕
47 もし、あなたの片目が罪を犯させるなら、それを抜き出しなさい。両眼がそろったままで地獄に投げ入れられるよりは、片目になって神の国に入る方がよい。
48 地獄では、うじがつきず、火も消えることがない。
49 人はすべて火で塩づけられねばならない。
50 塩はよいものである。しかし、もしその塩の味がぬけたら、何によってその味が取りもどされようか。あなたがた自身の内に塩を持ちなさい。そして、互に和らぎなさい」。


説教「本当に恐れるべきこと」

 マルコ9章42-50

 

要旨

イエス・キリストが弟子たちだけを集めて語られた教えが続きます。42節以下50節までは三つの部分(42、43-48、49-50)に分かれていますが、それぞれ別個の教えとも取れます。しかし、つながりがあるとも考えられます。その見方でこの部分を学びたいと思います。

 

【小さな者】

まず42節ですが、41節と結びついていると考えられます。「小さな者」とは子どもを意味しますが、ここでは「わたしを信じる」とありますから、イエス・キリストの弟子たち、しかも12人の弟子たちだけではなく、広くその他の弟子をも指していると見るべきです。

 

イエス・キリストを信じているものたちを躓かせるものは首に石臼を巻きつけられて海、この場合はガリラヤ湖に投げ込まれたほうがいい。石臼を首に結わえられて湖に放り込まれたら溺死は避けられません。生きたままですから、当然苦しみながら死ななければなりません。これは法に則った処刑ではなく、個人的な憎悪からなされる私刑ではないかという人もいます。できるだけ苦しむように殺すやり方です。

 

キリストの弟子たちを躓かせるとは、キリストの弟子として生きることを妨げる行為を意味しています。キリストの教えに従うことを阻み、その道から落伍させてしまうようなこと、その中には暴力的に圧迫して棄教させることも、誘惑で信仰の道から外れてしまうようにすることも含みます。

 

キリストの弟子たちを惑わせ、試み、信仰から逸脱させるようなことをするものは、ひどい殺され方で死ぬほうがよほどましだ。キリストの言葉は激烈です。世間では宗教とか信仰とかは小さな問題で、信仰の道を行くものを脱落させても些細な問題だと思われています。

 

しかし、キリストは弟子を信仰から外れるようにすることは最大級の悪虐行為だとしています。罪を犯させることは決して神の前では小さな問題ではありません。それは恐るべき邪悪な行為なのです。宗教など小さな問題、取るに足りない問題に過ぎないと片づけられてしまいます。神の眼からすればそうではありません。小さいもの=キリストの弟子たちに一杯の水を施すものには大きな報いがあります。その逆にキリスト者を躓かせるものは最大級の処罰があります。

 

43-48節には、手、足、目が取り扱われます。一方の手、足、目が躓かせる。罪を犯させるという意味です。42節で躓かせるのは外部の人間を指していましたが、ここでは本人です。本人の手、足、目が躓かせる。罪を犯させる。その根っこには邪まな願望や欲望があるでしょう。何かを無闇に欲しがるようなことを念頭に置けばいいのでしょう。その場合、片手、片足、片目を切り捨てたり、潰したりしたほうがよい。両手、両足、両岸が無事だが地獄に陥るよりもそのほうがよほどよい。

 

【地獄:ゲヘナ:ベン・ヒノムの谷】

ここで地獄と訳されている元の言葉は「ゲヘナ」です。このゲヘナは、実在するヘブライ語でいうベン・ヒノムの谷のことなのです。ヘブライ語をギリシヤ語で読むとゲヘナとなるのです。

 

ベン・ヒノムの谷とは丘の上に立つエルサレムの右側の谷を指します。ここは旧約聖書に出てきます。列王記下23:10にはヨシヤ「王はベン・ヒノムの谷にあるトフェトを汚し、だれもモレクのために自分の息子、娘に火の中を通らせることのないようにした。」

 

モレクは近隣の諸国で礼拝されていた偶像神ですが、ベン・ヒノムの谷ではその神が礼拝されるだけではなく、子どもを犠牲ささげていたというおぞましいことが行われていました。ヨシヤ王は改革の中途でエジプト軍と戦いあっけなく戦死をします。その後のユダの状況はエレミヤ7:31-32で知ることができます。「彼らはベン・ヒノムの谷にトフェトの聖なる高台を築いて息子、娘を火で焼いた。このようなことをわたしは命じたこともなく、心に思い浮かべたこともない。それゆえ、見よ、もはやトフェトとかベン・ヒノムの谷とか呼ばれることなく、殺戮の谷と呼ばれる日が来る、と主は言われる。そのとき、人々はもはや余地を残さぬまで、トフェトに人を葬る。」

 

ユダ王国滅亡寸前の時代までこのような悪弊が行われていました。こののち、この谷はエルサレムのゴミや汚物が投げ込まれる場所とされました。また、死んだ動物の死体も、ときには人間の死体も投げ込まれました。エルサレムの町から見ればいつもゴミを焼く火が見え、悪臭が漂い、骸骨さえ転がっている薄気味悪いところとされました。エルサレムの人たちはそれが地獄絵のように見えたのです。醜悪で、汚染し、気味が悪い、とても人間のいるべきところではない様子を見て、地獄とはこのようなところだと想像したのです。

 

聖書には不思議なことに地獄についての詳しい描写はありません。48節では「蛆が尽きず、火も消えない」と言われていますが、これだけでは地獄が十分に描写されていません。地獄に行って戻ってきた人はありませんから当然のことかもしれません。ゲヘナつまり地獄とはベン・ヒノムの谷のようなところだと想像されました。それはあたかも地獄絵のようだと思われたのです。

 

地獄はそれ以上の、想像を絶した恐ろしいところとしかいいようがありません。地獄の存在を否定する人が多くいます。しかし、聖書は、人間の目で見る最悪の災害、それは人災であり、自然災害であるのですが、特に戦争などが引き起こす悲惨な光景はまるで地獄のような風景です。地上にも地獄のような光景が展開されます。しかし、それは地獄そのものではありません。地獄は想像を超えたところであり、景色なのです。

 

地獄はそれは恐ろしいところです。もし、手、足、目が私たちを躓かせるならば健全なまま地獄に落ちてしまうでしょう。しかし、両手、両足、両眼が健全なまま地獄に落ちてしまうよりも片手、片足、片目を失うほうがよほどいい。イエス・キリストの言葉はここでも過激です。しかし、私たちは躓き、つまり、罪によって神から裁きを受けることを恐れるべきなのです。それは本当に恐ろしいことなのです。躓き以上に恐ろしいことはありません。罪を犯すことは些細な問題ではありません。罪は放置しておけば地獄に落ちてしまう原因となります。それは最大級に私たちが警戒すべきことなのです。ところが、手が、足が、目が、罪を犯しても平気、些細な問題と片づけけられています。これは恐ろしいことなのです。これこそ身震いするべき重大問題です。

 

地獄は恐ろしいところです。しかし、私たちには想像を超えています。罪がもたらす地獄の問題は小さい問題ではありません。それは世界最大級の問題です。ところがこの罪の問題ほど軽く思われているものはありません。罪がもたらす大きな災いを誰も念頭に置きません。地獄の問題は空想とされます。だから、罪の結果が地獄だと言われても平気です。この世の地獄を見たと言う人でも、神が用意されている本当の地獄が恐ろしいとは思いません。この世界の地獄絵以上に地獄は悲惨なのであり、悲劇的なのです。キリストはこのように罪の結果を軽視することに警告を発せられます。

 

49-50節は、43-48節と直接に関係にない話のように思われるかもしれません。塩のたとえ話です。しかし、49節で「人は火で塩味をつけられる」とあります。この火は前とのつながりから言えば地獄の火と言うことになります。人間と言うものは地獄の火で味気がつく。地獄絵を見たものはそれによって塩味をつける。ところが当時の塩は岩塩を砕いて利用しました。岩塩には不純物が含まれ、塩化ナトリウム以外の物質が含まれています。そういうところをいくら砕いても塩味にはなりません。まさしく味気がありません。何の役にも立たないのですが、いくらこの世の地獄を見たと言っても、それで味気を持たないなら何とも食えたものではありません。

 

地獄を想像し、あるいは恐れ、身を引き締めることもないようなものは塩気がないために食べても味のないつまらないものとなります。地獄を教えられても、それを聞き流すだけ、あるいは無視するだけ。そういう人は結局、塩味のない食べ物と同様と言うことになります。

 

では、塩が塩気を失えばどうするか。そのような塩は捨てられるだけですが、もうひとつの方法は自分の内に塩を持つことだと言われます。この塩とは何なのでしょうか。地獄と言う火で塩味をつけられない場合どうするか。そのままでは煮ても焼いても食えない状態、つまり何の役にも立たない状態です。しかし、塩を内に持つことができます。

 

【塩の役割】

その場合の塩とは何か。旧約聖書を思い起こします。レビ記2:13「穀物の献げ物にはすべて塩をかける。あなたの神との契約の塩を献げ物から絶やすな。献げ物にはすべて塩をかけてささげよ。」神は日々穀物のささげものをささげることを命じられます。ささげものは献身のしるしです。それは動物の犠牲だけではありません。ささげるのは祭司ですが、それは民の代表として行なう行為です。そして、このささげものには塩を加えなければなりませんでした。

 

 塩はむろん保存用に用いられるのですが、そのような実用以上の目的がありました。それは神との契約を示す役割です。イスラエルの民は穀物に塩を混ぜた供え物をささげて、神との契約を確認しました。契約は、神がイスラエルの神、イスラエルは神の民であると言う契約です。こうしてイスラエルは神から特別の民とされ、憐れみと救いの対象とされます。塩はこの神の契約のしるしでした。

 

塩は契約の神に対する信仰を示します。神こそ契約を締結して私たちを贖われる。この塩を内に持つとは契約の確かさを真実に信じる信仰に他なりません。

 契約の民であることの自覚は、互いに平和であることに結びつきます。イエス・キリストの12人の弟子たちの間に亀裂が生じそうでした。キリストはそれを察知して、弟子たちに、まことのささげものの塩を持ち、互いに契約の民と自覚して、互いに一致せよと命じられていると受け取ることができると思います。(おわり)

2015年08月16日 | カテゴリー: マルコによる福音書

2015年8月9日説教「本当の味方はだれか」金田幸男牧師

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説教「わたしの味方」

 

聖書 マルコによる福音書9章38-41

38 ヨハネがイエスに言った、「先生、わたしたちについてこない者が、あなたの名を使って悪霊を追い出しているのを見ましたが、その人はわたしたちについてこなかったので、やめさせました」。

39 イエスは言われた、「やめさせないがよい。だれでもわたしの名で力あるわざを行いながら、すぐそのあとで、わたしをそしることはできない。

40 わたしたちに反対しない者は、わたしたちの味方である。

41 だれでも、キリストについている者だというので、あなたがたに水一杯でも飲ませてくれるものは、よく言っておくが、決してその報いからもれることはないであろう。

 

要旨

 イエス・キリストは弟子だけを集めて、ぐるりと取り囲んでいる彼らの中に座して教えられます。ただ一方的に話をされるだけではなく、意見を聞き、質問に答えられました。その一つがここに記されています。

 

【使徒ヨハネ】

それはヨハネの言葉です。マルコ福音書で、ヨハネが単独で語っているところはここだけです。ただし、彼は「私たち」という言葉を使っています。ヨハネが語っていますが、他の弟子たちを代弁しているといってよいでしょう。ただヨハネが代表して語ったことには意味があると思われます。

 

【あなたの名を使って悪霊を追い出す者

 ヨハネの意見は、イエス・キリストの名を用いて悪霊を追い出しているものがいるが、止めさせた、というものです。この当の悪霊を追い出している人物がどういう人なのかここからは分かりません。イエスの名を用いるとはイエスの権威によって行う行為に他なりません。

 

この人は12人の弟子たちとは違う人物です。しかし、イエスの名を用いるからにはイエスのことをそれだけよく知っていたことを示します。悪霊追放は医療行為のようにも見られていました。この人物はそういうところから医師のような働きをしていたのかもしれません。イエスの名を用いるとたいへん効果的であることを学んでいたのです。営利事業のようにしていたかもしれません。彼が広い意味でのキリストの弟子団に属していたかどうか分かりませんが、可能性は高いと思います。

 

 12弟子はこの人物を不快に思っていたことは確実です。その理由はいろいろと推測できます。ヨハネはそうでありませんでしたが、他の弟子たちは、てんかん症状を引き起こす悪霊を追い出すことに失敗していました。ところが12人の弟子でもない人が悪霊を追い出している。失敗ばかりしていると成功している人をねたましく思うものです。12人の弟子ではない、いわば格が低いものが悪霊を追い出すという奇跡を行うことができる、それはなかなか理解できないことでありました。したがって意識しないまま、弟子たちはやめさせた。つまり、悪霊追放を妨害することになります。

 

【悪霊追放の権能】

第二に、悪霊追放は特別な権能です。弟子たちはそれを授けられました。ところが、その権能行使に関してはあまり交遊もない人物が悪霊を追い出しています。これは弟子たちの持っている特権を害することになる。弟子たちにして見ればけしからぬことに思われたはずです。自分たちだけに許されている悪霊追放を実行している。これは特権を侵害するものと考えられます。そして、弟子たちのエリート意識を叩き壊すことになります。神の国が完成するとき、その国で弟子たちは特別な地位を獲得するでしょう。弟子たちにしてみれば、イエスの名で悪霊を追い出すこの人物は12人の弟子たちの自尊心を傷つけるものであったはずです。

 

 キリストの弟子たちの心理状態はもっと分析することが出来るでしょうが、とにかくその行動を阻止しなければならないと思ったことは確実です。ヨハネが登場するのはこのためであったと思います。ヨハネはボアネルゲス(雷の子)と呼ばれていました(マルコ3:17)。推測に過ぎませんが、ヨハネは大きな声の持ち主であったかもしれません。ヨハネが大声でその悪霊を追い出している人の行動を止めさせたこともありえます。大きな声はそれだけで威嚇になります。

 

【わたしの名で力あるわざを行いながら、わたしをそしることはできない】

 ところがイエス・キリストの言葉は意外なものです。まず止めさせるな、と言われます。イエスの名で悪霊を追い出して成功しているなら、奇跡を行った直後にキリストの悪口は言えまいといわれます。キリストの名によって悪霊を追い出しています。悪霊追放はキリストの権威に基づきます。奇跡を行った直後にそのイエスの悪口を言うと、先に行った奇跡は信用されなくなります。イエスの名で、その権威で奇跡を行ったのですから。

 

【わたしの味方とは】

 そして、キリストは、「わたしに逆らわないものは、わたしの味方である」といわれます。普通、キリストに敵対するものは敵である。これはそのとおりです。敵味方を明確にしたがるのが私たちです。敵か味方か、はっきりしたいのです。すると、イエス・キリストに反対はしない、ただ、傍観者の立場にいるだけ。こういうあいまい態度表明をする人をどうするか。しばしばそういう人たちを敵扱いすることが多いのではないでしょうか。キリストに逆らわないけれども、態度を曖昧にしたままとか、一定の距離を保ったままにする人を敵対するものと同類にします。そういう人は卑怯者、あるいは、信念に欠ける人物扱いするというようなこともおきます。

 

 キリストに対して何らかの事情もあって明確に態度を示せない場合も多々あります。しかし、それでキリストを否定しているのでもありません。キリスト教信仰を嫌悪したり、敵意を持って眺めているのでもありません。そういう人たちはキリストに逆らっているのではありません。キリストは大胆にもそういう人たちはわたしの味方であると断言されます。

 

 いわば中立の人もいます。あるいは中間を好む人もいます。しかし、キリストは彼らを敵だとは言われません。むしろ、味方なのだ。

 私たちはともすれば教会員とは味方であるが、そうでない教会の外の人たちを敵対者と見なす傾向にあるのではないでしょうか。欧米では一応キリスト教国となっています。生後あまり時間の経たない内に洗礼を受けます。こういうところでは、信仰を明確に告白していない人も当然キリスト者扱いです。信仰があるかないか判断することができません。それでもその人たちはキリスト者扱いです。翻って日本では、明確な信仰的な態度が表明できなければならないという先入観があり、明確に信仰を持っていない人はキリストの弟子団の外にあるかのような扱いを受けます。そして、神の国から疎外されているかのようです。

 

【わたしたちに反対しない者は、わたしたちの味方】

 罪人を救うのは神の主権です。誰を救うか神の御心にあります。だから、私たちが勝手にキリストをはっきりと信じて、信仰の態度を明らかにしない人はみな「非」信者であって、救いからはるかに遠いと見なされます。それが信者の家族でも同じです。信仰を告白していなければ教会の外に放り出されているものたちという観念と結びつきます。しかし、キリストは、キリストに敵対しない人、その中には中立を決め込む人もいるでしょう。傍観者の立場のままでいる人もいます。態度を表明しないままの人もいます。キリストはそういう人もキリストの味方であると言われます。はっきり信仰を告白していなくても、キリストに対して好意的な人はたくさんいます。そういう人をキリストはわたしの味方なのだといわれます。家族、伴侶、友人知人、地域の住民・・・そういう人に中にはキリスト教に対して反対をしないという人も多くいます。キリストはそういう人をどうご覧になっているのか。少なくともキリストの敵だとはされていません。

 

 確かに信仰を明確に表明しないし、洗礼を受けることもしない、そういう人は周囲にたくさんいます。私たちは少数派ですから周囲はすべて異教徒です。異教徒だから私たちはいつも敵対すべきなのでしょうか。少なくとも敵と見なすべきなのでしょうか。そうではありません。

 

 キリストに対して明確に敵対しない人をキリストは味方であると認められたこの原則は今日こそ大いに適用されるべきなのです。

 

【弟子に、水一杯を飲ませるものの報いは大きい】

 キリストはもうひとつの言葉を与えられます。キリストの弟子という理由で、キリストの弟子に水一杯を飲ませるものに大きな報いがある。のどが極度に渇いているとき水を与えられることは大きな感激です。しかし、実は水一杯のもてなしほど小さな行為はありません。イスラエルの人々にとって、宿を提供すること、食事を整えることこそ大きな美徳とされていました。水一杯などささやかな親切でしかありません。ローマ帝国下でキリスト者が迫害されているとき、キリスト教に好意的だというそれだけの理由で逮捕されたり、投獄されたりしました。キリスト者とは関わりを持たないということが賢明な策であったかもしれません。しかし、人目を忍んでキリスト者に水一杯だけを与える。これは最小限の親切でした。キリストはこのような親切に対して報いを与えると宣言されます。報いは小さなものではありません。神が報われるのです。それは素晴らしい祝福そのものを含むでしょう。キリスト教はときに迫害されます。そのようなとき、キリスト者は萎縮してしまい、孤立するということがおきます。誰をも信頼せず、ひたすら嵐が収まるのを待つ。このような接し方をする場合が多いと思われます。

 

【キリストへの善意から】

 しかし、私たちはこの世でも、同じような経験をします。周囲はすべて敵対するものばかりです。そのような中で、私たちはどうするべきか。

 周囲はすべて敵だと決め付けるような態度は正当ではないと思われます。冷たい水一杯だけですが、それでも親切心から出る好意を示されます。たかが水一杯と考えるべきでしょうか。そうではなく、そのような行動の背後にあるものを見なければなりません。それはキリスト者への、すなわちキリストへの善意です。私たちは緊急事態のときでも、困難なときでも、そこに人々」の助けを受けることになります。彼らは敵ではありません。敵ではないものは味方なのです。敵ではない態度、言動を示す人たちを私たちはキリスト者ではないから切り捨てたいと思うこともあります。けれども彼らは神から報いを受けています。神の報いは小さなものではありません。

 

 味方であれば、無理やりに敵意を示す必要もありません。キリストの味方である以上は、彼らを神がよく扱い、ついには神の救いの恵みにあずかるように祈っていかなければなりません。それこそ、彼らの心が開かれるきっかけとなるでしょう。(おわり)

2015年08月09日 | カテゴリー: マルコによる福音書

2015年8月2日説教「誰がいちばん偉いのか」金田幸男牧師


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 マルコによる福音書9章30~38節

説教「誰が一番偉いのか」

聖書 マルコ9章30-37

 

要旨 新共同訳聖書では、9章30-32と33-37はふたつの部分に分けられていますが、相互に関連するものとしてまとめて取り扱いたいと思います。

 

イエス・キリスト一行はそこを去ったとありますが、14-29節がフィリポ・カイサリア地方で起きたことでありますと、一行は南のほうに下り、ガリラヤ地方のカファルナウムに至ったと考えられます。そこでは家に着いたとありますが、いつもカファルナウムではペトロの家を用いていたと思われます。

 

【弟子たちにだけ語るイエス】

30節では人に気づかれるのを好まなかったとあります。以前は公然と群衆を相手に語っておられましたが、このたびはそのような人々を避けられます。なぜこんなことをされたのか。ひとつは働きの範囲をガリラヤからエルサレムに移すため、ガリラヤでの働きにピリオドを打つためであったと考えられますが、その他にも目的があったと思われます。キリストは31節では弟子たちにだけ語られ、33節では家の中で、つまり群衆を避けて、弟子たちだけを集めて教えを語られます。

 

35節にある、弟子たちとをぐるりと座らせ、ご自身が彼らの前に座る光景は当時の教師が弟子を教えるスタイルそのものでした。キリストは腰を据えて弟子たちに特別に教えようとしておられます。ではこんなことをしてまでもう一度弟子たちを一から教えようとされたのでしょうか。

 

弟子たちに、人の子=メシヤは苦難を受け、死に、しかし、復活すると二度も語られています(8:31)。同じことを二度繰り返すのは強調のためという場合があります。ここは強調とは思えません。むしろ、弟子たちの無理解が原因であったと思います。キリストは肝心要のことを語ろうとしています。

 

ところが最初のときもペトロがそのようなメシヤをまったく拒否する態度を示し、そのためキリストから厳しい叱責を受けます。弟子たちは二回目のキリストの言葉を聞かされました。

 

8:31と9:31の違いは若干記されます。9;31では長老、律法学者、祭司長から排斥を受けるとありますが、彼らは最高法院=サンフェドリンを構成します。最高法院はユダヤ人の宗教問題について裁判権を持っていました。ここでは「渡される」とあります。誰が渡すのか明記されていません。当然、キリストを渡したのはイスカリオテのユダでしたが、ユダというよりも神ご自身がキリストを渡されたのだという解釈もあります。これは興味深い理解です。

 

キリストの苦難は最高法院が裁判を行い、あるいは裏切ったものが神殿警察に身柄を引き渡したことを意味しますが、実はそうされたのは神であり、キリストは無実であるのに裁判にかけられ、処刑される。あるいは、死に渡される。それはキリストの苦難が神の計画の実現に他ならないことを示します。

 

【弟子たちはメシヤの苦難と復活の意味が怖くて尋ねられない】

弟子たちは再度キリストからメシヤの苦難と復活を語られるのですが、今回はその意味を尋ねることが出来ませんでした。その理由は怖かったからだと記されます。

 

分からないことは尋ねよ、は解決の秘訣ですけれども、弟子たちは恐れから聞けなかったのです。聞けないのは、彼らがメシヤについて今まで教えられ、信じてきたことをひっくり返される不安を感じたからだと思われます。ユダの人々にとってメシヤの期待は民族の希望であり、信仰であり、確信でした。それがひっくり返らされようとしています。イエスのいう人の子=メシヤは彼らが思ってきたメシヤと違っていたのです。さらに、弟子たちの間に亀裂があったのではないかと推測します。ペトロ、ヨハネ、ヤコブの3人は主の栄光を垣間見ました。誰にも語るなと命じられていましたが、何かあったと他の弟子たちは思ったはずです。そして、残りの9人は悪霊を追い出すことが出来ませんでした。これは失策です。弟子たちの間にふたつのグループが出来そうです。それは分裂の兆しです。

 

弟子たちには信仰的不十分さが見られます。長い間キリストと行動を共にしながら理解は不十分、こういうことは起こりえます。私たちの教会も肝心の信仰の中心が曖昧になったり、分裂が起きたりします。危機的状況と言ってもよいでしょう。そのときどうしたらいいのでしょうか。いろいろ知恵を集めてあれでもないこれでもないと議論をしても始まりません。世間の知恵を借りて問題解決を図ろうとします。その道の専門家から忠告を聞こうとします。しかし、全然解決しないのです。

 

【キリストに聞く】

イエス・キリストはどういう方法を取られたでしょうか。弟子たちを集めて直接教えられました。問題を解決する方策はキリストに聞くことです。それ以外に方法はありません。私たちはいろいろの声に耳を傾けるべきでありますが、それは決定的な方向を示される道ではありません。困難なとき、惑うとき、悩むとき、私たちはキリストに答を見い出すべきです。聖書にはキリストのみ言葉が記されます。だから、聖書に聞き、答を求めるのです。この世の人々が言うような解決策ではないかもしれません。でも、そこにキリストの意志が示されます。それが最も正しい道なのです。

 

 弟子たちは議論をしていたのでキリストは尋ねられたとあります(33)。メシヤの苦難と復活については問うことが出来ませんでした。しかし、メシヤが来るとき神の国が完成するという信仰は弟子たちの共通の信仰でした。神の国は神の直接的な支配を意味します。弟子たちはそのような国が現実に成就すると信じていたのです。もっといいますと、弟子たちにとっては、神の国はローマ帝国のようなユダを圧迫する国家を打ち倒すことで成立し、ローマ帝国のような強国を打倒する現実の国家なのです。

 

神の国は弟子たちにとっては夢幻の国家ではなく、現実に存在する新しい国家そのものでした。むろん、神の国についてさまざまな考え方がありましたが、弟子たちがそこで高い地位を得られると言う望みを抱いていました。ところが弟子たちの中で3人組とその他の弟子たちの間で亀裂が生じ、神の国が完成したとき誰が一番高い地位につくかと議論を始めたと考えられます。

 

【間違ったメシヤ理解】

根本にはメシヤについての理解に間違いがあります。弟子たちはキリストから再度メシヤの苦難と復活を教えられましたが、受けいれられず、固執していました。それだけではなく、その国で高い地位に付くのは誰か議論をしていたのです。キリストは弟子たちの不十分さを叱り付けられていません。むしろ、神の国で一番偉いのは誰かということを教えられます。

 

【神の国では一番えらいものとは】

 キリストの教えは、一番えらくなりたいと思うものは仕えるものとなれというものであり、そのためにキリストは子どもを彼らの前に連れ出されます。この子どもはペトロの家のものかもしれません。ある注解書によると、アラム語では子どもと召使は同じ語であるそうなのですが、そうであればキリストが子どもをみんなの真ん中の立たせたのはどういうことか分かります。

 一番えらいものは誰か。一番先に立つもの、先頭を切るものは誰か。それは一番あとのもの、身分が低いものだと言うことになります。仕えるものとは、召使、奴隷のことです。当時の社会では身分の違いは決定的でした。ところが神の国が来たとき起こることは何か。それは普通に考えられているのとはまったく違う事態なのです。神の国では一番えらいものとは召使のように人に仕えるものだ。

 

 一番えらいものは最高の召使、奴隷なのだと言われます。つまり、神の国で実行される原則は、この世界とは逆なのです。子どもは古代ローマ社会では価値のないものとされていました。父親は嬰児を殺害する権利を持っていましたし、成長した子どもを奴隷として売り払うことも認められていました。子どもが権利を認められる、いえ、それ以上に人格を認められるようになったにはほんの数百年までで、それまでは子どもの権利などまったく認められていませんでした。キリストはそのような子どものようなものが神の国では権威があるとされています。

 

 そして、教会はその神の国の予表です。教会は予め完成された神の国を示します。ですから教会は神の国で通用する原則が生きているところです。教会では最高の地位あるものは一番へりくだっているものです。

 

 教会で、上に立つものが権力を振るうということがよく起きます。物理的な力、暴力さえときに用いられます。しかし、教会が神の国を予め示すものであれば、その教会は神の国で通用する原則に生きているところといえます。

 

 神の国の主はキリストです。そのキリストは、神の子でありながら、その栄光をかなぐり捨てて人となり、それどころか私たちのためにご自身を犠牲にされました。それはしもべの姿でした。キリストは最高に仕えるものとなられました。キリストこそ模範です。

 

 キリストのなされたことはこの世界の知恵とはまったく逆です。この世界では力を持つものが上に立ちます。政治的権力を握るもの、金の力を掌握するもの、ときには伝統とか技量とかを振るって上に立とうとします。地位とか学歴もときには上に立つための条件とされます。能力のあるものがもてはやされ、上に立つものと見なされます。キリストはそうではないと宣言されます。

 

 キリストの言われていることは理解はできます。ただ実践できるかと言われるとそうではありません。この世界のただなかに生きている私たちは、キリストの弟子たち同様、この世の原則や価値観で行動します。キリストの教えと齟齬を来たします。それが当然です。神の国の原理はこの世と異なります。私たちは神の国の原則に立つときこそ、神に受け入れられます。

 

子ども=価値がないと思われているものを受け入れる、それはキリストの教えを受け入れることです。キリストを受け入れるものには神を受け入れることになります。神を受け入れることこそ、神に受け入れられる条件となります。キリストの弟子たちは、このようにして正しい道を歩むことが出来るようになるのです。(おわり)

2015年08月02日 | カテゴリー: マルコによる福音書

2015年7月26日説教「信じるものは何でもできる」金田幸男牧師

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聖書:ルコによる福音書9章
14 さて、彼らがほかの弟子たちの所にきて見ると、大ぜいの群衆が弟子たちを取り囲み、そして律法学者たちが彼らと論じ合っていた。
15 群衆はみな、すぐイエスを見つけて、非常に驚き、駆け寄ってきて、あいさつをした。
16 イエスが彼らに、「あなたがたは彼らと何を論じているのか」と尋ねられると、
17 群衆のひとりが答えた、「先生、口をきけなくする霊につかれているわたしのむすこを、こちらに連れて参りました。
18 霊がこのむすこにとりつきますと、どこででも彼を引き倒し、それから彼はあわを吹き、歯をくいしばり、からだをこわばらせてしまいます。それでお弟子たちに、この霊を追い出してくださるように願いましたが、できませんでした」。
19 イエスは答えて言われた、「ああ、なんという不信仰な時代であろう。いつまで、わたしはあなたがたと一緒におられようか。いつまで、あなたがたに我慢ができようか。その子をわたしの所に連れてきなさい」。
20 そこで人々は、その子をみもとに連れてきた。霊がイエスを見るや否や、その子をひきつけさせたので、子は地に倒れ、あわを吹きながらころげまわった。
21 そこで、イエスが父親に「いつごろから、こんなになったのか」と尋ねられると、父親は答えた、「幼い時からです。
22 霊はたびたび、この子を火の中、水の中に投げ入れて、殺そうとしました。しかしできますれば、わたしどもをあわれんでお助けください」。
23 イエスは彼に言われた、「もしできれば、と言うのか。信ずる者には、どんな事でもできる」。
24 その子の父親はすぐ叫んで言った、「信じます。不信仰なわたしを、お助けください」。
25 イエスは群衆が駆け寄って来るのをごらんになって、けがれた霊をしかって言われた、「言うことも聞くこともさせない霊よ、わたしがおまえに命じる。この子から出て行け。二度と、はいって来るな」。
26 すると霊は叫び声をあげ、激しく引きつけさせて出て行った。その子は死人のようになったので、多くの人は、死んだのだと言った。
27 しかし、イエスが手を取って起されると、その子は立ち上がった。
28 家にはいられたとき、弟子たちはひそかにお尋ねした、「わたしたちは、どうして霊を追い出せなかったのですか」。
29 すると、イエスは言われた、「このたぐいは、祈によらなければ、どうしても追い出すことはできない」。

2015年07月26日 | カテゴリー: マルコによる福音書

2015年7月19日説教「苦しみを受ける救い主」金田幸男牧師

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説教「苦しみを受ける救い主」

聖書 マルコ福音書9章9-13


9 一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことをだれにも話してはいけない」と弟子たちに命じられた。

10 彼らはこの言葉を心に留めて、死者の中から復活するとはどういうことかと論じ合った。11 そして、イエスに、「なぜ、律法学者は、まずエリヤが来るはずだと言っているのでしょうか」と尋ねた。

12 イエスは言われた。「確かに、まずエリヤが来て、すべてを元どおりにする。それなら、人の子は苦しみを重ね、辱めを受けると聖書に書いてあるのはなぜか。13 しかし、言っておく。エリヤは来たが、彼について聖書に書いてあるように、人々は好きなようにあしらったのである。」


 

要旨

【このことはしゃべるな】

 おそらくヘルモン山だと思われますが、そこで、キリストは栄光の姿に変えられました。その山から降りてくるとき、キリストは誰にもこのことはしゃべるなと命じられます。ただし、それは条件がついています。人の子=メシヤが死者の中から復活するまでは誰にも言うな、と言われました。

 

キリストは復活した後はそれを明らかにしなければならないのです。なぜしゃべるなと言われたのか。それは復活までに他の人に語られると誤解を生じるからです。特に山上での変貌が予示するキリストの復活について間違った情報が伝えられかねない、これが禁止理由であったと思います。

 

【復活とは何か、弟子たちの議論】

事実、弟子たちは、キリストが復活するまで誰にも話すなといわれましたが、早速復活について議論を始めています。キリストが言う復活とは何か。

 

 今日でも復活についてはさまざまな見解が流布しています。

 

一番多いのは、復活などありえないと言う立場ではないでしょうか。聖書に書かれてあることで一番信じがたいのはこの死人の復活です。死者がよみがえるということを頭から否定する人が圧倒的に多いことでしょう。

 

あるいはキリストは仮死状態であった、その後蘇生をしたのだが弟子たちはそれを復活と勘違いしたのだというものもあります。

 

また、復活は弟子たちの精神が異常な状態になっていたときの幻視、あるいは思い込みだという説もあります。見なかったものを見たと妄想しているのだともいわれます。

 

現代ではどういうふうに信じられているか。キリストの最初の弟子たちが復活を信じたことは確かとされます。彼らはキリストの裁判、十字架上の処刑のとき、逃げてしまいました。ところが、その後弟子たちは命がけでキリストの復活を語り始めます。初代の教会がキリストの復活を信じたことは紛れもない事実です。それは確実だが、実際に復活があったかどうかはもう誰も証明できない。これが多くのキリスト教研究の専門家の結論です。これ以外にも復活に関してさまざまな見解があります。

 

弟子たちはキリストから「復活」という言葉を聞きましたが、その意味するところが理解できません。復活については当時既にいろいろな説がありました。弟子たちもどれが復活なのか分かっていなかったのです。それで互いに論じ合うのですが、ついに師であるイエス・キリストに質問をします。

 

【復活とはエリヤが再来する?】

律法学者はエリヤが来ると言っていますが・・・この質問と復活とどう関係するのだろうかと思われる方もいるでしょう。関係ない事柄だと思われても仕方がありません。しかし、エリヤに関する質問は復活をめぐる問いかけでもありました。律法学者の多くはファリサイ派に属していましたが、このファリサイ派が復活を信じていたことで知られています。使徒言行録23:8では、パウロは裁判の席につけられますが、そのとき、彼はサドカイ派が復活はないと主張し、ファリサイ派は復活はあるという立場で対立していることを見抜き、両者を対立させて、彼の見解に同調させようとします。律法学者の大半はファリサイ派に属していました。ですから、ここで挙げられている律法学者は復活を信じていたものと推測できますが、エリヤが来ると主張していたのは、ただ、恐るべき日の到来に先立ってエリヤが再来するという、マラキ3:23の預言を受け入れていたというだけではありません。

 

おそらく、律法学者は、エリヤの再来こそ復活だと主張していたのです。つまり、復活とはエリヤの再来に示されているというのです。

 

エリヤは列王記下2:11によれば、火の戦車に乗って天に挙げられたとあります。エリヤは向こうの世界、つまり、彼岸と言われているところに死を見ることなく送られたとされていますが、エリヤは生きているものから見れば別の世界にいました。ところが、エリヤは天に挙げられた者たちの中から戻ってくるとされていたのです。マラキの預言はそのようにしか読み取れないとされています。エリヤは死なない。そして、元の世界に戻ってくる。これが復活だとされたのです。

 

死を見ない。今日では形は少し違いますが、霊魂は死なない、不滅である。復活とはこの霊の再生に過ぎないとされます。死なない霊魂が戻ってくる。それが復活だ、こういう主張はのちの教会にも侵入してきます。グノーシスという立場は肉体は穢れている、肉体が復活するはずなどない。復活するのは霊魂だというのです。

 

【霊媒、口寄せの類の厳禁】

聖書は生きているものと死者の間を峻別します。その間に交流はあってはならないとされます。その証拠が霊媒、口寄せの類の厳禁です。律法はそれらを厳禁しています(申命記18:11)。この禁を破ったサウル王は悲惨な最期を遂げます。彼は王として解決できない問題に直面し、既に死んでいるサムエルの霊を呼び出そうとします。それはしてはならないことでした(サムエル記下28章)。ここから明らかになるのは、死んだものと生きているものは交流できないことです。

 

むろん、死者が生きているものと関わるような実例は今日でもあるかもしれません。そういう不可解な現象がないと断定はできません。合理的に説明できないことも多々あります。死者の亡霊と生きているものが出会って対話するような事例もあるでしょう。そういうことは一切ないとはいえないと思います。しかし、そういうことがあろうとも、神はそれを厳禁されています。死(者)の世界は生きているものの世界とは隔絶してしまっています。ところがサウル王はそれを超えてしまったのです。

 

 エリヤが戻ってくるのであれば、死者の世界から現世へ戻ってくることを意味します。エリヤは死ぬことなく天に挙げられたとはいえ、現世にいたわけではありません。そもそも、エリヤは戻ってくることができるのでしょうか。ここをよく読めば、主イエスはエリヤの再来を復活などと肯定されているのではありません。つまり、律法学者のいう復活をキリストは認めておられるのではありません。ただし、エリヤが来ることをキリストは認めておられます。マラキの預言は成就しなければならないのです。マラキは終わりの日にエリヤは来ると語りましたが、その預言はむなしくなることはありません。マタイ11:14では、イエス・キリストご自身、洗礼者ヨハネがエリヤだといわれています。「あなたがたが認めようとすれば分かることだが、実は、彼が現れるはずのエリヤである。」

 

しかし、キリストは、では洗礼者ヨハネがエリヤの生まれ変わりだとか、あるいは変身をしたものだとか言われているのでは決してありません。そういうことを復活というのではありません。天上にいる、死ななかったエリヤが戻ってくることを復活とは言いません。あるいは生まれ変わりでもありません。輪廻転生というような思想はここでまったく関係がありません。洗礼者ヨハネがエリヤだという場合、決して、エリヤとヨハネが同一人物だというのではありません。天にいるものが現世に戻ってくることを復活とは言わないのです。

 

【洗礼者ヨハネがエリヤの再来とは】

では洗礼者ヨハネがエリヤの再来と言われるのはどうしてでしょうか。列王記上17章以下でエリヤの活躍が記されていますが、エリヤが相手にしたのはイスラエルの王アハブとその妃イゼベルでした。特にイゼベルはイスラエルにバアル礼拝を導入しようとします。エリヤはこのようなイゼベルの行動を強く反対したのです。夫のアハブはその間で動揺します。エリヤはイスラエル王を厳しく批判をします。ヨハネはこのような統治者に批判者である点では共通します。彼はヘロデ・アグリッパとその妻となったヘロデヤを激しく攻撃します。そのためについにヨハネは捕らえられ、首を切られてしまいます。エリヤとヨハネの共通点はイスラエルに悔い改めを求めたことです。それは、来るべき救い主、メシヤの到来の備えをするためでした。エリヤが来て、すべてを元通りにするとはこのことを指しています。

 

 エリヤとヨハネは使命において共通しています。エリヤはイスラエルに反省と悔い改めを求めましたが、その使命を再度行うものは洗礼者ヨハネでありました。ヨハネは決してエリヤの再生、生まれ変わりなどではありません。両者は別人です。ただ、使命において共通している。エリヤがしようとしたことをヨハネは繰り返します。マラキの預言とはこのヨハネの働きにおいて実現されるのです。

 

 では、キリストの復活とは何か。誰かの再生、転生ではありません。あるいは死を経験しなかったものの再来ではありません。キリストは確かに死んだのです。

 

【死に対する勝利者はキリストのみ】

 死んだものは二度と生き返ることはありません。死はそれほど厳粛なものです。しかし、キリストは復活したのです。死人の中からキリストはよみがえったのです。

 復活とはただ生き返るというのではなく、死に対する勝利です。

 

 その死もまた単なる自然死ではありません。苦しみを受けて死ぬ死です。その苦しみは意味があります。キリストは身代わりとなって死んだ犠牲の死です。この死からキリストはよみがえられたのであって、単なる蘇生でもなく、生き返りでもありません。

 

 死を克服し、死に勝利する方はキリストだけです。

 弟子たちは未だこの時点では復活を正しく受け止めていませんでした。当時の専門家の言うところを聞いてはいますが、それを十分理解できていたのでもなかったのです。だから議論をするだけで結論を出せませんでした。復活とは何か。しかし、まもなくその目でキリストの復活を目撃することになります。復活とは何かが分かります。それは単なる蘇生でもなく、誰かの転生、再来でもなく、復活は死に対する勝利、その征服でありました。

 

 この復活は単なる魂の(不滅)復活ではありません。それはからだの復活でした。復活はからだのよみがえりです。キリストを信じるものはこの復活にあずかることができる。これが確固たるキリスト教信仰です。疑い得ない信心なのです。

 

2015年07月19日 | カテゴリー: マルコによる福音書

2015年7月12日説教「イエス、山上の変貌」金田幸男牧師

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聖書:新約聖書
マルコによる福音書9章
2 六日の後、イエスは、ただペテロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。ところが、彼らの目の前でイエスの姿が変り、
3 その衣は真白く輝き、どんな布さらしでも、それほどに白くすることはできないくらいになった。
4 すると、エリヤがモーセと共に彼らに現れて、イエスと語り合っていた。
5 ペテロはイエスにむかって言った、「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。それで、わたしたちは小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのために、一つはモーセのために、一つはエリヤのために」。
6 そう言ったのは、みんなの者が非常に恐れていたので、ペテロは何を言ってよいか、わからなかったからである。
7 すると、雲がわき起って彼らをおおった。そして、その雲の中から声があった、「これはわたしの愛する子である。これに聞け」。
8 彼らは急いで見まわしたが、もはやだれも見えず、ただイエスだけが、自分たちと一緒におられた。


説教「山上のイエスの変貌」

マルコ9:2-8

 

要旨  

【六日ののち】

六日ののち、イエス・キリストは12人の弟子のうち、ペトロ、ヨハネ、ヤコブを選んで高い山に登られました。先ず、六日とはいつからか明示されていません。また、高い山がどの山かも記されていません。キリストが主としてみわざを行われたガリラヤ湖周辺であるとすれば、エスドラエロン平原からよく見えるタボル山であろうと推測する注解者がいます。タボル山は533メートル。これで高い山と言えるかという疑問が生じます。そこで、この高い山はこの地方の最高峰、ヘルモン山だと考える人もいます。

 

ヘルモン山は2814メートルですからかなり高い山と言うことになります。ヘルモン山の麓にフィリポ・カイサリアの町が建設されていました。フィリポ・カイサリア地方で、ペトロがイエスを指して「あなたはメシアです」と告白をしました。キリスト一行がフィリポ・カイサリア近辺におられて、ペトロの驚くべき告白から数えて6日後と解釈することができます。すると、キリスト一行4人は6日間かけてヘルモン山に登られたと受け止めることができます。6日もあればヘルモン山のいただき近くまで十分に行くことができます。そこは人が殆どいない場所であったと考えてよいでしょう。キリストは誰も見ることのない人里離れた山中でその姿が変わるという大きなみわざをなさったのです。

 

【山上の変貌】

 ここに記されている記事は山上の変貌と言われます。キリストはその前に、人の子―メシアは苦難を受ける。つまり、ユダヤ人の最高議会によってさばかれ、有罪とされ、処刑されるとメシアの運命を予告されました。同時にキリストはメシアが復活すると明言されます。

 

復活は単なる蘇生ではありません。仮死状態から息を吹き返すというのは復活ではありません。復活は死人の復活であり、死に対する勝利を意味します。それはまた、死をもたらす罪を帳消しにし、赦しと贖いの結果でもあります。このような復活は普通の人間が経験するものではありません。それは神の力を持つもの、それ以上に神の性質と働きを併せ持つ方そのものを指しています。

 

つまり、変貌するキリストは神の栄光の輝きを照らし出し、神ご自身であることを告知されるのです。変貌は単に姿かたちが変化したと言うのではなく、キリストの本質が明らかにされたと言うことを示しています。復活するメシヤはどういう方か明らかにされます。その姿を見て弟子たちはしっかりしたメシヤ観を持たなければなりませんでした。特にペトロが問題でした。彼はメシヤが受難すると言うことを受け入れられませんでした。それでは栄光に満たされたメシヤを理解し、受け入れることができるかどうか。それはのちに分かります。

 

 山上の変貌は、キリストの栄光を垣間見させます。まだ、完全に現される時は来ていません。キリストはゴルゴタの丘で十字架にかけられますが、そののち三日して墓からよみがえられました。それは神の栄光の御子を指し示しています。山上の変貌は栄光のキリストが一瞬ご自分を現された事件、出来事なのです。

 

【光り輝くキリスト】

 キリストは真っ白に輝かれます。その白さはどんな職人に布をさらして白くすることが出来ないほどの白さであったとされています。白は清さを表します。キリストはあらゆる罪とは切り離され、罪を一切担わないお方です。ここでキリストは単に白い衣を着ているのではなく、また白く変化した着物を着ていたというのではありません。内から強烈な光が上着を刺し貫いているのです。そのためにキリストは白く輝いているように見えたと言う意味でしょう。それほどまでキリストは光となっておられます。キリストは光の光、光の主となられています。光は神の栄光を啓示しています。

 

神はしばしば光り輝く方と表現されます。神は見ることは出来ません。しかし、その臨在は光において知ることができます。キリストは神の栄光の輝きによってご自身が神であることを明白に現されます。キリストが神であることを明瞭に語る、そのゆえにこの記事はとてつもなく重大です。

 

 しかし、ここに記されていることは現実にありえないと思う人が圧倒的多数だと思います。聖書を読む人が単純にここに書かれてあることを受け入れるわけがありません。聖書は宗教書だから、奇跡など信じがたいことが書かれる。しかしそれは事実ではない。たいていの人はそう思います。ここに記されていることが作り話ではないとしても幻想、幻視の類なのだと考える人もいます。とにかくありえない、そういう印象を抱かれます。

 

【三人の弟子たちの証言】

 ふたつの理由で、この山上の変貌は事実であったと認めなければなりません。第一は三人の弟子たちの存在です。聖書が書かれた時代、ユダヤ人社会では二人以上の証人の証言は何よりも確実な証拠でした。今日では物的証拠という客観的、科学的な証拠の方が証拠能力があるとみなされますが、古代では逆です。人間の証言ほど確実なものはないとされていました。三人の弟子たちが選ばれたのは彼らが確実な証人となるためでした。

 

【キリストは神ご自身であること】

第二に、キリストはこの変貌によって神の力を持つ神的な人物、それ以上に神ご自身であることを証言されます。キリストが神の栄光をあらわすということは決して見過ごしにしてはならない真実です。これは事実でなければ、キリストが神の御子であることをあいまいにしてしまいます。山上の変貌が事実であれば、キリストは神の栄光を担う大いなるメシヤ、救い主であられます。

 

【エリヤとモーセ】

 この場面にエリヤとモーセが登場します。エリヤについては旧約聖書列王記上17章以下に登場します。しかし、ここで重要なのはマラキ3:23の預言です。「見よ、わたしは大いなる恐るべき主の日が来る前に預言者エリヤをあなたたちに遣わす。」エリヤは火の車に乗って姿を消しますが(列王記下2:11)、終わりの日に再来すると信じられていました。エリヤは死ぬことなく天に挙げられた稀有な存在です。それゆえにエリヤは再来すると信じられたのです。その信仰はキリストの時代に人々の心を捉えていました。モーセもまた終わりの日に現れて、第2の出エジプトを敢行させる、つまりイスラエルを再度救済されると信じられていました。このことは明確に旧約聖書には記されていません。モーセは確かに死んでいます(申命記34:5)。モーセは自分のような預言者が立てられると語っていました(申命記18:15)。モーセのような人物が再来する。特にモーセは出エジプトの立役者でした。モーセがしたような救済のわざを神は行われる。そのような信仰が人々を捉えていました。

 

【終わりの日】

 エリヤとモーセの登場は、終わりの日の接近を語ります。間もなく終わりが来る。かれらの出現はそれを示します。ということはキリスト・イエスのみわざの完成も近いという意味でもあります。終わりの日とは恐るべき審判の日でもあります。しかし、強調すべきは救いの完成でしょう。

 

 ペトロの言動が続きます。彼は3人が話し合っているところに介入したとあります。口を挟むなどということは出来るような人たちではありませんでした。どうしてそこにいた人物がエリヤ、モーセだと分かったか記されていません。ペトロには面識などなかったわけですが、それ以上の大きな問題は、この二人は旧約を代表する偉大な人物です。ペトロはのちにはよく知られた大使徒になりますが、それでも、エリヤとモーセは偉大すぎます。こういう人の会話に介入するなどとはありえないことです。その上、彼は、小屋を建てようと提案しています。ここは高い山であって人もいません。この小屋はテントを指しています。雨露をしのぐための家という意味でしょうか。しかし、エリヤとモーセ、それにイエスをとどめておくような施設ではありません。小屋など作ってどうしようと言うのでしょうか。ペトロの言っていることは支離滅裂です。彼はおそらくパニック状態に陥ったのでしょうか。わけの分からないことを口走っています。

 

 しかし、このような場面に居合わせた者は誰でもおそらくペトロと同じようになるのではないでしょうか。ペトロのように何を言っているのか分からない混乱振りを示すだけではないでしょうか。山上の変貌は誰もが見聞しても信じがたい光景であったでしょう。

 

 雲が起こり、そこに居合わせた人たちを覆い隠します。そして、声がありました。「これはわたしの愛する子。これに聞け」この言葉はキリストの聖霊のときの声に似ています。

 

 ペトロは大混乱を起しました。当然です。このような光景を見たらパニックになるでしょう。ペトロはメシヤは苦難を受けるというイエスの言葉を受け入れることができませんでした。今度は栄光のメシヤを見ても信じがたいというか、わけが分からなくなっています。誰でも同じことです。容易にキリストが神の栄光を担う偉大な救い主であると信じがたいのです。

 

【栄光のメシヤ】

 しかし、天からの声は、キリストに聞け、でした。キリストのみ声に聞くことこそ栄光のメシヤとは誰かを認知する道だというのです。

 私たちが栄光の主と言われてもなかなか理解することが出来ません。しかし、ペトロは徐々にキリストこそ栄光の主であることを知るようになります。時間はまだまだかかりますが、ペトロはキリストとは誰かをはっきりと認識するようになりました。そのためには十字架の主を見、また復活の主を目撃しなければなりませんでした。主イエスから彼は教え続けられます。私たちもキリストのみ言葉を何度も学びながら、キリストとは誰かを学びます。そして、ついに栄光の主がどういう方か明瞭に知ることができるようになっていきます。(おわり)

2015年07月12日 | カテゴリー: マルコによる福音書

2015年7月5日説教「イエスに従う者の決意」金田幸男牧師

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説教「イエスに従うものの決意」金田幸男

聖書:マルコ8:34-9:1

 

要旨

【キリストをいさめるペトロ】

 イエス・キリストはペトロから「あなたこそメシヤ・キリスト」という告白を受けました。しかし、キリストはそのことを誰にも話すなと命じられます。キリストはメシヤがユダヤの最高議会で裁判を受け、殺されること、そしてよみがえると予告されます。

 

ペトロはそのようなことはありえないとキリストをいさめます。ここでいさめるとは叱ることです。弟子がその師を叱っているとは。ユダヤ人の期待していた救い主が死ぬはずがないということでしょう。キリストが殺されるなどというのはペトロにはたわごとと聞こえたのです。

 

それはまたキリストを陥れようとする、キリストの贖罪的な死を阻もうとする、サタンの策略でもありました。キリストはそのペトロを厳しく叱りつけます。

 

【34節「それから」】 

34節は「それから」とあり、前の記事と連続しているようですが、主題は異なります。だから、この「それから」は時間的な連続性を示しているのではないと理解したほうがよいと思われます。ただ、まったくつながりがないわけではありません。弟子たちにとってのキリストが苦難を受けるのであれば、その弟子たちもまた苦難を避けることができないという連続性です。

 

【弟子と群衆に語られた】

 キリストは弟子と群衆に語られたと記されます。そこには弟子であるためには過酷な運命が待っているとされています。なぜ弟子だけではなく群集にもこのようなことが語られたのでしょうか。   この場合、将来信者になるはずの人々であるという意味だとされます。しかし、ここはそのような限定は記されていませんし、暗示もありません。そうだとすると、キリストの弟子になろうかと思っているような人々を指して、弟子になることは甘いことではない、よほどの覚悟がなければ弟子になれないと、予め釘をさしているのだと受け止めることも出来ます。生半可な気持ちで弟子にはなれないという警告かもしれません。

 

確かに、キリスト教会はローマ帝国から迫害を受けることになります。その日は近くなっています。キリストは弟子になろうか、あるいはならないか逡巡しているような人を対象に語られたと受け止めることもできます。迫害に耐えられないものは去れ、というのです。

 

【弟子になるふたつの条件】

 確かに一読して、キリストの弟子になることは大変な覚悟が必要です。キリストは弟子になるためにはふたつの条件があるとされます。

 

第一は、自分を捨てるということです。第二は十字架を背負うということです。このふたつはときどき本来の意味を曲げて理解され、誤解されていることがあります。

 

十字架は十字架刑を意味しています。当時のユダヤ人は十字架刑をよく知っていました。それはいくつも種類があるローマの処刑法の一つで、ローマに反抗した政治犯などを処刑する方法で、その残酷さのゆえに最も身分の低い階級の囚人を対象としました。ローマは見せしめのために十字架刑を公衆の面前で執行しました。十字架刑に処せられる囚人は処刑場まで十字架を背負わせられました。ゆえに、十字架を負うとは何か重荷を背負う意味によく取られますが、ここではズバリ死を意味します。ですから「自分を捨てる」とは単に自己主張をしないとか、財産、名誉、地位などを捨てると解釈されますが、ここでは死ぬことを意味しています。つまり、キリストの弟子になることは死を免れないといわれているのです。

 キリストの弟子になるためには重大な決心が求められます。それは死ぬ覚悟でなければなりません。ということを聞いて不安にならない人はいないでしょう。キリスト教を信じたいならば死を覚悟せよ。こういわれてぎくっとしない人はいません。

 

【殉教】

 確かに、キリスト教の歴史は殉教の歴史と言っても過言ではありません。古くはローマ帝国下での猛烈な迫害、日本でも豊臣徳川時代のキリシタン弾圧、キリスト教信仰のゆえに殉教の死を遂げた人は数多くいます。キリストはその弟子になりたいと思うものは殉教者となる決心をしなければならないと言われたのでしょうか。文字通り読めばその通りです。そして、実際信仰のゆえにさまざまな困難を忍ばざるを得ず、中には命を失ったものも珍しくありません。

 

 このようなことを言われて怖気づかない人はいないでしょう。誰も死ぬことは嬉しいことではありません。勇気をもてない人がいても不思議ではありません。誰も死に立ち迎えられるほど信仰が強いわけではありません。死は誰も一度しか経験できません。死を恐れない人もいますが、そんなに死に対して達観できている人は多くありません。死を考えると恐怖心におそわれても少しも不自然ではありません。

 

肉体の死は誰もが薄気味悪く、不安にかられるものです。ですから、キリストが弟子となる条件を示されたとき、誰が耐えることが出来るでしょうか。恐ろしい話です。

 では、キリストは安易に弟子になれないと警告されているのでしょうか。予めキリストは弟子の条件を示して、多くのものが入信することを拒んでおられるのでしょうか。そういうことはあり得ないと思います。

 

【永遠の命が与えられるために】

 確かに、キリスト教信者になることは危険を伴います。苦難を忍ばなければならない場合もあります。苦境の中を生き、ついに命さえ奪われることもありましょう。そういうことをキリストは否定されるのではありません。ただし、だから予め入信者に特別な決意を求めているのでしょうか。そうであれば多くの人たちは立ち止まってせっかく心に決めたこと、つまり、キリストの弟子となることを断念してしまうでしょう。

 

 キリストは自分の命に固執するならば、つまり十字架を背負うことを拒否するならばどうなるかを教えられます。キリストのために、その福音のため、伝道のために命を失うものは、命を得ることになる。逆説的なことを言っているように聞こえますが、肉体的な命、つまりその命でもって、現実に私たちが今生きているのですが、その死ぬべき命ではない、朽ち果てない命が与えられると語られます。肉体の命は死んでいきます。その肉体的生命ではない永遠の命の与えられる局面をキリストは語られます。

 

 その命はいつ与えられるか。むろんキリストを信じるときに与えられるのですが、特に終わりのとき与えられると語られます。

 

 38節は、み言葉を恥じるものについて語られていると理解できますが、これを反対側から見ることも出来ます。み言葉を聞いて受入れ、信じるものは、その日、栄誉を受けるものとされると言われているととることができます。終わりのとき、キリストの弟子として生きているものは大きな栄誉にあずかる。

 

 9:1も理解しにくい文章ですが、神の国は現われるとき、つまり神の国が完成するときを指しています。終わりのとき、キリストが再び聖なる天使と共に下ってこられます。そのときに、死ぬことのない奇跡にあずかるものがいると語られていると理解します。

 

 キリストはここで言われていることは、キリストの弟子として生きるときに与えられる祝福のことです。それは比べるもののない大きな神の幸い、恩寵です。キリストが与えられる幸いを思うならば、それを失うことの損失は計り知れません。キリストは弟子たちにこの幸いを必ず与えられます。この命の代価は考えることができないほどです。それほど壮大で偉大なものです。キリストに従わないで、自分のことばかり考えているものはこの命を失います。つまり神はこの命を与えられません。

 

 キリストはこうして、終わりのときに神を信じ、キリストに従って生きるものの恩寵を確言しておられます。このことは単にあれとこれの比較の問題ではありません。

 

 キリストに従って生きていくことは至難です。死をも覚悟しなければなりません。誰でも死を覚悟して信じることはたやすいことではありません。だからこそためらい、決心がつかないのです。

 

ではどうすれば決心できるのでしょうか。死を覚悟しないと弟子になれないといわれるとたいていの人は二の足を踏みます。当然です。私たちは信仰のゆえに殉教をしなさいと命じられたら躊躇することになるでしょう。当然です。

 

【キリストに従うことで得られる絶大な光】

 しかし、私たちはキリストに従うことで得られる栄光を教えられます。それは、終わりのときに明確になるものです。メシヤ・キリストから誉れを受け、もはや死ぬことのない、新しい命に復活させられます。このことをキリストは約束されています。文章そのものには出てこないのですが、言わずもがなで語られています。

 

 この栄光に比べれば、その他は色褪せるだけです。

 よほどの覚悟をしろといわれるだけでは誰も覚悟など出来ません。死は未経験であるだけ気味が悪いものです。またそれは不安と恐怖をもたらします。しかし、もしもキリストが約束されている絶大な価値のある永遠の命を考慮すれば、私たちは弟子として苦難を受けることの覚悟をすることができるでしょう。

 

 単純にキリストの弟子となることに伴う危険性を考えれば私たちはなかなか決心がつかないでしょう。私たちが求められるのは神の前で恥を受け、命さえ喪失するという負の側面だけを考慮しないことです。それよりも私たちが与えられるであろう幸いの大きさを心に留めることこそ肝心だと思います。そうあってこそ、私たちは恐怖を乗り越え、不安を制御できるようになります。(おわり)

2015年07月05日 | カテゴリー: マルコによる福音書

2015年6月28日説教「死んで復活する救い主」金田幸男牧師

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説教「死んで復活する救い主」金田幸男

聖書 マルコによる福音書31-34

31 それから、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、また殺され、そして三日の後によみがえるべきことを、彼らに教えはじめ、

32 しかもあからさまに、この事を話された。すると、ペテロはイエスをわきへ引き寄せて、いさめはじめたので、

33 イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペテロをしかって言われた、「サタンよ、引きさがれ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」。

 

要旨

【あなたこそメシヤです】

 フィリポ・カイサリア地方で福音を宣教している最中にキリストは、人々は自分のことをなんと言っているかと質問をされます。弟子たちは次々に巷間のうわさを報告します。そのあと、キリストは弟子たちに「それではあなた方はわたしのことを何者だと思うのか」と尋ねられます。

 

それに対してペトロが弟子たちを代表して「あなたこそメシヤです」と答えます。メシヤとは油注がれたものを意味していますが、ユダヤ人の間では終わりのときに神の救済事業を特別な力を持って実行するため神に任じられた救済者と信じられていました。ユダヤ人はメシヤの到来を期待している民族です。今もなお、ユダヤ人はメシヤが来ると信じています。ユダヤ教という宗教はその点変わりがありません。

 

しかし、イエス・キリストは、ペトロが言ったことを誰にも話すなと命じられます。そのあとに、31節のみ言葉が語られます。

 

【人の子】

冒頭「人の子」という表現が出ています。福音書においてキリストはご自分を指して人の子と言われます。しかし、私たちはキリストが一人称「わたし」の代わりに「人の子」という表現をされたと考えるべきではありません。

 

人の子は旧約聖書にも出てきます。詩編8篇15「そのあなたが御心に留めてくださるとは/人間は何ものなのでしょう。人の子は何ものなのでしょう/あなたが顧みてくださるとは。」ここでは人の子とは人間のことです。エゼキエル書にも人の子は多く出てきます。多くの場合、人の子よ、とエゼキエル自身が呼ばれます。

 

しかし、ダニエル7章13-14では「夜の幻をなお見ていると、/見よ、「人の子」のような者が天の雲に乗り/「日の老いたる者」の前に来て、そのもとに進み、権威、威光、王権を受けた。諸国、諸族、諸言語の民は皆、彼に仕え/彼の支配はとこしえに続き/その統治は滅びることがない。」とあり、人の子は神的な栄光と権威をもち、君臨する絶大な権力者、支配者を意味しています。

 

キリストが「人の子」という言葉を用いるときは、このような絶大な権力を掌握し、世界を支配する救済者を念頭に置かれていることは間違いありません。終末のときに来たり、全世界を変革し、統治する救済者が期待されていました。人の子とはこのような神のわざを行う特別な存在とされます。

 

【メシヤ観の修正:メシアの苦難】

 キリストは人の子という表現を用いるとき、超越的存在的な、メシヤを意図されているのは明らかです。弟子たちはあなたこそメシヤであると告白をしましたが、キリストはこの言葉でそれを明確に肯定されたのです。イエスこそユダヤ人が期待してきたメシヤご自身なのです。と同時にキリストは一般にユダヤ人が持っているメシヤ観を修正されます。そのメシヤは苦しまなければならないのです。メシヤはメシヤでもイエス・キリストが明らかにされるメシヤとは苦難の中に置かれるメシヤに他なりません。

 

苦難のメシヤはイザヤ53章に記される苦難のしもべを髣髴させます。イザヤは、神がしもべを立て、そのしもべに苦難を与えられ、そのしもべの苦難は実は民の代わりに受ける苦しみであったと明らかにします。そして、この苦難を引き受けるしもべこそ救済者とされます。

 

ユダヤ人はこの苦難のしもべは個人ではないと解釈しました。それはユダヤ民族そのものだと思ったのです。キリストはそうではなく、この苦難のしもべこそメシヤだと教えられます。

 

【十字架死への言及はまだない】

 メシヤは苦しまなければなりません。キリストは弟子たちにこのことを明らかにされます。苦難について、私たちはここで二つのことを学びます。ひとつは、キリストはメシヤの死を語られますが、十字架の死とはいわれていません。マルコでは3ヶ所メシヤの苦難を予告されます(マルコ31-32,9:30-32、10:32-34)。この3ヶ所ではキリストは十字架に言及されません。どうしてなのか。

 

十字架刑のことはユダヤ人にもよく知られていました。それはローマ帝国の処刑方法のひとつで、最も残酷でローマの身分の高いものには執行されませんでした。ローマに反抗を企てたような政治犯にこの十字架刑は宣告されましたが、その囚人への苛酷な扱いは十字架刑を知る人を震え上がらせるものでした。キリストはこの残忍な処刑法で殺害されるとはまだ言われません。それは弟子たちがそれを知れば躓き、耐えられなくなるからでした。弟子たちの魂のために十字架の上で殺されることをキリストはまだ語られません。弟子たちへの魂の配慮、牧会のためでした。

 

【長老、祭司長、律法学者たちからの排斥】

第二に、キリストは長老、祭司長、律法学者たちから排斥されると言われます。どういう形での排斥か。長老は文字通りユダヤ人のなかの年長者ですが、同時に、世知に長けた民衆の指導者でもありました。彼らは選ばれて最高議会(サンフェドリン)に選ばれます。祭司長は、その議会の議長をすることになっていました。律法学者もまた法律の専門家として最高議会に席を占めていました。つまり、この3者は最高議会の構成員であり、結局のところ、最高議会を意味しています。

 

最高議会はいわゆる民法や刑法だけではなく、宗教関係の裁判も行いました。最高議会は死刑も宣告できましたが、ローマはユダヤを征服しますと、最高議会から死刑執行権を奪ってしまいます。 

 

【メシヤは裁かれる】

例外を除いて、死刑は執行できません。ただ、死刑に値するとローマ総督に訴えることができました。人の子、メシヤは裁判にかけられるということを意味しています。メシヤは裁判を受けなければなりません。無実にもかかわらず有罪宣告を受けます。そして結果は死刑なのです。

 メシヤの苦しみとは、裁判を受け、有罪と宣告され、死刑に値するとされ、そして、殺される(十字架にかけられる)ことを意味していました。

 

 メシヤは苦しむ、しかも十字架の苦しみを受ける。これは重大な発言でした。だからこそペトロは受け入れることが出来なかったのです。

 

【なぜメシアは苦しまれねばならないか】

 メシヤの苦しみは、キリスト教信仰の中核部分です。メシヤは苦しまなければなりません、なぜ苦しむのか。私たちの罪を背負い、私たちに代わって十字架の上で死に、私たちはもはや罰せられることのないようにされたのです。キリストは裁判を受け、無実なのに有罪とされ、そして、処刑されました。それは私たちの罪を引き受けてその刑罰を引き受けてくださったのです。こうして私たちの罪は許されます。帳消しにされます。こんなに喜ばしい出来事はありません。

 

【メシアの復活】

 メシヤは3日後よみがえられます。3日後と言っても72時間後ということではありません。キリストが十字架につけられたのは金曜日の日没前でした。一日の境い目は日没となっています。キリストは日曜の朝復活されました。洗礼者ヨハネ、エリヤ、エレミヤ、預言者の一人・・・この人たちは皆死んで、蘇生したと想像されています。

 

蘇生と復活は異なります。蘇生はまた死ぬ可能性があります。つまり息を吹き返しただけで、また死ぬことになります。エリヤは火の車で天に駆け上って行きました(列王記下2:11)。彼の場合は蘇生、あるいは、再来となりますが、これは復活ではありません。復活は死に対する完全勝利を意味しています。このような復活はキリストの勝利でもあります。

 

復活は単にキリスト個人だけが復活するというのではありません。キリストだけ例外的に復活したと言うのではありません。キリストは私たちをもよみがえらせるためにご自身が先ず復活されました。この点で決定的にキリストの復活は大きな神のみわざといえます。

 

【ユダヤ人のメシヤ理解】

 メシヤは死んで復活する。ユダヤ人は到底こういうことを信じることはできませんでした。彼らのメシヤに対する考え方では、キリストと真正面から衝突していました。ユダヤ人のメシヤ理解はあくまでも世界を改変し、ユダヤ民族を救済する(政治的にも)解放者の役割を期待するものでした。メシヤとは死んでよみがえるものなのだと教えられます。このメシヤの考え方は一般のユダヤ人が心に抱いたメシヤ観と異なります。だからこそペトロも聞き入れることを拒みます。ペトロの持っていたメシヤ観は一般のユダヤ人と異なりません。メシヤは栄光に満たされ、権威、権力を掌握しています。メシヤは苦しむはずがない。これがペトロの考えであったでしょう。

 

【サタンよ、引き下がれ】

 ペトロは、イエスをいさめ始めます。ペトロはイエス・キリストに弟子なのに、それを弁えようとしません。キリストは一喝されます。「サタンよ、引き下がれ」。キリストはペトロのほうを向かず、弟子たちを見ます。これは微妙なキリストの御心の発露だと見ていいのではないでしょうか。確かにいさめたのはペトロです。ペトロ自身が苦難のキリストという観念を受け入れることが出来ませんでした。しかし、サタンはそのような人間の考え方を利用し、キリストに対して敵意をむき出しにします。ペトロの言葉はサタンの常套文句でありました。ペトロは苦難のしもべたるキリストを受け入れることは出来ませんでした。メシヤがそんな惨めな仕方で死ぬはずがない。これがペトロの考えでしたが、サタンはそれを用いて、メシヤは苦難を受けるはずがない、犠牲の死を遂げるはずがないといっているのと同然です。しかし、このキリストを否定することこそサタンの考えなのです。

 

キリストはペトロを叱りつける場合、神のことを思わず、人間のことを思っていると言われます。人間のこととは、何か日常生活の中で自分の欲得のことばかり考えているといった意味で用いられることがありますが、本来ここでキリストが言われたのは、キリストが苦難を引き受けるメシヤであるということです。これを否定することこそがサタンの主張であり、苦難を受ける神の子はありえないという意味です。しかし、それこそサタンの考えなのです。

 

私たちのために裁判を受け、代わって有罪宣告を受け、ご自身を犠牲にして罪のあがないをし、その上で信じるものに復活のいのちを与える。これを否定することこそサタンの考えなのです。

2015年06月28日 | カテゴリー: マルコによる福音書

2015年6月21日説教「あなたはメシア・キリスト」金田幸男牧

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説教「あなたはメシヤ・キリストです」金田幸男 

聖書:マルコ8:27-30

 

要旨

【フィリポ・カイサリヤ】

 イエス・キリストと弟子らの一行はフィリポ・カイサリヤという町とその周辺まで行かれます。フィリポ・カイサリアはガリラヤ湖の北約40キロ、ヨルダン川の源流に近いヘルモン山(標高2814メートル)の麓に位置します。ヘルモン山はパレスティナの最高峰です。古くから集落がありましたが、そこでカナンのバール神が礼拝されていました。ギリシヤ人はこの町をペナスと呼びますが、それは牧羊神パンの神殿があったからです。いわゆるヘロデ大王がローマの皇帝アウグストウスから領土を得るとそこに皇帝のために神殿を築きます(紀元前20年)。

 

ヘロデ大王の息子のフィリポが町を拡大し、フィリポ・カイサリアと名づけます。地中海沿岸にあったもうひとつのカイサリアは港湾都市として発展しますが、フィリポ・カイサリアは辺鄙な地方都市のままで、現在はバニアスという小さな町として残っているに過ぎません。キリストの伝道活動の北辺にあたります。ユダヤ人はこのようなパレスティナ北辺にある異教的な都市を好みません。当然そこには多くの異教徒が居住していました。このようなユダヤ人も見向きもしないような地方までキリストは足を伸ばし、福音を宣教されました。

 

【旅の目的】

 なぜ、キリストが弟子たちをこのようなギリシヤ風の町まで連れてこられたのか。むろん、ここにいる異邦人に伝道をするためであったでしょうが、それ以上の目的があったと言えます。それこそ、キリストは何者であるかを弟子たちに明白にするためであったことは間違いないでしょう。

 

 キリストがフィリポ・カイサリアでなさったことは異例な場面と行動を伴っていました。先ず第一は、わざわざフィリポ・カイサリアを選ばれたことです。ここはユダヤ人が少ないところです。キリストはユダヤ人に知られたくない重大な真実を明らかにするためにこの地を選んだということが出来るでしょう。ユダヤ人に知られるとキリストの身が危ないという意味です。

 

【「人々はわたしのことを何と言っているか」】

第2に、キリストと弟子たちの対話は異例なものでした。キリストは弟子たちに「人々はわたしのことを何と言っているか」と質問をしますが、普通の律法学者ならこんな質問はすることがないのです。イエス・キリストは正式の律法学者ではありませんが、律法学者のような存在と認められています。たとえ律法学者ではなくても、他人に律法に関する事柄を教えるからには、律法学者のごときものと見なされていたはずです。そのような人物が、「わたしのことを何と言っているか」など人のうわさを気にして、弟子たちに尋ねることはありません。律法学者なら、弟子たちが「あなたは誰ですか」と問いかけます。このような異例の質問をしているところに、普通ではないキリストの姿勢が見られます。なぜキリストはこんな質問をしたのか。むろん人のうわさなどキリストが気にされているわけがありません。むしろ、キリストは重大な事実を弟子たちに明らかにしようとされています。

 

【偉大な預言者たち】

 キリストとは誰か。これこそ重大な問題でした。これは他のユダヤ人に聞かれてはならない秘密です。しかし、弟子たちにはそれを明らかにしようと決意されたのです。

 

 キリストは弟子たちが次々と出される答を聞いておられます。キリストは先ずその否定から始めます。弟子たちがうわさになっている人の名を挙げていきますが、キリストは明確に否定をされているのではありませんけれども、文脈から見れば、キリストは弟子たちが挙げるうわさをそうではないと否定されていることは明らかです。

 

 弟子たちの返答に注目すべき点が二つあります。それはマルコ福音書には明瞭に書かれていません。先ず第一は、この記事と平行個所がマタイにもあります(マタイ16:143-20)。そこではエレミヤもうわさになっていることが記されています。第二は、ここに挙げられる、エレミヤも含めて、過去に生きていた人物で、キリストの時代にはみんな死んでいましたが、人々のうわさでは、みなよみがえったことになります。死んでよみがえったものが大きな働きをする。イエス・キリストはこのような人々の生き返りではないと明確に語っておられます。

 

つまり、それ以上だということになります。イエス・キリストは人々がうわさをしているような人物ではありません。キリスト自ら否定されます。すると、イエス・キリストとは誰か。死んで復活して大きな働きをするというような人物以上のお方だと言えます。

 

となると、それは人間以上の存在と言わなければなりません。ここに上げられている人たちは偉大です。大きな働きをしました。ある意味で人間以上の力を発揮しています。しかし、キリストはそれ以上の力あるもの、つまり、神ご自身といえるのです。このことをキリストが自らら明らかにされているといえます。

 

【洗礼者ヨハネの再来か】

うわさでは、洗礼者ヨハネの再来と言われていました。洗礼者ヨハネはマルコ6:16-29にありましたように、ヘロデ・アンティパスの暴虐の犠牲となって殺されていました。ヨハネは大きな影響力を残した人物です。悔い改めよと叫び、多くの人々を回心に導きました。彼は来るべき者、救い主の備えをするものでした。しかし、キリストは生き返った洗礼者ヨハネではないと断言されます。キリストはヨハネ以上の存在です。

 

【エリヤか】

第2に、エリヤだといううわさがありました。エリヤは列王記上17章から登場し、列王記下2:1-18でその最後が記されています。エリヤは旧約史上最大の働き人の一人です。彼は激しい説教を語り、ときには国王に面と向かって非難し、攻撃しました。奇跡も行っています。そして、最も注目すべきは、彼は死ぬことなく、火の車に乗って天に昇って行ったと記されています。エリヤは戻ってくる、このことがユダヤ人の中で信じられていました。終わりの日にエリヤは再来して大きな働きを行う。しかし、キリストは自分はエリヤの再来ではないと宣言されます。そして、それ以上のものだと言われるのです。

 

【預言者の一人か】

第三は預言者の一人といううわさがありました。ここで言う預言者は旧約の預言者のことであろうと思われます。エレミヤもその一人でした。エレミヤはユダがバビロンに滅ぼされる前後に預言者活動を行い、その預言の言葉の峻烈さは心を刺し貫くほどの強力なものです。エレミヤの最後は不明です。彼もまた再度終わりのときに現れ、かつても同じように預言者としての働きを実行すると信じられていました。洗礼者ヨハネもエリヤも預言者と見なされています。うわさではイエス・キリストは旧約の預言者のような存在だと言われていたことになります。キリストはご自身がそれ以上の存在であると語っていることになります。

 

【「あなたこそメシヤです」】

 弟子たちが挙げたうわさの人物であることを否定され、ではあなた方はわたしを何者だと思うのかと切り込まれます。ペトロが答えます。「あなたこそメシヤです。」

 

 メシヤとはヘブライ語の油注がれたものを意味します。ギリシヤ語に訳されると「キリスト」になります。イスラエルでは、王、祭司、それに預言者は油を注いで任職されました。油は神の聖霊を表しています。聖霊が与えられて、神の人としてその働きを完遂すると思われていたのです。王も祭司も預言者も神の務めの代行者でした。油注がれてその職務を果したのです。

 

 ところが時代が下るにつれてメシヤはもっと広い意味を持つようになっていました。パレスティナ地方がギリシヤやローマの支配を受けることになりますが、そのような時代、神は終わりのとき、メシヤを送られ、世界の救済を敢行されると信じられていました。そのような信仰、終わりの時の救済者、解放者という観念がユダヤ人の中に芽生え、定着していました。むろん、そのメシヤが意味している概念はひとつのものではなくて、それこそ他にも多様な考え方がありました。対ローマ戦争を指導する軍事的なメシヤ、あるいは終末的な幻想と言うべき姿で現われるメシヤ、道徳的革命をになう世界改造者等々、メシヤとは何か、いろいろ考え方が並存していました。

 

【ユダヤ人を救う解放者】

 しかし、世界を救済するもの、特にユダヤ人を救う解放者という観念は共通しています。間もなく神は救済者を送られる。これがユダヤ人の希望でありました。ペトロはイエスがそのメシヤであると告白したのです。むろんペトロ一人の告白ではなく、彼は弟子たちを代表してこのことを言葉にしたのです。

 

 これは重大な言葉です。ユダヤ人は今もメシヤを待望し続けています。メシヤを神が送られる、この希望こそユダヤ人の最大の希望であり、信仰でした。イエスとはキリストである。救い主である。このことこそキリスト教信仰の最も重大な信仰内容です。他のことは曖昧であろうとも、あるいは知らなくても、イエスこそまことのキリストであるという信仰さえあれば、キリスト教信仰にとっては十分だともいえるのです。

 

【キリストの口止め】

 しかし、キリストは口止めをされます。遠く、フィリポ・カイサリアまで来て明らかにされたことです。それは重大な信仰告白です。だから、キリストは誰にもこのことを語るなと言われます。ユダヤ人が知ればイエスにとっても弟子たちにとっても危険な事態を招きかねません。

 それと共にペトロの信仰ではまだ不十分であったからです。まだ十字架と復活が起きていません。十字架の上でキリストが犠牲となり、その結果、私たちの罪が赦されるようになり、罪がもたらす死の問題が解決されるまで、そして、キリストがよみがえり、死に対する勝利者となり、さらに、永遠の命が約束されるようになってからメシヤとは誰かと言うことが明白になります。それまでキリストは誰にも言うなと命じられます。(おわり)

2015年06月21日 | カテゴリー: マルコによる福音書

2015年6月14日説教「はっきり見えるようになる」金田幸男牧師

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2015614日説教「何が見えるか」金田幸男

聖書:マルコ78:22-26

 

要旨

【ベトサイダ】

イエス・キリストの一行はベトサイダの町に到着したとあります。ベトサイダは、ガリラヤ湖北岸、ヨルダン川が湖に注ぐ地点に位置します。ベトサイダととは「漁師の家」という意味ですが、辞典には、同じ名前のふたつの町があったと記すものもあります。ヨハネ1:44,12:21によると、ペトロ、アンデレ、フィリポの3人はベトサイダの出身であると記されています。

 

そしてまた、ベトサイダはルカ10:13にも出てきます。「コラジン、お前は不幸だ。ベトサイダ、お前は不幸だ。お前たちのところでなされた奇跡がティルスやシドンで行われていれば、これらの町はとうの昔に粗布をまとい、灰の中に座って悔い改めたにちがいない。」

 

ベトサイダはキリストの宣教にあずかりながら、その教えを無視し、聞き入れなかったゆえに、厳しい叱責の対象となっています。この町が、もうひとつのベトサイダを意味しており、この町はヘロデ大王の息子の一人であったフィリポがギリシヤ風の町に建て直し、ユリアスと改名されます。

 

住民にはユダヤ人も多かったのですが、ユダヤの正統的な聖書に対する忠実さやその信仰よりもギリシヤ風の生活や文化の影響を強く受けた人たちが多かったと考えられます。ペトロたちの出身地のベトサイダは辺鄙な漁師の村を想像させられますの、領主フィリポが再建した町と別個の町だと考えることもできますが、特に別個の町と考える必要もないかもしれません。このようなギリシヤ文化の影響が濃いところでは、当然キリストの教えも顧みない人たちが多かったでしょう。

 

【村の外に盲人を連れだす】

イエス・キリストがベトサイダを責めるときはその不信仰に対するものであったと容易に考えることができます。このような背景を見ていくと、なぜキリストが村の外にこの人を連れ出した上で奇跡を行われたのかも理解できます。

 

人々がキリストのところへ盲人を連れて来ます。盲人が自発的にキリストのところへやってきたとも、人々にイエスのところへ連れて行って欲しいと言われて連れてきたとも記されません。ベトサイダの人々がこの盲人を連れてきたのは別の動機があったからだと思われます。決してこの盲人への同情や憐憫から行動したのではなく、キリストが盲人の目を癒すという特別なわざを目撃したかったからだと思われます。つまり奇跡を見物したかったのです。

 

その動機は好奇心であり、珍しいものを見たがっただけのことなのです。つまり、イエス・キリストがどんな奇跡を行うのか見たかっただけのことです。奇跡を見物する。これが彼らの動機でした。

 

【密かに行われた奇跡】

キリストは今まで奇跡を公然と行っておられます。密かに一部の人だけしか分からないようなやり方ではありません。ところがマルコ福音書では3回だけ密かにそのわざを実行されています。

 

先ずマルコ5:37です。会堂長ヤイロの娘の蘇生の奇跡が行われたとき、キリストはヤイロと3人の弟子だけしか娘の部屋に入ることを許されませんでした。泣くことを専門とする女たちの騒ぎから離れるためであり、そのような人の目から、そこで行われていることを隠すためであったと考えられます。

 

また、7:33では、耳の聞こえない人の癒しが記されますが、群衆の中から彼を連れ出し上で奇跡を行われています。人々がキリストに癒しを求めてやってきました。その動機は、このベトサイダの人々と同じであったと考えられます。彼らも見物したいというだけであったと思われます。だから、キリストは奇跡を目撃されることを拒否されたのです。

 

奇跡は驚くべき神の行為です。しかし、それは単なる好奇心で見られるべきものではありません。ましてや見世物ではありません。そのような動機の人々には奇跡は一切行われることはないのです。

神の力に圧倒されることもなく、奇跡が行われてもただの見物。こういう人々の心情のあるところで奇跡は行われることはありません。

 

それは今日でも同じではないでしょうか。はじめから受け入れることもなく、驚くべき神の働きなど見物するだけのこと、それ以上ではないという受け止め方があるところでは奇跡が起こりません。

キリストはこの人を「村」の外に連れ出されます。ベトサイダは決して村というような小さな集落ではありません。ローマとかエルサレムのような人口の多いところではありませんが、とても「村」などとは言われないでしょう。寒村であれば、この用語もぴったりします。それはともかく、キリストはベトサイダの町の住民がキリストの大きな働きの目撃者となることを願っておられません。

 

【キリストの「手当て」】

キリストはこの盲人を、村の外に連れ出されます。そして、目に唾をつけ、両手をこの人の上に置きます。手を置くという行為は「手当て」という表現があるように、ひとつの治療方法でありました。キリストはこの意味では、治療を実施されたということになります。しかし、この行為はやはり奇跡に他なりません。単なる普通の治療ではありません。イエス・キリストは明白に奇跡を行われたのでした。

 

キリストは盲人に何が見えるかと尋ねられます。「人が見える」と答えます。木のようだが、歩いているのが分かります。よく考えて見ると奇跡は殆ど効果を表していません。ある注解者は、この目の見えない人がもともと全盲ではなく弱視であったら、殆ど奇跡が起きていないことになると断定をします。人なのか、木なのかが判別できないようではあまりキリストの行為は効果があったとはどうしても言うことはできません。こんなことでは癒されたことにはなりません。そのあと、第2回目のキリストの働きが行われてこの盲人の目は完全に開かれます。

 

【2回の業】

キリストは一挙に問題を解決するように奇跡を行われませんでした。2回もキリストは働きかけられました。最初のキリストの働きは効果を表わしませんでした。この盲人にとって切なる願いは見えることです。それが直ちに行われない。失望したことと思います。期待していたとおりにはなっていません。

 

私たちキリスト者もいろいろな重荷を背負っています。長い病気を背負っている人もいます。障害のある人もいます。事業がうまくいかない。学業がついていかない。突然の災害に見舞われた。人間関係がうまくいかない・・・いろいろな苦悩、悩みを味わっています。キリスト者であろうとなかろうと人生は労苦ばかりです。信者はさらに信仰のゆえの苦しみを味わっています。人生はさまざまな重荷を背負っていくものでしょう。そのとき、私たちは神に願います。労苦から解放してくださいと叫びます。ところが直ちに神は問題を解決してくださらない。

 

この盲人ははじめ何の効果も経験できませんでした。そこで彼はこの場所を去ることは可能でした。キリストは何もしてくれないという不満が生じたかもしれません。だから盲人はその場所を去ることもありえました。つまり、キリストともう何の関係もないようにすることです。そして話はそれで終わりということになります。

 

神は直ちに私たちの問題を解決してくれません。何も起こらないも同然の状態に任せられます。私たちも経験します。祈りは聞かれると信じ、祈り続けます。しかし何も起こりません。相変わらず苦しみは続きます。神は一体何をしているのかと、不満さえ漏らします。そして、神に背を向けてしまうことも珍しくありません。

 

【完全な癒し】

私たちは見ます。キリストは第2回目の行動をとり始め、結果は完全な癒しでした。キリストはこの盲人の目を完全に癒されました。ここから私たちが学ばねばならないこと、それは決して失望しないことです。キリストは最終段階まで助けのみ手を伸ばされる方です。

 

神は全能の神ですから一挙に、直ちに信じるものの苦しい状態から解放することもできます。しかし、そのわざは短期の内に完了するものではありません。キリストは意図的に直ちに助けのわざを完成されません。むろん、即刻解決されることもあります。けれども、多くの場合そういう方法を取られません.神は必ずその民を救われます。間違いありません。でも、私たちが要求すると直ちに言うことを聞いてくれる便利な方ではありません。

 

もし、私たちの願いを何でもかんでも速やかに実行されるだけならば、神は私たちにとって便利な存在だけに過ぎません。神はときに私たちをじりじりさせられます。神に不平をぶっつけたくなるほど神は動かれません。だから、私たちは「もう神は嫌いになった、神のことなど考えず、期待もしない」などと捨て鉢な言葉を発するようになってしまいます。そんなことがあってはなりません。

私たちは今すぐに期待が満たされなくても、ある期間が過ぎ去れば神は思いを超えて大きな祝福を味わわせてくださいます。

 

キリストは盲人の目を開きますが、村に戻らず、直ちに家に帰るように命じられます。これはベトサイダの人々、特に彼をキリストのところへ連れてきた連中に会わないようにするためでした。

 

【過去との決別】

なぜ、このようなことをされたのでしょうか。不信仰な人々と再び会わない、つまり奇跡を見せないためだと考えられますが、この人自身が元に戻らないためです。彼がキリストを信じてキリストのもとに来たのではありません。はじめ彼自身も癒しを信じてはいなかったのではないでしょうか。ところが彼は驚くべき神のわざにあずかりました。そのとき、彼は圧倒的な神の働きに心を動かされ、キリストを信じるようになったに違いありません。もう過去に戻ることはありません。過去との決別なのです。ただ直接家に帰るとは単なる帰宅ではありません。別の人間に変えられているのです。 (おわり)




2015年06月14日 | カテゴリー: マルコによる福音書

2015年6月7日説教「まだ悟らないのか」金田幸男牧師

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説教「悟らないのか」金田幸男牧師

聖書 マルコ78:4-21

 

要旨 

【ファリサイ派と天からのしるし】

ファリサイ派はイエス・キリストに天からのしるし、つまり天変地異と言うべき大きな奇跡を見せろと要求します。むろん下心は、キリストにはそんな奇跡は行えないだろう、そうすれば民衆の信頼は失墜し、キリストがまことの救い主であるとの信仰は潰えます。これがファリサイ派の目論見であって、キリストをためし、試みることに他なりません。奇跡を見たら信じようと主張する人は多くいますが、奇跡があるなどとはじめから思っていません。だから、ただ信じないと言うことを公言しているのです。そのファリサイ派との論争を避けるためもあったと思います。イエス・キリストは船に乗り込み向こう岸、8:22によれば、ガリラヤ湖北岸の町ベトサイダに向かわれます。

 

【パンがひとつしかない】

 この船の中の弟子たちの会話のことが記されます。それはパンがひとつしかないという問題をめぐる議論でした。ここから弟子たちが何を論じ合ったか推測できます。先ず、責任追及であったと思われます。キリストの弟子団には財布係りがありました。それはイスカリオテのユダが担当していました。弟子たちの中には食料調達係もあったのではないでしょうか。弟子たちの集団は人数を増やしていったはずです。毎日のパンを購入する担当者が選ばれていて当然です。ところがキリストの出発が急なものでしたからパンを購入する時間がなかったのでしょう。しかし、これは言い訳にはならないかもしれません。予め心を砕いているべきでした。それから、事態を打開するためにどうしたらいいのかという議論があったと思います。

 

船を岸辺に寄せてそこでパンを買い求めるべきだ。いや、ベトサイダまで辛抱すべきだ。とにかく今は腹がすいてたまらない状況であったので雰囲気はよくなかったはずです。当面の難題を解決するためにどうしたらいいのか。弟子たちは真剣に論じ合っていたのではないかと思います。問題が起こると必ずといってよいほどの論議とはこういうものではないでしょうか。なぜこの問題がおきたのかという原因の解明、そのなかには責任者の追及も含まれます。それから事態解決のための議論。ああでもないこうでもないという堂々巡りに陥ることも珍しくありません。延々と論じ合っているけれども結論は出てこない。

 

【ファリサイ派とヘロデのパン種に注意せよ】

 このような弟子たちの議論を傍らで聞いていたイエスは、まるで文脈から外れたようなことを語りだされます。

 ファリサイ派とヘロデのパン種に注意せよ。この場合のパン種=イースト菌は何を意味しているでしょうか。あまりいい意味で使われていませんが、聖書の中でのパン種はあまりよく思われていません。例えば、ガラテヤ5:9ではパン種は真理から逸らせるものとされています(1コリント5:6-8も参照のこと)。このことは旧約聖書の出エジプトの際の、過越と関係すると思われます。エジプトで奴隷状態で苦しめられていたイスラエルはモーセに率いられて脱出することになります。そのとき、神はイスラエルの人々の旅の食料としてパンを持参させられますが、その場合、パン種の入っていないパンを作れと命じられます。除酵のパンといいます。なぜ除酵のパンを持って行けと命じられたのか。イ-スト菌を入れたパンは膨らみ、柔らかく香りもよく、味も格別のよくなります。ですからこれだけ見ればイースト菌は有用な細菌といえると思います。しかし。エジプト脱出と言う緊急事態ではのんびりしておれません。イースト菌で発酵させるのには時間がかかりすぎます。また、イースト菌の発酵の管理は容易ではなく、失敗すればパンは酸っぱくなり、食用には相応しくなくなります。このような理由で本来は有益でありますが、聖書ではイースト菌はよくないものとして扱われます。

 

 ところで、ファリサイ派のパン種、ヘロデのパン種とは何を意味しているでしょうか。ファリサイ派はイエス・キリストに奇跡を要求しました。ヘロデの場合も奇跡を求めたことが記されています(ルカ23:8)。キリストの裁判のときヘロデは同席します。キリストに興味を持っていたのですが、それはキリストを信じるところから出てきた思いなどではありません。興味半分、好奇心から出たものです。パン種とは明らかにキリストに奇跡を要求すること、そしてその要求を出している心根のことであることは明らかです。ファリサイ派もヘロデもキリストなどくだらない人間だとしか見ていません。奇跡を求めるのは信仰からではなく、むしろキリストへの疑い、不信から出てきたものです。

 

奇跡、しるしを求めるのはキリストをためすため、もっと言えばキリストに力などないということを立証せんがためです。キリストに奇跡を要求するのはキリストを心も誘惑するためでした。キリストはファリサイ派やヘロデの内心をよく見抜いておられました。決してキリストに大きな期待を抱き、信仰をもって対応することなどありえません。

 

 このようなファリサイ派やヘロデのようになってはならない、注意せよと警告されています。弟子たちはパンがひとつしかないことを論じ合っていました。当面パンをどうするか。腹の問題だから深刻です。私たちは何を食べようかと心配し、果たして食べることができるかと心配をしています。その弟子たちにファリサイ派やヘロデのようになるなと警告しておられます。パンがひとつしかないことを論じ合っている状況はファリサイ派やヘロデがキリストに奇跡を要求する状況と同じなのです。

 

 ファリサイ派の過誤はしるしを求める思いの背後にあるキリスト不信でした。これこそパン種でした。このイースト菌がパンを膨らませ、結局限界を超え、食用には不適にしてしまうように、しるしを求めることは神に嫌われてしまう結果を招きます。それは不信と言う点で共通します。

 

 キリストは続いて疑問形で言葉を連発されます。見ていても見ないのか。聞いていても聞かないのか。おぼえていないのか、記憶にないのか。キリストはこのようの言われて弟子たちを叱責しているのだと思います。何を叱責しているのか。それは見なければならないものを見ておらず聞かねばならないことを聞いていない状態を批判されるものです。

 

 私たちは現実に目を奪われます。起こっていることに右往左往します。目の前に起こっている現象に心が奪われ、混乱したり、失望したり、怒ったり、嘆いたりして落ち着きません。時にはもうだめだと諦め、時には事態を招来した原因を追究ばかりしています。世間が悪い、誰それが悪い、時代が悪い。場合によっては自暴自棄になってしまうこともあります。

 

【事柄の本質を見極めよう】

 しかし、それは表面だけ見ているのであって、真実の問題点は見過ごしています。若いころ、わたしの信仰を導いてくださった先輩はいつもこのように言われました。物事の本質がどうなっているかを見なさい。時代の態勢はある方向に向かって進行していくでしょう。圧倒的多数が流れを作り出しますと、バスに乗り遅れるなと言う叫びが湧きあがります。こうして国家自体が間違った方向へ突き進んでいくと言うことは起きるべくして起こります。出来事の表面だけ見ていてはそうなってしまいます。世相とか時流とか、ひとつの方向へ集団が流れていくとき、問題の本質を見極めて大勢に流されることのないようにしなければなりません。だから、私たちは事柄の本質を見極める必要に迫られています。

 

 キリストはここで何を見よと言われているのでしょうか。見ていながら見ていない。聞いていながら何も聞いていない。すっかり起きたことを忘れている。キリストはこのように叱責されて、先だって行われた多くの群衆にパンを食べさせる奇跡を思い起こさせておられます。

 パンはひとつしかない。どうするか。弟子たちは先だって起きた奇跡を思い起こすべきでした。

 

ファリサイ派は奇跡を要求しました。ヘロデも同じです。弟子たちは奇跡を求めていません。むしろパンがひとつしかないことに心が向いています。船の中にはキリストがおられます。キリストならどうされるでしょうか。キリストに求めたときどうなるでしょうか。

 キリストはこのパンひとつでも奇跡を行うことができる方です。そのキリストを全然見ていないのが弟子たちです。ファリサイ派もヘロデもキリストを信じてはいません。パンがひとつしないことで論じている弟子たちの前にキリストがおられます。

 

【5000人、4000人を食べさせたキリスト】

 弟子たちが見なければならないのはひとつのパンではありません。パンをめぐって議論などしても意味がありません。しなければならないことは、5000人、4000人を食べさせたキリストを思い出すことです。

 見なければならないこと、聞かなければならないこと、それはパンがひとつしかないという事実ではありません。むしろ、見なければならないのは、同じ船の中にいるキリストです。目で見るべきはキリストです。茫漠としてみるのではありません。必要ならば奇跡を起すこともできるキリストをその心に思い浮かべることです。目で見るべきは助け主キリストです。私たちは信仰を持って見なければなりません。キリストが何をしようとされているのかを見極めることこそ、私たち

がしなければならない選択です。

 ファリサイ派の要求にはキリストは応えられていません。弟子たちにはどうでしょうか。キリストはパンがひとつしかないことで論争している弟子たちに一挙に解決できる方のいることを示しています。事態をどう解決するかそれだけを見ていると何も解決策は出てきません。ではどうするか。キリストに私たちは信頼を寄せることを求められておられます。キリストならば何事もおできになるという一点に視点を集中するべきです。(おわり) 

2015年06月07日 | カテゴリー: マルコによる福音書

2015年5月31日説教「天からのしるし」金田幸男牧師

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説教「天からのしるし」金田幸男牧師

聖書 マルコ8章1-4

 

要旨

【キリストを「試す」ため】