コリントの信徒への手紙一

2017年4月16日説教「死は勝利に飲み込まれた」金田幸男牧師

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説教要旨 1コリント15:50-58.doc

15:50 兄弟たち、わたしはこう言いたいのです。肉と血は神の国を受け継ぐことはできず、朽ちるものが朽ちないものを受け継ぐことはできません。

15:51 わたしはあなたがたに神秘を告げます。わたしたちは皆、眠りにつくわけではありません。わたしたちは皆、今とは異なる状態に変えられます。

15:52 最後のラッパが鳴るとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます。

15:53 この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを必ず着ることになります。

15:54 この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、次のように書かれている言葉が実現するのです。「死は勝利にのみ込まれた。

15:55 死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。」

15:56 死のとげは罪であり、罪の力は律法です。

15:57 わたしたちの主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜る神に、感謝しよう。

15:58 わたしの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです。 

2017年04月16日 | カテゴリー: コリントの信徒への手紙一

2015年4月5日イースター説教 「死よ、お前の勝利はどこにあるか」金田幸男牧師

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説教「死よ、お前の勝利はどこにあるのか」金田幸男

聖書 1コリント15章50-58

 

要旨 

【イースター/復活祭】

イースターはキリストの復活を記念する日です。キリストの復活が意味するところをご一緒に学びたいと思います。

 

【宗教は、霊魂や死を扱う】

 宗教一般について申しますと。宗教は、魂(霊魂)と死後の世界について語ります。むろん、宗教の中には、そのような問題よりも現世利益といいますが、健康や良運、あるいは、お金や賭け事に利益を約束するような信心を売り物にする宗教もあります。しかし、多くの宗教は、人間の魂のこと、特に霊魂不滅、あるいは、死の問題と死後のことについて語るものです。

 

 現代は科学的知識が優先される時代です。つまり、実験で証明したり、数値化できるもの、映像化できるものが真実であって、そうでないものは虚構、作り話、あるいは迷信と片づけられます。

 

霊魂などその存在を証明する術はありません。となると霊魂など存在しないという人もいます。

 しかし、現実はどうでしょうか。人が死んだその場所に、その人の霊魂が残っていて、そこに花や線香を供える人が絶えません。霊魂など存在しないと言いながら、その存在を前提にした習慣はいつも継続されます。霊魂の存在を証明などできないから、存在しないと言う言い方は矛盾しています。

 

【宗教心は誰もが持っている】

存在しないなら、しないことも証明しなければなりませんが、それは誰にもできません。死後の世界についても同様です。むしろ、現代人といえども、魂のことや死後のことについて、死者とのつながりを求め、死後の世界に関心を払わざるを得ない何か、つまり、それこそ宗教心ですが、それを誰もが持っていると言わざるを得ないのではないでしょうか。

 

科学的な考え方では納得できない何かがこころにいつも存在するのではないでしょうか。合理的な発想や考え方を否定するのではありません。しかし、合理的な解説では説明できない現象もあり、事象もあるのだというか、一歩へりくだった考え方も大切なのではないかと思うのです。

 

【死の意味するところ】

 宗教は、死について語ります。科学的な考えでは、死は終わりです。すべて死でピリオドがつけられてしまいます。死は一切の終わりです。しかし、宗教は死について何を語るのでしょうか。これまたいろいろな考え方があります。

 

ひとつは諦めを語る場合です。死は避けることができません。だから仕方がないものというのです。それで死の恐怖を回避できるかどうか別問題です。

 

それなら死に直面して、こころ安んじて死を向かえる迎え方があるか。死の恐怖を忘れるために、死を忘れるようにする。死など一瞬の通過点にすぎない。こうして、死の向こうの素晴らしさを心に念じて、死を乗り越えるべきだと言う教えもあります。逆に死の恐ろしさを強調する宗教もあります。恐ろしい刑罰である、断末魔の苦しみを避けることはできない。いっそう死の恐ろしさを強調します。その死の恐ろしさを回避する方法が信心だとされます。

 

 信仰には確かに死の苦痛を麻痺させるような機能もあるかもしれません。しかし、誰でも死の恐怖を免れるのではありません。

 

【死の圧倒的な力】

 わたしは、教会員やその家族、また自分の身内の葬儀を何度も経験し、また、臨終の場にも居合わせる経験もしています。そのたびに思うことは死の力の巨大さです。腹が立つこともあります。死は横暴です。有無を言わせず死は襲ってきます。老いたものだけではありません。年齢など関係なく死はやってきます。

 

 この死の圧倒的な力に直面して、昔から死神と言うものを設定してきました。これは古今東西を問わないようです。それはいずれの地域でも死は普遍的です。死のないところはありません。人は絶えず死の影に付きまとわれます。恐るべき死の力は止むことはありません。死神は人間に対してあたかも全能であるかのように振舞います。確かにそのとおりです。死神は人間に恐怖を撒き散らし続けてきました。

 

 人は死に対しては無力なのでしょうか。どんなに科学技術が進歩しても死の問題は果して解決するかどうか。科学は死を克服できません。

 

 キリスト教と言う宗教は死の問題をどう扱うのでしょうか。今まで語ってきた宗教と同じなのでしょうか。そうではないと断言できます。

 

【聖書はキリストについて記す書物】

 聖書は、イエス・キリストについて書かれた書物です。このように言いますとおそらく反対が出るかもしれません。実際聖書をイスラエルの歴史が書かれてある書物と見る人もいます。あるいはそのイスラエルの宗教や道徳に関する書物だと考える人もいます。座右の銘が多く記されているいわば格言集のようなものとする人もいます。そこにはいい言葉がたくさん載っています。ある人は心が静められ、心が安まる慰めの書と見ます。聖書の読み方は多様です。

 

 私たちにとっては、聖書ははじめから終わりまでイエス・キリストについて書かれてあると思います。イエス・キリストは何を語り、何をしたのか。そのことを、聖書は予め語った書物であり、またその言行記録でもあります。

 

聖書はキリストについて記す書物です。でも、そのキリストについて語ると言っても中心があります。それはキリストの十字架と復活、その意味するところを記す書物であると言う観点は省くことはできません。

 

【使徒や弟子たちの復活証言】

 新約聖書を書いたのは、キリストの弟子たちとそのまた弟子たちです。12人の弟子、それにパウロといった初期の弟子たちは使徒と呼ばれますが、その使徒の見聞きしたことをさらに弟子たちがまとめています。弟子たちはキリストの言葉を書き残しています。それ以上に彼らの役割は、キリストの復活の証言です。私たちはキリストの復活を見た、それを弟子たちは語り続けました。それを世界中に語ろうとしました。そのために嘲笑され、あるいは秩序を乱すものと非難され、迫害もされました。殉教者も続出します。それでも彼らは、キリストは復活したと語り続けました。

 

 このように語っても簡単にキリストが復活したことを信じられるのかというと、むろんそんなに簡単に信じられるものではありません。しかし、次の言葉を何度も繰り返して読んでいただきたいと思います。

 

 「私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと、また、ケパに現われ、それから十二弟子に現われたことです。その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現われました。その中の大多数の者は今なお生き残っていますが、すでに眠った者もいくらかいます。その後、キリストはヤコブに現われ、それから使徒たち全部に現われました。そして、最後に、月足らずで生まれた者と同様な私にも、現われてくださいました。」1コリント15:3-8)。

 

この個所を読み、驚きました。パウロがこの手紙を書いているときにまだキリストの復活を目撃した人が生存していたのです。

 

【イエス・キリストは死/人類の敵に勝利】

聖書が嘘を書いていないのであれば、この文章は簡単に読み流すことはできません。イエスはよみがえったということを宣教するために弟子たちは出かけていきました。命がけでした。何故そこまでしたのか。弟子たちが本当に復活のキリストに出会ったからではないでしょうか。

 

もしキリストがよみがえったのであれば、死という無敵で強力な独裁者は風穴を空けられたようなものです。大きな建物も基礎が崩れれば全体が崩壊します。キリストの復活は死が、そして、死神が全能ではないことを示すのです。キリストはよみがえって死という巨大な私たちの敵を打ち倒してくださったのです。死は敗北しました。イエス・キリストは死に勝利されました。

 

これは単なる霊魂の不滅ではなく、それ以上です。からだはそのままでは死ななければなりません。確かに死は私たちを襲います。しかしながら、死はすでに征服されています。最後のあがきのように私たちを苦しめはしますが、キリストが私たちと結びついてくださっている限り、私たちもキリストのようによみがえる希望を持てます。事実、キリストは信じるものと一つとなってくださって、終わりの日には私たちをもよみがえらされます。

 

キリストは私たちを死に対する勝利者の群れに加えてくださいます。これが驚くべき知らせです。

 

イースターはこの喜ばしい使信を聞く機会となのです。私たちは死の影におびえて生きる必要はありません。死を仕方のないものとして諦める必要もありません。死は巨大な力を持っているかのように今も振舞いますが、実はすでに敗北者でしかないのです。死は驕り高ぶっているかのようではありますが、もう究極的な勝利など覚束ないのです。

 

死のトゲは抜かれてしまっています。からだのよみがえりをキリスト者は信じています(使徒信条)。キリストにあってやすらうのは、キリストがすでに死人の中から三日目に復活して、今は天におられるからなのです。(おわり)

2015年04月05日 | カテゴリー: コリントの信徒への手紙一

2013.2.24. 説教「十字架につけられたキリスト」ウイリアム・モーア宣教師

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2013.2.24. 説教「十字架につけられたキリスト」ウイリアム・モーア宣教師

聖書:コリントの信徒への手紙一1

18 十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。19 それは、こう書いてあるからです。「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、/賢い者の賢さを意味のないものにする。」

20 知恵のある人はどこにいる。学者はどこにいる。この世の論客はどこにいる。神は世の知恵を愚かなものにされたではないか。21 世は自分の知恵で神を知ることができませんでした。それは神の知恵にかなっています。そこで神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです。22 ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探しますが、23 わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、24 ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。25 神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。

 

説教要約(文責近藤)

 

【受難節】

先週水曜日より受難節に入りました。

復活祭の前の主の日を除く40日間を受難節として主イエス様の私たちの為の御苦しみと十字架の死に私たちは集中します。

受難節は私たちの悔い改めの機会であり私たちの信仰の不足したところを補う期間です。

これによって主の御復活の深い意味を知り復活の喜びを心から祝うことができます。

今日与えられた御言葉に主イエスの十字架の贖い死についてこう書かれています。

 

22 ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探しますが、23 わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、24 ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。25 神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。

 

一般的に言って人々は大きな人生の質問の答えをどこに求めるでしょうか。使徒パウロの時代「ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探しま」した。

 

【ユダヤ人はしるしを求め】

主イエス様はユダヤ人の為に多くの奇跡を行い、そのしるしによって神の独り子としての権威を顕されましたが、当時のユダヤ人は別のしるしを求めました。

その求めるところはこの世的なものでユダヤ人がローマ帝国の支配から解放され自由を勝ち得るなら彼に従ったでしょう。

 

【主イエスの十字架】

主にはその力が十分にあったのですが、主イエスは十字架の道を選ばれたので、当時のユダヤ人はそれを力と成功の道とは思えず弱さと敗北と恥のしるしと思いました。

彼らは霊的救い主を必要とせず、主の十字架はつまずきとなりました。

ユダヤ人は栄えと力強い軍事的勝利を求めましたので十字架のような霊的道を拒否しました。

 

【ギリシャ人は知恵を探す】

又当時のギリシャ人は知恵を求めました。

ギリシャはソクラテス、プラトン、アリストテレスを生み彼らの影響は今日も残っています。

ソクラテスによると人間の最も重要なニーズは教育によって答えられると言いました。教育によって人間は理性あるものとなり、教育によって人間は良くなり社会は問題が少なくなると言いました。

 

使徒パウロは伝道の為ギリシャの首都アテネでギリシャの哲学者たちの前で証をたてました。

はじめは喜んでパウロの新しい話に聞き入りましたが、パウロが宇宙の創造主と全能の神が処女によって人間として降誕したことや、十字架で死なれ、そして復活したことを語ると彼らには全く愚かなことだと受け入れられませんでした。

それは彼らには不合理でした。

その上全能の神は御自身の独り子を十字架に架けることを許されましたが彼らにはそれは理解できませんでした。

更に復活は彼らには不可能なことです。死んだ者は蘇りません。人間の経験からはずれ不論理的だと思い躓きました。これはイエス・キリストの福音に対する大昔の人々の反応ですが、今の私たちも知恵としるしを求め、神を信じる前に確証を求めます。しかし彼らにはどういうしるしが彼らには確証になるのでしょうか。

 

神などいないと思い込み神御自身が目の前に現れても信じないでしょう。

ただ幻想に違いないと思うでしょう。

現代の人々も知恵を求め、知恵は全てを解決できると仮定する傾向がつよいです。

 

【この世の進歩】

例えば知恵を通して経済が発展して貧困と犯罪がなくなると思う人は多いです。

また医療の進歩は人類の救いになると信じる人は多いです。

人間の知恵で肉体的と精神的病気が征服されるとこの世はまるでパラダイスになると思い込みます。

人間の知恵によって全ての問題が解決され、人間の力によって全ての質問に答えられると信じたい気持ちは良く分かりますが、全ての質問の答えが得られると言う希望は幻想です。

 

そういう希望が本当なら、人間はもう少し進歩したはずだと思いますが、今日も国と国の問題は戦争によって解決しようとし、犯罪は増え続け刑務所の人口は減ることがありません。

21世紀は発達したと言いますが世界の貧困層はまだまだ増えて飢え死にするものも珍しくありません。

医療が進歩したと言っても病気に悩む人は一向に無くならず新しい原因の解明されない病気も次々に起こってきます。

 

【私たちの質問】

「私はどのようにして幸福になりますか。

どうすれば私は心に平安を得られ、どのようにして私は現在の生き甲斐と将来の希望を持つことが出来るでしょう。

死んでも人から忘れられないようにするには私はどうすればよいでしょうか」等々、私たちはこのような質問を問いかけます。

 

【人生最大の質問】

このような質問は大事ですが、人生においてこれらは最大の質問ではありません。

わたしたち人間は最も重要な質問を見落としています。

それは人間の力に焦点を置いていて「私がどうすればよいか」との質問は人間の力と知恵に焦点されているからです。

 

そうではなく最も大事な質問は「神はどのようして私にご自分の愛を顕されたか、神はどのようにして私の罪を贖ってくださったか、神はどのようにして人生の目的と希望を私と全人類に与えられたか」と質問すべきです。

 

【十字架につけられたキリスト】

人間中心的質問よりも神中心の質問が大事です。

神様はそのような質問に導いて下さいます。

その質問の答えはパウロが述べた「十字架につけられたキリスト」です。

キリストの死を通して神はご自身の愛を示されました。

キリストの十字架を通して私の罪を贖って救ってくださった。

イエス・キリストの十字架によって神は私と全人類に人生の確かな希望と目的を与えて下さった。

使徒パウロがその真理をこう伝えました。

23節~25節「23 わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、24 ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。25 神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。」

 

十字架につけられたキリスト、全能の神が独り子を犠牲にすることは愚かに見えてもこれは人知を超えた神の知恵です。

神は十字架で罪の全くないキリストを罰しました。

その贖い死によってご自分の正義を全うされ、同時に私たちの全ての罪を赦してくださいました。十字架につけられたキリストこそ神の力と知恵です。


この歴史の中の最も重要な出来事を通して神は私たちを罪の力から解き放ち私たちをご自分との関係を回復し私たちのために永遠の命の門を開いてくださいました。

 

【復活の喜び】

受難節に人生の最も大事な質問に答える新たな機会を与えられました。

受難節を終えると復活祭イースターの喜びに与ります。

そして主イエスの復活は十字架のキリストこそが神の答えであることを保証します。

受難節の旅の上に神様の祝福がありますように祈ります。(おわり)

2013年02月24日 | カテゴリー: コリントの信徒への手紙一 , 新約聖書

「全てを変えたイースター」ウイリアム・モーア2011.4.24

聖書;コリントの信徒への手紙一15章1−6

 

 

【津波とわが子】

杉本友子さんは最悪の結果を恐れて恐怖に襲われました。5歳の長男ライト君の行く方が全く分からなくなってしまいましたからです。ライト君が通っていた幼稚園は、丁度3月11日に宮城県の石巻市で津波が押し寄せた所です。地震のその時、母、杉本さんは隣の町の会社で働いていたが、直ぐに車に乗り、石巻に帰ってライト君を探そうとしました。しかし、道路は津波の為、完全に通れなくなった状態で仕方なく職場へ戻りました。

 

翌日、何とかやっと石巻市に帰る事が出来、ご主人と共にライト君の幼稚園へ行きました。しかし、幼稚園には一人もいませんでした。しかも、園舎は津波で大分やられてました。杉本さんは園児について色んな矛盾した情報を聞きました。「子供達皆は助けられた」とか、又は、「皆が海へ流されてしまった」と聞いたのです。その故に彼女は最悪の結果を恐れ嘆きに沈みました。独り子のライト君がいなくなると、若いお母さん杉本さんはどうしようもない状態でした。

 

三日後、正しい情報がやっと入りました。地震の時、幼児11人と先生14名が幼稚園にいました。津波が襲って来ると皆は園舎の二階へ上がりましたが、黒い海の水は直ぐに二階へ入ったのです。そして、先生達は屋根まで園児を引っ張り上げって、そこで非難する事が出来ました。数時間後で皆が無事に助けられ、避難所へ連れられました。

 

その嬉しい情報を聞くと、杉本さんとご主人は避難所へ飛んで行きました。ようやく、ライト君と再会すると杉本さんは精一杯息子を抱きしめて、彼を放す事は出来ませんでした。嬉しくてたまりませんでした。ほっとした杉本さんは喜びで泣きながら「良かった、良かった」としか言えませんでした。

 

杉本婦人は今御家族と共に、仕方なく故郷から離れた場所で生活をしていますが、毎日ニッコリして、とても幸せに暮らしています。「息子ライトと一緒にいると、どんな事があっても前向きに生きられます」と嬉しそうにおっしゃいました。

 

2011年04月24日 | カテゴリー: コリントの信徒への手紙一 , 新約聖書

「一つの体、多くの部分」ウイリアム・モーア2011.1.30

聖書;コリントの信徒への手紙一12章12−27

 

【自分の体に不満】

皆さん、ちょっと変な質問かもしれませんが、自分の体の事についてどう思われますか。おそらく私たちの多くは自分の体についてあんまり言いたくないですね。そして、考えて見ようとすると、自分の体について良い事は心に浮かばないかも知れません。例えば、体重が多過ぎるとか、またちょっと痩せ過ぎとか。あるいは、ある人は背が低すぎる、またある人には背が高過ぎて困るのです。また、ほとんど誰でも自分の顔を鏡で見るともっと奇麗になりたい気持ちがあります。スーパモデルさえもそう言う傾向があるのだそうです。

2011年01月30日 | カテゴリー: コリントの信徒への手紙一 , 新約聖書

「主の食卓に着きましょう」ウイリアム・モーア2010.12.26.

聖書;コリントの信徒への手紙一10章14−22

 

【食卓は国の文化】

世界の全ての文化は食卓で特別な行事や祭日などをお祝います。クリスマスや、誕生日や、結婚式や、お葬式や、お正月などは食べ物と深い関わりがあるのだと思います。例えば、日本では御節料理はお正月に伴います。普段に食べない、その特別な料理で新しい年を迎えます。同様にアメリカの場合、七面鳥の丸焼きは秋の感謝祭に付いて来る物です。実は、祭日にそれぞれの特別な料理がなければ、私たちはなかなか満足出来ないものですね。

 

私は七面鳥のない国で大きくなりました。ですから感謝祭を祝う為に丸焼きの七面鳥の代わりに鶏の丸焼きを食べました。両親が韓国での宣教師だった為、私が幼い頃はなかなか七面鳥の丸焼きは食べられませんでした。鶏の丸焼きでしたが、今から50年前の韓国では鶏でもあまり肉が付いていなかったのです。ですから誰かが育てた七面鳥を市販するのを購入した際には、感謝祭の食卓に七面鳥が出されると、私たちの兄弟は大喜びで、特別な感謝祭になり、満足する事がやっと出来ました。

 

2010年12月31日 | カテゴリー: コリントの信徒への手紙一 , 新約聖書

「誇る者は主を誇れ」ウイリアム・モーア2010.10.3

聖書;コリントの信徒への手紙一1章26−31

26:兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを、思い起こしてみなさい。人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません。27:ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。28:また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。29:それは、だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためです。30:神によってあなたがたはキリスト・イエスに結ばれ、このキリストは、わたしたちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです。31:「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりになるためです。

 

【自慢の新車】

ある男の人が新しい自動車を購入して、その車の良さを同僚に毎日のように誇りました。その新車の加速力や、格好良さや、信頼性などをいつも自慢しました。しかも、車の低燃費も誇り始めましたました。朝、会社に着く度に、その前の日の燃費の数字を嬉しそうに皆に発表しました。

 

同僚は毎日その自慢話ばかりを聞くと、うんざりして自慢屋にいたずらを企みました。それで同僚の一人が密かに社員駐車場へ行って、毎日自慢屋の車にガソリン数リットルを給油しました。そうしますと、やはり車の燃費が急に上がって、その持ち主はとんでもない数字を発表しました。「昨日、一リットルで60キロ程を走ったよ」 と笑顔で皆に誇りました。いたずらの同僚は当分、毎日、ガソリンの異なった量を彼の車に給油して、燃費はよく変わっても、その持ち主は何も分からなくて続けて自慢しました。端から笑った同僚は更にもっとひどいいたずらを考え出しました。今度は自慢屋さんの車を給油する代わりに、彼等はガソリンをそのタンクから結構な量を抜いてしまいました。そうしますと、燃費が酷く下がり、同僚の物笑いを恐れ、持ち主は自慢を急に止めました。彼は自分の車が分からなくなり、結局燃費も計らなくなりました。

 

2010年10月03日 | カテゴリー: コリントの信徒への手紙一 , 新約聖書

「聖餐式の意味」ウイリアム・モーア2010.9.26

聖書:コリントの信徒への手紙一11章23−26

◆主の晩餐の制定

23:わたしがあなたがたに伝えたことは、わたし自身、主から受けたものです。すなわち、主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、24:感謝の祈りをささげてそれを裂き、「これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。25:また、食事の後で、杯も同じようにして、「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。26:だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです。

 

 

【珍しい習慣】

毎週の主の日の礼拝に、ある教会が珍しい習慣を必ず守りました。それは、使徒信条を一緒に唱える前に、皆が立ち上がり、右の方に体を向けて、白い壁をじっと見ながら、信仰を告白しました。毎週全く同じ事を自動的にしました。その教会に新しい人はそう言う習慣を見ると、とても不思議だと思いました。何故なら、沢山の教会の礼拝を見ましたけれども、使徒信条の為に皆が体を右の方に向ける事は全く始めてでした。ですから、好奇心からその習慣の理由を聞きましたが、誰も知りませんでした。ただ、「いつもそういうふうに使徒信条を告白して来た」と答えました。

 

その答えでは満足出来なかったので、また聞きました。やっと、小さい時からその教会の礼拝を守った96歳のお爺さんがその習慣の理由を教えてくれました。

 

彼の子供の頃、週報がなかった為、使徒信条は教会の右側の壁に大きい字で書かれてありました。ですから、使徒信条を唱える時が来ると、皆は起立し、右側に向いて、その言葉を読みました。しかし、長年にわたり字が段々褪せてきて、何回も壁はペンキで塗り替えられ字が消えてしまったのですが、皆は忠実に未だにその同じ習慣に従いました。そして、ついに、その習慣の意味が分からなくなるまでになりました。

 

2010年09月26日 | カテゴリー: コリントの信徒への手紙一 , 新約聖書

「私達は大勢でも一つの体です」ウイリアム・モーア2010.7.25.

聖書:コリントの信徒への手紙一10章15−17

15:わたしはあなたがたを分別ある者と考えて話します。わたしの言うことを自分で判断しなさい。

16:わたしたちが神を賛美する賛美の杯は、キリストの血にあずかることではないか。わたしたちが裂くパンは、キリストの体にあずかることではないか。

17:パンは一つだから、わたしたちは大勢でも一つの体です。皆が一つのパンを分けて食べるからです。

 

FamilyReunion

大きな親戚の集まりに参加した事がありますか。日本の習慣はちょっと分からないですが、アメリカでは親戚の集まりは珍しくはありません。近親だけではなくて、遠い親戚までもよく集まって来ます。その集まりは「family reunion」と言います。すなわち、親戚の親睦会でしょう。ある family reunionは小さいところありますが、数百人の集まりも結構あります。全国から集まって来て、四、五日の間、皆は久しぶりの交わりを楽しんで、ばらばらになっていた家族皆は再会の喜びを経験出来ます。

 

アメリカで、私が牧会した教会のある家族は、よく親戚の親睦会に行きました。その親睦会は全国だけでなく、ヨロッパから外国籍の親戚も参加しに来ます。集まりを通して自分の大きな家族の親睦を養う、その家族にとって本当に大切な行事なのです。自分の喜びと悩みなども皆と話し合って、お互いに良い励ましの時になるのだそうです。

 

うちの家族は長距離なので family reunionに参加するのはなかなか難しいですが、子供達がまだ小学生の時、一度参加しました。子供達は内の親戚にこんな人がいるとは大喜びでした。

 

2010年07月25日 | カテゴリー: コリントの信徒への手紙一 , 新約聖書

あなたがたの解放の時が近い: ウイリアム・モーア 2009.11.29

ルカによる福音書21章25−28

◆人の子が来る

 25:「それから、太陽と月と星に徴が現れる。地上では海がどよめき荒

    れ狂うので、諸国の民は、なすすべを知らず、不安に陥る。

 26:人々は、この世界に何が起こるのかとおびえ、恐ろしさのあまり気

    を失うだろう。天体が揺り動かされるからである。

 27:そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、

    人々は見る。

 28:このようなことが起こり始めたら、身を起こして頭を上げなさい。

    あなたがたの解放の時が近いからだ。」

 

 

【アドベント・待降節】

皆さん、開けましておめでとうございます。そうです、開けましておめでとうございます。実は、今日こそはキリスト教会の元日になります。つまり、今日のアドベント、すなわち待降節の第一主の日は教会暦年の元日です。

 

主イエス・キリストの存在と賜物は我々キリスト者にとって最も中心的事実ですので、私達の新しい年は今日のアドベントの第一の主の日から始まりです。

 

2009年11月29日 | カテゴリー: コリントの信徒への手紙一 , ルカによる福音書 , 新約聖書

愛とはなにか ウイリアム・モーア宣教師

コリントの信徒への手紙一13章4−7

4:愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。


5:礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。


6:不義を喜ばず、真実を喜ぶ。


7:すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。


【世界のヴアレンタインデー】
皆さんも御存知ですが、昨日はヴアレンタインデーでした。ヴアレンタインデーは世界中に広まって、愛の祭りのようなものになりました。そして、ヴアレンタインデーの習慣は国によって異なります。アメリカとカナダの場合、男性は愛の対象に赤い薔薇の花束とチョコレートをプレゼントをします。ですから一年中で花屋さんの一番忙しい日はヴアレンタインデーです。英国人はヴアレンタイン•カードを好きな人に送って、ヴアレンタインのパーテイーも楽しみます。最近はインドにもヴアレンタインデーが守られて来ているそうです。そのロマンチックな日に男性は結婚をプロポーズします。そして、日本の場合も独特なヴアレンタインの習慣があります。2月14日に女性は男性にチョコレートを贈り、そして、3月の14日のホワイト•デーには男性がお返しに女性にキャンデイーを贈ります。

2009年02月15日 | カテゴリー: コリントの信徒への手紙一 , 新約聖書

わたしの記念としてこのように行いなさい ウイリアム・モーア宣教師

コリントの信徒への手紙一11章23−26

◆主の晩餐の制定

23:わたしがあなたがたに伝えたことは、わたし自身、主から受けたものです。すなわち、主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、24:感謝の祈りをささげてそれを裂き、「これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。

25:また、食事の後で、杯も同じようにして、「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。26:だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです。


【人違い】
数年前にアメリカの本国勤務の間に私は久しぶりに属する中会の会議に出席しました。宣教師として日本に来る為に20年前にその中会から離れましたので、見慣れた顔があまりありませんでした。しかし、会堂の向こう側にやっと一人のよく見覚えがある顔を見つけました。それは牧会した教会のドーリスと言う婦人でした。ドーリスの家に何回も訪問して、彼女の娘さんと孫までも教会に出席していました。私はその教会を辞任してからドーリスは長老になりましたので彼女はその日中会へ出席していました。ドーリスに会う為に私は彼女の方へ歩いて、「ドーリス、お久しぶりですね。お元気ですか」と挨拶しました。そして、ドーリスは私をよく見てこのように言いました、「シューフ先生、いったいここで何をするんですか。」ところで、シューフ先生は私がその教会に来る前の牧師でした。ですから私は、「ドーリス、私はシューフ先生ではありません。シューフ先生の後任モーアです。覚えているでしょう」と返事しました。しかし、ドーリスは私を信じないで言いました。「そんな事はない。確かにあなたはシューフ先生です。先生の事はよく覚えています。」会議が終わって、皆は帰る時、ドーリスはわざわざ私にやって来て言いました。「シューフ先生、是非近いうちに教会で説教の奉仕をして下さい。皆が会いたいと思います。」近くにいた牧師はその話を聞いて私に、「気にしないで下さい。ドーリスは最近ちょっとぼけて来ている」と言いました。

実は、そのように忘れられて、私はちょっとショックを受けました。何故なら、人によって覚えられたいからです。特に、親しくなった人によって覚えられたいのです。忘れられると、悲しくなりますね。

2008年07月20日 | カテゴリー: コリントの信徒への手紙一 , 新約聖書

身に着けるべきもの ウイリアム・モーア宣教師

コロサイの信徒への手紙3章12−17
 
【もったいない】
うちの両親は宣教師だったので、私が大きくなるまで、家族は貧乏ではないけれども、それ程の余裕もありませんでした。ですから私達は出来るだけ節約して暮らしてきました。石油の変わりに石炭を使って暖房しました。又、家の後ろの畑で野菜を作り、冬の為に沢山瓶詰めにしました。両親は電気と水の無駄使いを見ると、私達兄弟に注意しました。小さい時からその訓練を受けた私は、大人になっても自動的につけっぱなしの明かりを消すようになりました。ある時、家族が部屋にいたのに、私が出る時、うっかりライトを切ってしまった事もあります。ですから私は日本の「勿体ない」と言う概念に心から賛成します。
 
【お下がり】
実は節約する為、小さい時、お母さんは私を兄のお下がりを着せたのです。僕は三人の兄弟の真ん中で、兄の洋服を着て、そして、弟は私の洋服を着せられました。しかし、お下がりばかり着るのは可哀そうだとちっとも思いませんでした。当然だと思ったのです。その上、兄の洋服が着られる事は私の成長の表れになりましたので、喜んでその服を貰いました。身長が伸びたと言う事を皆に見せたい故に、誇りを持ってその古着を着たのを覚えます。子供の頃のその事を思い出すと笑いますが、不思議にその無邪気な時を憧れます。
 
【主イエスからのお下がり】
今朝、皆さんにお下がりを差し上げたいと思います。しかし、そのお下がりは私からではありません。もし私からであったら、きっと大き過ぎて全然合わないでしょう。実は、差し上げるお下がりは主イエス・キリストからのものです。主イエスこそがその着物を着ましたが、今は私達が着るようにと切に願っておられます。今日の御言葉の12節にその「身に着ける」ものが記されています。それは、

「憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、と寛容です。」


そして、そのイエス・キリストのお下がりを着ると、私達は主に似ていくので、廻りの者が私達の中に主を見る事が出来ます。

2008年01月27日 | カテゴリー: コリントの信徒への手紙一 , コロサイの信徒への手紙 , 新約聖書

自分の救いを達成するように努めなさい ウイリアム・モーア宣教師

フィリピの信徒への手紙2章12−18
 
【牢獄のパウロ】
使徒パウロは先程読ませて頂いた御言葉を牢から書きました。彼は信仰の故にローマ帝国の当局によって逮捕され、裁判を受ける間、閉じ込められました。私達はその告発が詳しく分かりませんが、イエス・キリストの信仰を大胆に人々に伝えたので、牢に入れられ、これから死刑される可能性が十分ありました。
 
牢に入れられた使徒パウロはその大変不安な時を、どのように日々を過ごしたでしょうか。彼が自分の不安と困苦と法的問題で落ち込んでいたら私達はその気持ちが十分分かります。また、信仰の為にそうなったので使徒パウロが神に失望していたら、それも私達は十分理解出来ると思います。「神様、どうして私はこんなに酷い目にあったのですか。長い間主イエス・キリストの福音を忠実に述べ伝えたのに、どうして私を守りませんでしたか。」もしパウロは気が滅入って来て、そのように呟いても、誰も彼を責めるものはなかったでしょう。しかし、パウロは監獄の大変な生活の中で大きいな喜びを持って、続けて積極的にイエス・キリストの僕として一所懸命に励みました。自分の投獄についてこのように書きました。「兄弟たち、私の身に起こった事が、かえって福音の前進に役立ったと知って欲しい。つまり、私が監禁されているのはキリストの為であると、兵営全体、その他のすべての人々に知れ渡り、主に結ばれた兄弟たちの中で多くの者が、私の捕われているのを見て確信を得、恐れることなく、ますます勇敢に、御言葉を語るようになったのです。」(フィリピの信徒への手紙1:12−14)

2007年11月25日 | カテゴリー: コリントの信徒への手紙一 , コリントの信徒への手紙二 , フィリピの信徒への手紙 , 新約聖書

誘惑にNOと言えるあなた ウイリアム・モーア宣教師

聖書:コリントの信徒への手紙一10章13節
 
【厚かましいラクダ】
ある寒い夜、アラブ人が自分のテントに入り、寝ようとしました。彼が丁度眠りに入った時、自分のラクダが頭をテントに差し込んで、「外はあんまり寒いから足だけをテントに入れても良いですか」と願いました。ラクダが可哀そうと思ったアラブ人は少し考えてから、その願いを聞き届けました。そして、彼はもう一度毛布に包まって眠りに入りました。ラクダはたちまちにまた主人を起して、「あんまり寒いから寝られません。頭もテントに入れさせて下さい」と乞い求めました。アラブ人は臭いラクダの頭と近くに寝たくなかったのに、半分眠っていたからその願いも聞き入れて、ラクダは頭をテントの中に入れたのです。そして、しばらくしてから、ラクダはもう一度主人の目を覚めさせて、「お尻が凍ってしまうので、お尻もテントに入れたいですが、よろしいですか」と尋ねました。主人はラクダの大きなノミに食われたお尻をテントの中に許すのに抵抗を感じました。しかし、仕方がないと思って、自分のラクダの願いを叶えて上げました。
 
アラブ人は何とかもう一度眠り込みましたが、テントは段々狭くなった為、目が覚め起きてしまいました。そして、ラクダの足と頭とお尻だけではなく、ラクダ全体がテントにいました。アラブ人はびっくりして、「このテントはあなたと私、両方泊る余地がありません」とラクダに言ったところ、ラクダは、「余地がないと言えば、御主人の方が出たらどうでしょうか」と厚かましく返事しました。

2007年09月16日 | カテゴリー: ガラテヤの信徒への手紙 , コリントの信徒への手紙一 , マルコによる福音書 , 新約聖書

わたしの父の家には ウイリアム・モーア宣教師

聖書:ヨハネによる福音書14章1−3
 
 
【モリソン宣教師夫妻】
略100年前の事ですが、モリソンと言う宣教師御夫妻は長年のアフリカでの奉仕後、定年を迎えアメリカのニューヨークに帰る事になりました。二人の健康は衰え、年金もなかったので、モリソン御夫妻は色んな心配がありました。偶然の事ですが、彼等はアメリカの大統領セオドア•ルースヴェルトと一緒に同じ客船に乗りました。探険旅行帰りの大統領は一等スウィートルームに泊まりましたが、モリソン夫妻は薄暗い三等船室でした。大統領とその仲間はVIP待遇を受けていましたけれども、誰も宣教師達に留意しませんでした。
 
まだ航海中に、先生は奥さんにこう呟きました。「これは大変不公平ですよ。我々はアフリカで辛苦に耐えながら一生を捧げましたのに、誰一人私達の事を覚えてくれる人はいませんね。しかし、大統領はただヴァカンスから帰りだけなのに、皆は大騒ぎではありませんか。」
 
客船がニューヨックに着いた時、ブラスバンドが大統領を歓迎して、大勢の高位高官にある人々は出迎えに来ました。新聞も大統領の帰りを大きく取り扱いました。その反面、誰一人宣教師の帰りを気づく人はいませんでした。その二人はただカバンを持って船から降りて安いアパートを捜し回りました。それから、生活をする為に、仕事を捜そうとしたのです。

2007年08月12日 | カテゴリー: コリントの信徒への手紙一 , フィリピの信徒への手紙 , ヘブライ人への手紙 , マタイによる福音書 , ヨハネによる福音書 , ヨハネの手紙一 , ヨハネの黙示録 , 新約聖書

『いつも喜んでいなさい』 植田昌彦伊丹教会長老


聖書:テサロニケ信徒への手紙[I] 5章16~24節
 
【何を求めて教会に】
人は何を求めて教会に来るのでしょうか。キリスト信徒と呼ばれる私たち教会員は何を求めて教会に来また礼拝に出席するのでしょうか。また求道者の方々も何を求めて教会に来られるのでしょうか。人それぞれ願いや思いは違うでしょう。色々な求めがあろうかと思います。心の平安を求めて、最近の言葉で言えば癒しを求めて、幸せを求めて、何か心の清らかさを求めて、宗教に興味を持って、心のよりどころ確かな人生の指針を求めて、等々色々あると思います。またその求めを持つようになった「きっかけ」も人それぞれ異なったものだと思われます。
 
【PHP:心の安らぎ】
ある本に書いてあったのですが、今もっとも日本で読まれている最高の発行部数を誇っている雑誌をご存知でしょうか。本当に日本一かどうかは私自身定かではないのですが。皆さんも読んでおられるかも知れませんが、「PHP」という雑誌というか冊子がそうだと書いてありました。これは松下幸之助が創出した人間の生き方を考える冊子です。忙しい日々の生活の中でほっとした心の安らぎを得たい、共感を覚えるものを求めて、自分の日々の生きる指針を、また生活上ぶつかる色々な心の葛藤へのヒントを、考える冊子として読まれているように思います。このPHPの冊子に求めることと同じものを教会に求めて来られる方もいると思います。それらは、教会に求めるものあるいは信仰に求めるものとしても大切なものであろうと思います。

2007年07月15日 | カテゴリー: コリントの信徒への手紙一 , テサロニケの信徒への手紙一 , 新約聖書

霊の結ぶ実:愛 ウイリアム・モーア宣教師

聖書:ガラテヤの信徒への手紙5章16−25

【霊の実と肉の業】  16:わたしが言いたいのは、こういうことです。霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。  17:肉の望むところは、霊に反し、霊の望むところは、肉に反するからです。肉と霊とが対立し合っているので、あなたがたは、自分のしたいと思うことができないのです。  18:しかし、霊に導かれているなら、あなたがたは、律法の下にはいません。  19:肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、20:偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、21:ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。以前言っておいたように、ここでも前もって言いますが、このようなことを行う者は、神の国を受け継ぐことはできません。  22:これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、23:柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。  24:キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。25:わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう。26:うぬぼれて、互いに挑み合ったり、ねたみ合ったりするのはやめましょう。

 
【キリスト者とは?】
皆さん、「キリスト者であると言うのは、どんな事ですか」と聞かれると、どう答えられますか。その事について考えた事がありますか。多分色んな正しい答え方があるのですが、やはり一番大事なのは、キリスト者はイエス・キリストを唯一の救い主として信じ、頼ります。そして、更にキリスト者は毎日の生活にイエス・キリストに従って生きようとする者なのです。つまり、私達は主イエスを模範として生きたい。又、主イエスに似て行く熱望を持っています。

2007年05月06日 | カテゴリー: エフェソの信徒への手紙 , ガラテヤの信徒への手紙 , コリントの信徒への手紙一 , コロサイの信徒への手紙 , ヨハネによる福音書 , ヨハネの手紙一 , ルカによる福音書 , 新約聖書

恵みの賜物 ウイリアム・モーア宣教師

ローマの信徒への手紙5章12−21
 
【何を問題とすべきか?】
皆さん、毎日、新聞を開いてニュースを読むと、その内容のおもなテーマは何でしょうか。ニュースの内容は色々ありますが、一つのテーマは他のテーマよりも、遥かに大きいです。また、私達はこの世を見ると、その同じテーマがいつも出て来ます。さらに、自分自身の人生と生活を振り返って見ると、不思議にそのテーマも明確になります。その大きなテーマはやはり「問題」です。新聞に載ってる問題はテロや、戦争や、温暖化や、犯罪や、核兵器の拡散などのようなものです。そのようなものがなかったら新聞は大変薄くなります。また、自分の人生を見ても、どの問題も大きなテーマになると思います。経済的問題、子供の問題、夫婦の問題、心の問題、仕事関係問題、健康の問題などです。次々とそのようなものに襲われると、人生はおもに問題の扱いで形成されているかのように思いがちです。
 
【何が一番大きな問題か?】
皆さん、私達の問題の中で何が一番大きいでしょうか。そのように聞かれると、「それは人によって違います」と答えるかも知れません。人々は様々な背景があって性格も違いますので、当然一番大きい問題が共通しません。また、ある時は一番大きい問題が解決されると、そのものの代わりに他の問題が一番のもんだいとなります。

2007年03月11日 | カテゴリー: コリントの信徒への手紙一 , ローマの信徒への手紙 , 新約聖書

「心の清い人々は幸いである」田村英典牧師/淀川キリスト教病院伝道部長

【心の清い人々は幸いである。その人たちは神を見る】
5章8節だけ、もう一度お読み致します。

「心の清い人々は幸いである。その人たちは神を見る。」


何か私たちの心に静かな余韻を残す言葉ではないかと思います。
これは今から二千年前、神の御子イエス・キリストが真の信仰者の特徴と幸せについて語られた教えの一つですが、まだ洗礼を受けず、クリスチャンになっておられない皆様にも、さ程抵抗なく、受け止めていただけると思います。
 
心の清い人々が幸いであることを否定する人はまずいないでしょう。また、もし神を見ることが本当にできるなら、それは幸いだと思う方も少なくないと思います。私は10代の終り頃、生きる道を求め、20歳の時に初めて近くの教会へ行ってみました。とはいえ、最初は強く警戒し、極力深入りすまいと心に決めていました。しかし、それとは別に、私は教会の中に何か世間とは違う真実なものがあると感じました。少し大袈裟に言えば、それは私に別の世界のあることを気付かせ、心を洗われる気がしました。
 
そして、人間というものが、いいえ、私自身が罪深いことも素直に認めることができました。聖書が行なう人間や社会の分析、そして洞察についても、余り抵抗はありあせんでした。「これならクリスチャンになってもいい」と割合早い時期に思ったものです。

2006年11月19日 | カテゴリー: コリントの信徒への手紙一 , マタイによる福音書 , ヨハネの黙示録 , 新約聖書

「義に飢え渇く人々は幸いである」 田村英典牧師/淀川キリスト教病院伝道部長

マタイ5章6節
「義に飢え渇く人々は幸いである。その人たちは満たされる。」

 
マタイ5章初めの幸福の教えを続けて学んでいます。今日は4番目の6節に進みます。イエスは言われました。「義に飢え渇く人々は幸いである。」
 
【義に飢え渇く】
私は20歳の時、初めて聖書のここを読みました。正直なところ、良く分りませんでした。

「義」


とは何か。

「義に飢え渇く人々」


とは強い表現だが、どういう人のことなのか。こういう疑問を抱いたことを今も覚えています。
 

2006年10月17日 | カテゴリー: コリントの信徒への手紙一 , フィリピの信徒への手紙 , マタイによる福音書 , ヨハネによる福音書 , ルカによる福音書 , 使徒言行録 , 新約聖書 , 旧約聖書 , 詩篇

「さらに愛し合う教会」 グラハム・スミスKGK主事/CMS宣教師

詩編133篇1--3

1:【都に上る歌。ダビデの詩。】見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び。

2:かぐわしい油が頭に注がれ、ひげに滴り/衣の襟に垂れるアロンのひげに滴り

3:ヘルモンにおく露のように/シオンの山々に滴り落ちる。シオンで、主は布告された/祝福と、とこしえの命を。

テサロニケの信徒への手紙一4章9--10

【1.愛がないと。】

(スキット:持ち物をめぐる争い)

先のふたりの間の会話と行動を見てどう感じましたか。びっくりしたでしょう。恥ずかしかったでしょう。気持ちがわるかったでしょう。

これはスキットに過ぎませんでしたが、残念ながら、日常生活ではこのようなことが繰り返して起こっています。家庭とか会社とか学校の中で似ている問題が起こっています。我が家では下の二人の子供の間では、本当につまらないことで争いがしばしば起こっています。「兄弟喧嘩」と呼ばれていますね。大人は子供よりコントロールができますから目立つ程の喧嘩にならない場合が多いですが、心のレベルでの戦いは態度や言葉使いなどによって起こります。

先のスキットのように、心の感情が外に出ると大変な経験になります。喧嘩の姿がばれるといやな気持ちがしますね。

教会のなかでも愛がないと本当に辛いです。メンバーに傷つけられたり、外への証のつまずきになります。そうならないようにパウロの言葉に聞きましょう。パウロは兄弟愛について語っています。

2006年10月01日 | カテゴリー: エフェソの信徒への手紙 , ガラテヤの信徒への手紙 , コリントの信徒への手紙一 , テサロニケの信徒への手紙一 , テトスへの手紙 , マルコによる福音書 , ヨハネによる福音書 , ヨハネの手紙一 , ルカによる福音書 , ローマの信徒への手紙 , 新約聖書 , 旧約聖書 , 詩篇

「悲しむ人々は幸いである」 田村英典牧師/淀川キリスト教病院伝道部長

聖書:マタイ5章4節「悲しむ人々は幸いである。その人たちは慰められる。」

【悲しむ人々は幸いである】
今朝は、イエスの語られた山上の説教の冒頭の「幸福の教え」の二つ目に進みます。4節「悲しむ人々は幸いである。その人たちは慰められる。」

ここですぐ疑問が湧いてきます。「ちょっと待ってほしい。悲しみは不幸以外の何ものでもないではないか。何故こんなことが言えるのか。」恐らく誰もがこういう疑問を抱くと思います。

「悲しむ人々は幸い。」この逆説はどういうことでしょうか。イエスはどういう意味でこう言われるのでしょうか。

最初に一つのことを確認しておきます。イエスは悲しむ人の誰もがこうだと言われるのではありません。前回も申し上げましたが、ここの教えは皆、イエスを神の御子、また私たち人間を罪と永遠の滅びから救うことのできる、ただ一人の救い主と心から信じる真の信仰者、真のクリスチャンの幸いな特徴、特質を八つの角度から描いたものです。これはクリスチャンでない人たちを締め出すというのではありません。ただ、真のクリスチャンとはどういう人で、どういうことが真に幸いか、ということです。

次のような誤解もあります。これは世間にしばしば見られ、クリスチャンですら時に誤解しているものです。つまり、クリスチャンはいつも笑顔で明るいというものです。成程、教会へ行くと皆明るい。笑顔で挨拶し、爽やかな印象を与えます。「私はクリスチャンだから、人につまずきを与える苦しそうな暗い顔をしてはいけない。明るくなくては」と思って努力する人もいます。中には、常に明るいことを自分のトレードマークとし、他のクリスチャンにもそれを要求する人もいます。これでは、クリスチャンは悩んではならず、悲しむことはキリスト教信仰と相容れないみたいです。

2006年09月17日 | カテゴリー: コヘレトの言葉 , コリントの信徒への手紙一 , マタイによる福音書 , ヨハネによる福音書 , ローマの信徒への手紙 , 新約聖書 , 旧約聖書 , 詩篇

「心の貧しい人々は幸いである」 田村英典牧師/淀川キリスト教病院伝道部長

マタイによる福音書5章 ◆山上の説教を始める 1:イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。2:そこで、イエスは口を開き、教えられた。 ◆幸い 3:「心の貧しい人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。 4:悲しむ人々は、幸いである、/その人たちは慰められる。 5:柔和な人々は、幸いである、/その人たちは地を受け継ぐ。 6:義に飢え渇く人々は、幸いである、/その人たちは満たされる。 7:憐れみ深い人々は、幸いである、/その人たちは憐れみを受ける。 8:心の清い人々は、幸いである、/その人たちは神を見る。 9:平和を実現する人々は、幸いである、/その人たちは神の子と呼ばれる。 10:義のために迫害される人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。 11:わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。 12:喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。


【山上の説教】

今朝は、主イエスの語られた山上の説教の冒頭の教えに注目したいと思います。

3~10節で主は


「~は幸いである」

と言われます。どういう人のことを、主は語っておられるのでしょう。実は真の信仰者、真のクリスチャンとは、どういう特徴を持つ人かを、8つの角度から描いておられるのです。従って、これらにより、私たちはクリスチャンとしての自分を様々な角度から吟味することができ、また何が真に幸いなのかも再確認できます。

2006年09月10日 | カテゴリー: イザヤ書 , コリントの信徒への手紙一 , コリントの信徒への手紙二 , テモテへの手紙一 , マタイによる福音書 , ヤコブの手紙 , ルカによる福音書 , ローマの信徒への手紙 , 出エジプト記 , 新約聖書 , 旧約聖書

「神のみこころ」 グラハム・スミス(CMS宣教師・KGK主事)

聖書:1テサロニケの信徒への手紙一4章1--8

【1.生けるためのアドバイス】
私はある英語の新聞を読んでいます。全部読めないですが、必ず、木曜日のトラブルシューティング(人生の悩み相談コーナー)を読んでいます。二人の悩みが書かれて、それに対して一人のアドバイスが書かれています。良く出る問題は人間関係で、夫婦や親子や姑との人間関係又職場の人間関係や親戚との関係です。そのなかには不品行、財産やお金、無責任な行動、アルコール中毒の問題などがあげられます。
 
興味深いことはカウンセラーとして立てられた人たちです。有名な著者、タレント、弁護士と時々は精神科医がアドバイスをします。専門科ではない人ばかりです。その新聞の記事を読みながらいつも考えるのは、人間は人生についてどこからアドバイスを受けているか、求めているか。どうでしょうか。人生を過すために一般の人々はどのように導かれているでしょうか。助け無にして生活している人がいるでしょう。また、家族に相談する人もいるでしょう。学校のなかなら、先生の役割も大きいでしょう。マニュアルにそって人生を歩んでいる人もいるでしょう。占いや宗教によって導かれる人もいます。タレントやスポーツマンの影響を受けている人も少なくないと思います。
 
人々はわざわざ新聞に手紙を書いて送らなくても、良い生活を歩むためのアドバイスを求めていると思います。クリスチャンも求めています。クリスチャンはキリスト教用語で、それはみこころを求めていると言います。神様が望んでいることは何であるか、神様の心の思いは何であるか知りたいのです。神様からの導きを求めています。決断する時だけではなくて、クリスチャンはこの世でどのように歩んだらいいのか導かれたいのです。
 
今日の箇所はその求めの答えになります。神のみこころは何であるかが3節以下にはっきり書かれています。

「3:実に、神の御心は、あなたがたが聖なる者となることです。すなわち、みだらな行いを避け、4:おのおの汚れのない心と尊敬の念をもって妻と生活するように学ばねばならず、5:神を知らない異邦人のように情欲におぼれてはならないのです。」

  タレントに聞かなくてもいいです。新聞に探さなくてもいいです。先生と相談しなくてもいいです。マニュアルも買わなくてもいいです。占いを避けることも出来ます。なぜなら、聖書には神のみこころが充分に書かれています。今日は、この箇所からみこころを学びたいのです。

2006年09月03日 | カテゴリー: コリントの信徒への手紙一 , テサロニケの信徒への手紙一 , 新約聖書

「クリスチャンが気になるものは?」グラハム・スミス-CMS宣教師・KGK主事

聖書:1テサロニケ2:17--3:10 

1.大事なもの
人生を過ごしながら、何が大事か、何がつまらないか、わきまえるようになります。人生の経験を重ねることによって、判断する知恵が与えられ、成長します。大抵、子どもは物を大切にします。食べ物や飲み物やおもちゃなど。また、今、すぐに得るものを欲しがります。子どもを買い物に連れていくとその傾向は明らかです。

大人はどうでしょうか。どんなことを大事にしようとしているでしょうか。頭では愛とか、平和とか、健康とか、家族を大切にしていると言われるでしょう。でも、日常生活を見ると、大人も物を大事にしています。利益になるものや自分を満たすものにはまっています。

普通の生活では何が大事かあまり深く考えないですが、時々何かのきっかけで考えさせられます。数年前に私の26歳の妹が原因不明で亡くなりました。そのことで、私と残された家族は大分変わりました。大人らしくなったり、つまらない話をさけたり、不完全なことを気にしなくなったり、「今」という時の意識が強くなって、生きている特権をいつも覚えるようになりました。

人が病気になると何が大事か反省するようになる場合が多いです。この前、旅行の直前、連れていく親戚の子どもが病気なりました。長い間計画を立てて、待ち望んだ休みをとれないような状態になりました。その時の思いを振り返えって見るとすごく恥ずかしいです。子どもの健康のことよりも、自分のことしか考えなかった。7万円の新幹線切符の損、宿泊費の損、バケーションのキャンセルの損ばかり考えました。病気の子どものことは気にせずに、自分のことだけ考えてしまいました。親戚の子供だったので、その親に対する怒りもありました。

もちろん、さまざまな経験から何が大事であるかを考えさせられますが、聖書を読むとその課題がよく出てきます。今日の箇所では、パウロとテサロニケの人々との関わり方から、本当に大事なことは何であるかが見えてきます。別な翻訳では「生きがい」という言葉が出てきます。パウロの生きる意味、生きる目的は何であるか、はっきり書かれています。私たちのいきがいと比べることができます。

2006年08月13日 | カテゴリー: コリントの信徒への手紙一 , テサロニケの信徒への手紙一 , 使徒言行録 , 新約聖書

思い煩いからの解放 ウイリアム・モーア

聖書:フィリピの信徒への手紙4章4-7節

【思い煩い】
「思い煩い」は誰にでもあると思います。夜中に目が覚めて、思い出し、眠れません。朝起きると、やはり同じ思い煩いが頭の中を巡っています。「ああ、この悩みさえ解決されれば、私はどんなに幸せか」と思って、一ヶ月も、二ヶ月も、心の中は黒い雲のように晴れません。「あんな事さえしなければ、良かったのに」、「あの人が悪い」と自分を責めて、また、人を責めます。

しかし、一つの思い煩いが去っても、しばらくしてまた別な事が起って来ます。自分の中で、家庭で、職場で、また友人の間で。いつまで経っても生活から思い煩いは消えません。

そして、どうしますか。独りになって考えます。また、人に相談します。話すと少し気が楽になったようですが、またそれ以上の思い煩いになります。人は信頼出来なくなったので、今度はお金を払って占い師を訪ねる人もいます。このような方法で一時の慰めを得ても、決して思い煩いをなくしてしまう事は出来ません。

【思い煩いという病原菌】
しかし、考えて見ると、この世の中では思い煩う事は無理もないと思います。誰でもよく知っていますが、この世は危険な所だからです。色々な恐ろしい病気があるし、事故や天災などは珍しくはありません。そして御存知のように人間関係が齎す思い煩いには限りがありません。

それで「誰にでも思い煩いはある事さ。引きずって生きていこう」と心に決めていませんか。「解決の方法はない」と諦めていませんか。しかし、思い煩いを甘く見てはいけません。思い煩いは、全ての人の心の中にあって、人を死にまで追いやる、しつこい病原菌です。思い煩いによって病気になる人は大勢おります。内科医師の弟によると彼の患者の病因の半分ぐらいは精神的な事だそうです。そして、その思い煩いは精神的の原因の中で一番大きくて、万病の元だそうです。

でも思い煩いは病気の元になると言う理由の為だけではなく、また色々な理由でも無くした方が良いのです。第一は先ず、あんまり心配すると毎日の生活は自分を希望と挑戦と成長するよりも、退歩し、自分の生活が面倒臭くなって、楽しくはありません。自分の人生を精神的に豊に生きる事が出来ません。そして、思い煩いを引きずって生きていると、自分の仕事はもちろん良く出来ない、周りの人まで迷惑を掛ける事があります。持っているあなたの才能を半減させます。

【どのようにして思い煩いから解放されるか】
私達皆は思い煩いが良くない事であると認めると思います。思い煩いで悩んだ事のある人は良く分っていらっしゃると思います。しかし、どのように思い煩いからの解放を得るのでしょうか。自分の力で解決出来る方法はありますか。もし自分の精神をもう少ししっかりコントロールするなら、解決出来ますか。もし自分の問題をもっと積極的に扱ったら、心配する理由がなくなるのでしょうか。自分のあらゆる力を使って自分の思い煩いから解放して見て下さい。そうするとその方法は駄目であると言う事が分って来ると思います。

2006年06月04日 | カテゴリー: コリントの信徒への手紙一 , フィリピの信徒への手紙 , マタイによる福音書 , 新約聖書

自尊心はどこから来ますか ウイリアム・モーア

聖書:エレミヤ書1章4-10

【確かな希望】
先週の説教に私達は希望の重要性を一緒に学びました。確かな生き生きとした希望があれば、私達はどんな事があっても絶望せず、積極的に、力強く生きられます。さらにその希望が全能の唯一の神の約束と愛に基づいているのであれば、私達はその希望に徹底的に委ねる事が出来るのです。神の御子イエス・キリストが提供して下さる永遠の救いを受け入れると、私達の生涯は大きな意味と素晴しい目的地を得て、神の賜物、真の希望を豊に経験します。常に変わりつつある周りの環境から来る希望と違って、神が授けて下さる希望は誰も、何も、私達から取り上げられません。豊に生きる為には、神からの大きな、また、確かな希望が絶対に必要であります。

【神に喜ばれる適切な自尊心】
今日は、また人間には絶対に必要なものについて考えたいと思います。それは自尊心です。つまり、それは自分の尊厳と価値を正しく意識する事です。適切な自尊心があると、私達は自信を得て、生涯に起こる事を積極的に扱う事が出来、勝利と成功を経験します。また、自分を正しく評価する事によって、人間関係がより豊になります。なぜなら、自分自身を適切に愛すると、周りの者も愛し尊敬出来ます。

【自尊心の欠如】
その反面、自尊心が足りなかったら、自信を失う事があり、惨じめになります。そして、生涯に襲って来るチャレンジに積極的に扱う事が出来ず、失敗が大きくなります。さらに、自尊心が少ない場合、人間関係が上手く行く事が難しくなります。やはり、自分自身をあんまり愛さないと、相手の愛を信じ、受ける事が困難であります。最近、引きこもりの問題が深刻になりました。原因は色々あると思いますが、恐らく自尊心を段々と失った結果であると思います。

【過度の自尊心】
自尊心が足りない場合があれば、自尊心があり過ぎる場合もあると思います。つまり、適切な自尊心が自負心と高慢になります。自分が誰よりも優れていると言う態度をとり、周りの者の存在はただ自分に仕える為であると思い込んでしまいます。もちろん、そう言う自己中心的態度をとると、人間関係がすぐ駄目になり、極端な場合、人に対して酷い事をします。

2006年04月30日 | カテゴリー: イザヤ書 , エレミヤ書 , コリントの信徒への手紙一 , フィリピの信徒への手紙 , ヨハネによる福音書 , 創世記 , 新約聖書 , 旧約聖書

神のお答え ウイリアム・モーア(受難節1)

コリントの信徒への手紙一1章22-25

【受難節】
先週の水曜日から私達は受難節に入りました。受難節は復活祭、すなわちイースターの前の40日の間です。その40日間はイエス・キリストが公の働きを始めた直前、断食と祈りをする為に荒れ野で過ごされた40日間に相当します。特に、受難節に、私達は主イエスが私達の為に負われた苦しみと十字架の死に集中します。

そして、その主の犠牲は私達の罪の贖いになりましたので、受難節は私達一人一人の悔い改めの機会になります。自分自身の生き方と信仰生活を吟味し、神の助けによって足りない所を治す時期にもなります。

私達がこの受難節を守って過ごすとき、主イエスの復活の意味と喜びがより深く分かって来て、心から祝う事が出来ます。

実は、受難節と言う伝統は聖書には載っておりません。しかし、初代教会が今から約1800年前、イースターの準備の為に受難節を守り初めました。教会の大事な伝統になり、世界中ほとんど全てのキリスト教会が受難節を重んじて来ました。私達は大きな世界教会の一つの群れですが、私達も心から受難節を覚える事によって、大きな恵みになると信じております。主イエス・キリストの十字架の死は本当に私自身の救いの為であると新たに悟らされます。すなわち、受難の出来事を通して、愛する神は私と全人類の最も重要なニーズを叶えて下さいました。また、その贖いの死は、人生についての私達の大きな質問に答えてくださいます。

【コリントの信徒への手紙一1章22ー25】
今日、与えられた御言葉に使徒パウロはイエス・キリストの贖いの死についてこのように書きました。 

「ユダヤ人はしるしを求め、ギリシヤ人は知恵を探しますが、私達は、十字架につけられたキリストを伸べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを伸べ伝えているのです。神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。」(コリントの信徒への手紙一1章22ー25)

2006年03月05日 | カテゴリー: コリントの信徒への手紙一 , 新約聖書

「新しい教会へのメッセージ・パートⅡ」
グラハム・スミスCMS宣教師KGK主事

◆テサロニケでのパウロの宣教      1テサロニケ2章1-16 1:兄弟たち、あなたがた自身が知っているように、わたしたちがそちらへ行ったことは無駄ではありませんでした。 2:無駄ではなかったどころか、知ってのとおり、わたしたちは以前フィリピで苦しめられ、辱められたけれども、わたしたちの神に勇気づけられ、激しい苦闘の中であなたがたに神の福音を語ったのでした。 3:わたしたちの宣教は、迷いや不純な動機に基づくものでも、また、ごまかしによるものでもありません。 4:わたしたちは神に認められ、福音をゆだねられているからこそ、このように語っています。人に喜ばれるためではなく、わたしたちの心を吟味される神に喜んでいただくためです。 5:あなたがたが知っているとおり、わたしたちは、相手にへつらったり、口実を設けてかすめ取ったりはしませんでした。そのことについては、神が証ししてくださいます。 6:また、あなたがたからもほかの人たちからも、人間の誉れを求めませんでした。 7:わたしたちは、キリストの使徒として権威を主張することができたのです。しかし、あなたがたの間で幼子のようになりました。ちょうど母親がその子供を大事に育てるように、 8:わたしたちはあなたがたをいとおしく思っていたので、神の福音を伝えるばかりでなく、自分の命さえ喜んで与えたいと願ったほどです。あなたがたはわたしたちにとって愛する者となったからです。 9:兄弟たち、わたしたちの労苦と骨折りを覚えているでしょう。わたしたちは、だれにも負担をかけまいとして、夜も昼も働きながら、神の福音をあなたがたに宣べ伝えたのでした。 10:あなたがた信者に対して、わたしたちがどれほど敬虔に、正しく、非難されることのないようにふるまったか、あなたがたが証しし、神も証ししてくださいます。 11:あなたがたが知っているとおり、わたしたちは、父親がその子供に対するように、あなたがた一人一人に 12:呼びかけて、神の御心にそって歩むように励まし、慰め、強く勧め たのでした。御自身の国と栄光にあずからせようと、神はあなたがたを招いておられます。 13:このようなわけで、わたしたちは絶えず神に感謝しています。なぜなら、わたしたちから神の言葉を聞いたとき、あなたがたは、それを人の言葉としてではなく、神の言葉として受け入れたからです。事実、それは神の言葉であり、また、信じているあなたがたの中に現に働いているものです。 14:兄弟たち、あなたがたは、ユダヤの、キリスト・イエスに結ばれている神の諸教会に倣う者となりました。彼らがユダヤ人たちから苦 しめられたように、あなたがたもまた同胞から苦しめられたからです。 15:ユダヤ人たちは、主イエスと預言者たちを殺したばかりでなく、わたしたちをも激しく迫害し、神に喜ばれることをせず、あらゆる人々に敵対し、 16:異邦人が救われるようにわたしたちが語るのを妨げています。こうして、いつも自分たちの罪をあふれんばかりに増やしているのです。 しかし、神の怒りは余すところなく彼らの上に臨みます。

【倣うもの】
有名な聖書のことばを紹介します。


「わたしがキリストに倣うものであるように、あなたがたもこの私に倣うものとなりなさい。」(1コリント11:1)

これは使徒パウロという初代教会の宣教師が言ったことばです。私に倣うものとなりなさいと。
別の箇所で、パウロはテモテという福音の働き人にこう言いました、


「信じる人々の模範になりなさい。」(1テモテ4:12)

一人の弟子であるペテロも、キリストの苦しみを模範とすることを勧めました(1ペテロ2:22)。模範を示すことや倣う者になることは、人間の成長のために重要な方法です。異文化の生活に慣れるために回りの人がやっていることを注意深く見て、同じように行動することは大切なのです。 (例え)

2004年05月09日 | カテゴリー: コリントの信徒への手紙一 , テサロニケの信徒への手紙一 , テモテへの手紙一 , マタイによる福音書 , 新約聖書

【お正月の聖餐】ウイリアム・モーア

◆主の晩餐の制定 コリントの人への手紙一11:23-32

23:わたしがあなたがたに伝えたことは、わたし自身、主から受けたものです。すなわち、主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、
24:感謝の祈りをささげてそれを裂き、「これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。
25:また、食事の後で、杯も同じようにして、「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。
26:だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです。
27:従って、ふさわしくないままで主のパンを食べたり、その杯を飲んだりする者は、主の体と血に対して罪を犯すことになります。
28:だれでも、自分をよく確かめたうえで、そのパンを食べ、その杯から飲むべきです。
29:主の体のことをわきまえずに飲み食いする者は、自分自身に対する裁きを飲み食いしているのです。
30:そのため、あなたがたの間に弱い者や病人がたくさんおり、多くの者が死んだのです。
31:わたしたちは、自分をわきまえていれば、裁かれはしません。
32:裁かれるとすれば、それは、わたしたちが世と共に罪に定められることがないようにするための、主の懲らしめなのです。

2004年1月4日ウイリアム・モーア

皆さん、HappyNewYear!.開けましておめでとうございます。神様の大きな恵みによって私達にこの新しい年、主イエスキリストの2004年と言うこの年が与えられました。どうか、この2004年には神様の大きな祝福とイエスキリストの御臨在が皆さんと皆さんの御家族一人、一人の上に豊にあります事を祈ります。

2004年01月04日 | カテゴリー: コリントの信徒への手紙一 , 新約聖書