ヨハネによる福音書

2017年9月17日説教「神からの人」金田幸男牧師

説教要旨 ヨハネ7:25-36.doc

170917_003(変換後)(変換後).mp3 ←クリックして説教をお聴きください

礼拝後、国際ギデオン協会の「報告と証」に松嶋吉則兄が奉仕くださいました。感謝。
CIMG1027.JPG

2017年09月18日 | カテゴリー: ヨハネによる福音書

2017年8月13日説教「信じて生きる」金田幸男牧師


説教要旨 ヨハネ6:41-51.doc

本日の音声説教はレコーダー不調でありません

2017年08月20日 | カテゴリー: ヨハネによる福音書

2017年6月18日 説教「神は今働く」金田幸男牧師

ヨハネによる福音書5章1~18節 説教「神は今働く」
170618_001(変換後)(変換後).mp3  ←クリックで説教が聴けます

説教要旨 ヨハネ5:1-18.doc

2017年06月18日 | カテゴリー: ヨハネによる福音書

2017年3月19日(日) 説教「神の宮の清め」金田幸男牧師

説教要旨 ヨハネ2:13-22.doc

170319_001(変換後)(変換後).mp3  ←クリックで説教が聴けます

木村英樹神学生かおり姉夫妻一年間のご奉仕感謝します。
IMG_3610.JPGIMG_3607.JPGIMG_3608.JPGIMG_3611.JPG






170319_001(変換後)(変換後).mp3  クリックで説教が聴けます





2017年03月21日 | カテゴリー: ヨハネによる福音書

2017年1月29日説教「恵みと真理」金田幸男牧師

説教要旨 ヨハネ1:14-18.doc

説教音声はレコーダ操作失敗でありません

2017年01月31日 | カテゴリー: ヨハネによる福音書

2014年12月21日説教「神がまことの人になるとき」金田幸男牧師

L141221001.wav ←クリックして説教をお聴きくださいCIMG0499.JPG
新約聖書
ヨハネによる福音書1章1 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。
2 この言は、初めに神と共にあった。
3 万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。
4 言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。
5 光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。

説教 「神がまことの人となる」

聖書:ヨハネ1:1―5

 

要旨 

【「めでたい」と言うこと】

 クリスマスはイエス・キリストの誕生を祝う日と、このように一般に捉えられています。誕生日はめでたい。「愛でる」とは美しさを褒めるという意味があります、誕生日は何が美しいでしょうか。生まれてきた、可愛い赤ん坊が美しいとも言えるかも知れませんが、むしろ新しいのちが存在するようになったことがうるわしいと言えるのではないでしょうか。今まで存在していなかった生命が存在するようになった、そこに、めでたさがあります。

 

【クリスマスを祝うとは】

イエス・キリストの誕生もまた、それまでありえなかったような存在が地の上に与えられた、だから、クリスマスは祝うべきだというのです。

 

 しかし、クリスマスの喜ばしさはそれだけではありません。ヨハネ福音書1章4に「言は肉となって私たちの間に宿られた」という文章が記されています。その言は1章1では「はじめに言葉があった。言葉は神と共にあった。言は神であった」と記されていいます。つまり、「神が肉をとって人間となられた」ということになります。

 

【はじめに】

「はじめに」は、いつか分からないけれども単なる時間のはじめというような「はじめ」を意味していません。むしろ「永遠のはじめ」を意味しています。永遠のはじめなど、言葉の使い方が間違っていると思われるかもしれません。永遠にははじめもなく終わりもないというべきでしょう。しかし、すべてが始まる以前、時間すら開始される前、その永遠から存在していた言葉が、とき至って肉体を取り、人間となられたのです。時間というようなものがまだなかったときから存在しておられた方が来られたという意味です。

 

【「宿られた」】

 「宿られた」とは「住まわれた」と言うことであり、私たち人間の間で生活し、行動されるようになったというのです。

 神である方が人間と成り、人間の中に住まわれて、生きるようになった。これがクリスマスの大きな意味なのです。神が人となられた。

 

【人間が神になる世界】

私たちは人間が神になるという世界にいます。歴史に残るような大きな活躍をした英雄、傑出した業績を残した人が死後神として祭られる世界、これが私たちの住む世界です。人が死ねば、その人は人間を越えるものとして、例えば子孫を守護する存在として崇められます。人間の神化はごく自然な現象として認められています。でも、神となった人間は、生きていたときの特質をあまり失いません。人間としての特質に神の特質が加わると言うことでしょう。

 

【神が人間となる】 

 しかし、クリスマスはこれとは異なったことを教えられます。神が人間となった、つまり、逆方向の出来事が起きたとされます。神が人となった。

 これはどういうことでしょうか。神がどこか遠くに存在するだけで、人間世界で起きていることを眺めているだけだというのではありません。人間の住む只中に降って来られたと言うのです。神が神であることをやめず、しかし、人間となってくださった。

 

 神が人となるということとは、人が神を見ることが出来るということを意味しています。イエス・キリストこそその人間となった神です。イエス・キリストの周囲には、残念ながら、画家はいなかったようです。もしいたら、彼はイエス・キリストを描くことができました。むろん写真で撮影することができました。キリストはそのような点でまぎれもなく人間となられました。

 

 キリスト教では神は見えないことになっています。私たち日本人もその神観念では、神は見えないことになっています。ご神体の多くは鏡です。鏡は像を移すことができますが、神は見ることができない存在です。神は目には見えません。

 

【見えざる神】

 わたしは牧師としていろいろな質問を受けますが、そういう中で一番多い難問は「神がいるなら見せてくれ、見たら信じる」というものです。神を見せることができれば、手っ取り早く神存在を証明することができるかもしれません。でも、神は見ることが出来ないのです。見ることが出来るようにされた神は神ならざるものでしかありません。

 

【人となられた神イエスは見ることができた】

 イエス・キリストは神であるにもかかわらず、人間となられたのですから、キリストそのものは見ることが出来ます。キリストは幻の中で姿を表したのではありません。

キリストを見れば、確かにそこでは「人間イエス」を見ていることになりますが、そのイエスが神です。神を肉眼で見ることが出来ませんが、イエスの働き、行動行為、説教を聞いておれば、私たちは神の何かを見ていることになります。

 

言は肉となったと記されていました。肉体を取った神、それは言が肉の姿をとっただけではなく、言葉はイエスの口から発せられます。それは単なる音声に留まるのではなく、神の意志を伝えます。神が何を願い、何を求め、何を欲し、どんな驚くべきことをしようとしておられるのか明白にされます。

 

言葉は神の御心を明らかにします。その言葉を聞いておれば神とはどういう存在か、神は私たちにとってどういう価値があるのか。神は一帯どんな恵みを提供しようとしておられるのか。神は決して人間を滅ぼしつくそうとしておられるのではありません。そうすればきっとよきことをしようとされています。神は憐れみの神です。救いの神です。

 

【聖書に記録された神の言葉】

キリストを通じて、私たちは神の意志を知ることができるのです。単なる宗教的天才の発明した思想を受け取るのではありません。

キリストの言葉、すなわち神の言葉は聖書に記録されています。聖書を読めば、神の意志が分かります。キリストが降誕されたのは、イエス・キリストによって神の御心が明白に、隠れるところなく示されるようになるため、また、すばらしい神の働きがなされたことを示されるためです。キリストを信仰の目で見れば神が見えてくるということができます。肉眼で見えなくても、心で神を見ることが出来るようになります。

 

【処女マリアから生まれたキリスト】

神の子、イエス・キリストが降誕した、その意味は多くありますが、中でも最も大切な意味が何か。キリストの降誕で、キリストは私たちと同じ人間になられました。正確に言うと、罪を除いて、全く私たちと等しい人間となられたということです。罪を除いて、について詳しい説明が必要ですが、処女マリアから生まれた理由です。この点、キリストは私たちとは同じ出生ではありませんでした。だから、キリストは罪なくして生まれてこられました。

 

【身代わり】

同じ人間であると言うのは私たちの身代わりになれるということです。

子どもが何か悪いことをして誰かに損害を与えたとします。その場合、親が子どもに代わり、謝ります。ときには賠償責任も負います。こうして身代わりになるものが負い目を引き受けて、その(よこしま)な行為の張本人は免罪されます。責任を取らされず、処罰されないのです。

 

【イエス・キリストの贖罪】

イエス・キリストが人間となられたのは身代わりになれる、いや、身代わりになるためでした。人間は身代わりを必要とする闇を背負っています。それは死の陰という闇です。私たちは死の気配の中で生きています。そして、世界もまた、破滅の予兆を示しています。人類はその罪のゆえに戦争、戦乱、飢饉、疫病など数え切れない不幸と災いに見舞われます。その原因は、どこにあるのでしょうか。直接の原因は解明できるでしょうけれども、その打開策を人間は持っていません。例えば戦争ですが、戦争の原因はいろいろと探り知ることができるでしょうけれども、根本的な原因は見い出せません。むろん人間の貪欲、あくなき欲望と言えるかもしれませんが、それを解決する方策は今もって見い出せていません。

 

人間の悪き存在は自覚されていてもその解決はありません。

イエス・キリストは、人間の悪とその結果を引き受けるためにこの世に来られました。ご自身が十字架につけられることで身代わりになられました。

キリストは、自らを犠牲にすることで、神の裁きを引き受けてくださいました。そうすることで、根本的な人間の中にある闇を取り払われました。

 

【キリストによる平和の完成】

現在はなおも罪の支配があります。それはまだ力を発揮しているかのようですが、根本は解決しています。キリストのこのみわざを信じるところでは闇は払われています。信じる心があるところで平和が来ています。完成されるまではまだ時間がかかるかもしれませんが、それでも、神は徐々に完全な平和の到来を実現しておられます。

クリスマスはこの神の働きを覚え、また救いの完成を待ち望むときでもあります。主を待ち望みつつこの季節を過ごしたいものです。 (おわり)


2014年12月21日 | カテゴリー: ヨハネによる福音書 , 新約聖書

2014年1月5日説教「神は私の目を開いてくださる」金田幸男牧師

M140105001.wav
↑クリックすると音声で説教が聞けます。
CIMG6361.JPG

2014年1月5日説教「主はわたしの目を開いてくださる」金田幸男牧師

聖書:旧約聖書、詩編1461 ハレルヤ。わたしの魂よ、主を賛美せよ。

2 命のある限り、わたしは主を賛美し/長らえる限り/わたしの神にほめ歌をうたおう。

3 君侯に依り頼んではならない。人間には救う力はない。

4 霊が人間を去れば/人間は自分の属する土に帰り/その日、彼の思いも滅びる。

5 いかに幸いなことか/ヤコブの神を助けと頼み/主なるその神を待ち望む人

6 天地を造り/海とその中にあるすべてのものを造られた神を。とこしえにまことを守られる主は

7 虐げられている人のために裁きをし/飢えている人にパンをお与えになる。主は捕われ人を解き放ち8 主は見えない人の目を開き/主はうずくまっている人を起こされる。主は従う人を愛し

9 主は寄留の民を守り/みなしごとやもめを励まされる。しかし主は、逆らう者の道をくつがえされる。

10 主はとこしえに王。シオンよ、あなたの神は代々に王。ハレルヤ。

 

参照:ヨハネ福音書9章1~12節

 

要旨 

【ハレルヤ詩編集】 

詩編146から150までは、ハレルヤという言葉で始まる、まとまった部分で、ハレルヤ詩編集と分類されています。そのほかにハレルヤ詩編集は三つあり、113-118(エジプト・ハレルヤ集)、120-136(大ハレルヤ詩編集)となっています。

なお、111と112もハレルヤという言葉が含まれていますが、省かれています。「ハレルヤ」はヘブライ語で、聖書がギリシヤ誤訳されたときでも翻訳されず、原語のまま残されました。アーメンとか、インマヌエルという語もそうです。翻訳されなかったのは、ギリシヤ語に変えてしまえば語彙が持っている意味と音の響きの結合が失われると思われたからではないかと思います。音の響きが宗教生活において聞きなれていたせいかもしれません。「ハレルヤ」とは「主を賛美せよ」という意味です。神賛美に促す歌です。

 

【人生の中で最も重要な営みとは?】

 ところで、人生の中で最も重要な営みは何であるか考えます。あまり深くこんなことを考えたことがないかもしれません。人間が人間である最も根本的な行為、生き方は何か。

ただ食べたり、飲んだりだけの、いわば本能に従って生きているだけではどうなのでしょうか。人間の格好はしているでしょうけれど人間らしい生き方とはいえません.

人間とは何か。人間が人間であるためには何が決め手なのか。現在は人間と人間でないものの境界があいまいでぼんやりしてきている時代になったのではないでしょうか。

しかし、私たちは人間です。人間が人間であることの特質とは何か。有名な哲学者は「人間は考える葦だ」といいました。思惟すること、思索すること人間の固有性を保証するというのです。わたしは、意図して意識的に礼拝する人間、これこそ他の被造物と区別される特色ではないかと思います。人間とは礼拝する存在です。

 

【牧師として】

 わたしは牧師として教会で40年以上礼拝のために奉仕をしてきました。牧師としていったい今まで何をしてきたのかと思います。説教を1万回くらいしてきました(1年に250回以上説教をしたら。たぶんそれ以上やっていると思います)。葬儀や結婚式の司式を何度かやってきました。

 

成果はともかく、伝道、牧会も精一杯しました。信徒の世話も何とかやってきました。でもわたしは牧師として一番力をこめたのは何であったのか。礼拝の遵守、特に主の日を礼拝の日とするために労してきたと思わざるを得ません。

 

【神礼拝】

礼拝は、人生の中で最も基本的で肝心な営みです。そのことに奉仕的たことは光栄でありました。思い通りの理想的な礼拝を守れたわけではありません。礼拝出席者を増やすこと、安息日厳守を訓練すること、充実した喜びに満ちた礼拝を守ること。こういうことを列挙するとわたしは恥ずかしくなります。でも、わたし自身、人生の下部構造として、40年以上、信徒が礼拝を守るために奉仕をしてきました。

 礼拝なしの人生は宗教のない人生です。礼拝なしの人生とは神なしの人生です。現代人は自己責任を強調されて生きています。神などなくして、自分の決断、判断で行動し、その結果責任は当人が負うというものです。

しかし、神なしに、自分の力だけで生きていく人生は、いつも恐怖と不安に付きまとわれます。特に、私たちは老いてついには死んでいかねばなりません。誰かが看取ってくれていても一人で死ぬほかはありません。充実した人生も一寸先の将来は見えません。先がどうなるか分からない人生は不安に付きまとわれます。不明の将来に突進する人生に耐えられる人はいません。

神を礼拝するということは、そのような宗教なき人生、神なき人生の対極にある生き方です。私たちは何か分けが分からない相手を拝んだり礼拝したりしたりしているのではありません。神がどうのようなお方であるかを知るからこそ確信して礼拝できます。

 

【礼拝とは】

 礼拝とは何か、改めて考えます。ある人は説教を聞くことと思っています。ある人はミサ儀礼のような儀式(プロテスタントでは聖餐)にあずかることと思っています。ある人は祈りに行くことだと思っています。ある人信徒同士の交わりに参加することと考えています。これらは間違いではありませんが礼拝の一面を見ているだけです。

礼拝の中で肝心な部分を占めているのは賛美です。賛美は礼拝の業の中で筆頭を占めていると考えることは間違っていません。神を賛美することのない礼拝は人間中心の、人間が工夫している儀式に終わります。

 礼拝とは賛美することと定義できます。賛美のない礼拝はありえます。聖書研究、聖書講義だけの礼拝もありえます。儀式、香をたいたり、ともし火を挙げたりする行為を伴う恭しい礼拝もあります。集まって祈っているだけの礼拝もありえます。

でも、それだけではあまりにも単純、無味乾燥した礼拝であるといってもよろしいでしょう。賛美なしの礼拝は考えられません。礼拝において、私たちは賛美します。ハレルヤと神に叫びます。

ただ、わたしたちの教会の礼拝においての賛美の営みは、賛美歌を歌うことによります。ですから、礼拝の奏楽者の役割は決して小さいものではありません。会衆の歌はとても価値があります。

そして、賛美は祈りの重要な要素です。私たちはまず賛美から祈りを始めるのが普通です。

さらに、説教の中でも神が賛美されますし、賛美に促されます。賛美は礼拝の中で重層的に行われます。礼拝は賛美そのものでもあります。

 

礼拝は神をほめたたえることです。ではどのようにして私たちは神を心から賛美できるのでしょうか。相手も分からないままに真実な礼拝はできません。漠然と何かを礼拝しているか分からないままにただの恐れから礼拝することもありえます。ありがたい,霊験あらたかな神的なものに礼拝を捧げているのです。それは礼拝には違いありませんが、相手がどういう言う方であるか知って礼拝することと、相手も分からないで礼拝することは全く特質が異なります。

 

【礼拝の対象】

礼拝は礼拝する相手を深く知る機会でもあります。礼拝において、神を正しく賛美できるのは、この詩編の作者が教えてくれています。礼拝とは、つまり賛美とは、一生の営みです(2節)。気が向いたときとか人生のわずかの時間だけ礼拝するべきではありません。礼拝となると、いのちのある限りでなければなりません。礼拝は長時間であればいいというのではありませんが、礼拝は人生の中で繰り返されるとき、私たちは神を深く知り、神がどういうことをなされるか分かります。

礼拝なしに宗教なし、信仰なし、そして神なしと行っても過言ではありません。礼拝なしの年限が多くなってきたこの時代は神をもたない人が圧倒的に多くなってきたことを示します。それが時代の風潮だと決め付けることはできません。神なしの人生こそ最も不幸なことなのです(5節)。

  

【君侯に頼るな】

どうすれば、私たちは心から神を賛美できるでしょうか。この詩編は二つのことを教えています。ひとつは人間に賛美を帰すべきではないということです(3-4節)。君侯は古代世界では権力の保持者でした。君侯が国民に平和と繁栄をもたらすと信じられていました。君侯、つまり政治や、政治の仕組みが人間の魂を救うとまで期待されています。何でもかんでも政府の力が頼りです。私たちは人生のさまざまな局面で制度や体制が安心を与えてくれると思っています。

しかし、私たちは経験上それらが本当に頼りにならないことを知っています。究極的には政治の仕組み、福祉政策が人間の幸福を保証しません。時代と共に変化します。そして、頼りになりません。

人間は、その中に自分も含まれていますが、所詮、土から造られた人間は土に帰るだけです。そのようなものに頼れない、これは地上的もの、人間的なものに信をおけない以上は、それらを賛美などできないという結論に導かれます。神賛美に向かわざるを得ません。

 だから、人間的なものの救いを断念すれば、神に賛美を向けざるを得ません。その神はどういうことをされたのか。7節以下に列挙されています。                                                                                      

      ①   虐待されている人に正当なさばき、正義に基づく裁判を行われます。人間の裁判には間違いがあります。人間の判断には不正があります。神はそうではありません。

      ②   神はその人間として最も基本的な生の糧を用意されるかたです。

       ③   捕虜を解放されます。戦争捕虜だけではなく、私たちを縛り付けているものは多くあります。そのために不自由な目にあっています。

私たちは多くの欲望、願望に縛られ、人間関係に縛り付けられています。ある人は運命や宿命に縛られていてがんじがらめとなっています。主はあらゆることの解放者です。

見えないの目を空けてくださる方です。私たちは見えるべきものも見ていません。特に真実が見えていません。見えなければ闇に住んでいます。神は私たちに真理の光を提供してくださいます。

   うずくまり、打ちのめされ、打ちひしがれている人がいます。立ち上がることができず、苦悩のどん底に呻いている人がいますが、主は立ち上がらせてくださいます。

   社会的に弱者といわれている人は不当な扱いを受けてきています。しかし、神は寄留の外国人、孤児や寡婦を豊かに守られます。神は大王であって、ここで列記されていることを実現することができる方です。

 

しかし、ここに書かれているような神を体験できなく、それどころか神の助けを期待できない目に遭うものです。私たちの人生は不幸と不運に見舞われます。そのような時、とても神を賛美できない心境になるものです。神に恨みでも言いたくなるかもしれません。

そのとき礼拝から遠ざかるのではなく、礼拝においてますます神を知る、神がどういうことをして下さるかを知り、その真実を信じます。

信仰から、たとえ失望のどん底にあっても神を礼拝して、神を知ります。その神を信じます。この循環、つまり、礼拝、信仰、賛美、礼拝、信仰、賛美を繰り返すときに、私たちの礼拝は喜びと幸いの源泉となるでしょう。(おわり)




2014年01月05日 | カテゴリー: ヨハネによる福音書 , 新約聖書 , 旧約聖書 , 詩篇

2013年12月22日説教「神の秘かな愛の決起」佐々木弘至牧師

DSCF7120.JPG
DSCF7121.JPGDSCF7122.JPG

20131222日説教「神の秘かな愛の決起」佐々木弘至牧師

【ヨハネ福音書31621節】

16 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。17 神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。18 御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。19 光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。20 悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。21 しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために。」

 

《説教の主》暗い世を愛され神の愛の光・キリストを見上げよう

 

I》今年一年を顧みて

 

本年もクリスマスを迎えました。クリスマスの時季になりますと、私は一年を振返って様々の事を回顧することがあります。1年を回顧すると言っても、個人的 なことも回顧もするのですが、クリスマスは何と言っても全世界的な出来事でありますから、自己の一年を回顧すると同時に、むしろ社会に現れた特微的な事共に想いが向けさせられるのであります。

 

今年も社会の世相を振り返ってみて同様の事を感じるのですが、今年も明るさをえた事柄と、暗い事柄を比較してみますと、暗い出来事の方が圧倒的に多かったことであります。皆さん、如何でしょうか?今年のニュースの中で明るい事柄をどれだけ想い起すことができますでしょうか?私の個人的な性格の故であるかどうか解りませんけれども、どうも明るいニュースを明確に思い出すことがあまりないのです。一~二 想い起すなら、富士山の世界遺登録と、2020年に東京オリンピックの開催が決まったこと、東北楽天が日本シリーズで優勝したこと、最近では日本料理が無形文化遺産に登録された位のものです。健忘症ではないか、と言われてしまうかもしれませんが、あまり明るい事柄が思い出せませんでした。

 

それに引き替え、暗い出来事はと言いますと、枚にいとまがないほどに思い出される訳です。特に、暗さの頂点と言えるものには、今年一年で消え去るようなものではなく、むしろ将来に亘って日本の国を暗黑に包み込んで行くような法案の強行採決がありました。

 

【巷のクリスマス】

このように、年末を象微するクリスマスになりますと一年を回顧するのでありますが、もう一つ、クリスマスの持っているクリスマス特有の特微について想いを向けさせられることがあるのです。

それは、クリスマスの掛け声と共に、年々日本の国がまるでキリスト教国にでもなったかのように、クリスマスツリーが主要都市などの駅前や目技き通りなどに色とりどりのイルミネーションで豪華に飾られ、道行く人々にクリスマスのムードを盛りあげていることであります。

 

【イエス・キリストの御降誕】

しかし、その賑やかなクリスマスムードの中身であるイエス・キリストの御降誕を記念するという本質は、殆ど認識されることはなく、人々は唯何となく年末のお祭り気分のようなものを感じているだけではないかと想われる訳です。

 

けれども、そのことを思います時に、それは現在の日本の場合に限る事ではなくて、そもそも、イエス・キリストの御降誕という出来事自体が、同じように多くの人々にその事実が認識されていた訳ではなく、世界の片隅のごく一部のわずかな人々によって、認識され、祝われていた秘かな出来事であったことを想い起すのであります。

 

【不思議な星に導かれて】

確かに、イエス・キリストの降誕は、神様が広大な天体にその誕生を表明したと聖書は記しているですが、その天体に現わされた星を発見し、そこに救い主の降誕を認識することが出来たのは、イスラエルの東方の国(現在のイラン、イラク)の占星術の学者達だけだったというのです。それも現代ならば、先月末太陽の熱で蒸発してしまったアイソン彗星のように、きっと世界中の人々が見つめることになったであろう出来事ですが、わずかニ〜三人の專門学者にしか知られていなかった事実だったのです。

 

マタイによる福音書21 イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、2 言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」3 これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。

 

9 彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。

10 学者たちはその星を見て喜びにあふれた。11 家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。

 

【夜野宿をしていた羊飼たち】

もう一つ、ルカ福音書が伝えています救い主御降誕の出来事は、降誕の地ベツレヘムの町は全ての宿屋が滿杯になるほど賑わっていましたが、誰一人イエス.キリストの誕生を認識せず、唯、真っ暗な野原で羊の群れの番をし ていた僅かな羊飼達だけであったと言われているのです。*ルカ2:420

 

このように、クリスマスは元々多くの人々が認識した出来事ではなく、ごく僅かな人々にだけ認識された、秘かに起こった出来事であったのです。

 

そのように思います時、現代社会が、キリストの御降誕を認識することなく、 唯クリスマスのムードだけを盛り上げている姿も、それ程驚くべきことではなく、 唯教会とクリスチャンたちが、東方の学者達や羊飼達に倣って、真実にイエス・キリストの御降誕を記念し心から感謝し、日ごろ心にかけている人々をクリスマスに招待する事が出来れば良いのだと思うのです。

 

そこで、私たちは、救い主イエス・キリストの降誕を記念しますこの時、一年を振り返りながら、改めて神様の御心は何であるのかを示されたいと思います。

 

》現在の世の闇の只中にわされた神の愛

 

そして、私たちはこのような暗く悲しいニュースの方が圧倒的に多い現代の社会に現れている、本質を知らないままに迎えているクリスマスは、2000年前のキリスト誕生の時の情景と類似していることを憶えるのであります。

 

イエス・キリストの降誕は、月明かりだけの真っ暗な闇夜に一つだけの星の輝きと、これまた深夜の野原に救い主の誕生を告げる天使が神の光を照 らしましたが、それを見たのは羊飼い達だけであり、マリアとヨセフ夫婦が泊まる宿さえもなく、馬小屋の飼葉桶に寝ておられたというイエス様の御降誕の貧しい光景は、神様が正に暗闇の世に秘かに現わされた出来事でありました。

 

【暗き世に贈られた神の御子】

現代の私たちの社会のこの暗い有様と、イエス様の誕生を告げる光景は、 真に良く類似しているのではないでしょうか?そしてこの類似にこそ、神様の御心が現わされたのだ、と聖書は告げているのであります。

 

つまりクリスマスの御心は、神様が、敢えて悲しむべきことや忌まわしい悲惨なことの多いこの暗い世の只中に、その苦しみや悲しみを受け止めて下さり、 確かな希望と朽ちることのない喜びをお与え下さる為に御子をお贈り下さったのだ、と告げられているのであります。

 

①悲惨の暗闇の中に見る人の敵意

 

では、世の暗闇とは何なのでしょうか?そこには物理的な暗さというよりも、 むしろ聖書が語る暗闇とは、霊的そして精神的、倫理的、人道的な暗黑を意味している訳です。そしてそれらを一まとめにするなら「人の罪と死とそこに伴うあらゆる悲惨」ということになります。

 

そして人間の「罪と死に伴うあらゆる悲惨」が現わす霊的・精神的・倫理的、人道的な暗黑は、神と人、人と人との愛と信頼を失っている暗黑なので す。

政治は「民主主義は数の多さによって成立つ」とばかり、主権者である 国民の声に耳を傾けようともせずに、内閣と与党の意のままに危險を孕んだ 法案を強行採決してしまう。そこに国家の暗がり度合いが色濃くなっている。

 

社会には、詐欺事件や食品の偽装表記が身の周りに存在して、何をどこまで信用して良いのやら解らない暗闇があります。教育や子どもたちの世界においてさえ、体罰や虐待、虐めの増大が神と人、人と人との愛と信頼が色 あせて暗い影が覆っている。

 

【資本主義経済の行き詰まりの原因】

経済の主導権を握っている資本主義経済といえども今や行き詰まりを見せて困迷しているのです。元々資本主義経済は、根本にプロテスタント・キリ スト教の倫理から生み出された精神がありました。その倫理とは「神の栄光のために」という精神でした。             

 

それを解いたマックス・ウェーバーは、その説を机上の空論でないことを檢証しようと資本主義の国アメリカに旅行して色々と調をしました。

 

ある時アメリカで働くドイツ人の友人医師からこういう話を聞いたという。

 

その医師が話した事は、一人のアメリカ人患者が診察を受けに来た。診察台に橫になったその男は、さっと起き上がって、こう言ったという。なんと言ったかと言うと「先生,私はこの町の〇〇教会の会員です」と言ったと言う。

 

つまり、キリスト教会の会員を表明するという事は、私は治療費を踏み倒すような人間ではありません。診察して下さい。そういう意味だと言うのです。その友人は、その言葉を聞いてびっくりしたのだ、とウェーバーに語ったという。

 

マックス・ウェーバーは、そのような実地検証を伴って「資本主義の精神」 はプロテスタント・キリスト教の倫理に基づいて形成されたのだ、というのです。

 

けれども現在では、資本主義経済は、いつの間にか「神の光のために」という基本理念が技け落ちてしまって、単に機構だけが残って、全ては市場に委ねられる事になった結果、資本主義経済は「神の栄光」ではなくて「唯利得追求のため」というものに変わってしまっているのです。

 

そこに資本主義の暗闇の源があるのです。神の光を拒否し、神に敵対するところに暗黑があるのです。かつては唯物主義経済が「神の光」を拒否しましたが、その唯物主義経済は70年で立ち行かなくなり、今では独裁政治のために資本主義絰濟を導入して利用しています。

 

【まず神の国と神の義を求めよ】

そもそも、聖書の教えによりますと、この世の衣食住生活は、神様が保証してくださるものだと教えているのです。

 

マタイによる福音書625 「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。26 空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。27 あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。28 なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。

29 しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。30 今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ。31 だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。32 それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。

33 何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」

 

まず何事よりも神の国と神の義を第一に求める生活を誠実に行いなさい。 そうすれば、この世の生活は、思い悩まなくとも保証されるのですと。

 

現在の社会生活は、このような聖書の教えに照らすとき、如何に最も肝心な事を失っていることでしょうか。即ち現代社会と現代人は、何と神に対して敵対をしていることでしょうか?!そして、この神と人への敵対こそが、現代の暗闇の源泉なのです。

 

   悲惨の中に見える神の痛みと愛

 

そもそも神様は決して冷酷な方ではありません。むしろ人間の悲惨を共に 悲しまれる神なのです。神の御子イェス様は、災害の悲惨に苦しむ人々のように、言葉を失うような苦を味合われました。

 

旧約聖書イザヤ書536 わたしたちは羊の群れ/道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて/主は彼に負わせられた。7 苦役を課せられて、かがみ込み/彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように/毛を切る者の前に物を言わない羊のように/彼は口を開かなかった。

8 捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。彼の時代の誰が思い巡らしたであろうか/わたしの民の背きのゆえに、彼が神の手にかかり/命ある者の地から断たれたことを。

9 彼は不法を働かず/その口に偽りもなかったのに/その墓は神に逆らう者と共にされ/富める者と共に葬られた。10 病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は望まれ/彼は自らを償いの献げ物とした。彼は、子孫が末永く続くのを見る。主の望まれることは/彼の手によって成し遂げられる。

 

新約聖書ヘブライ人への手紙216 確かに、イエスは天使たちを助けず、アブラハムの子孫を助けられるのです。17 それで、イエスは、神の御前において憐れみ深い、忠実な大祭司となって、民の罪を償うために、すべての点で兄弟たちと同じようにならねばならなかったのです。18 事実、御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです。

 

神の御子キリストは、他ならぬ私達人間の罪を贖うために正に未會有の試練を受けて苦しまれたと言っているのです。             

 

《Ⅲ》神は敵意の只中に御子をる程に世への愛を決起された

 

さて、今までは今年一年の、私たちの社会の暗闇のことを中心に話して来ました。しかし今日はクリスマス記念の礼拝です。それにしては今までのお話は、 クリスマスを祝うのに相応しくないのではないかと思われる方もいらっしゃるのではないでしょうか。私自身そのように感じながら説教準備をしておりました。

 

けれども、どうしても今までお話して来たことを語ることなくしてはクリスマスのメッセージは語れなかったのです。つまりクリスマスは、私たち人間が神に対して如何に鈍感であり、その心と思いがどんなに神を離れ、どんなに神に敵対しているのかを悟らなければならない出来事だからなのであります。

 

〜アガペーの愛と全ての人の希望の光・キリスト〜

そこで、今日選んだ聖書の箇所を見たいと思います。ヨハネ3:16神は、その独り子をお与えになった程に、世を愛された。』

 

先程来お話して来ましたとおり、人は心の奥底に神への拒絶反応を表わし、神を拒否し、確かに神に敵対する暗闇の中に生きているのです。

 

ところがです。神は驚くべきことにそのような世の暗闇に御子をお与えになったいうのです。神は敵対する敵の只中に、正に暗闇の真只中に御独り子を送り込んで来られた。それがクリスマスの出来事なのです。

 

人間同士の関係であったなら、自分を無視し自分を拒んでいると思える人、自分に敵対している人に対して、心尽くしの贈物などすることは考えられないことです。却って、自分もその人を無視して、敵閧係を保ったままにするのではないでしょうか。贈物をするような価値のある相手ではないからです。

 

しかし、神は御子イエス・キリストを、敵であるこの世に贈られたのであります。

 

神は何故そこまでなさったというのでしょうか?神は『その独り子をお与えになった程にこの世を愛された。』つまり、神は無視し敵対する世を愛されたからだというのです。神がそこまでなさったのは、ご自分を拒絶するこの世を愛するが故だ。その愛の証として御子を送ろうと決起されたのだといわれるのです。

 

神様はどんなことがあろうとも、私たち人間を永遠に愛するのだ、と愛の決意を表明されたのです。それがクリスマスの出来事なのです。

 

人間同士の愛はどうでしょうか?相手に愛するに価値が在るかどうか、それが判断の基準になるのです。そこには、当然愛する相手に見返りを期待するのです。けれどもクリスマスに表わされた神様の愛は『アガベ一』という愛で、 相手に価値を求めない愛、お返しを期待しない無償の愛です。無償(只のこと)の愛といっても、どうでもいいような安っぽい愛ではありません。無償の愛といっても、それを戴くならば、価値のない私たちであっても、高い価値のある者になることが出来るのです。

 

ですから神様が私たちに求められる事は唯、その無償の愛の証であるイエス・キリストを、感謝と喜びをもって受容れることだけが求められるのであります。ヨハネ福音書3

16神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者がー人も滅びないで、永遠の命を得るためである。17神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなぐ御子によって世が救われるためである。

 

御子イエス・キリストが世の暗闇に送り込まれたのは、イエス様が暗闇の故に悲惨にみ苦しむ私たちの仲間となり、私たちの苦しみみを背負い、私たちに永遠の命を与えて下さるために贈られたことを意味しているのです。

 

現代社会が、あらゆる面で暗闇の中に行き詰まっている原因も、天地万物の創造者なる神を忘れ、神を無視し、神を拒絶しながら気付かないで唯ひたすら走っているからなのです。ですから、まず全ての人が、悲惨の只中で 自分自身の罪を自し、神を見上げることが必要なのです。

 

そしてこのクリスマスを通して、神様の愛の決意表明に気付いて頂きたいのです。神の無償の愛のしるしであるイエス・キリストを心に迎え入れる備えのときとして欲しいと思います。

 

人となられた神の独り子キリストこそが、全ての人と、現代社会が真に希望を託すことが出来る唯一つしかない光だからです。何故なら、神様は敵であった私たちを、永遠に愛して下さる証として御子イエス様を世にお与え下さいました。この良き知らせこそ、本日記念致しますクリスマスの出来事です。神様の無償の愛に感謝をお祈りしましょう。

 

《祈り》西谷伝道所の愛する兄弟姉妹と共にクリスマス記念礼拝を捧げることが出来ました事を感謝致します。尊い独り子イエス・キリストをお与えになった程に、あなたに背いたこの世を愛して下さいました父なる神様、御名を褒め称えます。御子イエス様のご降誕を記念しますこの時、この世があなたとあなたの御心を忘れ、その誤った歩みの故に、多くの悲惨を招き、み苦しみを抱えつつクリスマスを迎えています。けれどもあなたは、私たちの思いを超えて、そのような忘恩の罪をもって敵対した世を尚も愛すること止めず、独り子をお与え下さいました。この計り知れない神様の無償の愛を,私達を初め全ての人々がクリスマスを通して改めて知る機会となり、救い主イエス様を心を開いて迎えることが出来るように祈ります。東北の被災者の方々、今年天災に遭って家族や家を失い悲しみと不安の中にある人々の上に豊かな慰めを祈ります。

貴き主イエス・キリストの御名によりて祈り願います。アーメン。

DSCF7123.JPGDSCF7124.JPGDSCF7125.JPGDSCF7126.JPGDSCF7127.JPGDSCF7128.JPGDSCF7129.JPGDSCF7130.JPG

2013年12月22日 | カテゴリー: ヨハネによる福音書 , 新約聖書

2013.6.2.説教「美しいクリスチャン」崔 宰鉉先生(WEC派遣宣教師・神戸改革派神学校特別研修生)

CIMG3263.JPG

2013.6.2.説教「美しいクリスチャン」崔 宰鉉先生(WEC派遣宣教師・神戸改革派神学校特別研修生)

聖書:ヨハネによる福音書18 15~27

【ペトロの否認】

15 シモン・ペトロともう一人の弟子は、イエスに従った。この弟子は大祭司の知り合いだったので、イエスと一緒に大祭司の屋敷の中庭に入ったが、16 ペトロは門の外に立っていた。大祭司の知り合いである、そのもう一人の弟子は、出て来て門番の女に話し、ペトロを中に入れた。17 門番の女中はペトロに言った。「あなたも、あの人の弟子の一人ではありませんか。」ペトロは、「違う」と言った。18 僕や下役たちは、寒かったので炭火をおこし、そこに立って火にあたっていた。ペトロも彼らと一緒に立って、火にあたっていた。

【大祭司、イエスを尋問する】

19 大祭司はイエスに弟子のことや教えについて尋ねた。

20 イエスは答えられた。「わたしは、世に向かって公然と話した。わたしはいつも、ユダヤ人が皆集まる会堂や神殿の境内で教えた。ひそかに話したことは何もない。

21 なぜ、わたしを尋問するのか。わたしが何を話したかは、それを聞いた人々に尋ねるがよい。その人々がわたしの話したことを知っている。」

22 イエスがこう言われると、そばにいた下役の一人が、「大祭司に向かって、そんな返事のしかたがあるか」と言って、イエスを平手で打った。

23 イエスは答えられた。「何か悪いことをわたしが言ったのなら、その悪いところを証明しなさい。正しいことを言ったのなら、なぜわたしを打つのか。」

24 アンナスは、イエスを縛ったまま、大祭司カイアファのもとに送った。

ペトロ、重ねてイエスを知らないと言う】

25 シモン・ペトロは立って火にあたっていた。人々が、「お前もあの男の弟子の一人ではないのか」と言うと、ペトロは打ち消して、「違う」と言った。

26 大祭司の僕の一人で、ペトロに片方の耳を切り落とされた人の身内の者が言った。「園であの男と一緒にいるのを、わたしに見られたではないか。」

27 ペトロは、再び打ち消した。するとすぐ、鶏が鳴いた。

 

(説教要約 文責近藤)


【美しい被造物】

日本に来て4年目です。私たちの住む日本は四季の美しさがあります。私は中でも秋が好きです。何故かと言うと秋の紅葉が美しいからです。落ち葉が美しいです。それが果たした美しさです。収穫が終わると落葉しやがて腐ります。しかし落ち葉のおかげで新しい芽を出します。それは美しいです。

 

カマキリの例ですが、オスはメスに食い殺されます。メスはそれによって新しい命を産みます。カマキリのオスの死は美しいです。

動物の親たちは子供の餌の為に本能的に働きます。それは美しいです。

植物も昆虫も動物も人間も同じです。親は子供の命の為に生きます。これは美しいことです。

 

主イエスを信じる者、クリスチャンは美しいと言われます。ではどのように生きるクリスチャンが美しいでしょうか。以下に美しいクリスチャンを3つの点にまとめます。

 

1、常にキリストに頼る人は美しい。

 

今日の18章25~27節

25 『シモン・ペトロは立って火にあたっていた。人々が、「お前もあの男の弟子の一人ではないのか」と言うと、ペトロは打ち消して、「違う」と言った。26 大祭司の僕の一人で、ペトロに片方の耳を切り落とされた人の身内の者が言った。「園であの男と一緒にいるのを、わたしに見られたではないか。」27 ペトロは、再び打ち消した。するとすぐ、鶏が鳴いた』。

 

【捕えられる前のペトロ】

ペトロは捕えられる前はどんなことがあっても主イエスに従いますと言いました。

 

マタイ福音書2633節『するとペトロが、「たとえ、みんながあなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません」と言った』。

 

もう一か所はマルコによる福音書

1431『ペテロは力をこめて言った、「たといあなたと一緒に死なねばならなくなっても、あなたを知らないなどとは、決して申しません」。』。

 

最後にもう一か所、

ヨハネによる福音書1337 『ペトロは言った。「主よ、なぜ今ついて行けないのですか。あなたのためなら命を捨てます」』。

 

ペトロは口先だけで言った訳ではありません。ペトロはイエスが捕えられようとしたとき剣をとり大祭司の弟子の者に切りかかりその耳を切りました。

 

【ペトロの否認】

ペトロは主イエスの奇跡を体験しました。主は嵐を鎮めたし病人を癒した。そのようなペトロにとって主は全知全能の人でしたが、その主が捕えられて大祭司の裁きを受けている。それはペトロの期待した主イエスではなかったので彼は失望したのです。

 

25節『人々が、「お前もあの男の弟子の一人ではないのか」と言うと、ペトロは打ち消して、「違う」と言った』。

 

また26節以下『 大祭司の僕の一人で、ペトロに片方の耳を切り落とされた人の身内の者が言った。「園であの男と一緒にいるのを、わたしに見られたではないか。」

27 ペトロは、再び打ち消した。するとすぐ、鶏が鳴いた。』

 

ペトロは主を呪いさえしました、マタイによる福音書26

74 『そのとき、ペトロは呪いの言葉さえ口にしながら、「そんな人は知らない」と誓い始めた。するとすぐ、鶏が鳴いた』。

 

勇敢だったペトロがこうなった理由は絶望の後ろに居られる神様を見ることが出来なかったからです。

 

残念ながらペトロは自分の命を守るため主を裏切ったばかりか嘆かわしい記録を残しました。

 

平穏な時には誰も裏切るようなことはしません。しかし自らが絶望的な決定的状況に追い込まれると試され、その瞬間に裏切るのです。

 

美しいクリスチャンは信仰の基礎を固くするために毎主日神様を礼拝します。そうでないと決定的瞬間に主を否む可能性があります。

 

2、美しいクリスチャンは心ひそかに不義を行わない

 

【大祭司の知り合いの主の弟子】

今日読んだ聖書の箇所にはペテロより悪い主の弟子も登場します。ペトロより悪い行動をとった人です。15節以下を見ましょう。

 

15 シモン・ペトロともう一人の弟子は、イエスに従った。この弟子は大祭司の知り合いだったので、イエスと一緒に大祭司の屋敷の中庭に入ったが、16 ペトロは門の外に立っていた。大祭司の知り合いである、そのもう一人の弟子は、出て来て門番の女に話し、ペトロを中に入れた』。

 

ここにペトロともう一人の弟子がいました。もう一人の弟子の名前は記されていませんが彼は大祭司の知り合いでした。彼は大祭司と親しいので堂々と家に入れたのです。そして門番の女中に話してペトロを中にいれました。ペトロが大祭司の家に入った途端、女中はペトロに17節「あなたも、あの人の弟子の一人ではありませんか」と言っていますが、ここで女中はこのもう一人の弟子には何も言ってません。彼は表向きは主の弟子でしたが裏では大祭司と内通していた。この弟子は現実的な利益を得ていましたが神様の前では認められませんでした。

 

私たちも教会の外ではこの弟子のように不義な暮らしをしていませんか。

日本には1%のクリスチャンがいます。韓国は30%、中国にも沢山のクリスチャンがいます。ヨーロッパにはもっといます。それなのにこの世は何故わるくなるのでしょうか。世の闇がなくならないのはその不義を行った弟子のようなクリスチャンが多いからではありませんか。

 

野望ambitionという言葉は二つの意思を持つという言葉に由来します。野望とは神の方に向かない意思をもった人です。こういう人は神の前に罪人です。美しいクリスチャンは不利益を蒙っても荒海のような困難にあっても絶対に不義を行いません。

 

3、      美しいクリスチャンとは御言葉を聞いて悔い改める人

 

【主に対する暴力】

22節に愚かな人が書かれています。『 イエスがこう言われると、そばにいた下役の一人が、「大祭司に向かって、そんな返事のしかたがあるか」と言って、イエスを平手で打った』。

 

下役が平手で打ったことは主に対する暴力でした。彼はそのことを全く悔い改めていません。その下役は罪が何か分からないので悔い改められませんでした。

 

しかしペトロは悔改めました。その態度を見ましょう。

ペトロも三度主イエスを否認し最後には主を呪いさえしました。

 

ペトロも主に暴力をふるいました。それは舌の暴力でした。誰の罪がより主を傷つけるのでしょうか。わたしはペトロの方が主をより傷つけたと思います。

 

【悔い改めるペトロ】

しかし下役とペトロの違いは明らかです。

 

マタイによる福音書2675 『ペトロは、「鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」と言われたイエスの言葉を思い出した。そして外に出て、激しく泣いた』。

 

ペトロは御言葉を聞いて悔い改めの涙を激しく流したが、下役は悔改めを知りません。

ペトロを悔い改めさせたのは鶏の声を聴いたからで、「鶏が鳴く前に三度私を知らない」と言う主イエスのお言葉を思い起こして激しく涙したのです。

 

皆さん日々私たちが御言葉を聞く理由はなんでしょうか。御言葉がないならクリスチャンとして悔い改めることが出来ません。

 

神様の御言葉である聖書を知らない人は神の御前で真に悔い改めることがありません。美しいクリスチャンとは悔い改めることの出来る人です。

 

私たちの特権は御言葉によって悔い改めることが出来ることです。

 

【ホセ・カレーラス】

1987年白血病で倒れたホセ・カレーラスという声楽家がいました。世界の三大声楽家の一人と言われます。

彼はその名声を守るため絶対にしないことがありました。煙草を吸わないし、また煙草を吸う人のそばにも行かなかった。逆に毎日することがありました。それは毎日30分発声練習をすることでした。数年前に韓国で歌いました。4千人が彼の素晴らしい歌声に歓声をあげました。アンコール曲を歌った後で彼は声楽家として守るべきこととするべきでないことを話しました。

 

わたしたちクリスチャンが毎日するべきことは何か。毎日聖書を読んで悔い改めることではないか。そうすれば主はあなたを一番美しいクリスチャンと言われます。

 

心ひそかに不義を行わず、日々御言葉に聞き、罪を悔い改めるなら美しいクリスチャンと言ってくださいます。神様はそのような素晴らしい恵みと愛を止めどなく注いでくださいます。(おわり)

CIMG3272.JPGCIMG3271.JPGCIMG3265.JPGCIMG3268.JPGCIMG3270.JPGCIMG3269.JPG

2013年06月03日 | カテゴリー: ヨハネによる福音書 , 新約聖書

2013.4.28.説教「羊の為に命を捨てる良い羊飼い」赤石めぐみ先生

CIMG1931.JPG



2013.4.28.説教「羊の為に命を捨てる良い羊飼い」赤石めぐみ先生

新約聖書、ヨハネによる福音書107~18

7 イエスはまた言われた。「はっきり言っておく。わたしは羊の門である。8 わたしより前に来た者は皆、盗人であり、強盗である。しかし、羊は彼らの言うことを聞かなかった。

9 わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。

 

10 盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。

11 わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。

12 羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。13 彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである。

 

14 わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。

15 それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる。

16 わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。10:17 わたしは命を、再び受けるために、捨てる。それゆえ、父はわたしを愛してくださる。18 だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これは、わたしが父から受けた掟である。」

 

説教要約(文責近藤)

【私は有るという者】

他の福音書には見られない「わたしは良い羊飼いである」という御言葉は神学的に練られた言葉であってユダヤ人、パリサイ派の人びとと言った旧約聖書に精通した人に語られた言葉ではないかと思います。

 

ヨハネの福音書には「私は・・である」と主イエスは御自身を語られることがよくあります。「わたしは良い羊飼いである」、「私は命のパンである」などなど。

英語では「I am・・」。聖書の書かれたギリシャ語では「エゴ(我」エイミ(有る、存在する)」です。

 

神様が御自身を「私は有るという者」だと御自身の名前を最初に明かされたのは旧約聖書の出エジプト記3章にある芝の書でモーセを召しだされた記事に出てきます。

 

モーセが民に「神様、あなたの名を民から尋ねられたら何と答えればよいでしょか」と主なる神様に言いますと、神はモーセに『「私は有る」という者』だと言われました。

 

「私は・・である」と言われたイエス様が神様を示す「私は有る」という者だと、すなわち主イエスは神と同じだと語られたのです。

 

【良い羊飼い】

「良い羊飼い」とは「良い牧者」とも言われます。詩編23篇にも「主は羊飼い」とありますが、今日は旧約聖書エゼキエル書34章の預言から主イエス様が御自身を「良き牧者」と言われた旧約聖書の御言葉の成就について語ります。

 

旧約聖書エゼキエル書34

11 まことに、主なる神はこう言われる。見よ、わたしは自ら自分の群れを探し出し、彼らの世話をする。12 牧者が、自分の羊がちりぢりになっているときに、その群れを探すように、わたしは自分の羊を探す。わたしは雲と密雲の日に散らされた群れを、すべての場所から救い出す。

13 わたしは彼らを諸国の民の中から連れ出し、諸国から集めて彼らの土地に導く。わたしはイスラエルの山々、谷間、また居住地で彼らを養う。

14 わたしは良い牧草地で彼らを養う。イスラエルの高い山々は彼らの牧場となる。彼らはイスラエルの山々で憩い、良い牧場と肥沃な牧草地で養われる。15 わたしがわたしの群れを養い、憩わせる、と主なる神は言われる。

16 わたしは失われたものを尋ね求め、追われたものを連れ戻し、傷ついたものを包み、弱ったものを強くする。しかし、肥えたものと強いものを滅ぼす。わたしは公平をもって彼らを養う。

17 お前たち、わたしの群れよ。主なる神はこう言われる。わたしは羊と羊、雄羊と雄山羊との間を裁く。18 お前たちは良い牧草地で養われていながら、牧草の残りを足で踏み荒らし、自分たちは澄んだ水を飲みながら、残りを足でかき回すことは、小さいことだろうか。

19 わたしの群れは、お前たちが足で踏み荒らした草を食べ、足でかき回した水を飲んでいる。

20 それゆえ、主なる神は彼らにこう言われる。わたし自身が、肥えた羊とやせた羊の間を裁く。21 お前たちは、脇腹と肩ですべての弱いものを押しのけ、角で突き飛ばし、ついには外へ追いやった。22 しかし、わたしはわが群れを救い、二度と略奪にさらされないようにする。そして、羊と羊との間を裁く。

 

【イスラエルの偶像崇拝と民の指導者】

ここに「良い牧者」が語られる。

民の指導者が偶像礼拝に陥り神殿の中には偶像がはびこっていたことに神の怒りが落とされイスラエルは北も南も滅ぼされました。

 

当時のイスラエルの指導者はどんな悪事を働いたかエゼキエル書342~10節に「イスラエルの牧者」と言われ次のように語られている、

2 「人の子よ、イスラエルの牧者たちに対して預言し、牧者である彼らに語りなさい。主なる神はこう言われる。災いだ、自分自身を養うイスラエルの牧者たちは。牧者は群れを養うべきではないか。

3 お前たちは乳を飲み、羊毛を身にまとい、肥えた動物を屠るが、群れを養おうとはしない。

4 お前たちは弱いものを強めず、病めるものをいやさず、傷ついたものを包んでやらなかった。また、追われたものを連れ戻さず、失われたものを探し求めず、かえって力ずくで、苛酷に群れを支配した。

5 彼らは飼う者がいないので散らされ、あらゆる野の獣の餌食となり、ちりぢりになった。

6 わたしの群れは、すべての山、すべての高い丘の上で迷う。また、わたしの群れは地の全面に散らされ、だれひとり、探す者もなく、尋ね求める者もない。

 

7 それゆえ、牧者たちよ。主の言葉を聞け。

8 わたしは生きている、と主なる神は言われる。まことに、わたしの群れは略奪にさらされ、わたしの群れは牧者がいないため、あらゆる野の獣の餌食になろうとしているのに、わたしの牧者たちは群れを探しもしない。牧者は群れを養わず、自分自身を養っている。

9 それゆえ牧者たちよ、主の言葉を聞け。

10 主なる神はこう言われる。見よ、わたしは牧者たちに立ち向かう。わたしの群れを彼らの手から求め、彼らに群れを飼うことをやめさせる。牧者たちが、自分自身を養うことはもはやできない。わたしが彼らの口から群れを救い出し、彼らの餌食にはさせないからだ。

 

48節にあるようにイスラエルの指導者、牧者は羊である民を養わず「まことに、わたしの群れは略奪にさらされ、わたしの群れは牧者がいないため、あらゆる野の獣の餌食になろうとしているのに、わたしの牧者たちは群れを探しもしない。牧者は群れを養わず、自分自身を養っている」と言われる。

 

今日与えられた御言葉のヨハネ108 では「わたしより前に来た者は皆、盗人であり、強盗である。」と主イエスは語られる。

 

私より前に来た牧者は、宗教指導者も王も盗人であり、強盗であると主は言われる。ここに人間の牧者たちの姿があります。

 

彼らは羊の群れを散らし失わせ傷つけるのです。それでも羊は牧者に付いていくしかない。

 

【主なる神は世の牧者たちに立ち向かう】

神はご自分の民がこのような牧者にさらされ導かれることに耐えられません。

 

そこで主イエスが遣わされたのです。

ヨハネ1010節後半「わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである」と言われます。

 

エゼキエル書34章後半で神は「私はイスラエルの牧者に立ち向かい彼らから羊の群れを取り戻す」と言われます。

10 主なる神はこう言われる。見よ、わたしは牧者たちに立ち向かう。わたしの群れを彼らの手から求め、彼らに群れを飼うことをやめさせる。牧者たちが、自分自身を養うことはもはやできない。わたしが彼らの口から群れを救い出し、彼らの餌食にはさせないからだ。」

 

主なる神がその羊である民を牧すること、この良い牧者こそ主イエスであると御言葉は言うのです。

 

神とイエスは違うのではないか?と疑問に思われるかも知れません。

 

ヨハネ福音書1027節以下でユダヤ人に主イエスは答えられています、

27 わたしの羊はわたしの声に聞き従う。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしについて来る。28 わたしは、彼らに永遠の命を与える。だから、彼らはいつまでも滅びることがなく、また、彼らをわたしの手から奪い去る者はない。

29 わたしの父がわたしに下さったものは、すべてにまさるものである。そしてだれも父のみ手から、それを奪い取ることはできない。

:30 わたしと父とは一つである」。

わたしと父とは一つである。」と。「私がそれである」と。

 

あのエゼキエル書で預言された、あの良い羊飼いこそ私であると主イエスは言われた。

 

確かに主イエスが言われたことは旧約聖書の助けから分かりますが、主イエスが言われるのはこの程度の読みでは終わりません。

 

【良い羊飼いは羊の為に命を捨てる】

「良い羊飼いは羊の為に命を捨てる」と言われます。

この命を捨てると言う言葉は旧約聖書の何処にあるでしょうか。

ユダヤ人には羊の為に命を捨てるとは尋常ではないと考えられたが、イエス様の読みの深さはもう一度エゼキエル書34章から気づかされる。

旧約聖書エゼキエル書3422~23節「 22しかし、わたしはわが群れを救い、二度と略奪にさらされないようにする。そして、羊と羊との間を裁く。23わたしは彼らのために一人の牧者を起こし、彼らを牧させる。それは、わが僕ダビデである。彼は彼らを養い、その牧者となる」。

 

ここに「一人の牧者を起こし」という言葉に注目してください。「起し」これは原語で「復活させる」と同じ言葉であります。復活させられるためには神の群れを救うために死ななければならない。「群れの為に命を捨てる良い羊飼い」がここに預言されています。

 

ゼキエル書3422 節と23節との間の言葉の意味を主イエスは読み取られたのです。「良い羊飼いは羊の為に命を捨てる」のです。

 

私たちが従うべき良い羊飼いは主イエス御独りです。

 

【西谷の牧者】

西谷からモーア先生が去られるので西谷に牧者がいなくなる心配が皆さんにおありかも知れませんが今日伝えたかったことは真の牧者はイエス様御独りであると言うことを信じたいのです。

 

主のお声は小さく聞き分けにくいですが羊の為に命を捨てる良い牧者イエス様を信じて行きたく思います。主の御声を聞くとき他の悪い牧者に付いていくことはありません。

また西谷にも囲いの外にいる多くの羊がいると思います。そのような羊とも一緒になって主の民を養う牧者が与えられることをお祈りいたします。(おわり)

2013年04月28日 | カテゴリー: エゼキエル書 , ヨハネによる福音書 , 新約聖書 , 旧約聖書

2013年2月17日、説教「イエスにお目にかかりたいのです」ウイリアム・モーア宣教師

2013217日、説教「イエスにお目にかかりたいのです」ウイリアム・モーア宣教師

 

聖書:ヨハネによる福音書12章20-26節

 

【ギリシア人、イエスに会いに来る】

20 さて、祭りのとき礼拝するためにエルサレムに上って来た人々の中に、何人かのギリシア人がいた。21 彼らは、ガリラヤのベトサイダ出身のフィリポのもとへ来て、「お願いです。イエスにお目にかかりたいのです」と頼んだ。

22 フィリポは行ってアンデレに話し、アンデレとフィリポは行って、イエスに話した。

23 イエスはこうお答えになった。「人の子が栄光を受ける時が来た。

24 はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。

25 自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。

26 わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。」

 

説教要約(文責近藤)

 

【受難節レント四旬節】

先週の水曜日より受難節に入りました。この日から復活祭までの主の日を入れない40日を四旬節、受難節、レントといます。

十字架の主の贖いがなければ私たちの信仰はむなしく救いはありません。受難節を通して主の御復活を覚えることが出来ます。受難節はキリスト者にとって悔い改めの機会になります。

 

何故40日間かというと、聖書の中で40という数は特別の準備をする期間です。

モーセは40年間の荒野の試練を通してイスラエルの民を約束の地に入れるように訓練しました。

ヨナは40日以内に悔い改めないとニネベは滅びると人々に訴えました。

主イエスは40日間の荒れ野で断食し試練を耐え忍ばれサタンの誘惑に勝たれました。

聖書には四旬節のことは書かれていませんがこのような伝統に従い全世界教会はこの受難節を守るようになり、主の復活を準備します。ちなみに日曜日は受難節には含まれません。なぜなら日曜日は主の復活を記念する歓びの日だからです。

 

私たちも世界教会の群れとしてこの受難節を大切に過ごしたい。

主の十字架は私たちの為でありイースターの復活は私たちの喜びになります。

 

【ギリシャ人の来訪】

今日の御言葉によると外国人であるギリシャ人が過越しの祭りの時にエルサレムの神殿に詣でた。かれらが弟子ピリポに「イエスにお目にかかりたいのです」と願いますとピリポは喜んで兄弟アンデレにそのことを話し、彼らはイエスにギリシャ人のことを伝えました。

 

【弟子たちの思い】

二人は自分たちの主がギリシャ人にまで有名になり、いよいよ主イエスと自分たちが世に認められる時が近づいたと思いました。しかし弟子たちの思いは主イエスの思いとは違っていました。なぜなら主イエスは数日のうちに御自身が十字架に架けられることを知っておられたのです。

 

数日前イエス様一行はエルサレムに入り人々から歓迎されました。

「なつめやしの枝を持って迎えに出た。そして、叫び続けた。『ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように、/イスラエルの王に』(ヨハネによる福音書12:13)」。

 

弟子たちの目からは彼らのリーダーの人気が上がり、さらにイスラエルの王として認められたと大変喜びました。弟子たちもその立場が上がると喜びました。しかし主のお言葉を聞くとその喜びは失せてしまいました。

 

【一粒の麦】

主は思いがけないことを言われました。

 

23 イエスはこうお答えになった。「人の子が栄光を受ける時が来た。24 はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。

 

弟子たちは「人の子が栄光を受ける時が来た」は理解できましたが、しかし次の「はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」とのお言葉に当惑し驚かされました。ギリシャ人の訪問とは関係ないと思いました。しかし今日のこの箇所からその意味を悟ると主イエスとキリスト信仰の深さをより深く理解できるようになります。

 

【一粒の麦は、地に落ちて死ななければ一粒のままである】

麦を沢山穫り入れたいのなら種を蒔かねばなりません。主イエスの時代は種を買うことはしませんで、賢い農家は良い種を翌年の収穫の為に食べずに残しました。

 

明日の為に今日我慢すれば将来は収穫が約束されましたが、残すべき種まで食べてしまった農夫は翌年の収穫が出来ませんでした。この話は弟子たちにもよく理解できましたが、農家の種まきのお話とギリシャ人の訪問は弟子たちには結びつきませんでした。

 

主は弟子たちのこのようなイエス理解を知っておられたので、主は誰もが知っている種まきの話から弟子たちに主イエス御自身はどういうお方であるかを悟らせようとされました。

 

弟子たちは主イエス様の救い主としての理解がまだ不足していました。彼らはロマ帝国支配からの解放を主に期待しました。それでギリシャ人も主イエスの味方になれば心強いと思いました。

 

【十字架の道】

主は為政者としての道を選ばれるなら十字架の道は避けられたことでしょう。しかしそうされたなら全人類の救いの道は閉ざされ、永遠の滅びの道を滅ぼし永遠の命を拓く使命は無かったでしょう。

 

それゆえに永遠の賜物を全人類に与えるためには主の犠牲が必要です。

永遠の命の道を人類が与えられるために、主イエスは人類の罪の洗うため、私たちに代わって十字架の道を歩まれ、私たちのために死んでくださったのです。そして大きな祝福を与えてくださいました。

 

主は私たちのために一粒の麦となって下さいました。24節「はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」。

 

一粒の麦を地に植えると言うことはその麦であるイエスさまにとっては犠牲となりますが、全人類に計り知れない恵みが与えられました。主は私たちに命を与えるために十字架の道を選ばれました。

 

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである(ヨハネによる福音書316」。

 

【自分の命を憎む】

主は弟子たちにだけでなく、私たちにもその原理を悟らせたかったのです。

 

25 「自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る」。

 

マタイによる福音書 1039 節にも同じことが言われます。

自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。」

 

キリスト者は自分の為でなく主の為に自分を犠牲にするなら真の命を主から豊かに与えられます。

 

【古い自分を捨てる】

茶色の家を白い家にするためには、白いペンキで家を塗りつぶさなければなりません。

健康のために体重を減らそうとしたいなら、古い食生活を改めなければなりません。

神様の証人になるためには自分の中にある自己中心の生き方に死なねばなりません。私たちが十字架を担うのはイエスの愛が私を通して現れるためです。

 

受難節に私たちは古い自分を捨て一粒の種として地に落ちなければなりません。ギリシャ人がピリポに「主にお目にかかりたいのです」と頼みました。私たちも主のもとに来て彼らと同じ恵みに与ります。

 

【主にお目にかかる道】

今日の箇所でその秘訣を教えて下さったのです。

26節「 わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。

 

愛する兄弟姉妹。主にお会いしたいなら、わたしたちの生活を通して喜びをもって主に仕え主に従いましょう。(おわり)

 

2013年02月17日 | カテゴリー: ヨハネによる福音書 , 新約聖書

2013年1月27日.説教「羊の門であるイエス・キリスト」ウイリアム・モーア宣教師

2013年1月27日.説教「羊の門であるイエス・キリスト」ウイリアム・モーア宣教師

 

聖書:ヨハネによる福音書107~10

7 イエスはまた言われた。「はっきり言っておく。わたしは羊の門である。8 わたしより前に来た者は皆、盗人であり、強盗である。しかし、羊は彼らの言うことを聞かなかった。

9 わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。

10 盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。


(説教要約 文責近藤) 

【「私は・・である」】

この世を歩まれた主イエスは御自身の使命、身分、役割を啓示されました。ヨハネ福音書には御自身について7つほどの「私は・・である」との宣言が書かれています。

 

ヨハネによる福音書635 イエスは言われた。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。

812 イエスは再び言われた。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」

1011 わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。

1125 イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。

14:6 イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。

15:1 「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である」。

 

【わたしは門である】

そして7番目は今日の御言葉にある主御自身の宣言です。

「わたしは羊の門である。わたしを通って入る者は救われる。」

 

今日のこの箇所を学びましょう。

門とは入口です。門の役割は壁の向こう側と行き来することができます。

人間と神様との間には罪という障壁があり門は永遠に閉ざされていました。

 

【罪は神を隔てる】

罪とは何ですか。簡単に言うと神に従わず自己中心、自分勝手な歩みであります。

イザヤ書 592

 「むしろお前たちの悪が/神とお前たちとの間を隔て/お前たちの罪が神の御顔を隠させ/お前たちに耳を傾けられるのを妨げているのだ。」

 

主イエスこそは神様への唯一のドアとなります。

人間の罪を御自身の御子イエス様が受けて下さり神様のドアを開けてくださいました。

ドアを入ると神様の赦され愛された子となり、以前は罪ゆえ神の敵であったものが今は愛されて神の受入れられた子供になりました。唯一の全能の神を恐れるよりも、その門から入ると神は私たちの味方になって主の愛と親しい交わりを経験できます。

 

【門は守る】

門の他の重要な目的は門を閉じているときはその中の者を守ります。

 

この世は安全でなく病気や不幸は珍しくありません。

現代は治療法も進歩して多くの病気が治りますが、いろんな新しい病気が生まれ治療も困難です、また景気も不安定ですぐ悪くなります。人が富んでも瞬間的に無になります。

誰が良い将来を保証しますか。将来のために努力しても、将来は結局未知なのです。

 

しかし唯一全能の神は将来を知りご自分の民を守って下さいます。

勿論クリスチャンにも逆境はきます、しかし神はご自分の民を守り忍耐と希望を与えて下さいます。

このようにイエスキリストの門はすべての害悪から私たちを守り保護してくれます。

 

私たちは使徒パウロとともに確信します。

 「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています」。(ローマの信徒への手紙 828節)

 

【唯一の羊の門】

又大切なことを覚えて頂きた。主イエス・キリストは唯一の羊の門です。沢山ある門の中の一つではなく、ご自分は羊の唯一の門です。他には門はありません。救いの方法はキリストの門から入る以外にはありません。

神を探すために人間は自分の門を創りたいのです。自分の条件に合った門で神様を知りたいのです。人間が作ったいろんな宗教が良い例です。しかし唯一の真の神の御前に出るために神の条件に合わなくてはなりません。常識ですが神はご自分で条件を創られます。

 

たとえばイギリスの女王に会うためには自分の条件ではお会いできません。ロンドンに行って自分勝手に塀をのっぼっては泥棒のように逮捕されます。女王の会うには女王の後援会に入り、その活動に参加していると何時かは女王に会えることが叶います。だれでも目上の者に会いたかったらその物の条件に従うべきです。同じように神を知り、神の救いを得ようとすれば神の条件に従うことしかありません。ルカ福音書に主イエスのお言葉がこのように言われます「狭い戸口から入るように努めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ」(ルカによる福音書 13:24)。

 

人間の作った条件では絶対に神様の御前に出れません。

主イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」(ヨハネによる福音書 14:6)。

 

【疑問?】

こういう話では神様が心狭い偏狭なお方で、了見の狭いお方と思いますか?おおらかな神なら色んな道を用意されるのではありませんか?イエス様以外の全ての宗教が神に近ずけるのではありませんか。

 

【酸素】

しかし少し考えてみてください。

人がこの地上で生きるためには空気が必要で、その中の酸素が絶対必要です。酸素以外では絶対生きられません。神がおおらかな方なら塩素や窒素で生きられるはずですが、とんでもありません、酸素を吸う以外には人が生きる道はないように人を創られました。

 

主イエスの道のみが人を永遠に生かす道です。これは驚くべきことではありません。他の方法は効果がありません。

 

【私たちの応答】

さて羊の門に私たちはどのように反応すべきでしょうか。

9 わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける」。

 

イエスの門を貴方の保護に使ってください。

この世ではこれから先も何が起こるか私たちには分かりません。しかしイエスに守られているので何物も恐れることはありません。他の誰よりも主なる神は強いお方ですから、どんなことにも失望はありません。主の門は貴方の為に開かれています。素直な心でこの門に入れば、神とともに歩む新たな人生の生き甲斐が分かります。

 

主イエスのお約束通り「わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである」。(おわり)

 

2013年01月27日 | カテゴリー: ヨハネによる福音書 , 新約聖書

2012.10.7.説教「神の目に尊いあなた」ウイリアム・モーア宣教師

2012.10.7.説教「神の目に尊いあなた」ウイリアム・モーア宣教師

聖書:ヨハネによる福音書3章
16 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。17 神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。18 御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。
19 光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。
20 悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。21 しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために。

説教要約(文責近藤)

【韓国映画製作者の来訪】
先々週、韓国から家内のYWCA関係のお客さんの訪問がありました。イタリア・ベネチアの国際映画祭で彼女が製作した作品「ピエタ」が最優秀賞ゴールデンライオン賞を獲得したそうです。韓国で初めての国際的受賞だったのでメディアは大騒ぎしたそうです。
「おめでとう」と言いますと、彼女は本当にうれしいことは監督のキムがフラシュを浴びたことです。韓国は学歴社会なので小学校しか出ていない彼には依頼する映画はありませんでした。別の有名な韓国人監督の作品がフランス・カンヌ映画祭でセリフ部分で賞を受けた時は韓国から大勢の報道陣が駆けつけましたが、「ピエタ」のときには韓国から3人のメディアが来ただけです。本当に大きな神様の働きを見ました。神は彼の弱さを用いて強くしてくださいましたからです。

【この世の評価】
この世では学歴ある人や富のある人、社会的に成功した人は高く評価されます。
オリンピック選手でもメダルを獲得した人は有名になりますが反対にメダルを取れなかった人は忘れられてしまいます。

【叔母の飼っていた猫】
私の一人の叔母は猫を飼っていました。ねずみを取るのでもなく一日中食べては寝てばかりでのんびり過ごしています。食物も牛レバしか食べません。家具も爪で傷付けます。そんな猫ですが叔母は長く可愛がりました。この猫が死んだとき叔母は大変悲しみました。何十年たってもこの猫の話をします。何故そんなにこの猫を大切にしたか分かりません。ただ自分の猫だから愛しました。

【神様の愛】
驚くべきことに神様のやり方もこの世とは全く別で、人を学歴、富で量りません。私たちが長所を持っているからでもありません。私たちのように罪深い欠点だらけの者がどうして神様の愛を受けられたのでしょうか。
実に私たちの全能の神は私たちをありのままで受け入れ愛して下さいます。私たちは神によって愛され神に象って創られた者です。どんなに堕落しても足りないものでも私たちは神に愛されたものです。

【イスラエルの歴史を通して御自身を顕される神】
どうしてその無条件の愛が分かりますか。
それは歴史的に聖書を通して分かります。とくにイスラエルの歴史を通して分かります。
イスラエルはエジプトで400年間奴隷でした。モーセに率いられてカナンの地まで700キロ、40年間の旅をしてやっと自由を得ましたがカナンにたどり着くまで不平不満を言い立てさらにカナンで自分たちの神を忘れ金の子牛を作って拝みまたカナンの地の偶像を拝みました。しかしそれでも神は忍耐してイスラエルの民を愛し見守って下さいました。

【無条件の愛】
理由と言えば無条件の愛です。忍耐強く彼らが神に立ち返るのを待って下さいました。

旧約聖書ホセア書11章
「8 ああ、エフライムよ/お前を見捨てることができようか。イスラエルよ/お前を引き渡すことができようか。アドマのようにお前を見捨て/ツェボイムのようにすることができようか。わたしは激しく心を動かされ/憐れみに胸を焼かれる。9 わたしは、もはや怒りに燃えることなく/エフライムを再び滅ぼすことはしない。わたしは神であり、人間ではない。お前たちのうちにあって聖なる者。怒りをもって臨みはしない。」

オリンピックでメダルを獲得するためには血のにじむ努力が必要ですが、そのような必要もありません。それは両親が自分の子どもを無条件に愛するのに似ています。

【ある長老の息子】
アメリカの教会で牧会していた時のころ教会のある長老の息子が大きな犯罪を犯しました。そして終身刑を受けました。その息子は空軍士官として勤務していた自慢の息子でした。両親は毎週刑務所を訪れ祈りました。弁護士も雇い息子を助けようとしました。当時75歳の父は自分が身代りになれるものならそうしたいと思いました。わが息子だからこそ犯罪を犯した息子を愛するのです。長老夫妻は10年ぐらい前に亡くなりましたがその後は妹たちが彼を訪ねています。

【神の愛と犠牲】
思いと言葉も大切ですが犠牲的行為も大切です。例えば婚約するときには男性は女性にダイヤモンドの指環をプレゼントしますが愛を顕すために犠牲を払って高価なダイアモンドを買います。

今日の聖書箇所ヨハネによる福音書3章16
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」

【神の犠牲的愛】
神は思いと言葉だけでなく犠牲的行動で愛を現されました。それは独り子を私たちに賜うほどの大きな愛の現れです。

主はこの世においても貧しい生活を耐え忍ばれ更にそのうえ神様の愛を語り伝えたにもかかわらず、強い敵が主を残酷的に十字架につけてそのお命を奪いました。

パウロの言葉の通りです。
ローマの信徒への手紙 5章8 「しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。」

【永遠の命を得るため】
神様の犠牲的愛にはもっとも重要な目的がありました。
新約聖書ヨハネによる福音書3章16節「 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」

主イエスの贖いの死を通して罪人の私たちは神に和解されました。つまり罪の全くない主イエスは私たちが支払うべき罰を受けて、私たちの代わりに死んでくださいました。だからこそキリストを信じる者が神様に許されご自分の子供にされ永遠の命を得られます。
神は罪人の私たちを裁くとき罪の全くない御子イエスを見るのです。

【神を信じ、主との交わりを求める】
愛する兄弟姉妹。あなたのための神の大きな犠牲的愛を見ると私たちはどうしますか?
無条件でそんなに愛されたらどうしますか?

第一に神を信じ主との交わりを求めて下さい。
神によってそんなに愛されたら誰でも神を深く知り神とともに歩むことを求めるはずです。
私たちを神に似せて創造された理由は神がご自分との交わりを持ちたいからです。
神に祈って御言葉を学んで毎日の生活に実行し、遜って神とともに歩むなら、神の恵みを経験しながら唯一の神に愛と感謝と服従が自然に出てくるでしょう。

ある敬虔なキイスト者の証があります。
「わたしの70年を生涯を振り返って一つのことが言えます。現在の私にある平安と歓びと希望について言えることが一つあります。それは私が神によって愛されたという確信です。」
愛する兄弟姉妹。どうかその真の素晴らしい信仰を持つように祈りましょう。(おわり)

2012年10月07日 | カテゴリー: ヨハネによる福音書

2012年8月26日(日)説教「命のパンなるイエス・キリスト」男山教会 禰津省一牧師

CIMG7293.JPG2012年8月26日(日)説教「命のパンなるイエス・キリスト」男山教会 禰津省一牧師

聖書:ヨハネによる福音書6章
1 その後、イエスはガリラヤ湖、すなわちティベリアス湖の向こう岸に渡られた。2 大勢の群衆が後を追った。イエスが病人たちになさったしるしを見たからである。
3 イエスは山に登り、弟子たちと一緒にそこにお座りになった。4 ユダヤ人の祭りである過越祭が近づいていた。
5 イエスは目を上げ、大勢の群衆が御自分の方へ来るのを見て、フィリポに、「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」と言われたが、6 こう言ったのはフィリポを試みるためであって、御自分では何をしようとしているか知っておられたのである。
7 フィリポは、「めいめいが少しずつ食べるためにも、二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう」と答えた。8 弟子の一人で、シモン・ペトロの兄弟アンデレが、イエスに言った。
9 「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。」
10 イエスは、「人々を座らせなさい」と言われた。そこには草がたくさん生えていた。男たちはそこに座ったが、その数はおよそ五千人であった。11 さて、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた。また、魚も同じようにして、欲しいだけ分け与えられた。12 人々が満腹したとき、イエスは弟子たちに、「少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい」と言われた。13 集めると、人々が五つの大麦パンを食べて、なお残ったパンの屑で、十二の籠がいっぱいになった。14 そこで、人々はイエスのなさったしるしを見て、「まさにこの人こそ、世に来られる預言者である」と言った。
15 イエスは、人々が来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、ひとりでまた山に退かれた。

1、命のパン
 父なる神と御子イエス・キリストの恵みと平和が豊かにありますように。主イエスの御名によって祈ります。アーメン。
 昨年12月の伝道所設立式に引き続いて、再び、この素晴らしい西谷伝道所の建物を訪れ、建物よりももっと素晴らしい、西谷の兄弟姉妹方にお会いすることが出来ましたことを感謝致します。
 ただ今、わたしたちは、主イエス様が5千人以上の人々を祝福して下さり、その一人一人を、もうお腹が一杯になるまで満ちたらせて下さったという「5千人の給食」、あるいは「5千人の養い」と呼ばれている御言葉をお聞きしました。

この物語は、間違いなく、主イエス様がわたしたちに与え下さる「祝福と恵み」について教えているものであります。給食という言葉を使いましたように、今朝の、この「恵み」はまずは食べることに関係する恵みに間違いありません。
けれども、主イエス様の恵みは、ただ単にわたしたちが飢えてしまわない、満腹するというだけのものではないのですね。ある説教者は、この物語は6章全体の流れの中で聞かなければならないと言っております。
 
今朝の御言葉、つまり1節から15節では、パンという言葉が何度も出てきています。そして、それは文字通りの食べるパンのことです。けれども6章全体を見てみますと、そうではないのです。パンという言葉は、文字通りの意味だけでなく、主イエス様ご自身のことをも指していることが分かるのであります。6章35節で主イエス様はこうおっしゃられます。
「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。」
 
そして、最終的には、わたしたちにとって本当に必要なまことのパンは、主イエス様が下さる食べ物や飲み物のことではない、そうではなくて、主イエス様ご自身であると語られています。主イエス様ご自身がわたしたちの命にとって欠くことが出来ない「まことのパン」であると宣言されるのです。

 もちろん、今朝の御言葉で数千人の人々がパンを与えられて喜び、また幸いを得ましたように、主イエス様は、わたしたちの霊的な必要だけでなく、肉体的な必要をもみたして下さる方であります。けれども、わたしたちは肉的な必要が与えられるだけでは、本当の意味で命を得て幸いに、平安に生きる、自分たちも喜び、また神様にも喜んでいただくような人生を送ることが出来ないのであります。主イエス様は、そのことをおっしゃっておられます。そして、そのためには、わたしたちは麦で作ったパンだけでなく、主イエス様ご自身をいただかなければならない、受けなければならないのであります。

6章の終りに書かれていることは、わたくしたちがこれは一体どういうことだろうかと考えさせるような悲しい出来事です。多くの人々が、その中でも弟子と呼ばれていた人々でさえ、この「命のパン」のことを理解できずに、主イエス様のもとを離れ去ったということであります。しかし、6章68節、12弟子だけは決して離れず、主イエス様に従ってゆくと答えました。シモン・ペトロが代表していいます。「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。」

今朝の御言葉は、五千人の養いの物語です。しかしこの物語は、わたしたちが今も礼拝の中で行っています、聖餐式と深いかかわりがあることが分かります。今朝の御言葉で、主イエス様は、ご自身でパンを取り、感謝してこれを裂き、一人一人にまるでご自身の恵みそのものを分けて下さるように与えてくださっています。そして私たちが聖餐式でいただくパンとブドウ酒は、6章の後半で明かされている通り、今も主イエス様ご自身のしるしであり、それも十字架の上でわたしたちに本当の命を与えて下さる主イエス様のしるしなのであります。

2、群衆を祝福する
 1節をもう一度お読みします。「1 その後、イエスはガリラヤ湖、すなわちティベリアス湖の向こう岸に渡られた。」
 季節は、4節にあるように、過越し祭りが近づいていた頃、春の終わり頃でありました。過越しの祭りは、昔、イスラエルの人々がエジプトを脱出したときに定められた祭りです。エジプトの王ファラオが神に従わず、イスラエルの人々を逃がさないので神様の怒りは最高潮に達していました。そのときイスラエルの人々は、神がモーセに命じた通りに家ごとに子羊を屠り、つまり殺して、その血を自分が住んでいる家の柱と鴨居に塗って置きました。それによって、エジプト全土に神の災いが及び、子供が殺されてしまうと言うときに、イスラエルの人々の家だけは災いが過越してゆき、全員が命を得たのであります。

 ヨハネによる福音書では、過越し祭という語は、7回か8回出ますけれども、「過越し祭が近づいた」と書かれているのは今朝の箇所を含めて三度であります。最初は2章13節、カナの婚礼のあと主イエス様の宮清めと呼ばれている箇所です。そして三度目は、11章55節、主イエス様が十字架につけられるその過越し祭の箇所です。今朝の箇所は、その間にあって、主イエス様が、自分は命のパンであると人々に宣言されるのであります。いわば三年間にわたって主イエス様が伝道される、そして過越しの祭りに際して、重要な御業をなさる、その三度の過越し祭の二回目、中間点にあるのが今朝の物語であります。
 
ガリラヤ湖の向こう側と書かれています。このあと、17節で一行は湖の向こう側のカファルナウムに戻ったとありますから、今朝の物語の舞台は、その対岸にあるベトサイダの近くの山であると思われます。このとき、主イエス様のまわりには、弟子たちだけでなく、大勢の群衆がつき従っていました。主イエス様が見ると、その群集が主イエス様のあとを追って山に上ってくるのが見えました。そして弟子の一人であり、近くのベトサイダの町出身であるフィリポに言いました。
「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」

これは、フィリポの信仰を試すためであったと6節に書かれています。弟子たちがパンを買ってきて、これだけの人を養うのは難しい、それは分かり切ったことでした。あなたならどうするか、こう問いかけられたのです。フィリポは答えます。「「めいめいが少しずつ食べるためにも、二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう」
 
このとき、彼らの手元にパンがあったわけではありません。二百デナリオンと言いますと、二百人分の日給、一デナリオンは人一人の一日の給料ですから、二百デナリオンは弟子たち十二人が、一~二週間くらいは生活できるお金です。おそらく主イエス様と旅をしている12弟子の会計にはそれくらいのお金があったと思われます。今あるお金を全部使っても足りません、フィリポはこう言っているのです。これを聞いていたアンデレが言いました。「ここに大麦のパン五つと魚二匹をもっている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では何の役にも立たないでしょう」どうやらアンデレは、自分の近くにいる少年が食べ物を持っていることに気がついて、こう言ったのです。そして少年からそれを受け取って、主イエス様のもとに持ってきました。しかし、こう付け加えます。「何の役にも立たないでしょう」。やはり、どうしようもない、フィリポ、アンデレ、二人の結論は、これだけの人に食べさせる方法はありませんということです。人間の力では、どうすること出来ない、そんな状況ですと言うのです。
 
当時のパンは小麦で作ることが普通だったのですが、少年が持っていたのは大麦のパンでした。大麦のパンは貧しい人たちが食べるものであったそうです。少年と訳されることばは、子供というよりも若者に近い年齢の少年を意味する言葉です。信頼できる辞書によれば、それは若い奴隷を意味する言葉でもあります。もし奴隷であるとするなら、主人に連れられてきたのかもしれません。彼らの弁当は貧しい人が食べる大麦のパン五つと二匹の魚でした。魚は干魚と訳している聖書もありますが、何か手を加えたおかずとしての魚で、魚のピクルスと訳している辞書もあります。
 
ささやかな食料です。しかし主イエス様は、この乏しいものを用いて素晴らしい御業をなさいました。 主イエス様は、まず全員を草の上に座らせたのです。座ると訳されている言葉は、リクライニング、あるいは横たわるという意味の言葉で、当時のユダヤ人が宴会をするときに必ずとる姿勢です。これから宴会をすると言うのです。
 
まず主イエス様は五つのパンを次々ととって、人々に分け与え、そして魚の方も同じように致しました。「感謝の祈りを唱え」とあります。大地の実り、海山の産物を与えて、わたしたちを養って下さる父なる神への感謝です。主イエス様は、人々に欲しい分だけ、つまり無制限に分け与えることがお出来なりました。
 この宴の席が終わった時、主イエス様は弟子たちに命じられました。「少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい」
 弟子たちが、集め終わると、12のかごに「いっぱい」になりました。ちょうど、12人いる弟子たちのために主イエス様は、配慮して下さったのです。どうすることもできないと思ったにもかかわらず主イエス様の恵みが溢れるほどに与えられ、具体的な必要が全て満たされた。弟子たちの心は感謝と喜びにあふれていたと思われます。

3、人々の思惑に抗するイエス
さて、この時のパンくずのように、当時は、人々が食べ残したもの、あるいは収穫し残したものが、貧しいものたちのために用いられました。これは旧約聖書の律法に命じられていることです。レビ記19章、申命記24章には穀物や果物の畑から収穫する時、隅々まで刈り尽くさず、角のところを少し残しておくことや、落ち穂を拾わないで残すようにと命じられます。貧しい人たちがそれを集めるのです。

 ここでは弟子たちが、食べ残しを集めました。そのことによって、12弟子たち、また主イエス様は、貧しいものとして、人々に奉仕する僕としての働きをしており、主役はあくまで、主イエス様の宴席に与る人々であったことが分かります。しかし、それほどまでに恵みを受けた群衆は、その恵みにも関わらず、主イエス様の御心にはかなわないことをしようと致します。14節で人々は、「まさにこの人こそ、世に来られる預言者である」と言って、主イエス様を王にするために連れて行こうとしたと書かれています。

過越し祭りのもとになった出エジプト、昔、奴隷として圧迫されていたイスラエルの民がエジプトを脱出することが出来たのは、モーセという指導者が立てられたことによります。モーセは神様から言葉を預かって民を導いた預言者でした。イスラエルには、そののち、モーセのような預言者が再び立てられると旧約聖書には、告げられています。人々はそれを信じ、強く期待していたのです。特に、主イエス様の時代には、イスラエルはローマ帝国の植民地になっており、再び独立を取り戻すことが民族の悲願でありました。群衆は、主イエス様を王にしてローマ帝国に対抗しようとしたのです。しかし、主イエス様は、これを見て、一人山へと退かれました。姿を消されたのです。

 わたしたちが毎日の生活を送るために食べる物や着るもの、住むところが必要です。このような物質的なものの価値を聖書は決して否定することはありません。聖書が否定するのは、それがすべてであって、それさえあれば人間は幸いに生きることが出来るという無神論的な生活です。旧約聖書申命記8章3節にこのように書かれています。
「人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きる」

神様は、このことを悟らせるためにイスラエルの民がエジプトを出て荒れ野で生活した時に、天からの不思議な食物であるマナを与えたのだとモーセは人々に告げました。
 主イエス様は、この申命記の御言葉を用いて、荒れ野の誘惑においてサタンに対抗しました。サタン、悪魔は、断食を終えたばかりの主イエス様に対して、これらの石がパンになるように命じたらどうだと誘惑しました。主イエス様の神の力、奇蹟をさえ行うことが出来るその御力を物質的な豊かさのために用い、この世界にこの世的な王国を造れという誘惑でした。主イエス様はサタンに答えられました。マタイによる福音書4章4節、
「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』/と書いてある。」こと、それらを自分自身の生き方とすることがわたしたちを本当の意味で幸いに導きます。その

 人が本当の意味で生きる、命を持って生きるためには、麦で作ったパンだけでは不十分です。神の言葉、神の御心に適って生きるためには、わたしたちは罪を悔い改め、新しく生まれ買わなければなりません。
 ヨハネによる福音書は、1章1節から2節で、「初めに言葉があった、言葉は神と共にあった、言葉は神であった」と書いて、主イエス様こそが「神の言葉」であると宣言しました。

すなわち、人はパンだけで生きるのではなく、主イエス・キリストによって生きる、それによってこそわたしたちは本当に生きることが出来るのです。群衆は、主イエス様にそのことを求めず、この世的なパンを求めて、主イエス様をこの世の王にしようとしました。この世の王国を求める、そのことによって、主イエス様を通して本当の神の国に入ることを自分から絶ち切ってしまったのです。
 
今日、キリスト教会には、洗礼と聖餐という二つの大切な儀式、礼典があります。洗礼は、私たちが十字架と復活のイエス様に結びなおされ、新しく生まれたことのしるしであり、聖餐は、そのようにして生まれた者が主イエス様の肉と血とを食べて、霊の養いを受けることを表わします。いずれもが主イエス様との結合、交わりを意味する礼典であります。

 主イエス様は、貧しい少年が差し出した、五つのパンと二匹の魚のような乏しいものを用いて、5000人以上の人々を無制限に養うという素晴らしい命の力を持つお方です。教会には、このお方が確かにおられます。主イエス様が共にいて下さるなら、わたしたちは決して飢え死にしません。それどころか豊かな恵みをいつも頂くことが出来ます。
しかし、わたしたちは、五つのパンと二匹の魚から、多くの人々が満ちたりるほどの大量の見える食料が与えられたこと、その主イエス様の奇蹟の力だけに心を奪われては決してなりません。

わたしたちは、この次の過越しの祭りで主イエス様がなさったことに心を向けなければなりません。それは主イエス様が本当の命を与える過越しの子羊となられたことです。十字架にお掛かりになり、死なれたことです。わたしたちのすべての不幸、災い、苦しみの源である罪を解決して下さったことです。主イエス様と結ばれる人、このお方を信じる人は、誰でも罪の赦しの恵みが与えられ、そして新しい命をいただくことが出来ます。わたしたちは、このお方を礼拝し、この方から恵みを受け、このお方から命を受け続けて、養われて行くのです。主イエス様を喜び賛美致します。祈ります。

神様は、あなたは主イエス様をわたしたちに与え下さり罪の赦しと永遠の命をすべての信じる人に与えて下さいます。その恵みは無制限であり、満ちあふれるほど豊かであって、わたしたちを満ちたらせて下さる素晴らしいものです。どうか、一人でも多くの方々が、この主イエス・キリストを受け入れ、信じ、救いの恵みにあづかることが出来ますよう、どうぞ助け導いて下さい。主の御名によって祈ります。アーメン。(おわり)

2012年08月26日 | カテゴリー: ヨハネによる福音書

2012年7月29日説教「来て、見なさい」ウイリアム・モーア宣教師

2012年7月29日説教「来て、見なさい」ウイリアム・モーア宣教師

説教要約(文責・近藤)

聖書:ヨハネ福音書1章43~51節
43 その翌日、イエスは、ガリラヤへ行こうとしたときに、フィリポに出会って、「わたしに従いなさい」と言われた。44 フィリポは、アンデレとペトロの町、ベトサイダの出身であった。45 フィリポはナタナエルに出会って言った。「わたしたちは、モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方に出会った。それはナザレの人で、ヨセフの子イエスだ。」
46 するとナタナエルが、「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と言ったので、フィリポは、「来て、見なさい」と言った。

47 イエスは、ナタナエルが御自分の方へ来るのを見て、彼のことをこう言われた。「見なさい。まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない。」48 ナタナエルが、「どうしてわたしを知っておられるのですか」と言うと、イエスは答えて、「わたしは、あなたがフィリポから話しかけられる前に、いちじくの木の下にいるのを見た」と言われた。49 ナタナエルは答えた。「ラビ、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」

50 イエスは答えて言われた。「いちじくの木の下にあなたがいるのを見たと言ったので、信じるのか。もっと偉大なことをあなたは見ることになる。」51 更に言われた。「はっきり言っておく。天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる。」

 

【主の弟子たち】
イエス様はこの世でご自分の働きを始めるにあたって弟子たちを召されました。弟子たちは主イエスが天に帰られたのちも全世界に福音を述べ伝えました。
弟子たちは主が召された時、ただちに主に従いました。

マタイによる福音書4章
18 イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、二人の兄弟、ペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレが、湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。19 イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。20 二人はすぐに網を捨てて従った。21 そこから進んで、別の二人の兄弟、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、父親のゼベダイと一緒に、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、彼らをお呼びになった。22 この二人もすぐに、舟と父親とを残してイエスに従った。

4人は神の導きを感じて何もかも捨てて直ちに主に従った。

【ヨハネの二人の弟子】
今日の聖書の前のところヨハネによる福音書1章35節以下を見てください。

35 その翌日、また、ヨハネは二人の弟子と一緒にいた。36 そして、歩いておられるイエスを見つめて、「見よ、神の小羊だ」と言った。37 二人の弟子はそれを聞いて、イエスに従った。

洗礼者ヨハネはイエスを見て「見よ、神の子羊」と言いました。これを聞いたヨハネの弟子であったアンデレともう一人の弟子はヨハネを去ってイエスに従いました。アンデレは自分の兄弟ペトロに「メシア救い主にであった」といいペトロは直ちに従いました。

【不可知論者トマス・ハックスリー】
不可知論者トマス・ハックスリーは、ある時友人のパーティーに友人たちとある別荘に招かれました。日曜日の朝になったので友人たちは教会に出かけましたが彼は行きませんでした。その代り、その中の敬虔なクリスチャンの一人に尋ねました。「お願いがあります。今日教会に行く代わりにあなたの信仰のことを聞かせてください。イエス・キリストはあなたにとってどんなお方ですか。あなたがどうしてクリスチャンになったか知りたいのです」。彼は答えた「私はあなたと議論したら勝てません」。博士は言いました「私はあなたと議論したくありません。ただイエスはあなたにとってどういう存在なのかが知りたいのです。」その信者は自分の証を簡単に立てました。話終ったとき博士の目に涙が浮かびました。博士は言いました。「そのような信仰が与えられたら私は右の手を失ってもよいです。」彼は信じたかったが納得できませんでした。イエスを神の独り子であるという証拠が足りないと思い受け入れられませんでした。信仰に強いあこがれがあったのですが彼は信じられなかった。

今日の御言葉のなかのナタナエルもイエスを信じられませんでした。

【ナザレから何か良いものが出るだろうか】
フィリポはナタナエルに出会って言った。「わたしたちは、モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方に出会った。それはナザレの人で、ヨセフの子イエスだ。するとナタナエルが、『ナザレから何か良いものが出るだろうか』と言ったので、フィリポは、『来て、見なさい』と言った。」

【偏見と先入観を捨てて】
ナタナエルはナザレは小さな町で文化的にも低い田舎だと思っていました。ここから聖書に預言された救い主が出るはずがないと友人ピリポの話を軽んじました。私たちもそういう偏見があって人を傷つけませんか。キリスト教は西洋の宗教だと誤解してませんか。イエスは中東のパレスチナ出身でヨーロッパよりアジアに近いのです。

イエス・キリストを受け入れることは難しいことではありません。
ローマ人への手紙10章9 「すなわち、自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる。」

福音の基本的メッセージはシンプルです。新約聖書ヨハネによる福音書3章16節に記されているとおりです。
「 神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。」

人はキリスト者を見てつまずくこともあります。人はこの世では完璧ではありません。
この世ではまだ罪びとです。しかし失敗したときでも悔い改めれば救われます。

【来て見なさい】
人はつまずくことがいくらでもあります。ナタナエルは「ナザレから良きものがでようか」と躓きました。しかし友人ピリポは「来て見なさい」と勧めました。ナタナエルは先入観を捨て心を開きましたので、47節でイエスは彼のことをこう言われた。「見なさい。まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない。」

【まことのイスラエル人】
これは主のすばらしい褒め言葉で、これ以上の賞賛はない。イエスを疑っていたがイエスを見る心をもって来たナタナエルを「まことのイスラエル人、この人には偽りがない」と言われました。

全ての先入観を捨てて主を調べ、来て主を見るとき、主はあなたにご自分を明らかに示してくださいます。

ナタナエルが、「どうしてわたしを知っておられるのですか」と言うと、イエスは答えて、「わたしは、あなたがフィリポから話しかけられる前に、いちじくの木の下にいるのを見た」と言われた。49 ナタナエルは答えた。「ラビ、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」

【もっと偉大なことをあなたは見る】
50 イエスは答えて言われた。「いちじくの木の下にあなたがいるのを見たと言ったので、信じるのか。もっと偉大なことをあなたは見ることになる。」51 更に言われた。「はっきり言っておく。天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる。」

【天国の道】
ナタナエルの心が開かれ天国の道が開かれました。同じように私たちも心を開いてイエスキリストに従ってください。そうすれば主は御自身を明らかに示して天国の道を示して下さいます。(おわり)

2012年07月29日 | カテゴリー: ヨハネによる福音書

2012.5.13.「サーバント・リーダーシップ」ウイリアム・モーア

要約

2012.5.13説教ウイリアム・モーア「サーバント・リーダーシップ」要約

聖書:ヨハネによる福音書13章1~15節。

 

【最後の晩餐と洗足】

主と弟子たちが特別の食事会、最後の晩餐と言われるものですが、ここで主は弟子たちにご自分の贖いの御業を教えたかったが弟子たちはまだ悟れる状態ではありませんでした。

弟子たちの必要を最後の時に与えることになった出来事が主の洗足の出来事です。

当時一つの習慣がありました。それは僕は外出から帰った主人の足を、サンダルを脱いでから洗うことが一般的でした。また客人が来ると僕が彼の足を洗い、主人と弟子たちとの間では一番低い弟子が主人の足を洗いました。さて主イエスと12弟子が最後の食卓の用意をしたとき誰も主の足を洗おうとはしませんでした。それはだれも自分は一番低い弟子とは考えたくなかったからです。

そこでイエスは弟子たちの足を洗われました。

 

ヨハネによる福音書13:4 夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいをとって腰に巻き、135 それから水をたらいに入れて、弟子たちの足を洗い、腰に巻いた手ぬぐいでふき始められた。

 

天地万物を創造された御手は優しく弟子たちの足を洗われ、仕えられました。主は彼らの文化ルールを破って弟子たちの足を洗われたので、ペテロは彼の足を洗おうとされた主に自分の足を洗わないように言いました。

 

【ペテロ】

ヨハネによる福音書136 こうして、シモン・ペテロの番になった。すると彼はイエスに、「主よ、あなたがわたしの足をお洗いになるのですか」と言った。

7 イエスは彼に答えて言われた、「わたしのしていることは今あなたにはわからないが、あとでわかるようになるだろう」。8 ペテロはイエスに言った、「わたしの足を決して洗わないで下さい」。イエスは彼に答えられた、「もしわたしがあなたの足を洗わないなら、あなたはわたしとなんの係わりもなくなる」。

 

9 シモン・ペテロはイエスに言った、「主よ、では、足だけではなく、どうぞ、手も頭も」。

10 イエスは彼に言われた、「すでにからだを洗った者は、足のほかは洗う必要がない。全身がきれいなのだから。あなたがたはきれいなのだ。しかし、みんながそうなのではない」。11 イエスは自分を裏切る者を知っておられた。それで、「みんながきれいなのではない」と言われたのである。

 

【洗足は人間の罪を贖う象徴】

主イエスがなさった弟子たちへの洗足は人間の罪を贖う象徴でありました。「もしわたしがあなたの足を洗わないなら、あなたはわたしとなんの係わりもなくなる」と。

 

主は恥ずべき十字架を私たちのために負って下さいました。そして弟子たちは互いにみずからを低くして仕えあうことを御自身が手本を示されたのです。

 

ヨハネによる福音書1312 こうして彼らの足を洗ってから、上着をつけ、ふたたび席にもどって、彼らに言われた、「わたしがあなたがたにしたことがわかるか。13 あなたがたはわたしを教師、また主と呼んでいる。そう言うのは正しい。わたしはそのとおりである。14 しかし、主であり、また教師であるわたしが、あなたがたの足を洗ったからには、あなたがたもまた、互に足を洗い合うべきである。15 わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、わたしは手本を示したのだ。

 

【あなたがたの間ではそうであってはならない】

マタイによる福音書においても主は同様のことを言われました。

2025 そこで、イエスは彼らを呼び寄せて言われた、「あなたがたの知っているとおり、異邦人の支配者たちはその民を治め、また偉い人たちは、その民の上に権力をふるっている。26 あなたがたの間ではそうであってはならない。かえって、あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、仕える人となり、27 あなたがたの間でかしらになりたいと思う者は、僕とならねばならない。28 それは、人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためであるのと、ちょうど同じである」。

 

【サーバント・リーダーシップ】

サーバントとは僕、奴隷のことで、リーダーシップとは指導論理のことです。

主の教会ではリーダーは僕となることが求められる。リーダーは皆に仕えるように主がお手本を示されました。

 

西谷伝道所に運営委員会が組織されるに際してもこの主のサーバント・リーダーシップが求められます。完璧な委員はいませんし、特別の賜物は必要ありません。必要な賜物は主イエスを主と受入れ、愛と一致のために互いに仕えるとき与えられます。(おわり)

 

 

2012年05月15日 | カテゴリー: ヨハネによる福音書

「復活した主を見た」大西良嗣・滋賀摂理教会牧師2011.6.19

CIMG0036x200.jpg

 

 

 

 

聖書:ヨハネ20章11~18

【はじめまして】

おはようございます。滋賀摂理伝道所から参りました大西良嗣と申します。

本日は、関西地区伝道協議会内の講壇交換ということで、めったにない機会を与えられて、西谷伝道所の礼拝で奉仕をさせていただけることになり、感謝をしております。神学生時代には、毎年、近藤長老に健康診断をしていただいて、お世話になりましたが、西谷伝道所の礼拝に出席させていただくのは初めてです。少し前までは、西谷集会所と呼んでいたと思いますが、少し前に伝道所となられましたね(中会に伝道所開設の届が出された時、わたしはその時、中会の副書記をしておりましたので、中会議場で挨拶された方々のお名前を書き留めたことを憶えております。)そして、今は会堂を取得することに取り組んでいらっしゃるということをうかがっておりまして、ぜひ訪れてみたいと願っておりました。

 

マグダラのマリアに起こった変化

ともに御言葉から教えられたいと思います。

今日の個所では、マグダラのマリアという一人の女性に起こった変化に、特に注目をして読んで行きたいと思います。

この変化は、いわば「信仰的な」変化です。その変化は、復活されたイエス・キリストとの関わりの中で起こりました。

 

マリアとイエス・キリストとの関わりをたどることで、この「信仰的な変化」が私たち一人一人にも起こる可能性があること、この「信仰的な変化」が自分自身にも与えられている希望であることを確かめたいと願っています。

 

 

2011年06月19日 | カテゴリー: ヨハネによる福音書 , 新約聖書

「神への唯一の道」ウイリアム・モーア2011.6.12.

【主イエス・キリストの驚くべき発言】

聖書を読むと、一つの事が明白になります。それは、主イエス・キリストは驚くような発言をよくなさいました。その発言は人間の常識を超えたので、その当時に聞いた人々も、今の私達も驚かせます。例えば、「自分の命を得ようとする者は、それを失う」(マタイ10章39)。「先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる」(マルコ10章31)。「柔和な人々は、幸いである、その人達は地を受け継ぐ」(マタイ5章5)。「敵を愛し、自分を迫害する者の為に祈りなさい」(マタイ5章44)。「受けるよりは与える方が幸いである」(使徒言行録)。

 

【私は道であり、真理であり、命である】

上述の主の教えは驚かせますが、最もびっくりさせる発言は、今日与えられた御言葉の中に書いてあります。それはヨハネによる福音書14章6に記されています。「主イエスは言われた。『私は道であり、真理であり、命である。私を通らなければ、誰も父のもとに行く事が出来ない。』」恐らくこの御言葉は主イエス・キリストの発言の中でどんな発言よりも人を躓かせ、むっとさせるでしょう。

2011年06月12日 | カテゴリー: ヨハネによる福音書 , 新約聖書

「わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る」ウイリアム・モーア2011.5.29.

聖書:ヨハネによる福音書14章15、21

 

【聖書とは何ですか】

皆さん、聖書を読むと、どう思われますか。分かり難い、難しいですか。昔々の遠い国の歴史と人物の事ばかりで、あまり自分の現実に関係がないと見えるのでしょうか。それとも、聖書の色々な「してはならない」と「しなければならない」と言う言葉はあなたにはちょっと難すぎるのでしょうか。

 

確かに聖書の全ては誰でも直ぐに分かる訳ではありません。聖書は昔の文化と外国の言葉を通して私達に伝わって来ましたので、分かり難い所があるのは当然だと思います。聖書学者さえも、ある個所の正確な意味がまだはっきり分からなくて、今も研究が続けられています。

 

難しい、分かり難いと言っても、聖書を全体的に見ると、そんなに難しくはないのです。聖書はどんな事よりも私達人間の為の神様の御業の記録なのです。

2011年05月29日 | カテゴリー: ヨハネによる福音書 , 新約聖書

「あなたがたは何を求めていますか」ウイリアム・モーア2011.5.22.

聖書:ヨハネによる福音書1章35−42

 

 

             

【人間は神を信じるように造られた】

この間、新聞で非常に意義深い記事が目に留まりました。その記事には「研究によりますと、人間は神を信じるように造られた」という見出しがついていました。有名な英国のオックスフォード大学は3百万ドルを掛け、三年間にわたり、その研究を行いました。人類学者、心理学者、哲学者と神学者の幅広い知識を用いて、重要な結論を出しました。研究の結果では、人間は本能的に神と死後の生を肯定します。つまり、私達は人間として、生まれながら霊的な意識を持っています。例えば、子供は超自然界の存在を当たり前の事として想定します。また、人間は死ぬと、魂が残ると言う本能的な確信を私達は持っています。その確信は文化と時代を超える全人類の共通的な仮定です。

 

【神はなぜ人を創造されたか】

実は、私はその研究の結果にちっとも以外だとは思われませんでした。なるほどと思ったのです。何故なら、御言葉によりますと、愛する神は人間を創造された時、私達が御自分を信じるように、わざわざお造りになりました。さらに、御自分を愛するように、また、御自分との交わりを持つ為にと、主の大きな恵みを受ける為に私達が特別に造られました。

 

創世記1章27に記されていますように、「神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。」つまり、他の造られた生き物と違って、私達人間は神を知り、神様と共に歩むことが出来ます。

 

 

【神不在の人生】

従って、そのように造られた私達は創造主である、愛する神の交わりを断って、誠の神が存在していないように生活をすると、私達は不安であり、空しいです。

 

それは私達の目的に逆らっているからです。誰かが言いましたけれども、「全ての人間には神の形の穴が空いています。そして、神のみがその穴を満たす事が出来る。」

 

2011年05月22日 | カテゴリー: ヨハネによる福音書 , 新約聖書

「クリスマスの愛」ウイリアム・モーア

聖書;ヨハネによる福音書1章1−14

 

 

【救い主の誕生】

今日、私たちは神の御子イエス・キリストの御降誕を記念する為、ここに集まっています。2010年前にベツレヘムの馬小屋でマリアと言う乙女がこの世の唯一の救い主を出産しました。ですから、歴史上、その出産はこの世での数え切れない程の出産の中で特別意味深く、素晴らしい出来事であります。つまり、永遠の真の神御自身が人間になり私たちと共に宿り、人類の為にたった一つの救いの道を開いて下さいました。今日、私たちはその無比の恵みを覚え、心からお祝いします。

 

2010年12月19日 | カテゴリー: ヨハネによる福音書 , 新約聖書

「神の声を聞く」ウイリアム・モーア 2010.1.24

聖書:ヨハネによる福音書10章1−6

1:「はっきり言っておく。羊の囲いに入るのに、門を通らないでほかの所を乗り越えて来る者は、盗人であり、強盗である。2:門から入る者が羊飼いである。3:門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自    分の羊の名を呼んで連れ出す。4:自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く。5:しかし、ほかの者には決してついて行かず、逃げ去る。ほかの者たちの声を知らないからである。」6:イエスは、このたとえをファリサイ派の人々に話されたが、彼らはその話が何のことか分からなかった。

 

【さまざまな呼び掛ける声】

考えて見ますと、私達の周りには呼び掛ける声が沢山あります。家族の者、職場の同僚、友人の声も絶えず聞こえて来ます。そして、私達にその声の影響力はものすごく強いのです。例えば、人から励ましの言葉を聞くと、一日中気分が良くて力が出ます。その反面、愛のない厳しい批判を受けると、気持ちが落ち込み、悲しくなります。また、周りの者から良きアドバイスを聞く事が出来ますが、ある時は、そのアドバイスが私達を惑わしてしまいます。

2010年01月24日 | カテゴリー: ヨハネによる福音書

神に倣う者となりなさい ウイリアム・モーア

聖書:エフェソの信徒への手紙4章25−5章2

◆新しい生き方

 25:だから、偽りを捨て、それぞれ隣人に対して真実を語りなさい。わたしたちは、互いに体の一部なのです。26:怒ることがあっても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで怒ったままでいてはいけません。27:悪魔にすきを与えてはなりません。28:盗みを働いていた者は、今からは盗んではいけません。むしろ、労苦して自分の手で正当な収入を得、困っている人々に分け与えるようにしなさい。29:悪い言葉を一切口にしてはなりません。ただ、聞く人に恵みが与えられるように、その人を造り上げるのに役立つ言葉を、必要に応じて語りなさい。30:神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、聖霊により、贖いの日に対して保証されているのです。31:無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりなどすべてを、一切の悪意と一緒に捨てなさい。32:互いに親切にし、憐れみの心で接し、神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、赦し合いなさい。5章1:あなたがたは神に愛されている子供ですから、神に倣う者となりなさい。 2:キリストがわたしたちを愛して、御自分を香りのよい供え物、つまり、いけにえとしてわたしたちのために神に献げてくださったように、あなたがたも愛によって歩みなさい。

 

【ハロウイーン】

この10月31日、 アメリカからの帰りで私は関西空港から六甲アイランド行きのリムジン・バスに乗りました。丁度バスが六甲アイランド停留所に着いた時、窓からとても意外な光景を目にしました。それは十数人の小学生の仲間がハロウイーン・コスチュームの姿で歩いていた事です。ミイラや妖精、魔女、オバマ大統領、スーパーマンなどの姿で夢のように現れました。そして、旅の疲れや時差ぼけの影響で、それを見た瞬間、私はまだロサンジェルスにいて、日本に本当に帰っていないのではと錯覚してしまいそうでした。最近、日本でも10月31日のハロウイーンが流行ってきて、楽しい子供の祭りのようになりました。この世はだんだん小さくなるのだなーと思いました。

2009年11月15日 | カテゴリー: エフェソの信徒への手紙 , ヨハネによる福音書 , 新約聖書

わたしは、あなたの住んでいる所を知っている ウイリアム・モーア

聖書:ヨハネの黙示録2章12−17

12:ペルガモンにある教会の天使にこう書き送れ。『鋭い両刃の剣を持っている方が、次のように言われる。13:「わたしは、あなたの住んでいる所を知っている。そこにはサタンの王座がある。しかし、あなたはわたしの名をしっかり守って、わたしの忠実な証人アンティパスが、サタンの住むあなたがたの所で殺されたときでさえ、わたしに対する信仰を捨てなかった。  14:しかし、あなたに対して少しばかり言うべきことがある。あなたのところには、バラムの教えを奉ずる者がいる。バラムは、イスラエルの子らの前につまずきとなるものを置くようにバラクに教えた。それは、彼らに偶像に献げた肉を食べさせ、みだらなことをさせるためだった。15:同じように、あなたのところにもニコライ派の教えを奉ずる者たち    がいる。16:だから、悔い改めよ。さもなければ、すぐにあなたのところへ行って、わたしの口の剣でその者どもと戦おう。17:耳ある者は、"霊"が諸教会に告げることを聞くがよい。勝利を得る者には隠されていたマンナを与えよう。また、白い小石を与えよう。その小石には、これを受ける者のほかにはだれにも分からぬ新しい名が記されている。」』

 
【マクドナルドで】
少し前、アメリカ滞在中に次男ポールの大学卒業式の為に南部のノースカロライナ州から北部のボストン市まで往復約3、000キロの旅をしました。長い旅ですから、コーヒを飲む為によく高速道路のマクドナルドに車を止めました。そして、ある朝早くの事ですがコーヒを注文すると、レジの請求がメニューに載ってある値段より、半分位安くなっていました。それはめったにない事ですから、不思議に思いながらでも、うれしくって、店の人に言わずにまず席に戻りました。でも、やはり私は安いコーヒーの理由が知りたかったのです。ですからコーヒのレシートをよく見ると、コーヒの代わりに「snrdrnk」と言う、分からない言葉が書いてありました。

2009年11月01日 | カテゴリー: ヨハネによる福音書 , ヨハネの黙示録 , 新約聖書 , 旧約聖書 , 詩篇

「神はおられるのか」 淀川キリスト教病院伝道部長田村英典牧師

淀川キリスト教病院伝道部長田村英典牧師


聖書:ヨハネ福音書1章14~18

14:言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。15:ヨハネは、この方について証しをし、声を張り上げて言った。「『わたしの後から来られる方は、わたしより優れている。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のこ とである。」 16:わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。17:律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。  18:いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。  


【神はおられるのか?】
今朝は、神はおられるのか、という根本的なことをお話させていただきたいと思います。
一体、この天地万物を無から造られ、今も一切を導いておられる永遠者、また絶対者なる真の神はおられるのでしょうか。私は、20歳の時クリスチャンになりましたが、その前はこのことでかなり迷いました。もし神が本当におられるのなら、神を信じ、神に従うのは当然のことであり、何ら特別なことではありません。
 
しかし、神が存在しないのなら、そういったことは全くナンセンスです。存在もしないのに、存在するかのように信じて生きること程、愚かで馬鹿げたことはありません。ではどちらなのでしょうか。どちらでもないということは、あり得ません。必ず、どちらかなのです。しかし、それが分らず、かつては私も随分迷いました。
 
いずれにせよ、これは私たちの生きる意味や目的とも関係し、また私たちが死んだ後、どうなるのかということにも関る重大なことです。
そこで幾つかの点から見てみたいと思います。

2009年10月25日 | カテゴリー: コヘレトの言葉 , ヨハネによる福音書 , ローマの信徒への手紙 , 使徒言行録 , 新約聖書 , 旧約聖書 , 詩篇

主の御声に支えられて 鈴蘭台教会牧師金原義信

鈴蘭台教会牧師金原義信

聖書:ヨハネ6章16-21節 ◆湖上を歩くイエス

16:夕方になったので、弟子たちは湖畔へ下りて行った。17:そして、舟に乗り、湖の向こう岸のカファルナウムに行こうとした。既に暗くなっていたが、イエスはまだ彼らのところには来ておられなかった。18:強い風が吹いて、湖は荒れ始めた。19:二十五ないし三十スタディオンばかり漕ぎ出したころ、イエスが湖の上を歩いて舟に近づいて来られるのを見て、彼らは恐れた。20:イエスは言われた。「わたしだ。恐れることはない。」21:そこで、彼らはイエスを舟に迎え入れようとした。すると間もなく、舟は目指す地に着いた。

【人生の荒海】
私たちは天の御国を目指して信仰生活をしています。そして同じ主によって地上で愛され導かれて歩んでいます。その途上にある今、穏やかな所ばかりでなく、嵐の中を通っていく事もあります。ちょうど、ガリラヤ湖で嵐の中行き悩む舟に乗った弟子達のようにです。

2009年06月21日 | カテゴリー: ヨハネによる福音書 , 新約聖書

「あなたも見えるようになる、」img河内常男長老

河内常男長老

聖書ヨハネによる福音書9章1~12

◆生まれつきの盲人をいやす

1:さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。2:弟子たちがイエスに尋ねた。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」

3:イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。4:わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない。だれも働くことのできない夜が来る。5:わたしは、世にいる間、世の光である。」6:こう言ってから、イエスは地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目にお塗りになった。7:そして、「シロアム――『遣わされた者』という意味――の池に行って洗いなさい」と言われた。そこで、彼は行って洗い、目が見えるようになって、帰って来た。

8:近所の人々や、彼が物乞いであったのを前に見ていた人々が、「これは、座って物乞いをしていた人ではないか」と言った。9:「その人だ」と言う者もいれば、「いや違う。似ているだけだ」と言う者もいた。本人は、「わたしがそうなのです」と言った。10:そこで人々が、「では、お前の目はどのようにして開いたのか」と言うと、11:彼は答えた。「イエスという方が、土をこねてわたしの目に塗り、『シロアムに行って洗いなさい』と言われました。そこで、行って洗ったら、見えるようになったのです。」12:人々が「その人はどこにいるのか」と言うと、彼は「知りません」と言った。


【親の罪によるのですか】
イエス様と弟子たちが、通りを歩いおられます。道端に生まれつき目の見えない人が,座って物乞いをしています。どうやら、この人は男性のようです。

弟子たちが、「この人が生まれつき目が見えないのはどうしてですか、本人が罪を犯したからですか」、それとも、両親が罪を犯したからですか、と尋ねています。

2009年06月14日 | カテゴリー: ヨハネによる福音書 , 新約聖書

「神の素晴らしい愛」淀川キリスト教病院牧師伝道部長 田村英典牧師

聖書:ヨハネ3章16節

神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。

【小型の福音書】
ヨハネ3章16節は、聖書の中で最も有名な箇所の一つでございます。宗教改革者ルターは、ここを「小型の福音書」と呼びました。それほど、聖書の福音を見事に要約しており、世界中の多くのクリスチャンに愛され、暗唱されてきました。ここはとても短いです。簡潔です。しかし、天と地とその中の全ての物を造られた全知全能の生ける真の神の、私たち罪人に対する愛を見事に伝えています。今朝は、改めてここから神の素晴らしい愛を三つの点から確認したいと思います。

1【世とは】
神の愛の素晴らしさの第一点は何でしょうか。それは神が「罪人」の私たちを愛しておられることです。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。」

実はヨハネ福音書では、「世」という言葉は、単にこの世界を指すだけでなく、造り主なる真の神に背を向け、心を閉ざし、神を無視する不信仰な罪深い世という意味も持っています。例えば、ヨハネ12章31でイエスは言われます。「今こそ、この世が裁かれる。」17章25でもイエスは天の父なる神に「正しい父よ、世はあなたを知りませんが」と祈られます。ですから、ここでも、「世」は単なる世界ではなく、造り主なる神に背き、自分中心に生きる罪深い不信仰な世、またそれを構成する私たち罪ある人間とその世界を意味します。

2009年05月17日 | カテゴリー: ヨハネによる福音書 , 新約聖書

良き羊飼い ウイリアム・モーア宣教師

ヨハネによる福音書10章7−18◆イエスは良い羊飼い

7:イエスはまた言われた。「はっきり言っておく。わたしは羊の門である。8:わたしより前に来た者は皆、盗人であり、強盗である。しかし、羊は彼らの言うことを聞かなかった。

9:わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。10:盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。

11:わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。12:羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。――狼は羊を奪い、また追い散らす。――13:彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである。14:わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。15:それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる。16:わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。

17:わたしは命を、再び受けるために、捨てる。それゆえ、父はわたしを愛してくださる。18:だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これは、わたしが父から受けた掟である。」


【子羊の遊ぶ光景】
皆さん、羊と言えば、何が心に浮かびますか。恐らく絵本に出て来るとても可愛らしい子羊の事かも知れません。美しい緑の牧草地に、ふわふわコットンボールのように遊んでいる子羊は何よりも愉快な光景ではないかと思います。羊と直接の経験がない私達にとっても、それはまるで平和と満足のイメージですよね。そして、そのイメージは、いつか牧場で子羊と共に飛んだりはねたりしたいなという憧(あこが)れを私達に起こさせます。ですから、多分今日の御言葉に於ける羊の事を聞くと、本当に暖かい楽しい気持ち感じさせます。

2009年03月22日 | カテゴリー: ヨハネによる福音書 , 新約聖書

主イエスとニコデモ ウイリアム・モーア宣教師

ヨハネによる福音書3章1−15◆イエスとニコデモ

1:さて、ファリサイ派に属する、ニコデモという人がいた。ユダヤ人たちの議員であった。2:ある夜、イエスのもとに来て言った。「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです。」

3:イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」

4:ニコデモは言った。「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」

5:イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。6:肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。7:『あなたがたは新たに生まれねばならない』とあなたに言ったことに、驚いてはならない。8:風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」

9:するとニコデモは、「どうして、そんなことがありえましょうか」と言った。

10:イエスは答えて言われた。「あなたはイスラエルの教師でありながら、こんなことが分からないのか。11:はっきり言っておく。わたしたちは知っていることを語り、見たことを証ししているのに、あなたがたはわたしたちの証しを受け入れない。12:わたしが地上のことを話しても信じないとすれば、天上のことを話したところで、どうして信じるだろう。13:天から降って来た者、すなわち人の子のほかには、天に上った者はだれもいない。14:そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。15:それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである

【受難節の40日間】

今朝、私達は今年の受難節の旅を続けたいと思います。キリスト教会は大昔から、主イエスの十字架の贖い死を記念する為に、毎年の受難節に霊的な準備をして来ました。イースター、すなわち復活祭の前の40日間の期間に、キリスト者は主の贖い死の意味を新たに悟らされ、また、自分の信仰生活を顧みる自己評価の機会でもあります。そして、受難節を心より守る事によって、神様が救いに至る主イエスの十字架の贖いの恵みを私達のうちに確かにして下さいます。

2009年03月15日 | カテゴリー: ヨハネによる福音書 , 新約聖書

石を手放すこと ウイリアム・モーア宣教師

ヨハネによる福音書8章1−11

1:イエスはオリーブ山へ行かれた。

2:朝早く、再び神殿の境内に入られると、民衆が皆、御自分のところにやって来たので、座って教え始められた。3:そこへ、律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕ら えられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、4:イエスに言った。「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。5:こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。 ところで、あなたはどうお考えになりますか。」

6:イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである。イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。7:しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」

8:そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。9:これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。

10:イエスは、身を起こして言われた。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」11:女が、「主よ、だれも」と言うと、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」

【石投げ紐】
小学校の4年生頃の事ですが、私は石投げ紐に夢中になり、毎日学校が終わると友達と共に石投げ紐を練習しました。石投げ紐は原始的な武器で的確に狙うのはとても難しいですから、私達はいくら練習してもあんまり上手になりませんでした。石投げ紐の遣り方は御存知だと思いますが、1メートル位長さの紐の真ん中の所の革のポケットに小さな石を入れてから、紐の二つの末端を片手に取り、それをぐるぐる回します。そして、標的に向かいながら、一方の紐を手放すと石が飛び出します。とにかく、私は暇があれば、いつも石投げ紐を練習しました。

2009年03月08日 | カテゴリー: ヨハネによる福音書 , 新約聖書

来て、見なさい ウイリアム・モーア宣教師

ヨハネによる福音書1章43−51◆フィリポとナタナエル、弟子となる

43:その翌日、イエスは、ガリラヤへ行こうとしたときに、フィリポに出会って、「わたしに従いなさい」と言われた。

44:フィリポは、アンデレとペトロの町、ベトサイダの出身であった。45:フィリポはナタナエルに出会って言った。「わたしたちは、モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方に出会った。それはナザレの人で、ヨセフの子イエスだ。」46:するとナタナエルが、「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と言ったので、フィリポは、「来て、見なさい」と言った。47:イエスは、ナタナエルが御自分の方へ来るのを見て、彼のことをこう言われた。「見なさい。まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない。」48:ナタナエルが、「どうしてわたしを知っておられるのですか」と言うと、イエスは答えて、「わたしは、あなたがフィリポから話しかけられる前に、いちじくの木の下にいるのを見た」と言われた。49:ナタナエルは答えた。「ラビ、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」

50:イエスは答えて言われた。「いちじくの木の下にあなたがいるのを見たと言ったので、信じるのか。もっと偉大なことをあなたは見ることになる。」51:更に言われた。「はっきり言っておく。天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる。」


【先生はイエス様のお祖母さん?】
ある小さい女の子の幼稚園生が初めて日曜学校へ行きました。家に帰って来るとお母さんは娘に、「日曜学校はどうだった。面白かった」と聞きました。娘は、「うん、とても楽しかった。歌を歌って、ストーリを読んで貰って、面白いゲームもした。そして、私の日曜学校の先生はイエス様のお祖母さんだと思う」と答えました。お母さんは先生がイエス様のお祖母さんだと聞くとびっくりして、娘に、「どうしてそんな事を思うの」と聞きました。「だって、先生は赤ちゃんイエス様の絵をクラスに沢山見せて、イエス様の良い事ばかりを言ったから、先生はきっとイエス様のお祖母さんだと思う」と女の子は答えました。

2009年02月01日 | カテゴリー: ヨハネによる福音書 , 新約聖書

わたしは道である ウイリアム・モーア宣教師

ヨハネによる福音書14章1−7◆イエスは父に至る道

1:「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。2:わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。3:行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。4:わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。」

5:トマスが言った。「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」

6:イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。7:あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」

【男と女の違い?】

皆さん、突然の質問ですけれども、女性と男性の主な違いを御存知ですか。それは運転をしていて道に迷うと男の人は道を尋ねません。皆さんも知っていると思いますが、男の人は殆ど誰もが道を尋ねる事を嫌がっています。道を迷っても男の人は出来るだけ他の人に目的地の方向を聞くのを避けたいのです。何故なら、男の人にとってそれは柔弱の表れでもあるからです。もし知らない所へ行こうとしたら先ず地図を見て行くべきですから、道に迷う事は恥ずかしい事でもあります。そして、特に男の人にとって、赤の他人に自分が道に迷った事を知らせるのは恥ずかしいのです。その故に男の人は道に迷うと、「近道を探したよ」、「きっと目的地が遠くはないよ」、「あ、あのコンビニがあったのよね」など言い訳を言いながらも、時間を掛けて目的地を探します。とにかく、男の人にとって道を尋ねるのは最後の手段にしたいのです。

2009年01月18日 | カテゴリー: ヨハネによる福音書 , 新約聖書

幸いな新年 ウイリアム・モーア宣教師

ヨハネによる福音書13章1−17◆弟子の足を洗う

1:さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。2:夕食のときであった。既に悪魔は、イスカリオテのシモンの子ユダに、イエスを裏切る考えを抱かせていた。

3:イエスは、父がすべてを御自分の手にゆだねられたこと、また、御自分が神のもとから来て、神のもとに帰ろうとしていることを悟り、4:食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。5:それから、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始められた。

6:シモン・ペトロのところに来ると、ペトロは、「主よ、あなたがわたしの足を洗ってくださるのですか」と言った。7:イエスは答えて、「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」と言われた。8:ペトロが、「わたしの足など、決して洗わないでください」と言うと、イエスは、「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわ たしと何のかかわりもないことになる」と答えられた。9:そこでシモン・ペトロが言った。「主よ、足だけでなく、手も頭も。」

10:イエスは言われた。「既に体を洗った者は、全身清いのだから、足だけ洗えばよい。あなたがたは清いのだが、皆が清いわけではない。」11:イエスは、御自分を裏切ろうとしている者がだれであるかを知っておられた。それで、「皆が清いわけではない」と言われたのである。 12:さて、イエスは、弟子たちの足を洗ってしまうと、上着を着て、再び席に着いて言われた。「わたしがあなたがたにしたことが分かるか。13:あなたがたは、わたしを『先生』とか『主』とか呼ぶ。そのように言うのは正しい。わたしはそうである。14:ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。15:わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。16:はっきり言っておく。僕は主人にまさらず、遣わされた者は遣わした者にまさりはしない。17:このことが分かり、そのとおりに実行するなら、幸いである。


【新しい年の初めに立って】
明けましておめでとうございます。今日、今年の最初の主の日に当たって、私達は正に新しい年の玄関に立ています。そして、過ぎ去った2008年を振り返って見ると、新しい2009年に対して大きな希望が私達から湧き出て来ると思います。つまり、私達は2009年が2008年より、もっと良い年になって欲しいと願うのであります。言うまでもないが、2008年には私達個人的にも世界的にも色々な事がありました。ですからその影響を考えますと私達だけではなく、全世界の人々も何よりもこの新しい2009年は幸いな年になるのを切に望んでおります。

2009年01月04日 | カテゴリー: ヨハネによる福音書 , 新約聖書

夢をかなえる本気のクリスマス ウイリアム・モーア宣教師

ヨハネによる福音書1章1−18◆言が肉となった

1:初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。

2:この言は、初めに神と共にあった。

3:万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。

4:言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。

5:光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。

6:神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。

7:彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。

8:彼は光ではなく、光について証しをするために来た。

9:その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。

10:言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。

11:言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。

12:しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。

13:この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。

14:言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。

15:ヨハネは、この方について証しをし、声を張り上げて言った。「『わたしの後から来られる方は、わたしより優れている。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。」

16:わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。

17:律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。

18:いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子で ある神、この方が神を示されたのである。


【クリスマス】
今年もいよいよクリスマスが近づいて参ります。丁度一週間後、私達の西谷聖書集会ではクリスマス礼拝を守って、共にイエス・キリストの御降誕をお祝います。その為に私達は色んな準備をしています。子供達は一生懸命にクリスマスのクラフトを作ったりクリスマスの歌を練習したりしています。そして、私達大人も来る日曜日の礼拝と祝会の準備をしています。

デパートに入り、また商店街を歩くと、クリスマスの準備をしている大勢の人々のばたばたしているのが目につきます。クリスマスプレゼントと飾りを買って、クリスマスケーキを注文し、そして、クリスマスデイナーのメニューを考えます。そのように準備をして皆は何よりも楽しく、恵まれたクリスマスを過ごしたいと思います。

2008年12月14日 | カテゴリー: ヨハネによる福音書 , 新約聖書

私達はどのような神に仕えていますか ウイリアム・モーア宣教師

聖書 燃え盛る炉に投げ込まれた三人
ダニエル書3章8−30

8:さてこのとき、何人かのカルデア人がユダヤ人を中傷しようと進み出て、9:ネブカドネツァル王にこう言った。「王様がとこしえまでも生き永らえられますように。10:御命令によりますと、角笛、横笛、六絃琴、竪琴、十三絃琴、風琴などあらゆる楽器の音楽が聞こえたなら、だれでも金の像にひれ伏して拝め、ということでした。11:そうしなければ、燃え盛る炉に投げ込まれるはずです。12:バビロン州には、その行政をお任せになっているユダヤ人シャドラク、メシャク、アベド・ネゴの三人がおりますが、この人々は御命令を無視して、王様の神に仕えず、お建てになった金の像を拝もうとしません。」

13:これを聞いたネブカドネツァル王は怒りに燃え、シャドラク、メシャク、アベド・ネゴを連れて来るよう命じ、この三人は王の前に引き出された。14:王は彼らに言った。「シャドラク、メシャク、アベド・ネゴ、お前たちがわたしの神に仕えず、わたしの建てた金の像を拝まないとい うのは本当か。15:今、角笛、横笛、六絃琴、竪琴、十三絃琴、風琴などあらゆる楽器の音楽が聞こえると同時にひれ伏し、わたしの建てた金の像を拝むつもりでいるなら、それでよい。もしも拝まないなら、直ちに燃え盛る炉に投げ込ませる。お前たちをわたしの手から救い出す神があろうか。」

16:シャドラク、メシャク、アベド・ネゴはネブカドネツァル王に答えた。「このお定めにつきまして、お答えする必要はございません。17:わたしたちのお仕えする神は、その燃え盛る炉や王様の手からわたしたちを救うことができますし、必ず救ってくださいます。18:そうでなくとも、御承知ください。わたしたちは王様の神々に仕えることも、お建てになった金の像を拝むことも、決していたしません。」19:ネブカドネツァル王はシャドラク、メシャク、アベド・ネゴに対して血相を変えて怒り、炉をいつもの七倍も熱く燃やすように命じた。20:そして兵士の中でも特に強い者に命じて、シャドラク、メシャク、アベド・ネゴを縛り上げ、燃え盛る炉に投げ込ませた。21:彼らは上着、下着、帽子、その他の衣服を着けたまま縛られ、燃え盛る炉に投げ込まれた。22:王の命令は厳しく、炉は激しく燃え上がっていたので、噴き出る炎はシャドラク、メシャク、アベド・ネゴを引いて行った男たちをさえ焼き殺した。23:シャドラク、メシャク、アベド・ネゴの三人は縛られたまま燃え盛る炉の中に落ち込んで行った。24:間もなく王は驚きの色を見せ、急に立ち上がり、側近たちに尋ねた。「あの三人の男は、縛ったまま炉に投げ込んだはずではなかったか。」彼らは答えた。「王様、そのとおりでございます。」25:王は言った。「だが、わたしには四人の者が火の中を自由に歩いているのが見える。そして何の害も受けていない。それに四人目の者は神の子のような姿をしている。」26:ネブカドネツァル王は燃え盛る炉の口に近づいて呼びかけた。「シャドラク、メシャク、アベド・ネゴ、いと高き神に仕える人々よ、出て来なさい。」すると、シャドラク、メシャク、アベド・ネゴは炉の中から出て来た。27:総督、執政官、地方長官、王の側近たちは集まって三人を調べたが、火はその体を損なわず、髪の毛も焦げてはおらず、上着も元のままで火のにおいすらなかった。28:ネブカドネツァル王は言った。「シャドラク、メシャク、アベド・ ネゴの神をたたえよ。彼らは王の命令に背き、体を犠牲にしても自分の神に依り頼み、自分の神以外にはいかなる神にも仕えず、拝もうともしなかったので、この僕たちを、神は御使いを送って救われた。29:わたしは命令する。いかなる国、民族、言語に属する者も、シャドラク、メシャク、アベド・ネゴの神をののしる者があれば、その体は八つ裂きにされ、その家は破壊される。まことに人間をこのよう  に救うことのできる神はほかにはない。」 30:こうして王は、シャドラク、メシャク、アベド・ネゴをバビロン州で高い位につけた。


【最近の恐ろしい出来事】
最近新聞に大きく取り上げられたニュースです。 「八王子殺傷、現場近くで包丁購入『誰でもよかった』。 消費者物価1.9%上昇、92年来の上げ幅。 千葉で民家火災、焼け跡から母子4人の遺体。 秋葉原通り魔事件、男が通行人や警察官17人を車ではねて刺す、3人死亡。 東北地方で震度6強地震。 14歳が東名高速でバスジャック。」

2008年07月27日 | カテゴリー: イザヤ書 , ダニエル書 , ヨハネによる福音書 , ローマの信徒への手紙 , 新約聖書 , 旧約聖書 , 詩篇

「主イエスを信じて死ぬ幸い」 宝塚教会牧師 国方敏治

宝塚教会牧師 国方敏治

ヨハネ福音書11章17-44節

◆イエスは復活と命  17:さて、イエスが行って御覧になると、ラザロは墓に葬られて既に四日もたっていた。18:ベタニアはエルサレムに近く、十五スタディオンほどのところにあった。19:マルタとマリアのところには、多くのユダヤ人が、兄弟ラザロのことで慰めに来ていた。20:マルタは、イエスが来られたと聞いて、迎えに行ったが、マリアは家の中に座っていた。  21:マルタはイエスに言った。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。  22:しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。」  23:イエスが、「あなたの兄弟は復活する」と言われると、  24:マルタは、「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と言った。25:イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。26:生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」27:マルタは言った。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」 ◆イエス、涙を流す  28:マルタは、こう言ってから、家に帰って姉妹のマリアを呼び、「先生がいらして、あなたをお呼びです」と耳打ちした。29:マリアはこれを聞くと、すぐに立ち上がり、イエスのもとに行った。30:イエスはまだ村には入らず、マルタが出迎えた場所におられた。31:家の中でマリアと一緒にいて、慰めていたユダヤ人たちは、彼女が急に立ち上がって出て行くのを見て、墓に泣きに行くのだろうと思い、後を追った。32:マリアはイエスのおられる所に来て、イエスを見るなり足もとにひれ伏し、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と言った。33:イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、心に憤りを覚え、興奮して、34:言われた。「どこに葬ったのか。」彼らは、「主よ、来て、御覧ください」と言った。 35:イエスは涙を流された。  36:ユダヤ人たちは、「御覧なさい、どんなにラザロを愛しておられたことか」と言った。37:しかし、中には、「盲人の目を開けたこの人も、ラザロが死なないようにはできなかったのか」と言う者もいた。 ◆イエス、ラザロを生き返らせる  38:イエスは、再び心に憤りを覚えて、墓に来られた。墓は洞穴で、石でふさがれていた。39:イエスが、「その石を取りのけなさい」と言われると、死んだラザロの姉妹マルタが、「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます」と言った。40:イエスは、「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」と言われた。41:人々が石を取りのけると、イエスは天を仰いで言われた。「父よ、    わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。42:わたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています。しかし、わたしがこう言うのは、周りにいる群衆のためです。あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです。」  43:こう言ってから、「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ばれた。44:すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た。顔は覆いで包まれていた。イエスは人々に、「ほどいてやって、行かせなさい」と言われた。  

 


【死は幸い?】
私たちにとって「死」とは、死ぬ事は最大の不幸、最大の災いと考えられています。
けれども、聖書には「今から後、主(イエス)に結ばれて死ぬ人(死人)は幸いである」(黙示14:13)と言われています。教会やキリスト信者の葬られた墓の墓碑に、しばしばこの御言葉が記されているのを見るのです。では、死が幸いであるとは、どういう事か。今朝は、この驚くべき福音の言葉を共に聞き取りたいと願っています。

2008年06月22日 | カテゴリー: エゼキエル書 , ヨハネによる福音書 , 新約聖書 , 旧約聖書

主イエス•キリストの権威 ウイリアム・モーア宣教師

◆汚れた霊に取りつかれた男をいやす

21:一行はカファルナウムに着いた。イエスは、安息日に会堂に入って教え始められた。 22:人々はその教えに非常に驚いた。律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。23:そのとき、この会堂に汚れた霊に取りつかれた男がいて叫んだ。24:「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」 25:イエスが、「黙れ。この人から出て行け」とお叱りになると、 26:汚れた霊はその人にけいれんを起こさせ、大声をあげて出て行った。27:人々は皆驚いて、論じ合った。「これはいったいどういうことなのだ。権威ある新しい教えだ。この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聴く。」28:イエスの評判は、たちまちガリラヤ地方の隅々にまで広まった。

 

【時は満ち、神の国は近づいた】
主イエスが御自分の地上の働きを始めたばかりの時でした。バプテスマのヨハネによって洗礼を受け、そして、荒れ野で40日間誘惑を受けましたが、悪魔に負けませんでした。それから主は弟子達を選び始め、伝道活動を開始しました。主は国を巡回して、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言うメセージを述べ伝えました。
 
【権威ある者として】
ある日、イエスは弟子と共にカファルナウムと言う町に着きました。そして、安息日にシナゴーグ、すなわちユダヤ教の会堂に入って、巡回教師としてイエスは人々を教え始められました。その聖日に与えられた聖書の朗読と主イエスのお話の内容も記されていませんが、御言葉によりますと、「人々はその教えに非常に驚いた。律法学者のようにではなく、権威ある者として教えになった」と書いてあります。イエスは権威ある者として教えましたので、人々は驚きました。そのお話の内容は重要でしたが、内容よりも、その話し方が人々にとって印象的でした。つまり、イエスは神と救いについて発言する権利があったようにお話をなさいました。やはり、主は神の独り子としてそう言う権利と資格があったからこそ、権威ある者として人々に教えることが出来ました。

2008年04月27日 | カテゴリー: マタイによる福音書 , マルコによる福音書 , ヨハネによる福音書 , 新約聖書

漁に行こう ウイリアム・モーア宣教師

ヨハネによる福音書21章1−14

◆イエス、七人の弟子に現れる

1:その後、イエスはティベリアス湖畔で、また弟子たちに御自身を現された。その次第はこうである。2:シモン・ペトロ、ディディモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナ出身のナタナエル、ゼベダイの子たち、それに、ほかの二人の弟子が 一緒にいた。3:シモン・ペトロが、「わたしは漁に行く」と言うと、彼らは、「わたしたちも一緒に行こう」と言った。彼らは出て行って、舟に乗り込んだ。しかし、その夜は何もとれなかった。4:既に夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。だが、弟子たちは、それがイエスだとは分からなかった。5:イエスが、「子たちよ、何か食べる物があるか」と言われると、彼らは、「ありません」と答えた。6:イエスは言われた。「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれ るはずだ。」そこで、網を打ってみると、魚があまり多くて、もはや網を引き上げることができなかった。7:イエスの愛しておられたあの弟子がペトロに、「主だ」と言った。シモン・ペトロは「主だ」と聞くと、裸同然だったので、上着をま とって湖に飛び込んだ。8:ほかの弟子たちは魚のかかった網を引いて、舟で戻って来た。陸から二百ペキスばかりしか離れていなかったのである。9:さて、陸に上がってみると、炭火がおこしてあった。その上に魚がのせてあり、パンもあった。10:イエスが、「今とった魚を何匹か持って来なさい」と言われた。11:シモン・ペトロが舟に乗り込んで網を陸に引き上げると、百五十三匹もの大きな魚でいっぱいであった。それほど多くとれたのに、網は破れていなかった。12:イエスは、「さあ、来て、朝の食事をしなさい」と言われた。弟子たちはだれも、「あなたはどなたですか」と問いただそうとはしなかった。主であることを知っていたからである。

13:イエスは来て、パンを取って弟子たちに与えられた。魚も同じようにされた。14:イエスが死者の中から復活した後、弟子たちに現れたのは、これでもう三度目である。


【スーザン•ボイル】
最近、ほんの一週間の間に、声楽の世界に新しいスターが生まれました。スーザン•ボイルと言う英国の小さな田舎町出身の歌手が、全世界のセンセーションになりました。先週、彼女は「アメリカン・アイドル」と言う人気テレビ番組の英国版に初めて舞台を踏みました。それは観衆を驚かせる歌唱力でした。そして、マスコミの力でスーザン•ボイルは一夜にして全世界中に知られ、話題になりました。

2008年04月19日 | カテゴリー: ヨハネによる福音書 , 新約聖書

主イエスによって永遠の命を得る ウイリアム・モーア宣教師

ヨハネによる福音書3章1−17

◆イエスとニコデモ 1:さて、ファリサイ派に属する、ニコデモという人がいた。ユダヤ人たちの議員であった。  2:ある夜、イエスのもとに来て言った。「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです。」3:イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」4:ニコデモは言った。「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」5:イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。6:肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。7:『あなたがたは新たに生まれねばならない』とあなたに言ったことに、驚いてはならない。8:風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」9:するとニコデモは、「どうして、そんなことがありえましょうか」と言った。10:イエスは答えて言われた。「あなたはイスラエルの教師でありなが     ら、こんなことが分からないのか。11:はっきり言っておく。わたしたちは知っていることを語り、見たことを証ししているのに、あなたがたはわたしたちの証しを受け入れない。 12:わたしが地上のことを話しても信じないとすれば、天上のことを話したところで、どうして信じるだろう。13:天から降って来た者、すなわち人の子のほかには、天に上った者はだれもいない。14:そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。 15:それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。16:神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。17:神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によ    って世が救われるためである。

 

【あなたがどんな人であっても救われます】
ある学者が名門の神学校の学長に選ばれ、学校のPRと紹介の為に色んな所へ巡回して挨拶をしました。ある日、都会にあるロータリークラブに招かれました。集まっていた皆を笑わせようと、面白いと思ったエピソードを語り始めました。その日、彼はロータリークラブの会場まで 地下鉄に乗って来ました。地下鉄から出るとそこには救世軍が貧しい者の為に募金をしていました。そして、クリスマス時期なので学長は献金箱にお金を少し入れました。そうすると献金箱を見ていた救世軍のボランテイアが突然、「あなたは救われていますか」と彼に聞きました。神学長がその出しゃばりを聞くとびっくりして、はっきりした返事をしませんでした。そしたら、ボランテイアさんは、「イエス・キリストを救い主として信じ、主に従っていますか」と新たに尋ねました。そう言う質問を聞かれると、彼は自分の身分をボランテイアに教えようとしました。 誇りを持っていた彼は、「本当は、私は有名な神学校の学長ですよ」と自分の地位を明かしました。きっと、その事を聞くと、しつこいボランテイアは静かになるだろうと思いましたが、またこう言われました。「そんな事は気にしないで下さい。あなたがどんな人であっても、どんな事をしても、今でも救われますよ。」

2008年04月13日 | カテゴリー: ヤコブの手紙 , ヨハネによる福音書 , 新約聖書

生きた水の流れ 河内常男伊丹教会長老

聖書 ヨハネ7:37より38 

◆生きた水の流れ

 37:祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。38:わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」

 39:イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている"霊"について言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、"霊"がまだ降っていなかったからである。

【私の信仰の歩み】
私は、33歳のときに伊丹教会へ復帰しました。復帰したというより、放蕩息子がやっとの思いで、たどり着いたという感じです。神様の哀れみです。

私の洗礼は18歳の高校生のときでした。津山の日本キリスト教団 津山城西教会という小さい教会でした。私には5つ上の姉がおり連れられて日曜学校へ行くようになったのです。

牧師先生からあなたも、洗礼を受けなさいというそのひと言で受洗しました。今思えば先生が良く薦めて下さったと感謝しています。

 

【社会人として】
でも私には信仰の本当の深い意味が判っていませんでした。高校を出て伊丹で就職し、大阪で5年、その後又伊丹のもといた工場へ戻り、15年間は教会から離れていました。

私は、大学の受験に失敗してから、これを良いことにすぐ就職しました。仕事の内容はあまり問題ではなく、津山を出て行くことが、目的のようなものでした。自分にとって津山での10年は良い思いありませんでした。

2008年03月30日 | カテゴリー: ガラテヤの信徒への手紙 , ヨハネによる福音書 , ヨハネの黙示録 , 新約聖書

わたしは主を見ました ウイリアム・モーア宣教師

ヨハネによる福音書20章1−23

◆復活する   1:週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。2:そこで、シモン・ペトロのところへ、また、イエスが愛しておられたもう一人の弟子のところへ走って行って彼らに告げた。「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません。」   3:そこで、ペトロとそのもう一人の弟子は、外に出て墓へ行った。4:二人は一緒に走ったが、もう一人の弟子の方が、ペトロより速く走って、先に墓に着いた。5:身をかがめて中をのぞくと、亜麻布が置いてあった。しかし、彼は中には入らなかった。   6:続いて、シモン・ペトロも着いた。彼は墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。7:イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所には置いてなく、離れた所に丸めてあった。8:それから、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じた。9:イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。10:それから、この弟子たちは家に帰って行った。   ◆イエス、マグダラのマリアに現れる  11:マリアは墓の外に立って泣いていた。泣きながら身をかがめて墓の中を見ると、12:イエスの遺体の置いてあった所に、白い衣を着た二人の天使が見えた。一人は頭の方に、もう一人は足の方に座っていた。13:天使たちが、「婦人よ、なぜ泣いているのか」と言うと、マリアは言った。「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」14:こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった。  15:イエスは言われた。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」マリアは、園丁だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わた     しが、あの方を引き取ります。」16:イエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ」と言った。「先生」という意味である。17:イエスは言われた。「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と。」18:マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、「わたしは主を見ました」と告げ、また、主から言われたことを伝えた。   ◆イエス、弟子たちに現れる  19:その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。  20:そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。  21:イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」22:そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。23:だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」  

 
【フィリップとイースターの宿題】
フィリップと言う小学生は普通の男の子ではありませんでした。彼は知的障害を持って、12歳なのに、知力が一年生程度でした。しかし、フィリップの両親は出来るだけ彼に普通のクラスに参加させる為、一般の小学校に行かせました。フィリップは頑張りましたけれども勉強はなかなか難しくて、他の子供達にはついていけなかったのです。春になると、先生は復活祭の事、イエス・キリストがお墓から蘇った事をクラスに教えてくれました。先生が特に強調したのは、主イエスが復活してから、そのお墓が空になった事です。そして、宿題として先生は生徒達にプラスチック卵一個ずつを渡して、このように言いました。「プラスチック卵をお家に持って帰って、復活と新しい命を示す物を探し、卵に入れ、明日学校に持って来て下さい。分かりましたか。」子供達皆は、「先生、分かりました」と熱心に答えましたが、フィリップは先生に聞かれても何も返事しませんでした。ですから、いつものようにフィリップの家へ連絡して、宿題を説明するつもりでしたが、先生は忙して忘れてしまいました。

2008年03月23日 | カテゴリー: ヨハネによる福音書 , 新約聖書

イエスにお目にかかりたい ウイリアム・モーア宣教師

ヨハネによる福音書12章20−26

【イエスにお目にかかりたいのです】
今日の御言葉によりますと過越しの祭りの為に何人かのギリシア人がエルサレムに上って来ました。その外国人はイスラエルの神を信じ、わざわざエルサレムの神殿まで来て、礼拝を捧げました。そして、都にいる間に彼らは主イエスの弟子フィリポにやって来て、願うことがありました。「お願いです。イエスにお目にかかりたいのです」と求めました。フィリポはその嬉しいお話を聞いて、直ちに弟子同士のアンデレに知らせて、その二人は主イエスの元へ行って、ギリシア人の事を伝えたのです。

 【イスラエルの王に】
弟子達は知りませんでしたが、その時、主イエスの受難が近付いて来ました。数日の内にイエスはユダヤ人の当局によって逮捕され、十字架で処刑されてしまいます。イエスはその事をよく御存知ましたが、弟子達にはさっぱり分かりませんでした。実は、主がエルサレムに入った時、都の大勢の住民が向かえに来て、イエスの為に熱烈な歓迎をしました。国王を迎えるように、人々はなつめやしの枝を道にひいて、ロバに乗っていたイエスを都に案内しました。更に、群衆はこのように叫び続けました。

「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように、イスラエルの王に。」


(ヨハネ12:12−13)

2008年02月17日 | カテゴリー: マタイによる福音書 , ヨハネによる福音書 , 新約聖書

私達の金の子牛は何か ウイリアム・モーア宣教師

聖書 出エジプト記32:1−14
 
【出エジプトと十戒】
今日与えられた御言葉は旧約聖書の劇的な出来事の中でも、非常に印象的であります。もしデミル監督の有名な映画、「十戒」を見られたら、今日の個所を描写する場面をよく覚えていると思います。
 
【モーセとアロン】
イスラエルの民族が全能の神の奇跡的力によってエジプトの奴隷の家から導き出された時です。エジプトから約束された地カナンまで旅中の事件ですが、彼等のリーダー・モーセは神から十戒を含んだ律法を頂く為、独りでシナイ山に登りました。その帰りが遅いと思った人々はモーセの兄弟また助手であるアロンに行って、このように願いました。「さあ、我々に先立って進む神々を造って下さい。エジプトの国から我々を導き上った人、あのモーセがどうなってしまったのか、分からないからです。」
 
【金の子牛】
そして、不思議に思うのですが、アロンはその願いに応じて、皆が寄付した金の耳輪で、拝む為に子牛の鋳像(ちゅうぞう)を造りました。そしてその偶像を見ると人々はこのように言いました。「イスラエルよ、これこそあなたをエジプトの国から導き上ったあなたの神々だ。」
 
【モーセの怒り】
すると、アロンは祭壇を作り、翌日に行うお祭りを宣言しました。人々は金の子牛を拝んで、飲み食いし、わいわいしました。モーセは山から下り、その光景を見ると大変怒りました。救い主である本当の生ける神の戒めをすぐ忘れ、偶像を造って拝むと言うのは信じられませんでした。モーセは子牛の像を取り、粉々に砕いて、水の上にまきちらし、罰として人々にそれを飲ませました。

2008年02月03日 | カテゴリー: マタイによる福音書 , ヨハネによる福音書 , 出エジプト記 , 新約聖書 , 旧約聖書

驚くべき恵み ウイリアム・モーア宣教師

ルカによる福音書2章1−20節
 
【日本でもクリスマス?】
毎年、クリスマスが近づくとアメリカの教会の人々からこのような手紙をよく頂きます。「日本のクリスマスはどうですか。そちらはキリスト者があまりいないと聞くので、大変寂しいでしょう。わたしの町はクリスマスの為にとても明るくなりましたが、日本はそうではないでしょう。辛く、寂しいけれども頑張って下さい。」
 
返事として私はこのように書きます。「多くの日本人はクリスマスを一生懸命に祝って下さいますので私達の事は心配しないで下さい。ここでは、十一月上旬からクリスマスの宣伝が始まります。どこでもサンタクロースとクリスマスツリーの姿が見えるし、店のスピーカではクリスマスキャロルもアメリカに負けない程よく聞こえます。クリスマスパーテイーも流行っていますし、クリスマスプレゼントを買う為に人々はデパートへ押し寄せます。その上、日本では我々アメリカ人にないクリスマスの伝統も結構あります。ここは12月24日にケンタキー•フライド•チキンとクリスマスケーキを食べます。また、青年達はクリスマスイブに特別なデートをします。私達の事を考えて下さって大変有りがたいのですが、日本人はクリスマスが大好きですので、私達の事は心配しなくてもよいのです。」
 
今年も、日本とアメリカだけではなく、全世界の多くの人々はクリスマスを祝っています。アフリカでは太鼓の音と激しいダンスでクリスマスの喜びを表しています。ヨーロッパでは色々な昔からのクリスマス伝統が守られています。南米では教会はクリスマスの為に満員になります。そして、パレスチナでは人々は主イエス・キリストがお生まれになった町ベツレヘムへ集まって礼拝を行います。本当にクリスマスは全世界の人々のものになり、一番良く守られた祭日ではないかと思います。

2007年12月23日 | カテゴリー: イザヤ書 , ヨハネによる福音書 , ルカによる福音書 , 新約聖書 , 旧約聖書

占星術の学者達から学ぶ事 ウイリアム・モーア宣教師

聖書:マタイによる福音書2章1−12節
 
【東方から来た占星術学者】
今日の御言葉に於ける占星術学者達の物語は神秘に包まれています。と言うのは、その人物の事についてあんまり知られていません。聖書には彼等の 国と人数、また名前さえも載ってありません。ただ、「占星術の学者達が東の方からエルサレムに来た」と記されています。ですから、長年にわたってその学者達について伝統が結構生じて来ました。例えば、彼等は主イエスに黄金(おうごん)、乳香(にゅうこう)、モツ薬の三つのお贈り物を献げたので、恐らく学者達三人で来たと思われますが、聖書を注意深く読んで見ると、それは確かな事ではありません。また、国はペルシア、つまり現代のイランと言う伝統がありますが、聖書にはただ、彼等は「東の方から」来たと書いてあります。ですから彼等はバビロニアかアラビアから来た可能性もあります。伝統によりますと学者達の名前はガスパルと、メルチオルと、バルテャザルですが、実際にその名前も不明です。さらに彼等はラクダに乗って来たと言う固定的なイメージがありますけれども、それも憶測に過ぎません。
 
【占星術の学者とは】
「占星術の学者」と日本語に訳されたギリシャ語の原語は「マゴイ」です。マゴイはその時代の学問が一番優れた人物でした。色んな課目を学んだ彼等は、当時の学者、あるいは博士でした。彼等の優れた学問の故、中東の諸国でマゴイは国王の顧問になり、地位のとても高い者でした。そして、彼等が学んだ課目の中で天文学と占星術が重要でした。星と惑星の位置と運行によって人や国家の運命が分かると信じた彼等は常に夜の空を研究しました。

2007年12月16日 | カテゴリー: サムエル記下 , ヘブライ人への手紙 , マタイによる福音書 , ヨハネによる福音書 , ローマの信徒への手紙 , 創世記 , 新約聖書 , 旧約聖書

インマヌエル-神は我々と共におられる ウイリアム・モーア宣教師

マタイによる福音書1章18−25
 
【主イエスの呼称】
聖書には主イエスが数多くのお名前で呼ばれています。例えば、平和の君、キリスト、救い主、世の光、ユダヤ人の王、神なる言(ことば)、油注がれた者、アルファでありオメガである。それぞれの素晴らしいお名前は私達に主の役割と重要性と存在を豊かに教えます。つまり、そのお名前を通して私達は主イエスがどう言うお方であるかを悟るのです。
 
今、アドベントを守っている私達には主イエスの多くの名前の中でもっとも意味深いものが一つがあります。そのお名前は先程読ませて頂いた個所に載ってあります。マタイによる福音書1章22と23を見ますと、こう書いてあります。

「このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。『見よ、おとめが身ごもって男の子を生む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』この名は、『神は我々と共におられる』と言う意味である。」

 
【インマヌエル】
インマヌエル、すなわち、神は我々と共におられる。実は、神の独り子イエス・キリストが人間の赤ちゃんになり、この世に誕生されました。天国の全ての特権と栄光を捨てて、我々と共におられる為、又、私達を罪から救って下さる為、この世に生まれました。しかも、神の御子は貴族や大金持ちなどの家庭に誕生されませんでした。却って、普通の大工と許嫁(いいなずけ)になっている若い娘に生まれました。そして、宿がなかったので、主の生まれた所は馬小屋で、ベッドは飼い葉桶でした。御自分の救いは全人類の為であるので、人間としてこの世に入った時、主イエスが自分を非常に低くして我々と共におられました。

2007年12月09日 | カテゴリー: イザヤ書 , マタイによる福音書 , ヨハネによる福音書 , 新約聖書 , 旧約聖書

真の自由 ウイリアム・モーア宣教師

聖書:ヨハネによる福音書8章31−38
 
 
【ウオレス将軍】
「パッション」と言う映画で有名になったメル•ギブソン監督は1995年に「ブレイブハート」と言う他の映画でスコットランド人のウオレス将軍の役を務めました。その映画はウオレス将軍が無残なイギリスから自分の国スコットランドの自由を回復しようとするストーリです。ウオレス将軍は立派にイギリス軍と戦って多くの勝利を得ましたが、最後に彼は友人によって裏切られ、イギリスの王に渡されてしまいました。そして、イギリスの王はウオレス将軍を処刑するつもりでした。しかし、処刑する前にイギリスの王はウオレス将軍に恥をかかせる為、慈悲を乞わせようとしました。ウオレス将軍はあざける群衆の前に連れ出され、唾を吐かれたり、物を投げられたりしました。それから、死刑執行人は拷問をかけ始め、ウオレス将軍に言いました。「もし、慈悲を乞うなら、死刑を速く進めよう、しなかったら、もっと酷い拷問をかける」と脅しました。また、ウオレス将軍の声が聞こえるように、執行人は群衆を黙らせました。しかし、将軍は恥をかきませんでした。むしろ、残った力を全部奮(ふる)い起こして、大きい声で「自由」と叫びました。
 
【自由】
「自由。」その言葉は力強いです。自由の為に多くの人々は自分の命を犠牲にしました。又、自由の為に敵を殺す事も少なくありませんでした。歴史が始まった以来、自由の為に数え切れない程の戦争が起りました。又、現在も自由はいたるところで重んじられています。自分の自由を束縛されたいと思う人は珍しい事でしょう。

2007年08月19日 | カテゴリー: イザヤ書 , エフェソの信徒への手紙 , マタイによる福音書 , ヨハネによる福音書 , 新約聖書 , 旧約聖書

わたしの父の家には ウイリアム・モーア宣教師

聖書:ヨハネによる福音書14章1−3
 
 
【モリソン宣教師夫妻】
略100年前の事ですが、モリソンと言う宣教師御夫妻は長年のアフリカでの奉仕後、定年を迎えアメリカのニューヨークに帰る事になりました。二人の健康は衰え、年金もなかったので、モリソン御夫妻は色んな心配がありました。偶然の事ですが、彼等はアメリカの大統領セオドア•ルースヴェルトと一緒に同じ客船に乗りました。探険旅行帰りの大統領は一等スウィートルームに泊まりましたが、モリソン夫妻は薄暗い三等船室でした。大統領とその仲間はVIP待遇を受けていましたけれども、誰も宣教師達に留意しませんでした。
 
まだ航海中に、先生は奥さんにこう呟きました。「これは大変不公平ですよ。我々はアフリカで辛苦に耐えながら一生を捧げましたのに、誰一人私達の事を覚えてくれる人はいませんね。しかし、大統領はただヴァカンスから帰りだけなのに、皆は大騒ぎではありませんか。」
 
客船がニューヨックに着いた時、ブラスバンドが大統領を歓迎して、大勢の高位高官にある人々は出迎えに来ました。新聞も大統領の帰りを大きく取り扱いました。その反面、誰一人宣教師の帰りを気づく人はいませんでした。その二人はただカバンを持って船から降りて安いアパートを捜し回りました。それから、生活をする為に、仕事を捜そうとしたのです。

2007年08月12日 | カテゴリー: コリントの信徒への手紙一 , フィリピの信徒への手紙 , ヘブライ人への手紙 , マタイによる福音書 , ヨハネによる福音書 , ヨハネの手紙一 , ヨハネの黙示録 , 新約聖書

霊の結ぶ実:平和 ウイリアム・モーア宣教師

ヨハネによる福音書14章15−27

◆聖霊を与える約束  15:「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。  16:わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあ     なたがたと一緒にいるようにしてくださる。17:この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。18:わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。19:しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。  20:かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる。21:わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す。」  22:イスカリオテでない方のユダが、「主よ、わたしたちには御自分を現そうとなさるのに、世にはそうなさらないのは、なぜでしょうか」と言った。 23:イエスはこう答えて言われた。「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。24:わたしを愛さない者は、わたしの言葉を守らない。あなたがたが聞いている言葉はわたしのものではなく、わたしをお遣わしになった父のものである。25:わたしは、あなたがたといたときに、これらのことを話した。26:しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。27:わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。

ガラテヤの信徒への手紙5章22−23

「霊の結ぶ実は愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です」。  


【シカゴ大火とスパーフォドさん】
アメリカのシカゴ大火は1871年に起こりました。その火事はシカゴの中心商業地区を全焼して、死者は300人、住む家を無くした者は十万人でした。シカゴ大火の一人の英雄は弁護士で実業家であるホレイショー•スパーフォドさんでした。彼は敬虔なキリスト者で讃美歌の歌詞も書く人でした。実は、スパーフォドさんは大火で多くの物件を失いました。その上、大火の年に幼い独り息子を病気で失くしました。それにも関わらず、彼は大火の犠牲者の為に色んな救援活動に参加しました。財産が結構無くしたのに彼は残った物を惜しまずに苦しんでいる住民の回復の為、寄付したのです。特にスパーフォドさんは家と肉親を亡くした人を慰めて、助けて下さいました。

2007年05月27日 | カテゴリー: マタイによる福音書 , ヨハネによる福音書 , 新約聖書

霊の結ぶ実:喜び ウイリアム・モーア宣教師

ヨハネによる福音書15章1−12

◆イエスはまことのぶどうの木

  1:「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。2:わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。3:わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。4:わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながってい    る。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。5:わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。6:わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。7:あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。8:あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。  9:父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。10:わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることに    なる。11:これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。12:わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。


 

ガラテヤの信徒への手紙5章22−23

「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です」



【イエス・キリストに似るために】
今日、先々週から始まった「霊の結ぶ実」の学びを続けたいと思います。キリスト者になると、神の霊は私達に宿って下さいます。そして、霊の導きに従って歩むと言うのは、すなわち私達の内に霊の働きを許す事です。そして、私達キリスト者は「霊の結ぶ実」を現します。そのものは先程読まして頂いたガラテヤの信徒への手紙5章22−23に記されています。「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です」と書いてあります。毎日の生活にその実を現すと、私達はイエス・キリストに似て行って、キリスト者として相応しく生きられます。この霊の結ぶ実の学びを通して私達の内にいらっしゃる聖霊の全ての働きを許し、その霊の実をよりもっと豊かに結ぶ事が出来ます。

2007年05月20日 | カテゴリー: ガラテヤの信徒への手紙 , ヨハネによる福音書 , ローマの信徒への手紙 , 新約聖書

霊の結ぶ実:愛 ウイリアム・モーア宣教師

聖書:ガラテヤの信徒への手紙5章16−25

【霊の実と肉の業】  16:わたしが言いたいのは、こういうことです。霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。  17:肉の望むところは、霊に反し、霊の望むところは、肉に反するからです。肉と霊とが対立し合っているので、あなたがたは、自分のしたいと思うことができないのです。  18:しかし、霊に導かれているなら、あなたがたは、律法の下にはいません。  19:肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、20:偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、21:ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。以前言っておいたように、ここでも前もって言いますが、このようなことを行う者は、神の国を受け継ぐことはできません。  22:これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、23:柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。  24:キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。25:わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう。26:うぬぼれて、互いに挑み合ったり、ねたみ合ったりするのはやめましょう。

 
【キリスト者とは?】
皆さん、「キリスト者であると言うのは、どんな事ですか」と聞かれると、どう答えられますか。その事について考えた事がありますか。多分色んな正しい答え方があるのですが、やはり一番大事なのは、キリスト者はイエス・キリストを唯一の救い主として信じ、頼ります。そして、更にキリスト者は毎日の生活にイエス・キリストに従って生きようとする者なのです。つまり、私達は主イエスを模範として生きたい。又、主イエスに似て行く熱望を持っています。

2007年05月06日 | カテゴリー: エフェソの信徒への手紙 , ガラテヤの信徒への手紙 , コリントの信徒への手紙一 , コロサイの信徒への手紙 , ヨハネによる福音書 , ヨハネの手紙一 , ルカによる福音書 , 新約聖書

神の世の管理者なる私たち ウイリアム・モーア宣教師

創世記1章26−31節26:

神は言われた。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」 27:神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。28:神は彼らを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。」 29:神は言われた。「見よ、全地に生える、種を持つ草と種を持つ実をつける木を、すべてあなたたちに与えよう。それがあなたたちの食べ物となる。30:地の獣、空の鳥、地を這うものなど、すべて命あるものにはあらゆる青草を食べさせよう。」そのようになった。31:神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。夕べがあり、朝があった。第六の日である。

 
【環境破壊の原因】
最近、 マスメデイアのお陰で私達は世界の環境問題について益々承知されるようになりました。殆ど毎日、ニュースで環境についての新しい情報を見る事が出来ます。そして、言うまでもなく、その情報はあんまり喜ばしくはありません。地球の温暖化が進んで来て、色んな害を起してしまいます。絶滅した動物と植物の種類がだんだん増えて、ある被造物は完全に消えてしまいました。平均して毎日、三つの種類がこの世から去ってしまうんだそうです。大都市で大気汚染は酷くなり住民の健康を害します。ゴミは海に入り、その大量が南太平洋の島の砂浜に流れ着きます。更に、多くの国に淡水の量が足りなくて、農業生産が脅(おびや)かされるどころか、きれいな飲む水も乏しいです。また他に環境問題が沢山ありますが、殆ど全は共通点があります。それは、その問題は全て人間の行動で起こりました。私達の行動と生き方の故に大気と海が汚れて来て、また多くの動物が絶滅しました。つまり、私達人間の為で今、地球はその深刻な問題に直面しています。証拠を客観的に見ると、明白に私達人間には責任があります。

2007年04月22日 | カテゴリー: ヨハネによる福音書 , 創世記 , 新約聖書 , 旧約聖書

復活の約束 ウイリアム・モーア宣教師

マタイによる福音書28章1−10
 
【守られない選挙公約】
皆さんも十分お気付きと思いますが、私達は選挙シーズンに入りました。何所へ行っても宣伝車が走り回り、政治家、あるいは政治家になりたい者は車のスピーカで国民にアピールをしています。また、駅前でも、昨日のような雨でも、政治家は選挙運動に励んでいます。他の時は分かりませんが、選挙のシーズンの政治家は大変だと思います。一票でも取る為に必死の努力をしているようです。朝早くから夜遅くまであちこちへ行って住民に顔を売っています。彼らはスピーカで色んな事を叫びますが、そのお話の中で約束事が多いようです。たとえば、「私が国家議員になったら、日本は美しい国になる。」「明るい政治の為に私を選出して下さい。」「我が党は安定した生活を保証します。」何所の国でも同じ事だと思いますが、選挙に勝つ為に、政治家は国民に約束する事が多いのです。しかし、多くの場合、約束を果たすのは全く別の事になります。政治家は約束する時、恐らく皆は心からその約束を守りたいですが、色々な理由で誓った事を実現出来ません。政治的力が足りないか、約束した事は実際的でなかったりします。あるいは、事情があって止むなく約束した事を実現出来ない。また、政治家は選挙に勝つと、選挙の時、約束した事をすっかり忘れる場合もあるかも知れません。とにかく、色々な理由で政治家の言う事を割引して聞いた方が良いと思います。

2007年04月08日 | カテゴリー: イザヤ書 , エレミヤ書 , マタイによる福音書 , ヨハネによる福音書 , 創世記 , 新約聖書 , 旧約聖書

キリスト者の為のチェックリスト:その2 ウイリアム・モーア宣教師

ローマの信徒への手紙12:9−13

【天国に入るには】
ある人が亡くなって天国の門に着きました。そうすると、主イエスの弟子ペトロは彼を迎えに来てこう言いました。「天国に入るには一千点が必要です。あなたは何点をお持ちでしょうか。」そして、その人は、「何点を持っているかと聞かれると、困りますよ。溜まった点数の合計はさっぱり知りません。」「それでは、あなたの生涯を調べて見ましょう」とペテロが返事しました。「あなたが実行した全ての善い行いを教えて下さい。私が点数を計算します。」そうすると、その人は一生懸命に自分が行なった善い行動を思い出し、全てをペテロに語り始めました。小さい親切から大きい善行まで一つ一つを数え上げました。彼がやっと終わった時、ペテロはその点数を計算して、全部で百点しかないと知らせました。天国に入る為に一千点が必要なのに、ただの百点しか持っていないその人は大変がっかりしてしまいました。彼は、「やっぱりとても無理ですね。一生頑張ったのに、百点しか溜まらなかった」とペトロに言いました。「神の恵みでなければ決してこの所には入れないですね」と彼は呟きました。その事を彼の口から聞いたペテロは大変喜んで、こう言いました。「実は、神の恵みは九百点の価値がある。どうぞ、入って下さい。」
 
【神の恵みのみ】
我々キリスト者は神の恵みのみで救われ、神の恵みのみに頼ります。罪人である私達はいくら頑張っても私達の救いを勝ち得る事が出来ません。イエス・キリストを信じる事によって神の賜物、御自分の救いを自由に受けられます。使徒パウロが書いた通りに、

「私達は信仰によって義とされたのだから、私達の主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。」


(ローマの信徒への手紙5:1−2)

2007年02月18日 | カテゴリー: エフェソの信徒への手紙 , ヤコブの手紙 , ヨハネによる福音書 , ローマの信徒への手紙 , 新約聖書

眠りから覚める時が来た ウイリアム・モーア宣教師

聖書:ローマの信徒への手紙13章11−14
 
【アメリカ滞在中の出会い】
今年の秋、アメリカの教会訪問中、色々な兄弟姉妹と会って、様々な素晴らしい恵みを受けました。沢山の信徒達の家に泊まり、主にあって貴重な交わりを持つ事が出来ました。その交わりの中、特に一つの出会いは印象深かったのです。それは今日から丁度二週間前の時でした。家内と私はサポートをして下さるノースカロライナ州にあるモントリート教会の主の日の礼拝を守りました。礼拝後、私達のすぐ後ろの席に座った三十代後半の男性が話をかけて来て挨拶を交わし、彼は私達に話を始めました。彼はその町の大学の教授で、音楽を教えているそうです。教授は二年前から、毎日頭痛があって、ついにあまりに酷くなった為、病院へ行って診察を受けました。そして、その結果は最悪でした。脳に悪性腫瘍が見付かり、手術をすぐ受けなければならないと、命が長くないと言われてしまいました。その上、手術が難しいので、受けても結果は全然保証されていないとまた言われました。話が出来なくなったり、麻痺になったり、さらに手術室で死んだりする事もあると告知されました。教授は若い家族があって、危なくても一つしかない希望の道、手術を選びました。

2006年12月03日 | カテゴリー: ヨハネによる福音書 , ヨハネの手紙一 , ローマの信徒への手紙 , 新約聖書

神の信実・神への忠信 ―ダビデ王とその家臣― 市川康則牧師/神戸改革派神学校教授

(歴代誌上11章15‐19)

序.
 歴代誌上11章15‐19は、ダビデとその家臣が共々に、またそれぞれに、神に対して忠義であり、真に献身したことを伺わせる一つのエピソードを記しています。この箇所の並行記事がサムエル記下23章13‐17にありますが、そこでは、三勇士の武勲は、ダビデの生涯と事績を記す一連の物語の終わりのほうに位置しています。今朝の箇所では対照的に、ダビデがサウルに代わって登場してくるのを書き始める部分―長いダビデ物語の初めのほう―に位置しています。
 
神の民、イスラエル王国の要とも言うべきダビデ王朝の勃興・形成の物語の最初期から、ダビデ自身の事績のみならず、彼の忠義な家臣団が―各自の名前が連ねられて―述べられていることは意義深いことです。イスラエル王国の基礎固めがなされ、それを通して主なる神の主権的支配が着実に進んで行く背景には、ダビデだけなく―ダビデ一人ではどうにもなりません!―彼が自らの王の任務を遂行することができるように、彼に仕えた多くのイスラエルの家臣がいたことが、読者には初めから印象付けられます。神はご自身の御業の遂行のために、ダビデの忠実な家来をも(ダビデと共に)用いられたのです。

2006年11月26日 | カテゴリー: コリントの信徒への手紙二 , サムエル記下 , ヨハネによる福音書 , ルカによる福音書 , 創世記 , 新約聖書 , 旧約聖書 , 歴代誌上

「義に飢え渇く人々は幸いである」 田村英典牧師/淀川キリスト教病院伝道部長

マタイ5章6節
「義に飢え渇く人々は幸いである。その人たちは満たされる。」

 
マタイ5章初めの幸福の教えを続けて学んでいます。今日は4番目の6節に進みます。イエスは言われました。「義に飢え渇く人々は幸いである。」
 
【義に飢え渇く】
私は20歳の時、初めて聖書のここを読みました。正直なところ、良く分りませんでした。

「義」


とは何か。

「義に飢え渇く人々」


とは強い表現だが、どういう人のことなのか。こういう疑問を抱いたことを今も覚えています。
 

2006年10月17日 | カテゴリー: コリントの信徒への手紙一 , フィリピの信徒への手紙 , マタイによる福音書 , ヨハネによる福音書 , ルカによる福音書 , 使徒言行録 , 新約聖書 , 旧約聖書 , 詩篇

「さらに愛し合う教会」 グラハム・スミスKGK主事/CMS宣教師

詩編133篇1--3

1:【都に上る歌。ダビデの詩。】見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び。

2:かぐわしい油が頭に注がれ、ひげに滴り/衣の襟に垂れるアロンのひげに滴り

3:ヘルモンにおく露のように/シオンの山々に滴り落ちる。シオンで、主は布告された/祝福と、とこしえの命を。

テサロニケの信徒への手紙一4章9--10

【1.愛がないと。】

(スキット:持ち物をめぐる争い)

先のふたりの間の会話と行動を見てどう感じましたか。びっくりしたでしょう。恥ずかしかったでしょう。気持ちがわるかったでしょう。

これはスキットに過ぎませんでしたが、残念ながら、日常生活ではこのようなことが繰り返して起こっています。家庭とか会社とか学校の中で似ている問題が起こっています。我が家では下の二人の子供の間では、本当につまらないことで争いがしばしば起こっています。「兄弟喧嘩」と呼ばれていますね。大人は子供よりコントロールができますから目立つ程の喧嘩にならない場合が多いですが、心のレベルでの戦いは態度や言葉使いなどによって起こります。

先のスキットのように、心の感情が外に出ると大変な経験になります。喧嘩の姿がばれるといやな気持ちがしますね。

教会のなかでも愛がないと本当に辛いです。メンバーに傷つけられたり、外への証のつまずきになります。そうならないようにパウロの言葉に聞きましょう。パウロは兄弟愛について語っています。

2006年10月01日 | カテゴリー: エフェソの信徒への手紙 , ガラテヤの信徒への手紙 , コリントの信徒への手紙一 , テサロニケの信徒への手紙一 , テトスへの手紙 , マルコによる福音書 , ヨハネによる福音書 , ヨハネの手紙一 , ルカによる福音書 , ローマの信徒への手紙 , 新約聖書 , 旧約聖書 , 詩篇

「悲しむ人々は幸いである」 田村英典牧師/淀川キリスト教病院伝道部長

聖書:マタイ5章4節「悲しむ人々は幸いである。その人たちは慰められる。」

【悲しむ人々は幸いである】
今朝は、イエスの語られた山上の説教の冒頭の「幸福の教え」の二つ目に進みます。4節「悲しむ人々は幸いである。その人たちは慰められる。」

ここですぐ疑問が湧いてきます。「ちょっと待ってほしい。悲しみは不幸以外の何ものでもないではないか。何故こんなことが言えるのか。」恐らく誰もがこういう疑問を抱くと思います。

「悲しむ人々は幸い。」この逆説はどういうことでしょうか。イエスはどういう意味でこう言われるのでしょうか。

最初に一つのことを確認しておきます。イエスは悲しむ人の誰もがこうだと言われるのではありません。前回も申し上げましたが、ここの教えは皆、イエスを神の御子、また私たち人間を罪と永遠の滅びから救うことのできる、ただ一人の救い主と心から信じる真の信仰者、真のクリスチャンの幸いな特徴、特質を八つの角度から描いたものです。これはクリスチャンでない人たちを締め出すというのではありません。ただ、真のクリスチャンとはどういう人で、どういうことが真に幸いか、ということです。

次のような誤解もあります。これは世間にしばしば見られ、クリスチャンですら時に誤解しているものです。つまり、クリスチャンはいつも笑顔で明るいというものです。成程、教会へ行くと皆明るい。笑顔で挨拶し、爽やかな印象を与えます。「私はクリスチャンだから、人につまずきを与える苦しそうな暗い顔をしてはいけない。明るくなくては」と思って努力する人もいます。中には、常に明るいことを自分のトレードマークとし、他のクリスチャンにもそれを要求する人もいます。これでは、クリスチャンは悩んではならず、悲しむことはキリスト教信仰と相容れないみたいです。

2006年09月17日 | カテゴリー: コヘレトの言葉 , コリントの信徒への手紙一 , マタイによる福音書 , ヨハネによる福音書 , ローマの信徒への手紙 , 新約聖書 , 旧約聖書 , 詩篇

神の手にいる ウイリアム・モーア

ヨハネによる福音書10章22−30節

【羊】
バイブル・クイズではないんですが、聖書の中でどんな動物が一番多く言及されていますか。牛ですか。ラクダですか。馬ですか。それともウサギですか。そうですね。その動物も聖書に載ってあるんですが、ある動物は遥かにもっと出て来ます。実は、今日の聖書の朗読は質問の手掛かりになります。やはり、聖書には全ての動物の中で、羊は一番多く言及され、羊という単語は500回以上の所に載ってあります。

羊はなぜ聖書にそんなによく出て来るものなのでしょうか。それは、聖書の時代のパレスチナの人々には日常生活を通してもっとも必要とする大事な動物であったからです。例えば、その毛で布を織って着物を作りました。その乳を飲み、何よりもその肉はおもな食肉となりました。そして、その皮までも色々なところで物を作るのに使われました。ですから、羊はお金のような物になって、何かを買う時、羊で払う事が出来ました。更に、人々は神殿で生け贄をする時、羊を捧げました。社会に羊はなくてはならないものでしたが、また何処にでもいる家畜でもありました。それで皆は羊の事がよく分かりました。誰でも羊の性格と特徴までも詳しく知っていました。ですから、聖書は羊と羊飼いをシンボルとして何回も、何回も用いています。

【主は羊飼い】
旧約聖書の詩編23編にはこの有名な御言葉があります。

「主は羊飼い、私には何も欠ける事がない。主は私を青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに伴い、魂を生き返らせて下さる。」

そして、預言者エレミヤを通して神はイスラエルの人々にこのように約束しました。

エレミヤ書23章3−4節「この私が、群れの残った羊を、追いやったあらゆる国々から集め、もとの牧場に帰らせる。群れは子を産み、数を増やす。彼らを牧する牧者を私は立てる。群れはもはや恐れる事も、おびえる事もなく、また迷い出る事もないと主は言われる。」

イザヤ書40章11節にこの御言葉があります。

「主は羊飼いとして群れを養い、御腕をもって集め、子羊をふところに抱き、その母を導いて行かれる。」

このように、聖書には羊飼いを愛する神のシンボルに、そして、羊は神の民、私達を表します。

2006年07月16日 | カテゴリー: エレミヤ書 , マルコによる福音書 , ヨハネによる福音書 , 新約聖書 , 旧約聖書 , 詩篇

テントから永遠の家へ ウイリアム・モーア

コリントの信徒への手紙二5章1−10

【避暑地の出来事】
私は韓国で大きくなる間、毎年の事ですが夏になると家族そろって、韓国の南にあるチリ山と言う山で休暇を過ごしました。その高い山の天辺に憩いの場として宣教師達がその所を開拓し、夏の蒸し暑さを逃げて、静かな所で休む事が出来ました。車の道がなかったので、上まで登るのは四、五時間程かかりました。電気や電話やお店なども全くありませんでしたが、特に私達子供はそこで素晴らしい日々を過ごしました。友達と一緒に山歩きとテニスと遊泳でのんびり休みを楽しむ事が出来ました。子供の頃の思い出の中で、その山での思い出は一番心に残っています。実は、今も大人になっても私は山に憧れ、たまに登ります。

【台風でテントは壊された】
山の思い出はとても良いんですが、一つだけとても怖い思い出があります。それは五歳の頃です。その時わたしたち家族には山小屋がまだなかった為、テントを張って夏を過ごしました。それはこの部屋の大きさぐらいの軍用テントでした。朝鮮戦争の残り物で、お父さんが市場で購入したと思います。小さい子供であった私にはその大きなテントで暮らすのは大変面白かったです。しかし、ある夜、台風が来ました。始めは雨が激しく降りましたけれどもテントの中は安心でした。しかし、やがて風が吹き始めました。そして、風は段々強くなると共にその音がひどくなりました。更に、テントがひどく揺れだしました。すると、テントを支えている真ん中の木の柱が曲がって来て、壊れる恐れがありました。お父さんとお母さんが側にいましたので、僕はその時までもあんまり心配しませんでしたが、お父さんが急に、「避難しなくちゃ。早く逃げよう」と叫ぶと、ちょっと不安になりました。そして、五人の家族はその酷い台風の風と雨の中で200メートル離れた友人の小屋へ何とか進んで、やっと無事に着きました。その恐怖は今もよく覚えています。

寝る事も出来なかったけれども、その晩は友人の小屋で過ごし、朝早く台風が過ぎてから、早速家のテントを見に行きました。テントはもちろんその中にある物もメチャクチャになり、被害が少なくありませんでした。避難しなかったら、多分怪我をしたかも知れません。お母さんがぺちゃんこになったテントを見て、お父さんに、「小屋を作ってくれないうちは、この山に戻りません」と言いました。そして、次の夏、その台風の御陰で家の家族は丈夫な山小屋で夏を過ごす事が出来ました。

【テント生活の限界】
今日の聖書の箇所に使徒パウロは私達のこの世での存在をテントに暮らすような存在と比べました。実は、パウロは伝道をしながらテントの職人として食べて行きました。彼は優れたテントを作ったと思いますが、テントの基本的な限界がよく分かりました。今日の朗読、コリントの信徒への手紙二5章1節からもう一度お読み致します。

「私達の地上の住みかである幕屋が滅びても、神によって建物が備えられている事を、私達は知っています。人の手で造られたものではない天にある永遠の住みかです。私達は、天から与えられる住みかを上に着たいと切に願って、この地上の幕屋にあって苦しみもだえています。それを脱いても、私達は裸のままではおりません。この幕屋に住む私達は重荷を負ってうめいておりますが、それは、地上の住みかを脱ぎ捨てたいからではありません。死ぬはずのものが命に飲み込まれてしまう為に、天から与えられる住みかを上に着たいからです。」

2006年07月09日 | カテゴリー: コリントの信徒への手紙二 , ヨハネによる福音書 , 新約聖書

イエス・キリストは現在私の為に何を なさっていますか ウイリアム・モーア

フィリピの信徒への手紙2章18b−26節

【リストラされたあるサラリーマン】
あるサラリーマンが30年間忠実に会社の為に働きました。しかし、ある日突然リストラされてしまったのです。職場を失われた彼は年金を貰うにはまだ若いのであちこちへ行って新しい仕事を探しました。しかし、いくら探しても雇ってくれる人がいませんでした。そして、時間が経つとともに彼が貰った退職金が乏しくなり、生活が苦しくなりかけました。何かをしなければならないと思った彼は自分の甥の事を思い出しました。20年間、甥に会ってないですけれども、甥は実業家として成功し、結構盛んな会社を経営していました。仕方なく、彼はプライドを捨てて、働き口を得る為に甥を訪ねて行きました。しかし、頼むとこのように冷たくに言われました。「伯父さん、残念ながら、今は新社員を募集していません。」

そう言う事を聞くと彼はちょっと必死になって、 「肉親だから助けてくれ。あなたが五歳の時、私は魚釣りに連れてやったんじゃないか。覚えてるでしょう」と言いました。甥はそれを聞いてこのように返事しました。「そうですね、その事を覚えてますよ。御陰さまで今も魚釣りが好きです。実は、明日息子を連れて釣りに行く予定です。」

それを聞いて伯父さんは勇気づけられ、また言いました。「あなたは高校の野球をした時、私はいつも試合に行って応援したよね。覚えてるかい。」すると、「ええ、もちろんその事を覚えてますよ。伯父さんがいるからこそ励まされました」と甥が言いました。

そして、伯父は更に言いました。「大学の時、家の車をよく貸してやっただろう。夏休みに私の車で仲間と一緒に海に遊びにいったんじゃないか。」すると、「そうですね、伯父さんは本当に優しかったです」と甥が答えました。

話がうまく進むと思って、伯父は続けて言いました。「結婚した時、あなたがお金に困っていたので私は新婚旅行をプレゼントをした事も覚えてるわよね。一生のお願いだから、私をどうか助けてくれ。」

甥は少し考えこむように頭をうなずきながらこう言い始めました。「伯父さん、昔あなたがした事をもちろんよく覚えています。伯父さんは本当に気前の良い人でした。しかし、今になってちょっと問題があります。それは伯父さんは最近私の為にいったい何をしてくれましたか」と甥が平然と聞きました。

2006年07月02日 | カテゴリー: フィリピの信徒への手紙 , ヨハネによる福音書 , ローマの信徒への手紙 , 新約聖書

自尊心はどこから来ますか ウイリアム・モーア

聖書:エレミヤ書1章4-10

【確かな希望】
先週の説教に私達は希望の重要性を一緒に学びました。確かな生き生きとした希望があれば、私達はどんな事があっても絶望せず、積極的に、力強く生きられます。さらにその希望が全能の唯一の神の約束と愛に基づいているのであれば、私達はその希望に徹底的に委ねる事が出来るのです。神の御子イエス・キリストが提供して下さる永遠の救いを受け入れると、私達の生涯は大きな意味と素晴しい目的地を得て、神の賜物、真の希望を豊に経験します。常に変わりつつある周りの環境から来る希望と違って、神が授けて下さる希望は誰も、何も、私達から取り上げられません。豊に生きる為には、神からの大きな、また、確かな希望が絶対に必要であります。

【神に喜ばれる適切な自尊心】
今日は、また人間には絶対に必要なものについて考えたいと思います。それは自尊心です。つまり、それは自分の尊厳と価値を正しく意識する事です。適切な自尊心があると、私達は自信を得て、生涯に起こる事を積極的に扱う事が出来、勝利と成功を経験します。また、自分を正しく評価する事によって、人間関係がより豊になります。なぜなら、自分自身を適切に愛すると、周りの者も愛し尊敬出来ます。

【自尊心の欠如】
その反面、自尊心が足りなかったら、自信を失う事があり、惨じめになります。そして、生涯に襲って来るチャレンジに積極的に扱う事が出来ず、失敗が大きくなります。さらに、自尊心が少ない場合、人間関係が上手く行く事が難しくなります。やはり、自分自身をあんまり愛さないと、相手の愛を信じ、受ける事が困難であります。最近、引きこもりの問題が深刻になりました。原因は色々あると思いますが、恐らく自尊心を段々と失った結果であると思います。

【過度の自尊心】
自尊心が足りない場合があれば、自尊心があり過ぎる場合もあると思います。つまり、適切な自尊心が自負心と高慢になります。自分が誰よりも優れていると言う態度をとり、周りの者の存在はただ自分に仕える為であると思い込んでしまいます。もちろん、そう言う自己中心的態度をとると、人間関係がすぐ駄目になり、極端な場合、人に対して酷い事をします。

2006年04月30日 | カテゴリー: イザヤ書 , エレミヤ書 , コリントの信徒への手紙一 , フィリピの信徒への手紙 , ヨハネによる福音書 , 創世記 , 新約聖書 , 旧約聖書

十字架からの御言葉(その5,6):「渇く」と「為しとげられた」ウイリアム・モーア

ヨハネによる福音書19章28-30

聖書によりますと、イエス・キリストは十字架に掛けられた間に、七つの御言葉をおっしゃいました。 今日は5番目と6番目の二つの十字架からの御言葉を学びたいと思います。それは

「渇く」と「成し遂げられた。」

です。

【渇く】
先ず「渇く」を学びましょう。実は、先の四つの意味深い発言に比べると「渇く」と言う単純な表現はあんまり大した御言葉ではないかのように見えます。私達も何度もそのような言葉を言った事があるし、子供から聞いた事も結構あります。喉が渇いた事、誰でもその経験があります。人間の体重の約7割は水だそうです。そして、身体の正しい働きは水に頼っています。人間は食べなくても結構長く生きられますが、水が飲めないと大低数日が限界です。

【脱水】
私はカリフォルニアに行く度に山歩きをします。いつも泊る所はロサンジェルスの近い郊外になります。そして、そこには鹿と熊と山猫が出るMt.Wilsonと言う高い山があります。南カリフォルニアは乾燥した砂漠のような気候ですから、山歩きをすると、十分な水を持って行く事は何よりも大事です。そして、喉の渇きを感じる前に少しずつ水を飲む必要があります。そうしないと、脱水状態になって、倒れます。実は、山道に迷って脱水で亡くなる人も珍しくはありません。

十字架につけられたイエス・キリストは大変な渇きを覚えました。出血と厳しい日差しと比べられない程の苦痛の故に喉が酷く渇いて来て、「渇く」と言われました。実際に、誰でも同じ状態だったら、「渇く」と言って、飲み物を願うでしょう。間違いなく、主イエスの右と左に十字架につけられた犯罪人も激しい乾きに苦しめられていました。ですから、イエス・キリストの「渇く」と言う御言葉を通して、主は人間であることを確かめられます。主イエスは100%真に神でありながら、同時に100%真に人間でもありました。

【人間となられたイエス】
私とあなたのように痛みを本当に感じ、私とあなたのように喉も渇いて来ました。主は本当に人間である事はなぜそんなに大事でしょうか。実際に、イエスが人間を贖おうとしたのなら、イエスは人間にならなければなりませんでした。私達をイエスのようにする為には、イエスが先ず、私達のようにならなければなりませんでした。だからと言っても、全く清い人間だけが私達の代わりに罪の罰を受ける事が出来、私達を神と和解させて下さいます。イエスが渇きを覚えた事を通して御自身が人間である事は明白になります。真の人間として十字架の痛みと苦悩とを経験されました。「渇く」という主イエスの発言は人間として御自分の苦しみが現実なものである事を保証します。

2006年04月09日 | カテゴリー: ヨハネによる福音書 , ローマの信徒への手紙 , 使徒言行録 , 新約聖書

十字架からの御言葉(その3):「婦人よ、ご覧なさい。あなたの子です」 ウイリアム・L・モーア

ヨハネによる福音書19章23-27

【十字架上のお言葉(3)】
イエス・キリストの十字架からの御言葉を学び続けたいと思います。覚えていらっしゃると思いますが、主イエスは十字架に掛けられた間、御自分の唇から七つの大事な御言葉をおっしゃいました。私達は受難節の際にもうすでにその二つを覚えました。第一は赦しの言葉

「父よ、彼らをお赦し下さい。自分が何をしているのか知らないのです。」

そして、神はそのお祈りを叶えて、十字架の贖いを通して、御自分の御子を救い主として信じる者は、誰でも罪の赦しを与えて下さいました。

先週学んだ主イエスの第二の御言葉は永遠の救いの約束でした。傍らの十字架に掛けられた犯罪人は主に、

「イエスよ、あなたの御国においでになる時には、私を思い出して下さい」

と心から願いました。その願いは悔い改めと信仰を表しましたので、イエスはこの素晴しい約束を彼にしました。

「あなたは今日私と一緒に楽園にいる。」

その同じ悔い改めと信仰を表すならば、私達の為にも神は天国の戸を開いて下さいます。罪の赦しと永遠の救い。その二つの御言葉で、唯一の全能の神は私達の個人的、また、全人類の一番大事なニーズにお答えになりました。

【二つのグループ】
さて、十字架から第三の主イエスの御言葉の背景を見てみましょう。実は、今日与えられた聖句は著しい対照をなしています。と言うのは、主イエスの十字架の前で二つの全く違っているグループが立っていました。一方にはイエスを苦しませ、死刑を実行した四人の兵士達でした。そして、他方には主を誰よりも愛した五人がいました。

【兵士たちがしたこと:預言の成就】
先ず兵士達を見てみましょう。主イエスは四人組の兵士に付きそわれて、形場へ着くと,彼らは主を十字架に付けました。そして、当番で処刑の任務についたこの兵士達の役得は、受刑者の着けていた衣服でした。ユダヤ人は通常五種類の衣具をつけていました。サンダル、ターバン(すなわち頭に巻く頭巾)、帯(おび)、下着、それに外套。兵士は四人、衣服は五品目でありました。彼らは賽を投げてそれらの取りっこをしました。それぞれが自分に当たった物を取り、下着だけが残りました。それは縫い目がなく、一つ織りの物でした。それを四つに裂けば、勿体ないので、それが誰の物になるかを決める為に、もう一度、賽が投げられました。こうして、兵士達は十字架のもとで賭け事をしました。不思議にその事は旧約聖書の預言を成就しました。詩編に救い主についてこの預言があります。

「私の着物をわけ、衣を取ろうとしてくじを引く。」(詩編22:19)

2006年03月26日 | カテゴリー: ヨハネによる福音書 , 新約聖書 , 旧約聖書 , 詩篇

神への道 ウィリアム・モーア

ヨハネによる福音書14章 6:イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。 わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」

【驚くべき主イエスのお言葉】
イエス・キリストの教えは人間の常識を遥かに超えるものですから、その教えを聞くと私達の耳に驚くべき事がよくあります。例えば、「自分の命を得ようとする者は、それを失う。」また、「受けるよりは、与える方が幸いである」と「柔和な人々は地を受け継ぐ。」そして、「敵の為に祈りなさい」と「迫害される時、あなたがたは幸いである。喜びなさい」と教えられました。そのイエス・キリストの御言葉は私達を驚かされますが、恐らく今日の聖句は最も驚くべき主のご発言であります。

「私は道であり、真理であり、命である。私を通らなければ、誰も父のもとに行く事が出来ない。」

考えて見ますと、この主イエスの御言葉は本当にすごいものです。そして、あんまりにも大胆ですから、ある人々には躓きになります。つまり、イエスは御自分が神への唯一の道であるとおっしゃる事は、ちょっと傲慢な発言だと思う者がいます。了見の狭い、あるいは頑迷な主張と受け取る人もいるかも知れません。そう言う排他的な事を言ってはいけないのではないかと思う者が大勢おられるでしょう。

しかし、イエス・キリストは

「私は道であり、真理であり、命である。私を通らなければ、誰も父のもとに行く事が出来ない」

と宣言されるとき、神の独り子として真理を語りました。そして、御自分の発言は傲慢ではなく、却って愛と憐れみの動機からなさいました。

実は、この宣言は全人類と私達一人一人にとって、最も貴重な真理であると信じております。何故なら、この教えは私達の永遠の救いへの唯一の道を示して下さるからです。

この主イエスの発言は躓きになる理由が様々あると思いますが、多分おもに宗教に関する誤解と言えば三つの事が取り上げられます。

この三つの誤解を抱く者が多いですから、恐らく皆さんも聞いた事があると思います。

2006年02月12日 | カテゴリー: ヨハネによる福音書 , 新約聖書

世の光であるイエス・キリスト ウイリアム・モーア

ヨハネによる福音書9章1--11

【ひと間違い】
このような経験がありますか。遠くから人を見て、その人が知人だと思って手を振りました。そして、挨拶しに近づくと、その人は実は全く知らない人でした。恥ずかしいですね。または、電話の声で相手を「なになにさん」だと思って、直ぐ会話を始めましたが、一分、二分しゃべると、実は相手が違う人だと気付きました。それも恥ずかしいですね。

この間の話ですが、家に電話がかかってきました。電話を取ると、「Hey, what's up?」つまり、「おい、どうしてる」と言う声が聞こえました。ちょっと可笑しい挨拶だなと思ったんですが、声がアメリカにいる長男らしいので、色んな話に入りました。しかし、突然、相手が、「Who are you?」つまり、「あなたは誰ですか」と私に聞きました。その瞬間ピンと来ました。相手は実は次男の友人で、ポールと話したかったんですが、私の声をポールと間違えたようでした。その事件は家で大笑いになりました。

【相手の身元を知る】
相手の身元を知るのは大切な事です。それが分らなかったら、相手と話す事さえも難しいです。どんな身分や、何処の人などが不明の場合は、その人と関係を結ぶのはなかなか難しいです。その反面、相手の身元が十分分かると、適当な関係を持つ事が出来ます。だからこそ、初めて人に会う時、よく名刺を交換します。名刺を見たら、相手の身元が分かって、適切に扱う事が出来ます。

【イエス・キリストの身元】
同じようにイエス・キリストの身元もちゃんと分かった方が良いと思います。主イエスは世界歴史の一番重要な人物だし、今も主の教えはキリスト教信徒だけではなく、社会にも大きな影響を与えて来ました。

さて、イエス・キリストはいったい誰ですか。どんな役割を果たしましたか。そう、その事が分かるには、先ずイエス・キリストが御自分について何と言われたかを調べるのが良いと思います。すなわち、もしイエス・キリストに名刺があたら御自分について何と書いたのでしょうか。

2006年01月15日 | カテゴリー: エフェソの信徒への手紙 , ヨハネによる福音書 , 新約聖書

クリスマスの愛 ウイリアム・モーア

フィリピの信徒への手紙2章1-11

【クリスマスの愛】
私達のアドベントの旅は大分進んで参りました。

丁度来週の主の日はクリスマス、イエス・キリストの御降誕の記念日になります。毎週の説教を通して私達はクリスマスの準備が出来ました。「 クリスマスの希望」と、「 クリスマスの平和」と、「 クリスマスの喜び」を一緒に学びました。そして、今日は「「 「 クリスマスの愛」について共に考えたいと思います。実は、何よりもクリスマスの出来事は私達人間に対する神の愛を現します。そして、神の愛の故に私達はクリスマスの他の恵み、希望と平和と喜びを経験する事が出来ます。今日は主イエスの御降誕を通して神が私達に現わされた愛を新に見ましょう。

【フィリピの教会に】
使徒パウロは今日の聖書の個所をフィリピと言う町に住んでいるキリスト者に手紙の形で送りました。パウロはフィリピの教会を開拓しましたけれども、信仰の理由で牢に入れられフィリピの信徒を訪ねる事が出来ませんでした。ですから使徒パウロは手紙で彼等を励まし、教えました。特に、キリスト者としての相応しい態度と生き方を教えました。彼等を主イエスの愛の手本に思い返させて、その手本に従うようにと奨励しました。

イエス・キリストが示して下さった愛と献身が自分達のものになると、彼等は一つになって、そして、更に、信仰の力の証人になります。つまり使徒パウロはフィリピの信徒にこのように言いました。

「お互いに『クリスマスの愛』を示して下さい。」

そして、その「クリスマスの愛」とは何でしたか。今日のテキストの6節の所を見て下さい。フィリピの信徒への手紙2章6節

「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」

とパウロはフィリピの信徒に思い起こさせました。

2005年12月18日 | カテゴリー: フィリピの信徒への手紙 , ヨハネによる福音書 , 新約聖書

命を選びましょう ウイリアム・モーア

マタイ7章13-29

【豊かな命を与える主イエスの教え】
今朝の与えられた個所はイエス・キリストの山上の説教の結末になります。二ヶ月に渡って私達は山上の説教を通して、主イエスの基本的な教えを学んで来ました。主の八福や、心からの義と心からの敬虔や、お金の使い方や、人を裁かない事や、神に求める事などを一緒に学んで来ました。この主イエスの一番大事な教えを新に覚え毎日の生活に活用して、私達の信仰がよりもっと元気なものになったでしょうか。また、その主の教えに従う事によって、私達は周りの者に、よりもっと大きな祝福と証になりましたか。

イエス・キリストの教えを聞いて、それを実際に行うと、きっとその実を結びます。更に、イエス・キリストを心から信じ、主御自身の教えに従う事によって、私達は神が賜る本当の命を歩みます。すなわち、真の希望と目的、また力ある生活が与えられます。その意味で主イエスはこのように宣言しました。


「私が来たのは、彼等が命を受ける為、しかも豊に受ける為である。」(ヨハネによる福音書10:10)

【二つの門、二つの道】

山上の説教の結末にイエス・キリストは御自分のみが提供するその「豊かな命」を受ける為、色々な大事なアドバイスを私達に与えて下さいます。

今朝の御言葉の13と14節に、この主イエスの御言葉が記されています。

「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。」

2005年11月20日 | カテゴリー: イザヤ書 , マタイによる福音書 , ヤコブの手紙 , ヨハネによる福音書 , 新約聖書 , 旧約聖書

完璧な贈り物 ウイリアム・モーア宣教師 クリスマス礼拝

2004年12月19日ウイリアム・モーア宣教師 


◆イエスの誕生          ルカ福音書2章
1:そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。2:これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。
3:人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。 4:ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。
5:身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。6:ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、7:初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。
◆羊飼いと天使
8:その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。9:すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。
10:天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。
11:今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。
12:あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」
13:すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。
14:「いと高きところには栄光、神にあれ、/地には平和、御心に適う人にあれ。」
15:天使たちが離れて天に去ったとき、羊飼いたちは、「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と話し合った。
16:そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。
17:その光景を見て、羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた。
18:聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った。
19:しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。20:羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。

【子供だった頃】
私は子供の頃、一年中クリスマスが来るのを一番楽しみにしていたのでした。何故かと言えば、クリスマスに沢山のプレゼントが貰えるからです。我が家ではお年玉の伝統がなかったので、おもにクリスマスにプレゼントを頂きました。そして、我が家では、その包装紙とリボンで包んだプレゼントをクリスマスの前に絶対に開けてはいけないと言うルールがありました。ですから、子供の私には、クリスマスが来るまで待つのはとても難しいことでした。今も覚えていますが、クリスマスが近くなると母に毎日こう聞きました。「ママ、クリスマスまで後何日残ってる?」そして、その日数が小さくなる程、幼い私の興奮がますます高まりました。

2004年12月19日 | カテゴリー: コリントの信徒への手紙二 , ヨハネによる福音書 , ヨハネの手紙一 , ルカによる福音書 , 新約聖書

【あなたはイエス様が見えますか】伊丹教会長老城下忠司

2004年3月14日 伊丹教会長老城下忠司

【聖書】ヨハネによる福音書9章1~12,35~41
◆生まれつきの盲人をいやす
1:さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけ
られた。
2:弟子たちがイエスに尋ねた。「ラビ、この人が生まれつき目が見え
ないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」
3:イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。
4:わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない。だれも働くことのできない夜が来る。
5:わたしは、世にいる間、世の光である。」
6:こう言ってから、イエスは地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目にお塗りになった。
7:そして、「シロアム――『遣わされた者』という意味――の池に行って洗いなさい」と言われた。そこで、彼は行って洗い、目が見えるようになって、帰って来た。
8:近所の人々や、彼が物乞いであったのを前に見ていた人々が、「これは、座って物乞いをしていた人ではないか」と言った。
9:「その人だ」と言う者もいれば、「いや違う。似ているだけだ」と言う者もいた。本人は、「わたしがそうなのです」と言った。
10:そこで人々が、「では、お前の目はどのようにして開いたのか」と
言うと、
11:彼は答えた。「イエスという方が、土をこねてわたしの目に塗り、『シロアムに行って洗いなさい』と言われました。そこで、行って洗ったら、見えるようになったのです。」
12:人々が「その人はどこにいるのか」と言うと、彼は「知りません」 と言った。
◆ファリサイ派の人々の罪
35:イエスは彼が外に追い出されたことをお聞きになった。そして彼に出会うと、「あなたは人の子を信じるか」と言われた。
36:彼は答えて言った。「主よ、その方はどんな人ですか。その方を信じたいのですが。」
37:イエスは言われた。「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ。」
38:彼が、「主よ、信じます」と言って、ひざまずくと、
39:イエスは言われた。「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。 こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる。」
40:イエスと一緒に居合わせたファリサイ派の人々は、これらのことを聞いて、「我々も見えないということか」と言った。
41:イエスは言われた。「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る。」



【あなたはイエス様が見えますか】
 皆さんおはようございます.伊丹教会の城下と申します。
今日は初めて、皆さんの前でお話させていただきます.初めてのお方もいらっしゃいますが、よろしくお願いいたします.
 読んでいただいたこの物語は、一言で申しますと、イエス様に目を見えるようにして頂いた盲人がイエスさまを信じるようになったというお話です。

2004年03月14日 | カテゴリー: ヨハネによる福音書 , 新約聖書

【洗礼の意味】ウイリアム・モーア 待降節第3週

◆弟子たちを派遣する マタイによる福音書28章16~20節 16:さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。 17:そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。 18:イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。 19:だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、 20:あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」 

洗礼の意味

nbm3.jpg
       合衆国長老教会宣教師ウイリアム・モーア


昔のアメリカでは多くの田舎の教会は洗礼式を川で行ないました。そして、ある日、一人の男の人はちょっと飲み過ぎて、散歩しながら、洗礼式を行なう教会の群れに巡り会いました。彼はあんまり深く考えないで、その式を近くで見る為に川の水に入って、牧師の側に立ちました。

2003年12月14日 | カテゴリー: マタイによる福音書 , ヨハネによる福音書 , 新約聖書