マタイによる福音書

2017年10月22日説教「自分の分を取って帰りなさい」赤石純也牧師

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マタイ福音書20章1~16節、イザヤ書55章6~11節
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2017年10月22日 | カテゴリー: マタイによる福音書 , イザヤ書

2017年2月26日説教「天の御国の幸い」木村英樹神学生

2月26日.docx (説教原稿)
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2017年02月27日 | カテゴリー: マタイによる福音書

2013.6.23.説教「御国の主に仕えて生きる」後藤公子元大会派遣インドネシア宣教師

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2013.6.23.説教「御国の主に仕えて生きる」後藤公子元大会派遣インドネシア宣教師

 

聖書:マタイによる福音書25「タラントンのたとえ」

14 「天の国はまた次のようにたとえられる。ある人が旅行に出かけるとき、僕たちを呼んで、自分の財産を預けた。15 それぞれの力に応じて、一人には五タラントン、一人には二タラントン、もう一人には一タラントンを預けて旅に出かけた。早速、16 五タラントン預かった者は出て行き、それで商売をして、ほかに五タラントンをもうけた。

 

17 同じように、二タラントン預かった者も、ほかに二タラントンをもうけた。

18 しかし、一タラントン預かった者は、出て行って穴を掘り、主人の金を隠しておいた。

19 さて、かなり日がたってから、僕たちの主人が帰って来て、彼らと清算を始めた。20 まず、五タラントン預かった者が進み出て、ほかの五タラントンを差し出して言った。『御主人様、五タラントンお預けになりましたが、御覧ください。ほかに五タラントンもうけました。』21 主人は言った。『忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。』

22 次に、二タラントン預かった者も進み出て言った。『御主人様、二タラントンお預けになりましたが、御覧ください。ほかに二タラントンもうけました。』23 主人は言った。『忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。』

 

24 ところで、一タラントン預かった者も進み出て言った。『御主人様、あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集められる厳しい方だと知っていましたので、

25 恐ろしくなり、出かけて行って、あなたのタラントンを地の中に隠して/おきました。御覧ください。これがあなたのお金です。』26 主人は答えた。『怠け者の悪い僕だ。わたしが蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集めることを知っていたのか。27 それなら、わたしの金を銀行に入れておくべきであった。そうしておけば、帰って来たとき、利息付きで返してもらえたのに。28 さあ、そのタラントンをこの男から取り上げて、十タラントン持っている者に与えよ。29 だれでも持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。30 この役に立たない僕を外の暗闇に追い出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。』」

 

 

説教要約(文責 近藤)

 

【終末時代を生きるクリスチャンの生き方】

主イエス様がこの世に生まれられてから再臨までを終末時代と言うが、終末を生きるクリスチャンの生き方について今日の御言葉から聞きましょう。

 

主から託されたキリスト者の地上の使命とは何でしょうか。

会社や官庁に働く者には定年がありますが、クリスチャンには定年はありません。そればかりか天に召されて(死んで)も天国での使命が与えられています。

 

地上で小さいことに忠実な者は天国にあっても大きなものを託された者です。

地上における人の一生の歩みは神様のテストでもあります。

 

【タラントンのたとえ】

主人が総額8タラントンの金を3人の僕に託して旅に出ました。

1タラントンの重さは今日の単位では34キログラムでお金に換算すると600デナリオンに相当します。マタイ20章にあるブドウ園の話から分かりますが当時一日の労働者の賃金は1デナリオンでした。年に300日働くとすると1タラントンは20年分の賃金です。1タラントンは生活費を支払っても莫大な金額が残ります。

 

主人が旅に出る留守の間に財産の一部を僕たちに預けたのは、僕たちがそれを運用し利益を上げ資産を増やすことを期待した主人の願がありました。僕に対して厚い信頼があったことが分かります。

 

5タラントン、2タラントン、1タラントンとそれぞれの能力に応じて僕たちに異なった金額を託しました。当時にも銀行はありましたが、主人はそこに預けることを望まず僕たちが仕えて働くことを望みました。

 

「少しのものに忠実だったから多くを任せよう」と言うほど主人は大金持ちでした。主人は僕を使って金儲けをすると言うよりはタラントンを預けたことは主人に対する忠実度を測るテストでした。

 

【早速出て行き】

僕は主人の意図を分かっていました。当時、旅に出ると言うことは、すぐには帰らないと分かっていました。忠実な僕は主人が旅に出るとすぐに働きました。迷いもなく僕として為すべきことをいつものように継続しました。あたかも主人が見ているように、主人がいつ帰ってきても良いように、義務感でなく喜んで働きました。主人の信頼に応えたいと。

 

【主を愛する忠実な者】

5タラントン預かった僕も2タラントン預かった僕も、その利益は主人のものと分かっていましたが一生懸命働いたと言うことは僕が主人を愛していたからです。

 

20 まず、五タラントン預かった者が進み出て、ほかの五タラントンを差し出して言った。『御主人様、五タラントンお預けになりましたが、御覧ください。ほかに五タラントンもうけました。』21 主人は言った。『忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。』

 

22 次に、二タラントン預かった者も進み出て言った。『御主人様、二タラントンお預けになりましたが、御覧ください。ほかに二タラントンもうけました。』

 

しかし1タラントン預かった僕は主人の気持ちを理解しませんでした。

 

5タラントンと2タラントンを預けられた僕に対し、21節、23節に書かれているように「主人は言った。『忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。』」と同じ言葉でこの二人を誉めました。

 

【1タラントンを預かった不忠実な僕】

しかし1タラントンを預かった僕は24節、「24 ところで、一タラントン預かった者も進み出て言った。『御主人様、あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集められる厳しい方だと知っていましたので、25 恐ろしくなり、出かけて行って、あなたのタラントンを地の中に隠して/おきました。御覧ください。これがあなたのお金です。』」

 

5タラントンと2タラントンを任された僕は運用するために預けられたという意識を明確に持っていましたが、1タラントンを任された僕は運用するために任されたと言う意識がなく、その使命を果たすことなく主人の期待を裏切った。主人の信頼に応えませんでした。それで彼は悪い怠惰な僕、怠け者と言われました。

 

何も悪いことをしたのではないが怠惰な悪い僕と言われた。

 

【能力の差と忠実さ】

2人の僕が主人から託された使命を果たしたので主人はこの2人を褒めた。ここで考えるべき事は5タラントンを預けられたの者と1タラント預けられたものだけでよかったと思いますが、2タラントンを預かった第2の僕も5タラントンを預かった僕と同じようにそのタラントンを活用した。

 

ただ5タラントンと2タラントンの能力の差があったが忠実さにおいて問題はなく主人の目には2人の評価は同じでした。活用する能力の差があったが忠実さに於いて差はないのです。このことを主は2タラントンを預けた僕の例から言はれたのではと思います。

 

【すべては主からの賜物】

タラントンという言葉はタレントという言葉の語源です。一般に特別な才能を示しています。しかしもっと大きな意味があると思います。

 

使徒パウロは言います、「いったいあなたの持っているもので、いただかなかったものがあるでしょうか。もしいただいたのなら、なぜいただかなかったような顔をして高ぶるのですか(コリントの信徒への手紙一 4:7)」。

 

私たちの命、からだ、家族、教育すべては何もかも主からの賜物ですから、自分のものと言えるのは何もありません。

財産、時間すべてを主のために忠実に管理するのが僕の勤めです。

 

【主人に対する畏敬の念】

忠実な僕と不忠実な僕、その差は主人に対する畏敬の念の差であります。

 

24節以下「ところで、一タラントン預かった者も進み出て言った。『御主人様、あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集められる厳しい方だと知っていましたので、25 恐ろしくなり、出かけて行って、あなたのタラントンを地の中に隠して/おきました。御覧ください。これがあなたのお金です。』26 主人は答えた。『怠け者の悪い僕だ。わたしが蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集めることを知っていたのか。27 それなら、わたしの金を銀行に入れておくべきであった。そうしておけば、帰って来たとき、利息付きで返してもらえたのに。

 

28 さあ、そのタラントンをこの男から取り上げて、十タラントン持っている者に与えよ。29 だれでも持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。30 この役に立たない僕を外の暗闇に追い出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。』」

 

1タラントンを預かった僕は主人のために働きたくなかったし、畏敬の念もなかった。

 

【わたしたちの主人】

主人とは私たちの救い主イエス・キリストです。主イエスは僕としてこの世に来て下さり十字架の上で私たちの為に自らを捧げられ、私たちを救って下さったお方です。

 

パウロはコリントの信徒への手紙二 515 節で「その一人の方(キリスト)はすべての人のために死んでくださった。その目的は、生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きることなのです」。

 

主イエスは全ての人のために死んでくださった。私たちクリスチャンは私たちを救うために死んで復活された主イエス・キリストによって生かされているのであります。自分のために生きるのではなく主と御国のために今ここで生かされております。今与えられているものは一時的に主から預けられているものです。主は私たちを僕として主の為に忠実に働くよう召して下さいました。

 

【主のための労苦は決して無駄にならない】

一般のビジネスの世界でも人びとは一生懸命働きますが、必ずしも利益を生むとは限りません。しかし神の御国のために働くなら私たちの働きは豊かに報われます。「私たちの苦労は決して無駄になることはありません」と聖書は約束しています。

 

使徒パウロも言います、「私の愛する兄弟たち、こういうわけですから動かされないようにしっかり立ち主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならない事をあなた方は知っているはずです(コリントの信徒への手紙一 15:58

 

主の御国は確実に進展しています。御国の主であられる主イエス・キリストに与えられたタラントンを用いて忠実に仕えましょう。(おわり)

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2013年06月23日 | カテゴリー: マタイによる福音書 , 新約聖書

2013.5.12.説教「取って食べなさい」ウイリアム・モーア宣教師

2013.5.12.説教「取って食べなさい」ウイリアム・モーア宣教師

 

聖書:マタイによる福音書26

26 一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えながら言われた。「取って食べなさい。これはわたしの体である。」

27 また、杯を取り、感謝の祈りを唱え、彼らに渡して言われた。「皆、この杯から飲みなさい。

28 これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。

29 言っておくが、わたしの父の国であなたがたと共に新たに飲むその日まで、今後ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい。」

30 一同は賛美の歌をうたってから、オリーブ山へ出かけた。

 

説教要約(文責近藤)

【聖餐式に思うこと】

わたしたちの西谷伝道所では年6回ぐらい聖餐式を行います。

この聖餐を受けるとき皆さんは何を考えますか。

 

1、主の贖い死に対して神様に感謝を覚えます。

2、信仰への熱心を励まされる。

3、主の兄弟姉妹に犯した罪に対して神の赦しと愛を覚えます。

4、しかしまた否定的考えもあるかもしれません。

「また聖餐式がやってきたか。前回に比べて自分は信仰的に成長しただろうか。罪を犯すばかりで神と隣人を愛しただろうか」と。

 

【取って食べなさい。これはわたしの体である】

このように信仰が不十分だと否定的な思いがあれば主の御言葉を思い返してください。

そうすれば否定的な思いを取り除いてくださいます。

 

マタイ福音書2626節「取って食べなさい。これはわたしの体である。」

主は最初にこの御言葉をもって弟子たちを聖餐式に招いてくださいました。

聖餐式を通して主は私たちを霊的に食べさせ養ってくださいます。

この御言葉は私たちが自分の短所を思うこと以上にはるかに大事なことです。

 

【信者と未信者の差は何か?】

クリスチャンは道徳を大事にしますが、多くの未信者も道徳を大事に守ります。未信者がキリスト者よりもっと優しく憐れみ深い人も居ます。

 

実際、信者と未信者の差は何でしょうか。

その一つは聖餐式において私たちはパンと杯を頂きます。これは大きな差です。

聖餐式で聖餐とその交わりに与るとき信仰が励まされます。

 

取って食べなさい。これはわたしの体である」と主は招いて下さいます。

 

【霊的糧なる主イエスを食べる】

「わたしたちは毎日キリストを咀嚼しなければならない」とある神学者は言います。

それは日に日に主イエスを噛みしめることで主イエスに似ることです。

霊的糧がなければキリスト者としての希望と力が失せてしまいます。

身体には食べ物が必要なように魂は霊的糧により守られています。

私たちの信仰もキリストから霊的糧を受けなければ弱くなります。

聖餐式を通してそのことが教えられています。

取って食べなさい。これはわたしの体である」と主は招いて下さいます。

 

【幼子のように】

主イエスは「良く聞きなさい。誰でも心を入れ替えて幼子のようにならなければ神の国に入ることは出来ない」と言われました。

 

幼子は泣くことと食べる事しかできませんが、何より食べることは大事です。

 

幼子が食べないと心配ですが、幼子が食べるときは安心と喜びがあります。

 

食べることが仕事の赤ちゃんは食べることを悪いと思いますか。

 

キリスト者は主から幼子のように霊的栄養を頂くべきです。

主は「取って食べなさい。これはわたしの体である」と招いて下さいます。

 

【歳を取っても】

人は歳を取るほど幼子のようになります。歯が無くなり、以前できたことが出来なくなります。ある面でつらいことです。私の叔母は100歳まで長生きしましたが目も見えなくなり耳も聞こえなくなり寝たきりの状態になりました。今も覚えていますが自立心の強かった叔母が赤子のようになって本当に辛かったと思います。

 

でも神はご自分の国に入れるために叔母を赤子のようにされたのです。

私たちもそのように幼子のようになって心配せずに主から霊的栄養をいただきましょう。

主は「取って食べなさい。これはわたしの体である」と招いて下さいます。

 

【主の晩餐】

キリスト教礼拝の中心的儀式である聖餐式は私たちの才能の腕を示すコンテストではありません。それは主の晩餐です。

 

今日の礼典は晩餐です。

悩みのある人、ない人全ての人が主の食卓の周りに招かれ共に霊的栄養を頂きます。

そうでないと私たちは霊的に飢えてしまいます。

主は「取って食べなさい。これはわたしの体である」と招いて下さいます。

 

【主は忠実を求められる】

宗教改革者マーティン・ルーテルは興味深いことを言いました。

「律法の時があり、恩恵の時もある。要求のときと恵み深い約束の時がある」と。

 

キリスト者の務めは良く時間を管理することです。

 

「自分の十字架を負って私に従わないものは私にふさわしくない」。

 

わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子も、自分と父と聖なる天使たちとの栄光に輝いて来るときに、その者を恥じる(ルカによる福音書 9:26)。」

 

これは厳しい言葉に聞こえますが主は私たちが神の国の為に成功するよりも忠実に従うことを求めておられます。律法の時もありますが恩恵の時もあります。

 

【恵みの時】

最後の晩餐は恩恵の時でした。主は「取って食べなさい。これはわたしの体である。」と言われ、私から恵みを受けて霊的賜物を一杯取って下さいと主は言われます。

 

神の国の為に努めることは大切ですが、主イエスが求められることは恩恵です。

律法と恵みが聖餐式の時に一つとなりました。

 

この招きに一人残らず預かり皆が聖餐式の恵みを受け取ってください。

「取って食べなさい。これはわたしの体である。」と主は私たちを招いておられます(おわり)。

 

2013年05月12日 | カテゴリー: マタイによる福音書 , 新約聖書

2013.4.21.説教「塩と光」ウイリアム・モーア宣教師

2013.4.21.説教「塩と光」ウイリアム・モーア宣教師

新約聖書 マタイによる福音書5

13 「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。

14 あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。

15 また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。

16 そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」

 

説教要約(文責 近藤)

【私が悪いのはあなたのせいよ】

漫画ピーナッツの主人公チャーリー・ブラウンは友人のペパーミント・パティ―から言われた、「チャーリー、新学期の初めの日だと言うのに、あなたの為に校長に呼ばれたよ」。チャーリーは「私の為?学校も違うのにどうして私にために呼ばれるの」。ペパーミントは答えた「チャーリー、私たちは昔からの友人なのに、あなたから悪い影響ばかり受けているからよ」。

 

【相手が見る目は】

もう一つのストリー

ある牧師が犬小屋を作る作業をある坊やがじっと見ていました。牧師は坊やに「犬小屋の作り方を教えてあげようか」と言いました。すると坊やは答えた「僕には犬がいないので犬小屋は必要ないよ。ただ先生が自分の親指を金づちで叩いたときどんな言葉が出るかと待っているだけです」と。

 

【私たちの言動は】

私たちの周りの人たちは私たちを見ています。私たちは周りの人たちにどのような影響を与えているでしょうか。

 

主イエスは言われた、「あなた方は地の塩、あなた方は世の光です」。これは山上の説教の一部です。

主は私たちが世に及ぼす影響力を塩と光をシンボルとして力強く教えて下さいました。

キリスト者の行いは周りの者が見ています。

 

【地の塩】

主は何故塩をシンボルに用いられたでしょうか。

今日では塩は安く手に入りますが、イエス様の時代は塩は大変高価で金より値打ちがあったのです。ローマの兵隊たちは彼らの給料を塩で受け取りました。給料のサラリー【英語salary】の語源は塩のラテン語salariumから来たと言われます。

 

【塩の役割】

主は塩の3つの役割を用いて教えられました。

第一に、塩は健康に必須です。汗をかけば塩分を失うので、塩で補わねばなりません。地とは周りの人々のことです。私たちは周りの人々にどの様にして健康を与えられますか。

 

主はこの世にいる間、多くの人びとを憐れんでかれらの肉体的病を癒されました。町をでて主イエスのもとに多くの人びとが集まりました。ですから教会とキリスト者は医療に携わることを大事な使命とします。医療を通して神の愛を伝えることは大事なことです。

 

【シュヴァイツァ】

ノーベル平和賞を受けたアルバート・シュヴァイツァは長くアフリカで医療宣教に携わりました。一人の患者さんの命を助けた時、その患者さんはシュヴァイツァに聞きました「あなたはなぜこんなジャングルの奥に来ましたか」。彼は答えた「主イエスがここに送られたからです」。

 

【霊的健康】

癒しは肉体的なものに限らず霊的な癒しが必要です。キリスト者は周りの人に霊的健康を伝えることは大切です。

私たちはキリストの贖い死のお蔭で神との和解を受け、この世の歩みが終っても永遠に生きることが出来ます。

この恵みを周りの者に分かち合う特権が与えられています。霊的健康に至る道はこの道だけですからキリスト者は自分の毎日の生活と言葉によって神の愛と救いを現わす喜びがあります。

 

【霊的腐敗】

次に塩にはものを腐らないようにする保存力があります。

 

主の時代冷蔵庫などありません。魚を塩漬けにすると腐りません。他の食べ物も冬の期間など長期に保存するには塩が必要でした。地の塩とされた私たちは社会の腐敗不正を防ぐ責任があり、周りの者に恵みと祝福をもたらす模範的生き方を示さねばなりません。

 

【霊的幸い】

山上の説教には8つの幸いの教えがあります。

 

「1 心の貧しい人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。

2  悲しむ人々は、幸いである、/その人たちは慰められる。

3  柔和な人々は、幸いである、/その人たちは地を受け継ぐ。

4  義に飢え渇く人々は、幸いである、/その人たちは満たされる。

5  憐れみ深い人々は、幸いである、/その人たちは憐れみを受ける。

6  心の清い人々は、幸いである、/その人たちは神を見る。

7  平和を実現する人々は、幸いである、/その人たちは神の子と呼ばれる。

8  義のために迫害される人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。

わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。

喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。(マタイによる福音書53~12節)}

 

私たちは幸いな人の模範を示すことで地の塩の役割をもって世の腐敗を防ぎます。

 

【霊的味付け】

3番目は塩は良い味付けをします。

甘いケーキにもごく少量の塩は必要です。

隣人を引き立たせる役割をキリスト者は持っています。塩のない食べ物はおいしくありません。

 

神の恵みによってキリスト者はおいしい生活を周りの者に顕すことが出来ます。

私たちは誠に幸いです。主は私たちと共に居てくださいますので私たちの生活は楽しくエキサイティングで味があります。

 

13節後半「・・塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。

 

【世の光】

最後の14節「あなた方は世の光である

 

光は無くてはならないものです。この世の生命は光がないと生きられません。

 

主イエスの光を受けて周りの者に反映します。キリストのないところ光はありません。

 

私たちは主の光を人々に反映します。私たちは人々を主に導く光になります。

 

16節「そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである」

 

主から戴いた光を周りの者に輝かし、周りの人々が神を崇めようになります。

 

私たちが光を受けたのは信者の誉れの為でなく神の栄光と隣人の益の為であります。

 

私たちが地の塩、世の光であることを再確認して神の助けを祈りましょう。(おわり)

 

2013年04月21日 | カテゴリー: マタイによる福音書

2013.3.17.説教「苦しみからの脱却」金田幸男先生(甲子園教会牧師)

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2013.3.17.説教「苦しみからの脱却」金田幸男先生(甲子園教会牧師)

 

聖書:マタイによる福音書9

1 イエスは舟に乗って湖を渡り、自分の町に帰って来られた。

2 すると、人々が中風の人を床に寝かせたまま、イエスのところへ連れて来た。イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、「子よ、元気を出しなさい。あなたの罪は赦される」と言われた。

3 ところが、律法学者の中に、「この男は神を冒涜している」と思う者がいた。

4 イエスは、彼らの考えを見抜いて言われた。「なぜ、心の中で悪いことを考えているのか。

5 『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか。

6 人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」そして、中風の人に、「起き上がって床を担ぎ、家に帰りなさい」と言われた。

7 その人は起き上がり、家に帰って行った。

8 群衆はこれを見て恐ろしくなり、人間にこれほどの権威をゆだねられた神を賛美した。

 

ヨハネによる福音書9

1 さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。

2 弟子たちがイエスに尋ねた。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」

3 イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。 わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない。だれも働くことのできない夜が来る。5 わたしは、世にいる間、世の光である。」

6 こう言ってから、イエスは地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目にお塗りになった。

7 そして、「シロアム――『遣わされた者』という意味――の池に行って洗いなさい」と言われた。そこで、彼は行って洗い、目が見えるようになって、帰って来た。

8 近所の人々や、彼が物乞いであったのを前に見ていた人々が、「これは、座って物乞いをしていた人ではないか」と言った。9 「その人だ」と言う者もいれば、「いや違う。似ているだけだ」と言う者もいた。本人は、「わたしがそうなのです」と言った。10 そこで人々が、「では、お前の目はどのようにして開いたのか」と言うと、11 彼は答えた。「イエスという方が、土をこねてわたしの目に塗り、『シロアムに行って洗いなさい』と言われました。そこで、行って洗ったら、見えるようになったのです。」12 人々が「その人はどこにいるのか」と言うと、彼は「知りません」と言った。

 

(説教要旨) 

【魂と肉体の癒し】

牧師の務めのひとつが「魂の癒し」といわれています。魂の病の癒しこそ牧師の大切な働きであることを認めますが、二重の意味で抵抗を感じています。まず、魂の癒しは大変困難な働きであるから、そして、魂の癒しというこの働きをうまくやりのけたという実感を持てないからです。

 

その点、肉体の医者は病気を治すことについては専門家であり、また実際多くの患者の病気を治されます。病院は病気を治す施設であり、多くの患者が病から解放されて、病院の門を出て行きます。医療技術はどんどん進歩し、今まで不治の病といわれていた種類の病気が癒され、また、肉体の苦痛は軽減する方法がいくつも試みられています。

 

他方、魂の医者が専ら受け持っている部分では、格段に技術が進歩したという話は聞いたことがありません。昔ながらの方法で、聖書の解説をし、教理を語り、教えています。牧師の仕事は昔とあまり変わらないのが実情です。

 

とはいえ、魂の癒しは旧態然としているのだから無効だというのではありません。肉体の癒しと魂の癒しは、無関係ではありませんが、また同一ではありません。いわゆる精神の病気といわれている病がありますが、信仰だけで精神の病が治ると思いません。そういう期待を教会に持ち込む方が多いのですが、牧師のできる仕事ではない場合が圧倒的に多いといわなければなりません。

 

現在では薬剤を用いた治療が有効になって来ています。わたしは、宗教(信仰)が肉体や精神の病とはまったく関わりなしという立場ではありませんが、宗教が現代の医学にとって変わることは決してできないと思っています。医者と牧師は協力できますが、牧師は医者に取って代わることはできませんし、してはならないと思っています。

 

【苦しみから脱却】

それでは、魂の癒しとは何か。何をするのか。魂の癒しとは、苦しみから脱却できる道筋を示すことだと思っています。

 

むろん、肉体の苦痛も苦しみであることに違いはありません。魂の癒しという場合、その苦痛は、心を蝕み、傷つける苦しみを指しています。肉体の苦痛も魂に深刻な影響を与える場合には、その癒しについて宗教はもちろん考えなければなりませんが、肉体の苦痛そのものをなくすことは医療の領域です。

 

【四苦八苦】

苦しみは多様です。四苦八苦という仏教用語があります。

 

四苦とは

1、生きる苦しみ、

2、死ぬ苦しみ、

3、老いる苦しみ、

4、病む苦しみ

  を指します。

 

八苦とはそれに加えて、

5、愛するものと別れる苦しみ

6、憎い者と出会う苦しみ

7、求めても得られない苦しみ

8、心身の苦しみ

  を指します。

それぞれに解説をもっと加えなければなりませんが、要するに、苦しみは多種多様であるという意味です。その上、苦しみは深刻に感じられることもあり、ある人はさほど感じない場合もあるという具合に、その人だけが苦しみを感じているものです。

 

感じですから、他の人には窺い知れない場合もあります。そして、その苦しみから脱却するためにはそれぞれ個別に答えを探さなければなりません。そうでなければ明快な解答とはいえません。

 

【苦しみからいかにして脱出するか】

それでも、ひとつの苦しみを取り上げて、聖書から聞きたいと願います。私たちは、苦しみから逃れ出る道を求めます。卑しくも、宗教というべきものは、この苦しみからいかにして脱出するかを語るのだと思います。

 

【わたしの体験:12年間に6つの大病】

わたしは、この12年間、6つの大病を経験しました。視力を失いかけたこともあります。

4度、全身麻酔の手術を受けました。

(管理者注)1、脳下垂体腫瘍摘出術、2、悪性リンパ腫抗がん剤治療、3、甲状腺腫瘍摘出術、4、右腎ガン摘出術、5、小腸大出血(大量輸血)、6、頸椎腫瘍摘出術。 

術後、ICUに入れられましたが、そこで、麻酔が覚め、まったくからだが動かせないまま、24時間そこに置かれました。ナースに声をかけられ、何分経ちましたか、と尋ねました。わたしは1時間以上過ぎたと思ったのですが、わずか5分経っただけだと聞かせられ、時間が全然進まない経験をしました。

 

抗がん剤の副作用にも苦しみました。吐き気、脱毛、そして、味覚障害、嗅覚障害、不眠、精神症状・・・放射線治療では、痛みも熱さも何も感じないのですが、回数を重ねるうちに鼻血が止まらなくなるという経験をしました。

 

小腸からの出血多量で意識を失って救急車で搬送されたこともあります。検査も楽ではありません。血管が固くなり、採血の針がするっと滑ってしまい、ナースが悪戦苦闘しているのを眺めるのは気持ちのいいものではありません。

 

あれやこれや・・・病の中で、わたしはいろいろなことを考え、経験しました。

いいことがあっただろうか。そう思い振り返りますと、現在医学の恩恵を蒙って今生きていることそれ自体が幸いと言えるでしょう。

 

【神の恵み】

私たちは永遠の命に関わる特別恩恵と、あらゆる生の領域で働く神の恩恵を信じるものですが、その一般恩恵を何度も経験する幸いを与えられました。

 

また、病気を経験することで、病むことの苦しみを味わい、病む人の苦しみに同情することが出来るようになりました。いつも思うのは、これは肉体の医師、医療関係者には分かって貰えないことです。実際検査ひとつをとって見ても、その苦しみを味わわなければ・・・

 

【苦しみの多様性】

しかし、やはり病んでいいことよりも辛いことが多かったと言わなければなりません。

どんな苦しみか。現在医学の進歩で、肉体的な痛みはかなりコントロールされて来ました。特に術後の痛みは麻酔術の進歩で軽くなりました。でも、魂の苦しみの方はどうでしょうか。

 

病んで苦しむ苦しみはこれまたいろいろあります。たとえば、死ぬかもしれないという恐れも苦しみかもしれません。孤独もそうです。誰もいない病室でひたすら天井だけを眺める(首が固定されてしまって)だけ、それは苦痛です。病気は、強制的に仕事ができなくします。同僚がどんどん仕事をしているのにできないための申し訳なさ、あるいは口惜しさ。

 

経済的な不安も伴ないます。家族に迷惑をかけるという思いも苦痛です。いろいろあります。病苦とは単純ではありません。複雑で難解です。

 

わたしはその中で、「この自分だけがどうして苦しまなければならないのか」という問いに苦しみました。おそらく病気になった人、特に大病を経験した人が問う問いではないかと思います。今回は取り上げられませんが、もうひとつは、後から病んだ人が先に逝ってしまうということの申し訳なさも苦しみでした。何故人だけが生き残ったかも難問です。

 

ここで、わたしは聖書のふたつの癒し物語を取り上げたいと思います。マタイ9章1-11とヨハネ9章1-12です。

 

【罪を許す権威を持っているイエス】

マタイ9章1-9では、中風の人の癒しが記されます。イエスは、罪を許す権威を持っていることを証拠立てるために、病人を癒します。つまり、ここから容易に推測できることは、病気は罪の結果であって、罪が許される=帳消しにされることで、病気も癒されるという真理です。

 

罪は、ここでは神を持たないこと、あるいは神に顔を向けていないことを指しています。単に、悪とは邪ま、あるいは悪行、邪悪な思いだけを指しているのではなく、神との関係で、神に対して正当なあり方ではないすべてを指しています。

 

この罪の結果、罪人に災いが持ち込まれます。病気もそのひとつです。本来、神が創造されたときの人類は病むことを知りませんでした。

 

【盲人の罪でもその両親の罪でもない】

ところが、ヨハネ9章1-12では、目の見えない人の癒しが語られています。ここで主イエスは、その人自身の罪、あるいは、両親の罪によって、この人が視力を失ったのではないと明確に語られています。これではマタイの福音書で言われているところと矛盾します。

 

しかし、聖書は矛盾したことなど教えません。

一方では、病は罪の結果であるといいながら、他方では、個々の罪の結果ではないという。矛盾しているようではありますが、そうではありません。

 

病の原因はある人は偶然の所産、ある人は遺伝的体質、また、何らかの悪行の罰、あるいは、運命になすところだといいます。そういう原因の説明では納得できるでしょうか。

 

ところが、このふたつの癒し物語で明らかにされることは、私たちの病は間違いなく、神から来るということです。しかも、私たちの中にあるという罪の性質に対する神のわざです。

 

そういう点では、人間の中にある病は罪が原因です。同時にある人が、何か特定の罪を犯したから病むのではないということも真実です。

 

注意していただきたいことは、わたし自身が病むとき、神からの懲らしめだと思うことは正当な感覚です。同時に、誰かが病気になったとき、神から罰せられたと安易にいってはならないし、口にしてもならないのです。それは神の御心にあることです。わたしが病むのは神がそうされたからです。

 

神がある人を盲目にされました。それは神の決定です。特別、その人自身に理由があったのではありません。

 

何故、このわたしだけが苦しまなければならないのか。答えは分かりません。愚かな人間にはあらゆる知恵にまさる神をはかり知ることはできません。

 

【神を信じる者にはすべてが益になる】

ただ分かることは、主イエスを私たちのために送り出し、御子の十字架によって私たちを贖い出そうとする神には深い配慮があるに違いないということだけです。

 

神は私たちの魂のために常に最善を尽くす方です。わたしが病み、苦しむには、神が最善を考えられているからに違いありません。わたしには神のすべてが分かったのではないので、不満であり、ときに神に不平を申します。

 

でも、すぐ分かることはその神は常にわたしと共にあってくださいます。だから、わたしのすることは今この時点でも神に希望を抱き、神を信頼しつづけることです。それが主が示される道でもあります。(おわり)


金田幸男(かなたゆきお)牧師略歴

   1946年生 大阪府堺市出身

   1972年  神戸改革派神学校卒。

         中部中会の四日市教牧師を経て,

   1994年  甲子園教会に着任、日に至る。


 

2013年03月17日 | カテゴリー: マタイによる福音書 , 新約聖書

2013.3.10.説教「パンと杯」ウイリアム・モーア宣教師

2013.3.10.説教「パンと杯」ウイリアム・モーア宣教師

聖書:マタイによる福音書2626 一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福してこれをさき、弟子たちに与えて言われた、「取って食べよ、これはわたしのからだである」。27 また杯を取り、感謝して彼らに与えて言われた、「みな、この杯から飲め。

28 これは、罪のゆるしを得させるようにと、多くの人のために流すわたしの契約の血である。29 あなたがたに言っておく。わたしの父の国であなたがたと共に、新しく飲むその日までは、わたしは今後決して、ぶどうの実から造ったものを飲むことをしない」。

30 彼らは、さんびを歌った後、オリブ山へ出かけて行った。

 

【子羊の像】

あるドイツの教会にある庭に可愛らしい子羊の像が建てられています。この像が建てられた背景は意義深いものです。

ある日数人の職人が教会の屋根の修理をしていて一人が誤って足を滑らしました。そして高い屋根でしたから同僚の職人たちは転落した仲間の命はないものと思いましたが彼は何事もなかったように無事に生きていました。

彼が転落したとき丁度そこに草を食べている子羊がいたのです。その子羊の上に落ちた職人は命が助かりましたが、その子羊の命はありませんでした。

命を助けられた職人は彼が落下し子羊が亡くなった場所に子羊の像を作りその台座に「砕かれた子羊の記念に」という碑銘を記しました。

 

【最初の聖餐式】

今朝は聖餐式を守ります。

聖餐式は「世の罪を取り除く神の子羊」としてこの世に来られた主イエス・キリストの贖い死を覚え感謝するわたしたち教会の大切な聖礼典です。

今日お読みした聖書の箇所は主イエス様が制定された最初の聖餐式を記しています。

敵に渡される夜、主は弟子たちを集め、ユダヤ教の過越祭を強行しました。昔イスラエルがエジプトで奴隷であった時、神様はモーセを召してエジプトの奴隷の家からイスラエルを解放して故郷カナンの地に導かれました。

 

【過越祭】

神がエジプトのパロ王に下された裁きはエジプトの初児を皆殺されるという厳しいものでしたが、ただイスラエルの家には予め傷のない子羊を屠って入口の二本の柱と鴨井に子羊の血を塗るようお命じになりました。更に屠った子羊を焼いて食べるよう命じられました。

 

命じられた通りに入口に子羊の血を塗ったイスラエルの家はそれが印となり死の天使は過越してその家を神は守られましたが、そうでないエジプトの家は宮殿から奴隷の家まで人も動物も初児は死に絶えましたので頑迷なパロもイスラエルを去らせました。主なる神はイスラエル人がこの過越しの出来事を世々に記念すべき日、主の祭りとして祝うように命じられたのでイスラエル人にとって過越しの祭りは特に大事でした。

 

【過越祭の新しい意味】

主イエスはその晩、新しい意味を再解釈して過越祭に与えられたのです。過越しの食事の後、主イエスは驚くべきことをなさいました。いつもの儀式から離れて新しいものを制定されました。

 

26節にこう記されています。

一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福してこれをさき、弟子たちに与えて言われた、「取って食べよ、これはわたしのからだである。また杯を取り、感謝の祈りをしてから彼らに与えて言われた、「みな、この杯から飲め。28 これは、罪のゆるしを得させるようにと、多くの人のために流すわたしの契約の血である。」と言われました。

 

過越祭の背景を用いて主は弟子たちに「私こそは新しい過越祭の真の子羊であって私の流す血こそがあなた方の罪を清めてあなたを救います」と教えられました。

 

主は言われます、「私の十字架の贖い死はあなたの全ての罪を赦し神の愛された子として永遠の命を与えます」。

 

【聖餐式】

主イエスはパンをとって裂き「これを食べなさい。これはあなた方の為に裂かれた私のからだである」と言われました。屠られた子羊の肉を食べるように命じられたイスラエル人と同じく私たちも「私のパンを食べるように」と聖餐式に招かれています。それは私たちの為に砕かれたイエスの体の表章シンボルになります。

 

これを食べることによってイエスの贖い死はわたしの為であって主の犠牲のお蔭で滅びに向かっていた私は救われ永遠に神の子として受け入れられます。

 

同様に杯から飲む葡萄酒は罪の洗いの為に流された主の血を飲むのです。神の敵であった私たちです。希望のない私たちの為に罪のない神の子羊は自ら進んで罪人の私たちの為ご自分の命を投げ出してくださいました。この血によって私たちは贖われ大きな希望と恵みが自由に与えられています。聖餐式の杯を飲むことによって主の愛と犠牲を覚え記念します。

 

【感謝の応答】

主の救いを覚えることによって私たちは自然にその賜物に反応します。神の御子の最高の犠牲のお蔭で贖われましたので私たちは愛と感謝と信仰をもって答えます。これはわたしたちの行動に影響します。たとえば神を愛すると言いながら隣人を憎むことは出来ません。神の赦しを経験したものは兄弟姉妹を赦すべきです。さらに神の物質的豊かさから多くを戴いたのなら貧しい者にむかって分かち合う責任があります。

 

その上イエス・キリストの永遠の救いを賜った者はこの福音を周りの者に伝える特権が与えられています。

 

愛する兄弟姉妹。聖餐式に際して私たちの為に流された主イエスの血を飲み砕かれた主の肉を食して私たちの救いを得させて下さった主の犠牲を心から共に記念したいと思います。

 

主の犠牲を心から記念し愛と感謝と信仰と憐れみをもってふさわしく主に答えたいと思います。

 

 

2013年03月10日 | カテゴリー: マタイによる福音書 , 新約聖書

2013年1月20日説教「裁かれないために」ウイリアム・モーア宣教師

2013120日説教「裁かれないために」ウイリアム・モーア宣教師

 

聖書:マタイによる福音書7

1 「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。

2 あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。

3 あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。

4 兄弟に向かって、『あなたの目からおが屑を取らせてください』と、どうして言えようか。自分の目に丸太があるではないか。

5 偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からおが屑を取り除くことができる。

 

説教要約(文責 近藤)

【何事もけなす床屋の話】

ある男が床屋に行き、いつものように散髪をしてくれるように頼みました。この床屋の主人はいつも人にたいする悪口と酷評で満ちていました。政治家は賄賂を取る悪い奴と決めつけ、若ものは怠け者だと決めつけました。散髪をする間に男はローマに行くことを話しました。主人はどこの航空会社で行くか、どのホテルに泊まるかを尋ねました。男が答えるとその航空会社は危険だし、ホテルもサービスが良くないといいました。客は仕事でどうしても行かなければならないと答え、その後でローマ法王の拝謁も受けることになっていると言いました。床屋の主人はどうしてあの最低の神父から拝謁を受けるのかとけなしました。

 

さてその男は無事ローマから帰るとまた床屋に行きました。主人はローマの旅はどうだったかと聞きました。するとその男は答えました。ホテルも航空会社も満足したものだったよ。

床屋は男に法王にも会ったのかと聞きました。勿論会ったよ。そして膝まづいて法王の指輪に接吻もしたと答えた。主人は、その時法王は何と言ったかと聞きました。男は答えた「法王は頭に手を置いて、『わが子よ、このへたくそな散髪はいったいどこでしてもらったのか』」と言われました。

 

【人を裁くな。あなたがたも裁かれないためである】

主イエスは「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。2 あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。」と言われた。

 

その当時の律法学者やパリサイ派の人々は自らをイスラエルの裁き人として自分の標準に達しない人を罪人として裁きました。自分たちは律法を守っているので罪人ではない義人と確信していました。たとえ罪を冒してもそれは些細なもので気にするほどのことではないと思いこみました。

 

【律法学者、パリサイ派の人たちの罪】

彼ら律法学者、パリサイ派の人たちは自分たちが神の律法の番人として罪人を探し出し罰することを自分たちの仕事と考え、そうすることで神に仕えていると勘違いしました。

彼らは自分たちが神の剣だと信じ人を裁きました。彼らは自分の罪を隠し又小さく見積り他人を裁くことに集中した。自分たちは正しいのだという独善的態度を常に取りました。

 

このような背景から主は「人を裁くな」と言われた。

主は人を裁かない理由はあなた方も裁かれないようにするためだと。

主は宣言された2「あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる」。

 

人間のレベルではその通りです。相手を裁き批判すると、その相手から何時か復讐される可能性があります。人間は復讐心が強いからです。これは人の常識なのです。

 

【神の裁き】

しかし主は人の常識を教えられたのではありません。

人を裁くと神から裁かれると言うのが主の教えです。

 

罪人の私たちは主の憐れみのゆえに全ての罪を赦されました。神の子供として受け入れられました。

ローマの信徒への手紙623 罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです」。

私たちは神に許された者ですから同じ憐れみをもって隣人に接するべきです。

 

【「仲間を赦さない家来」のたとえ】

主イエスはあるたとえ話をなさいました。ただ聞いて下さい。

マタイによる福音書18

23 そこで、天の国は次のようにたとえられる。ある王が、家来たちに貸した金の決済をしようとした。24 決済し始めたところ、一万タラントン(一億円相当)借金している家来が、王の前に連れて来られた。25 しかし、返済できなかったので、主君はこの家来に、自分も妻も子も、また持ち物も全部売って返済するように命じた。

26 家来はひれ伏し、『どうか待ってください。きっと全部お返しします』としきりに願った。27 その家来の主君は憐れに思って、彼を赦し、その借金を帳消しにしてやった。

28 ところが、この家来は外に出て、自分に百デナリオン(100万円相当)の借金をしている仲間に出会うと、捕まえて首を絞め、『借金を返せ』と言った。29 仲間はひれ伏して、『どうか待ってくれ。返すから』としきりに頼んだ。30 しかし、承知せず、その仲間を引っぱって行き、借金を返すまでと牢に入れた。

31 仲間たちは、事の次第を見て非常に心を痛め、主君の前に出て事件を残らず告げた。

32 そこで、主君はその家来を呼びつけて言った。『不届きな家来だ。お前が頼んだから、借金を全部帳消しにしてやったのだ。

33 わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。』

34 そして、主君は怒って、借金をすっかり返済するまでと、家来を牢役人に引き渡した。35 あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう。

 

この二つのお話はその背景は違いますが同じ原則があります。

私たちは神に赦されているので隣人を赦すべきです。

そうでないと神の比べられない愛とご配慮の賜物を戴いていることが分かっていないことになり、隣人を赦さないならば神の正しい裁きを受ける恐れがあります。

 

今日のテキストから主は人間の弱さを示して下さいます。

今日の34節のこの御言葉は

あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。兄弟に向かって、『あなたの目からおが屑を取らせてください』と、どうして言えようか。自分の目に丸太があるではないか。」

 

【自分の目から丸太を取り除け】

全人類は一つの共通点があります。人を厳しく裁きますが、自分自身にはゆるい裁きしかしません。

 

例えば車の運転中にも見られます。他人がちょっとした速度違反をしたり、高速道路で駐車違反している車を見ると、聞くに堪えないような言葉を発する自分がいます。しかし自分も同じような違反をしてそれに気づいても、自分の違反を正当化したり言い訳をします。

 

人と自分とでは別の標準があります。

主は私たちにこう指示されました。5 偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からおが屑を取り除くことができる」と。

 

人の過ちや弱さを直す前に自分の過ちを認め直す必要があります。

 

【蛇のように賢く】

主は1「人を赦しなさい」と言われますが私たちは全てのことを赦さなければなりませんか?

決してそうではありません。主も人を裁きました。律法学者、パリサイ派の人々に「偽善者よ、うわべで人を裁くのを止め、正しい裁きをしなさい」と言われ「悔い改めよ」とはっきりと要求されました。人を見分ける必要がありますが独善的、破壊的な裁きはいけません。

 

主イエスは言われた「わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい。」(マタイによる福音書 10:16)。

 

【自らの罪と戦え】

独善的に人を裁いてはならないし人を見る眼識が必要です。何よりも罪と戦うこと、特に自分自身の中にある罪と戦うことが必要です。

5 偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からおが屑を取り除くことができる」(おわり)

 

2013年01月20日 | カテゴリー: マタイによる福音書 , 新約聖書

2012年12月23日クリスマスメッセージ「わたしのクリスマスプレゼント」ウイリアム・モーア宣教師

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20121223日クリスマスメッセージ「わたしのクリスマスプレゼント」ウイリアム・モーア宣教師

聖書:マタイによる福音書1

(イエス・キリストの誕生の次第)

18 イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。

19 夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。20 このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。21 マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」

22 このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。23 「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。

24 ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ、25 男の子が生まれるまでマリアと関係することはなかった。そして、その子をイエスと名付けた。

説教要約 文責近藤 

 

【私の子供のころの記憶】

私の子供のころ、両親は私たち3人の兄弟にクリスマス前には一つの素晴らし質問をしてくださった。いつもの質問はあまり歓迎したものではありませんでしたが。

 

それはクリスマスにはどんなプレゼントが欲しいか、そのリストを書いてサンタクロースに手紙を出すことでした。その手紙を書くのはとっても楽しいものでした。

そのリストに書くときその順番が大切です。一番欲しい物をリストの頭に書けば欲しいプレゼントが叶えられると分かっていました。サンタは両親がしてくれると知っていたからで、そのリストの順番を書いて両親に渡しました。

 

1225日朝、クリスマスツリーの下に置いてあるプレゼントを見るのを楽しみにしました。

そしてリストの一番のものがあった時の喜びは今も忘れません。しかしどんなプレゼントだったかもう覚えていませんし、何も残っていません。当時憧れたおもちゃなどは今はもう興味もなくなっていますが、ただ一つだけ忘れないで残っているものがあります。

 

それは3人の子供たちにプレゼントをしてくれた両親の愛で、これは忘れることがありません。一番欲しいものをプレゼントしてくれたのですが、今になっては両親の大きな愛のみしか残っていません。

 

【神様からの永遠のプレゼント】

さて私たちに今年2012年のクリスマスにどのようなプレゼントが頂けるでしょうか。

このクリスマスの時に神様からのプレゼントを私たちは覚えたいのです。

 

唯一の全能の天地の創造主なる神は私たち人間を愛して2012年前の初めのクリスマスに私たちにご自分の独り子をお与え下さいました。

新約聖書ヨハネによる福音書316 節にある通りです。

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」

 

2012年前にユダヤのベツレヘムの馬小屋でマリヤは男の子、神の独り子を出産しましたが、それは神の大きな愛の顕れでした。皆さんのために、どんなに大きな愛だったでしょうか。

御子は天国の全ての特権を捨てて地上に降り、神の国の福音を述べ伝えて村々を巡り、病人を癒し、家、財産もなく、良い行いのみをなしてくださいました。にもかかわらず遂には一人の弟子に裏切られ十字架に架けられました。

神はご自分の独り子を与えて下さったほどに私たち人間を愛してくださったからです。

 

今年のクリスマスの際に神の愛を覚えて神様からのプレゼントを戴きます。馬小屋で生まれられたイエス・キリストによって神様からの3つのプレゼントは全ての人にとって最もすばらしい祝福になります。他のプレゼントと違って壊されたり無くなったりしません。いつまでも忘れられない永遠のプレゼントです。

 

この3つのプレゼントについて考えましょう。

 

【罪の赦し】

その1は私たち人間の罪の赦しです。

聖書で言う罪とは人を殺したり、大金を盗んだり、ひどい犯罪を言うのではありません。

それは自己中心の思いと行いです。わたしたちは偽ったり、人を憎んだり、人を軽蔑したりします。愛のない言葉や行いは罪です。このような行為でどれほど多くの人の心が痛めつけられたことでしょう。

 

神の戒めから離れ自分勝手な生き方は神の裁きによって永遠の滅亡に向かっているのです。この私たちを救うために主イエスを遣わして下さいました。主の贖い死によって私たちの罪は許されます。

主はお生まれになった時、御使いから「その名をイエスと名付けなさい」と言われました。それは「ご自分の民を罪から救う」という意味です。

 

全ての罪が帳消しになり、罪のゆえに神様の敵であったものが神に愛された者になったのです。神の愛は何と大きいでしょう。

御子をこの世に送られたとき、王宮でなくみすぼらしい馬小屋で生まれたもうたということは、どんな人にも救いが与えられるためです。

罪の赦しというプレゼントは罪を憎む人にとってどんなに大きな希望を与えてくれるでしょうか。

 

【ウイリアム・スパーリンク君】

クリスマスになると日曜学校ではクリスマス劇をします。小学6年生のウイリアム・スパーリンク君は優しい子供ですが頭が少し弱かった。しかし彼は人気者で、体が大きかったので弱い友だちをよく助けました。

 

ウイリアム君は羊飼いの役をしたかったのですが先生は彼に宿屋の主人の役を与えました。

クリスマスの発表の日がきました。マリアとヨセフが宿を探してヨセフがドアを叩くとウイリアム君は答えます、「部屋は一杯でここに泊まれません」。ヨセフは又頼みます「妻は臨月です。どこでもよいですから部屋を貸してください」。ウイリアム君はまた答えます、「ほかの所に行ってください。部屋は一杯で泊まれません」。ヨセフが何度も頼むと彼の頭はパニックになりセリフが分からなくなりました。黙っていると、後ろから「帰ってください」とささやきました。ウイリアム君が小さい声で「帰ってください」と言いました。マリアとヨセフが悲しそうに帰りそうになった時、彼は「一寸待って。僕の部屋に泊まって下さい。僕は物置に寝るから」と言いました。

 

イエス・キリストこそが私たちのためにそうしてくださいました。主は私たちのために十字架で死んでくださり、あなたの罪を代わって受けたからと言われます。神は私たちの罪を覚えられません。

 

【新生】

2番目のプレゼントは新しく生まれることです。

私たちを新しく生まれ変わらせて下さることです。イエスの誕生は汚れた心を清くして、私たちの心を神の宿る清い場所としてくださいます。

馬小屋のように汚れた心を持っていた私たちを清い神の似姿としてくださいます。

主を信じ罪を悔い改めれば新しい人に変えてくださいます。

 

【永遠の生命】

3つ目のプレゼントは永遠の生命の始まりです。

神の正しい裁きによってわたしたちは罪の罰で永遠の滅亡の道にありますが、主イエスを信じると永遠の生命を戴きます。

肉体は滅んでも神の力と愛のよって復活し主イエスを信じる者には死は永遠の命の始まりになります。

 

【今年のクリスマス・プレゼントは】

愛する皆さん。もう一度質問ですが今年のクリスマスに神から頂くプレゼントは何ですか?

その答えは罪の赦し、新しく生まれること、永遠の命です。主を信じる者にはこれらのすばらしいプレゼントが自分のものとなります。

 

主はいつも私たちと共に居て生きる力を十分に与えて下さいます。

今年のクリスマスにみなさん一人一人が忘れることのないこれらの永遠のプレゼントを受け取って下さることを心からお祈りいたします。(おわり)

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2012年12月24日 | カテゴリー: マタイによる福音書

2012年9月2日説教「恐れを乗り越える」ウイイアム・モーア宣教師

2012年9月2日説教「恐れを乗り越える」ウイイアム・モーア宣教師
説教要約(文責近藤)

聖書;マタイ福音書8章23~27

23 イエスが舟に乗り込まれると、弟子たちも従った。
24 そのとき、湖に激しい嵐が起こり、舟は波にのまれそうになった。イエスは眠っておられた。25 弟子たちは近寄って起こし、「主よ、助けてください。おぼれそうです」と言った。26 イエスは言われた。「なぜ怖がるのか。信仰の薄い者たちよ。」そして、起き上がって風と湖とをお叱りになると、すっかり凪になった。
27 人々は驚いて、「いったい、この方はどういう方なのだろう。風や湖さえも従うではないか」と言った。

【大いなる時の声】
聖書と福音とイエス・キリストと教会とキリスト教信仰は人間の心に対する恐れに対する大いなる時の声です。
恐れはわたしたちの大敵です。恐れが私たちに入ると私たちの生きる力、生きがい、信仰さえも奪われます。

【悪魔の業】
悪魔は恐れを用いて神と人との関係、人と人との絆を攻撃し失望させ人を孤独と無力に陥れます。地獄の悪魔はそれを大喜びします。

恐れの原因には難病になる恐れ、職場と収入を失う恐れ、裏切られる恐れ、愛するものを失う恐れ、孤独になる恐れ、事業の失敗、間違いをする恐れ、悪い癖に負ける恐れ、死の恐れがあります。恐れは神の子である真の人間性を損ない、悪魔はこの恐れをもって神の子である人間をを自分の物にしようと企みます。

誰でも恐れを経験しますし、今もこれと闘っています。

だれでも恐れの厳しい害を受けたはずです。諦める者もあります。

【豊かに生きるため】
しかし神の言葉に頼ると恐れがなく生きられます。死と恐れはイエスが征服したからですす。

主は言われた
ヨハネによる福音書10章10  盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。11 わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。

私たちが豊かに生きるように主は恐れの力を克服しました。
十字架を通して主は私たちの恐れと死の力を克服し、勝利と自由に私たちを導きます。

今日の御言葉はそのことをはっきとりと教えます。もう一度今日の聖書箇所を聞いてください。(前記)

【ガリラヤ湖】
主はパレスチナを巡回して神の福音を伝え病を癒しました。主と弟子たちは主に徒歩でいきましたが、ある時は近道のためガリラヤ湖を船で渡りました。弟子の中には漁師がいました。ガリラヤ湖は琵琶湖の4分の1の大きさで、よく天候が急変しました。

24 そのとき、湖に激しい嵐が起こり、舟は波にのまれそうになった。イエスは眠っておられた。

普通の突風以上の激しい嵐に漁師の弟子たちは死の恐怖に襲われました。
自分の力ではどうしようもない死を待つのみの人生の嵐というものは誰にでも襲います。

わたしたちは病気や死の恐れの嵐、家庭内の混乱の嵐、経済的混乱の嵐に襲われます。

湖に激しい嵐が起こり弟子たちは死の恐怖に襲われました。そのような時、主は何をされたか。主は眠っておられたとは普通の人には考えられないことですが、主はそれほどに疲れに襲われていたでしょう。

【主を責める弟子たち】
弟子たちは眠っている主を起こし、「主よ、助けてください。おぼれそうです」と言った、とあります。ギリシャ語原文によると「主よ、救え。死にかかっている」とパニックになって、マルコ福音書では「私たちが溺れてもかまわないのですか」と言い、主は弟子たちのことを構っておられないと訴えました。恐れは神の助けと愛を、神の力を疑い周りの者を責めます。

恐れは以前に経験した神の救いの力と助けを忘れ失望させるのです。

パニックになるとイエスの力を信じられなくします。

恐れは豊かな命を奪い、夢をもつこと、愛することなどを難しくします。

弟子たちは嵐を恐れ、自分の無力を悟ると、少なくとも主を起して「主よ助けよ、死にかかっている」と叫びました。

【主の叱責】
主イエスは言われた。「26なぜ怖がるのか。信仰の薄い者たちよ。」なぜ同じ船に主がいるのにキリストの救いの力を疑うのか。
パニックになると信仰が薄くなり信頼している主さえ疑います。主は弟子たちを叱られたが、嵐をも叱られました。26節後半、

「そして、起き上がって風と湖とをお叱りになると、すっかり凪になった。」

27節に弟子たちの反応が書かれています。

人々は驚いて、「いったい、この方はどういう方なのだろう。風や湖さえも従うではないか」と言った。

嵐の中で再び主に信頼を置くことができました。

主が同じ船に乗っていたので救いがありました。パニックにならなくても良かったのです。

【恐れるな】
主イエスの多くの話は私たちが恐れないように命じておられます。

ルカによる福音書12章
「4友人であるあなたがたに言っておく。体を殺しても、その後、それ以上何もできない者どもを恐れてはならない。5 だれを恐れるべきか、教えよう。それは、殺した後で、地獄に投げ込む権威を持っている方だ。そうだ。言っておくが、この方を恐れなさい。
6 五羽の雀が二アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、神がお忘れになるようなことはない。
7 それどころか、あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。」

【思い悩むな】
マタイによる福音書6章25 「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。

ヨハネによる福音書 14:1 「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。

弟子たちは嵐の中で主を信じました。主がそばにいて同じ船におられるので恐れる必要はなかったが、しかし嵐があったからこそ彼らは救い主の力を信じました。

キリスト者にも人生の嵐があります。明日、あさって何が襲ってくるか。救い主と同じ船に乗っているなら主は嵐を鎮める力があります。わたしたちは主を信じ、どんなことがあっても恐れることなく豊かに生きることができます。(おわり)

2012年09月02日 | カテゴリー: マタイによる福音書

2012年4月15日「子どものようにさせられて」片桐耕治神学生説教奉仕

2012年4月15日片桐耕治神学生説教奉仕;

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マタイによる福音書17章24 彼らがカペナウムにきたとき、宮の納入金を集める人たちがペテロのところにきて言った、「あなたがたの先生は宮の納入金を納めないのか」。
25 ペテロは「納めておられます」と言った。そして彼が家にはいると、イエスから先に話しかけて言われた、「シモン、あなたはどう思うか。この世の王たちは税や貢をだれから取るのか。自分の子からか、それとも、ほかの人たちからか」。
26 ペテロが「ほかの人たちからです」と答えると、イエスは言われた、「それでは、子は納めなくてもよいわけである。
27 しかし、彼らをつまずかせないために、海に行って、つり針をたれなさい。そして最初につれた魚をとって、その口をあけると、銀貨一枚が見つかるであろう。それをとり出して、わたしとあなたのために納めなさい」。
18章1 そのとき、弟子たちがイエスのもとにきて言った、「いったい、天国ではだれがいちばん偉いのですか」。2 すると、イエスは幼な子を呼び寄せ、彼らのまん中に立たせて言われた、3 「よく聞きなさい。心をいれかえて幼な子のようにならなければ、天国にはいることはできないであろう。4 この幼な子のように自分を低くする者が、天国でいちばん偉いのである。5 また、だれでも、このようなひとりの幼な子を、わたしの名のゆえに受けいれる者は、わたしを受けいれるのである。


2012年04月16日 | カテゴリー: マタイによる福音書 , 新約聖書

「宗教と信仰の違い」ウイリアム・モーア2011.7.24

聖書;マタイによる福音書7章21−23

【バルト博士の床屋さんに会った】

カール•バルト博士は有名なスイスの改革派主義神学者でした。ある日、スイスのバーゼル市に住みバルト先生は路面電車に乗ると、一人の観光客が彼の側に座りました。その二人は直ぐに歓談に入り、バルト先生が、「バーゼルは始めてですか」と観光客に聞きました。「そうだ、まったく始めてです」と返事すると、バルト先生は、「じゃ、始めてでしたら、こちらで特別にしたい事がありますか」と聞きました。すると、観光客は、「実は、有名な神学者カール•バルト博士 に会いたいです。彼の本を全部読んで、とても影響を受けたからです。ひょっとしてバルト博士を御存知ですか」と尋ねました。そうすると、バルト先生は冗談でこう言いました。「私はあの人をよく知っています。実は、毎朝彼のひげを剃っているよ。」観光客はそれを聞くと喜んで相手に「さようなら」と言って、ホテルへ帰りながら自分に、「僕は本当にラッキーな人だな。バルト博士の床屋さんに会った」と嬉しそうに言いました。

 

2011年07月24日 | カテゴリー: マタイによる福音書 , 新約聖書

「二つの誘惑」ウイリアム・モーア2011.3.27

創世記2章15−17;3章1−7

マタイによる福音書4章1−11

 

【空腹の子】

ある小学生の男の子は学校の帰りに一人で近所のスーパーに入り、お菓子の所へ行きました。そして、お腹が空いて来た彼は一番好きなお菓子を手に取り、ずっと眺めました。それを買って食べたいけれども、一円も持って来なかったので買う事は無理だと分かりました。しかし、お菓子を眺める程、腹ぺこになり、うっかりそのお菓子を開けてしまいました。

 

その瞬間お店の人がそれを見て、男の子に、「君は何をしたの」と聞きました。そして、男の子は、慌てて、「何もしてないよ、何もしてないよ」と言いました。店員さんは、「君はお菓子を開けて食べようとしたじゃないか」と聞くと、坊やは泣きながらこう返事しました。「違うよ。まだ食べてない。僕はただお菓子を食べないように頑張っていたよ」と言いました。

 

【二つの誘惑】

私たちは一人も残らず坊やの気持ちがよく分かると思います。それは誘惑を受ける事と誘惑と戦う事です。今朝、誘惑の事について一緒に考えたいと思います。今日与えられた二つの聖書の個所は、御言葉の中の最も有名な誘惑のお話になります。

 

最初の人間アダムとその妻エバの誘惑と、神の御子イエス・キリストの誘惑であります。両方は誘惑されましたが、アダムとエバは誘惑に負けて、エデンの園から追い出されました。その反対に、主イエス・キリストは誘惑の上に勝利を得て、人類の為に大きな恵みをもたらして下さいました。ですから、私たちは両方の誘惑から学ぶとき、誘惑に対する私たちの正しい戦略と態度を習得します。

 

2011年03月27日 | カテゴリー: マタイによる福音書 , 創世記 , 新約聖書 , 旧約聖書

「神からの報い」ウイリアム・モーア2011.3.13

【素晴らしいコンサート】

音楽大好きな紳士はオーケストラの演奏へ行って素晴らしいコンサートを楽しみました。演奏が終わると紳士は近くに立っている席案内人の二人に気づきました。何故なら、その二人は誰よりもその演奏に拍手して、ブラボー、ブラボーと叫びました。殆ど毎日素晴らしい音楽を聞ける案内係はその晩の演奏を特に高く評価する様子を見た紳士はスリルを感じました。ですから紳士はなおさら演奏が素晴らしいものだと思い感謝し、尚も熱心に拍手しました。

 

【その動機は別】

しかし、彼は案内係の話をふと耳にしました。一人が同僚に耳うちしました。「もっと続けて拍手しましょう。アンコールをもう一度させると、コンサートを長引かせ、俺たちは残業手当が貰えるぞ。」

 

様子を見ると彼等はすぐれた音楽のよさが分かって、拍手を続けていたのす。が、その動機は全く別のものでした。彼等は僅かでも収入を増やす為、残業手当の時間を延ばしていたのです。

2011年03月13日 | カテゴリー: マタイによる福音書 , 新約聖書

「ある母親の信仰」ウイリアム・モーア2010.5.9.

  

マタイによる福音書15章21−28

◆カナンの女の信仰

 21:イエスはそこをたち、ティルスとシドンの地方に行かれた。22:すると、この地に生まれたカナンの女が出て来て、「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています」と叫んだ。23:しかし、イエスは何もお答えにならなかった。そこで、弟子たちが近寄って来て願った。「この女を追い払ってください。叫びながら    ついて来ますので。」24:イエスは、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」とお答えになった。25:しかし、女は来て、イエスの前にひれ伏し、「主よ、どうかお助けください」と言った。26:イエスが、「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」とお答えになると、 27:女は言った。「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」28:そこで、イエスはお答えになった。「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」そのとき、娘の病気はいやされた。    

 

【「母の日」の起源】

御存知のように今日は母の日です。改革主義キリスト教会は聖書に載っていない行事や祭日をあまり重んじませんけれども、母の日は特別なケースです。何故なら、母の日は教会で生まれたからです。アメリカのウェストヴァージニア州出身、アンナ・マリー・ジャービス夫人が自分のお母さんの死後2年経った1907年5月12日に、亡き母親の愛と信仰を偲び、そして、全ての母親に感謝と敬意を現す為に、母が忠実に日曜学校の教師をしていた教会で、始めての母の日をお祝いました。アンナ・ジャービスは友人たちに「母の日」を作って国中で祝うことを提案し、1914年に「母の日」はアメリカの祝日になり、5月の第2の主の日と定められました。更に、母の日の運動が段々国際的になり、現在、世界中、約150国で祝っています。

 

母の日に私達は母親に敬意と感謝を表して、母を通して頂いた多くの祝福と恵みの為に神様に感謝します。私達例外なく、母親から生まれましたので、皆はこの母の日に参加出来ます。

2010年05月09日 | カテゴリー: マタイによる福音書 , 新約聖書

「私たちの使命」ウイリアム・モーア2010.4.11

聖書:マタイによる福音書28章16−20

◆弟子たちを派遣する

 16:さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。17:そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。

 18:イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。19:だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、20:あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」

 

【イースターの二つの賜物】

先週の主の日、私たちはイエス・キリストの復活を一緒にお祝いしました。主イエスは敵の手によって十字架につけて殺されましたが、神の力によって三日目に蘇られたのです。その神の奇跡的しるしを通して、私たちの為に二つの素晴らしい賜物が与えられています。

 

先ず、復活を通して父なる神が主イエスの十字架の死は私達の為の贖い死であった事を承認されました。ですから、主の贖い死と復活のお陰で罪の滅ぼす力が壊されました。

 

そして、更に、主の復活を通して神は死の力も征服して下さいました。神はイエス・キリストを復活した、その同じ力で、私たち、イエスを信じる者を永遠の命に復活して下さいます。この二つの貴重な霊的賜物は私達に与えられています。

 

2010年04月11日 | カテゴリー: マタイによる福音書 , 新約聖書

「エルサレムへの道」ウイリアム・モーア2010.3.21

 

マタイによる福音書21章111◆エルサレム入城

  1:一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山沿いのベトファゲに来たとき、イエスは二人の弟子を使いに出そうとして、  2:言われた。「向こうの村へ行きなさい。するとすぐ、ろばがつないであり、一緒に子ろばのいるのが見つかる。それをほどいて、わたしのところに引いて来なさい。3:もし、だれかが何か言ったら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。すぐ渡してくれる。」4:それは、預言者を通して言われていたことが実現するためであった。5:「シオンの娘に告げよ。『見よ、お前の王がお前のところにおいでになる、/柔和な方で、ろばに乗り、/荷を負うろばの子、子ろばに乗って。』」

  6:弟子たちは行って、イエスが命じられたとおりにし、7:ろばと子ろばを引いて来て、その上に服をかけると、イエスはそれにお乗りになった。8:大勢の群衆が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は木の枝を切って道に敷いた。9:そして群衆は、イエスの前を行く者も後に従う者も叫んだ。「ダビデの子にホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。いと高きところにホサナ。」

 10:イエスがエルサレムに入られると、都中の者が、「いったい、これはどういう人だ」と言って騒いだ。11:そこで群衆は、「この方は、ガリラヤのナザレから出た預言者イエ    スだ」と言った。

 

【凱旋行進】

イエス•キリスト当時のローマ帝国の事ですが、皇帝か将軍が国の為に大きな戦勝を得た時、勝利の入城が与えられました。つまり、勝利者が帝国の都のローマに帰ると、特別な祭日が宣言され、素晴らしい行進があったのです。

 

行列の先頭に数十人のラッパ手が勝利の入城を通告しました。次は何十台もの荷馬車が敗北した敵から取った戦利品を展示したのです。その後は神殿で生け贄になる何頭の立派な白い牛が歩きました。そして、白い牛の後ろに囚人になった負けた王とその家族を始め、縛られた敗北軍の偉い幹部も歩きました。次は、勝利者の補佐たちが立派な馬に乗ってローマに入りました。その次は、勝利者自身が現われたのです。彼は四頭の白馬が引いた素敵な二輪戦車に乗りました。その後ろに勝利者の息子達と幹部が入りました。そして、最後に勝利を得た大軍が皆の前に分列行進しました。

 

貴族から平民まで、全てのローマの住民が道路に並んで、勝利者の行列を歓迎しました。その勝利の入城は大抵3時間程かかり、大変素晴らしい光景を呈したのです。

2010年03月21日 | カテゴリー: マタイによる福音書

「主イエスのもとに来てください」伊丹教会牧師橋谷英徳2010.3.14

CIMG9623.JPG聖書:マタイによる福音書第5章1~12節

◆山上の説教を始める

  1:イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。2:そこで、イエスは口を開き、教えられた。

◆幸い

  3:「心の貧しい人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。

  4:悲しむ人々は、幸いである、/その人たちは慰められる。

  5:柔和な人々は、幸いである、/その人たちは地を受け継ぐ。

  6:義に飢え渇く人々は、幸いである、/その人たちは満たされる。

  7:憐れみ深い人々は、幸いである、/その人たちは憐れみを受ける。

  8:心の清い人々は、幸いである、/その人たちは神を見る。

  9:平和を実現する人々は、幸いである、/その人たちは神の子と呼ばれる。

 10:義のために迫害される人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。

 11:わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。

 12:喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」

 

1.あいさつ

 

きょう、この日曜日に皆さんとともに礼拝をささげることができますことを心から感謝しております。

 

今日は、モーア先生が伊丹の教会の礼拝で説教の奉仕をなさり、私がここにまいりました。今年は相談をいたしまして、1年に3回、このようなときを持つことを予定しています。このようなことをここで致しますのは、私たちが共に離れた場所、異なる土地で礼拝をささげていましても、共に一つの同じ教会に連なっているのだということを覚えるためです。モーア先生も私もそのことを実感することを必要としています。そして、それぞれの教会の方々にも、一つの教会であることを実感することが必要です。このことが一つの助けにはなるでしょう。

 

日曜日の礼拝のたびにいつも私たちが「ああ今、この同じ時間に伊丹でも礼拝がささげられているのだなあ」、また伊丹でも「今、西谷でも礼拝がささげられているのだなあ」と覚えていただくと良いと思います。あるいはまた病気のためにここに来られない人たちや、遠方にいる人たちのこと、そういう人たちのことも覚えながら、私たちが一つになって共に主を礼拝してゆきたいのです。

2010年03月14日 | カテゴリー: マタイによる福音書 , 新約聖書

「無常の時代に住むための信仰(3):神の国と神の義を求めよ」ウイリアム・モーア2010.2.14

マタイによる福音書6:25−34◆思い悩むな

 25:「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。26:空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。27:あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。28:なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。29:しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。30:今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ。

 31:だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。32:それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。33:何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。34:だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」

 

【思い起こす】

私達はこのところ「無常の時代に住むための信仰」を学んで来ました。先週、キリスト者にとって「思い起こす」ことの重要性を聖書から学びました。信仰に於いて私達の先祖と同じように、過去にある神の御業と恵みを常に思い起こさなければなりません。特に現在の無常の時代、いたるところに激しい変化の時代に生きる私達の為の変わらぬ神の祝福を「思い起こす」べきであります。そして、信仰を持って、現在と将来にその同じような祝福が期待出来ます。確かな希望を抱いて、この難しい時でも、イスラエルの王ダビデと共にこう言えます。「命のある限り、恵みと慈しみはいつも私を追う。主の家に私は帰り、生涯、そこにとどまるであろう。」(詩編23:6)

2010年02月14日 | カテゴリー: マタイによる福音書 , 新約聖書

「エジプトに避難」ウイリアム・モーア 2009.12.27

聖書:マタイによる福音書2章13−23

◆エジプトに避難する

 13:占星術の学者たちが帰って行くと、主の天使が夢でヨセフに現れて言った。「起きて、子供とその母親を連れて、エジプトに逃げ、わたしが告げるまで、そこにとどまっていなさい。ヘロデが、この子を探し出して殺そうとしている。」14:ヨセフは起きて、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトへ去り、15:ヘロデが死ぬまでそこにいた。それは、「わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した」と、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。

◆ヘロデ、子供を皆殺しにする

 16:さて、ヘロデは占星術の学者たちにだまされたと知って、大いに怒った。そして、人を送り、学者たちに確かめておいた時期に基づいて、ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を、一人残らず殺させた。17:こうして、預言者エレミヤを通して言われていたことが実現した。 18:「ラマで声が聞こえた。激しく嘆き悲しむ声だ。ラケルは子供たちのことで泣き、/慰めてもらおうともしない、/子供たちがもういないから。」

◆エジプトから帰国する

 19:ヘロデが死ぬと、主の天使がエジプトにいるヨセフに夢で現れて、20:言った。「起きて、子供とその母親を連れ、イスラエルの地に行きなさい。この子の命をねらっていた者どもは、死んでしまった。」21:そこで、ヨセフは起きて、幼子とその母を連れて、イスラエルの地へ帰って来た。22:しかし、アルケラオが父ヘロデの跡を継いでユダヤを支配していると聞き、そこに行くことを恐れた。ところが、夢でお告げがあったので、ガリラヤ地方に引きこもり、23:ナザレという町に行って住んだ。「彼はナザレの人と呼ばれる」と、預言者たちを通して言われていたことが実現するためであった。

 

教会暦年のクリスマス】

私にとって、クリスマス後の数日はちょっと寂しい時期になります。何故なら、キリスト教会の暦年によりますと、クリスマス・シーズンはキリストの御降誕日12月25日から1月6日まで続きます。しかしながら、一般の社会を見たら、クリスマスはクリスマスイブ、つまり、御降誕日の前の日までのようです。ある場合はクリスマスイブの前日位からクリスマスのライトや飾りなどが店から消えてしまい、スピーカから流れるクリスマス•キャロルも聞こえなくなります。そして、お正月の商戦が激しく始まります。

 

2009年12月27日 | カテゴリー: マタイによる福音書 , 新約聖書

とこしえに揺らぐことがない者 ウイリアム・モーア

聖書:詩編15篇1−5

1:【賛歌。ダビデの詩。】主よ、どのような人が、あなたの幕屋に宿り/聖なる山に住むことができるのでしょうか。2:それは、完全な道を歩き、正しいことを行う人。心には真実の言葉があり3:舌には中傷をもたない人。友に災いをもたらさず、親しい人を嘲らない人。4:主の目にかなわないものは退け/主を畏れる人を尊び/悪事をしないとの誓いを守る人。5:金を貸しても利息を取らず/賄賂を受けて無実の人を陥れたりしない人。これらのことを守る人は/とこしえに揺らぐことがないでしょう。

          
【主の日の礼拝】
今朝私達は神を礼拝する為にこの所に集って参りました。毎週、日曜日の朝ごとにここに集まる動機は色々あると思いますが、基本的に私達は恵み深い誠の生ける神を誉め讃える為に、暇だからではなく、心こめて主の日の礼拝に参加します。
 
この美しい世界と莫大な宇宙を無から創造し、全人類一人一人も貴重にお造りになりました。思い返せば、日々の生活が全能の神によって守られ、支えられる事にすぐ気付きますので、そういう神に感謝を持って主の御前に出たいのです。ですから、愛する神に感謝と讃美を示す目的で、今朝ここに集いました。何よりも、その為に私達は御言葉を持って讃美し、感謝のお祈りを捧げます。

2009年11月08日 | カテゴリー: マタイによる福音書 , ヨハネの手紙一 , 新約聖書 , 旧約聖書 , 詩篇

「人を裁く前に」淀川キリスト教病院伝道部長 田村英典

聖書:マタイ7章1~6◆人を裁くな

  1:「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。2:あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。3:あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。4:兄弟に向かって、『あなたの目からおが屑を取らせてください』と、どうして言えようか。自分の目に丸太があるではないか。5:偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からおが屑を取り除くことができる。6:神聖なものを犬に与えてはならず、また、真珠を豚に投げてはならない。それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたにかみついてくるだろう。」  

【人を裁くな】
前回は、「人を裁くな」というイエスの教えが、他者への裁きを全て禁じるのではなく、むしろ教会も私たち個々人も、正しい裁きと批判はする義務があること、またこの教えは、すぐ人を詮索し、あら探しをしやすい生れながらの私たちの内にある罪の習性としての裁き癖を問題とし、それを禁じていることを確認しました。今朝も更に学びます。

2009年08月23日 | カテゴリー: マタイによる福音書 , 新約聖書

「人を裁くな」淀川キリスト教病院伝道部長 田村英典

聖書:マタイ福音書7章◆人を裁くな

  1:「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。2:あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。3:あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。   4:兄弟に向かって、『あなたの目からおが屑を取らせてください』と、どうして言えようか。自分の目に丸太があるではないか。5:偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からおが屑を取り除くことができる。6:神聖なものを犬に与えてはならず、また、真珠を豚に投げてはならない。それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたにかみついてくるだろう。」

 
【人を裁くな】
今朝は、私たちの誰もが犯しやすい過ちの一つに対する主イエスの教えを学びます。主は言われました。7:1「人を裁くな。」
 
この世では、裁き合いなどは日常茶飯事で、お互いさまかも知れません。しかし、「あの人は最低だ。何も分っていない」などという裁き合いが、家や職場、特に教会で見られるなら、どうでしょうか。心からの礼拝はできないと思います。口には出さなくても心の中で裁き合っているなら、それは神の教会を破壊します。ですから、この主の戒めは、誰もが肝に銘じなくてはならないとても大切なものです。

2009年08月16日 | カテゴリー: マタイによる福音書 , 新約聖書

「明日のことを思い悩むな-今日を生きる」 淀川キリスト教病院伝道部長田村英典

聖書:マタイによる福音書6章25~34◆思い悩むな

 25:「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。 26:空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。27:あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。  28:なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、    注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。29:しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。30:今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ。  31:だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。32:それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。  33:何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。34:だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」


 
【思い悩むな】
マタイ福音書6章25節以降の「思い悩むな」というイエス・キリストの教えを今日も学びます。
人間誰しも好き好んで思い悩む訳ではありません。思い悩まないのに越したことはありません。しかし、現実にはあれこれ思い悩んでしまいます。しかも、そこには私たちを神から引き離そうとするサタンの働きがあります。ですから、イエスは私たちにこの問題についてお教え下さるのです。

2009年07月26日 | カテゴリー: マタイによる福音書 , 新約聖書

「まず神の国と神の義を」淀川キリスト教病院伝道部長 田村英典

聖書:マタイ6:25~34◆思い悩むな

 25:「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。

 26:空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。

 27:あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。

 28:なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。

 29:しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。

 30:今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ。

 31:だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。

 32:それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。

 33:何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。

 34:だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」


 

【思い悩むな】
今日もマタイ6章25節以降の「思い悩むな」という主イエス・キリストの御声に耳を傾けたいと思います。

前回お話しましたが、自分の将来についてよく考え計画することは、神がご自身に似せて造られた私たちに求めておられることです。しかし、あまり先々のことまで心配し思い悩むことは、神の御心ではありません。

2009年07月19日 | カテゴリー: マタイによる福音書 , 新約聖書

「思い悩むな」淀川キリスト教病院伝道部長 田村英典牧師

聖書:マタイによる福音書6章25~34節

思い悩むな25:「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。


26:空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。


27:あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。28:なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。


29:しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。30:今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ。


31:だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。32:それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。


33:何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。


34:だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」


【悪魔とともに滅びないために】
今朝は「思い悩むな」という主イエス・キリストの教えを学びます。

まず、ここで主イエスが何を一番問題としておられるかを確認しておきます。それは、私たちの魂を神から離して滅ぼそうとするサタン、悪魔の巧妙な手口です。

クリスチャンは、主イエスを通して日々神との交わりに生き、主に執り成され、神との生きた関係に生きる者です。しかし、この大切な神との縦の関係と共に、私たちはこの世との様々な横の関係にも生きます。そのため、しばしば神との関係を危うくされる危険性があります。イエスは6章19節以降で、この世の宝や富に固執する危険性を言われますが、25節以降でも、目に見えるもの、この世だけに属するものに私たちが心を奪われ、神との関係を損う危険性のあることに注意を促されます。私たちは今一度、サタンの恐るべき力と巧妙さを思い起すべきでしょう。

2009年06月28日 | カテゴリー: マタイによる福音書 , 新約聖書

「永遠のいのちを得るには」 田中茂樹先生

田中茂樹先生


聖書:マタイ 19章16~26◆金持ちの青年

16:さて、一人の男がイエスに近寄って来て言った。「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか。」17:イエスは言われた。「なぜ、善いことについて、わたしに尋ねるのか。善い方はおひとりである。もし命を得たいのなら、掟を守りなさい。」


18:男が「どの掟ですか」と尋ねると、イエスは言われた。「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、 19:父母を敬え、また、隣人を自分のように愛しなさい。』」


20:そこで、この青年は言った。「そういうことはみな守ってきました。まだ何か欠けているでしょうか。」 21:イエスは言われた。「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」22:青年はこの言葉を聞き、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。


23:イエスは弟子たちに言われた。「はっきり言っておく。金持ちが天の国に入るのは難しい。24:重ねて言うが、金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」


25:弟子たちはこれを聞いて非常に驚き、「それでは、だれが救われるのだろうか」と言った。


26:イエスは彼らを見つめて、「それは人間にできることではないが、神は何でもできる」と言われた。


【救世軍の社会鍋】
もう今から30年以上前の話で、私が学生だった時の話です。年が明けてから暫くしたある日、下級生のクリスチャンから相談を受けました。その学生が言うには、年末に、年末助け合い募金を募っている救世軍の社会鍋に出会ったというのです。そこで、この学生、貧しい財布の中から僅かながら献金をしたというのですが、その時、心の内に、「それだけで良いのか、全てを捧げなくても良いのか」という声が響いたと言うのですね。勿論、出来れば多くを捧げたい、だけど、全てを捧げたら、自分の生活が出来なくなってしまう。自分の中で言い争う2つの声があるのだけれど、それでも「持ち物を全て処分してでも、全てを捧げなくても良いのか」と言う声が響いて、いつまでも響いて、自分では、どのようにすれば良いのか解らないのです、という相談でした。

クリスチャンとして極めて真面目な学生でしたから、貧しい人に対して、隣人に対して、愛の手を差し出すべきだという思いと同時に、恐らくは、本日お読みしました「富める青年」の話が、――実は、相談に来た彼女は、富めると言うよりも、むしろ貧しい学生だったのですけれども――、彼女を悩ませているのだろうと思ったのです。

2009年05月10日 | カテゴリー: マタイによる福音書 , 新約聖書

なぜわたしをお見捨てになったのですか ウイリアム・モーア宣教師

マタイによる福音書27章27−50◆兵士から侮辱される

27:それから、総督の兵士たちは、イエスを総督官邸に連れて行き、部隊の全員をイエスの周りに集めた。28:そして、イエスの着ている物をはぎ取り、赤い外套を着せ、29:茨で冠を編んで頭に載せ、また、右手に葦の棒を持たせて、その前にひざまずき、「ユダヤ人の王、万歳」と言って、侮辱した。30:また、唾を吐きかけ、葦の棒を取り上げて頭をたたき続けた。31:このようにイエスを侮辱したあげく、外套を脱がせて元の服を着せ、十字架につけるために引いて行った。

◆十字架につけられる

32:兵士たちは出て行くと、シモンという名前のキレネ人に出会ったので、イエスの十字架を無理に担がせた。33:そして、ゴルゴタという所、すなわち「されこうべの場所」に着くと、34:苦いものを混ぜたぶどう酒を飲ませようとしたが、イエスはなめただけで、飲もうとされなかった。35:彼らはイエスを十字架につけると、くじを引いてその服を分け合い、36:そこに座って見張りをしていた。37:イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王イエスである」と書いた罪状書きを掲げた。38:折から、イエスと一緒に二人の強盗が、一人は右にもう一人は左に、十字架につけられていた。39:そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしって、40:言った。「神殿を打ち倒し、三日で建てる者、神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。」41:同じように、祭司長たちも律法学者たちや長老たちと一緒に、イエスを侮辱して言った。42:「他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう。 43:神に頼っているが、神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ。『わたしは神の子だ』と言っていたのだから。」44:一緒に十字架につけられた強盗たちも、同じようにイエスをののしった。

◆イエスの死

45:さて、昼の十二時に、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。46:三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。47:そこに居合わせた人々のうちには、これを聞いて、「この人はエリヤを呼んでいる」と言う者もいた。48:そのうちの一人が、すぐに走り寄り、海綿を取って酸いぶどう酒を含ませ、葦の棒に付けて、イエスに飲ませようとした。 49:ほかの人々は、「待て、エリヤが彼を救いに来るかどうか、見ていよう」と言った。50:しかし、イエスは再び大声で叫び、息を引き取られた。



【東独・放送タワーに現れた十字架】

旧東ドイツの共産主義の時代、あるシンボルがその国のキリスト者に大きな慰めと希望を与えました。それは高層テレビ放送タワーでした。政府がその放送タワーを通して無神論宣伝を国民に送りましたが、一つの問題があったのです。それはタワーの天辺に球状の形のレストランがありました。そして、太陽の光がその球状に当たると、いつも眩しい十字架が映されました。その十字架は有名になり、共産党の政権を当惑させられました。ですから、当局がその十字架を消す為に、あらゆる手段を尽くしました。ペンキを塗ったり、球状の表面にあったガラスにコーテイングを付けたりしましたが、全く役に立ちませんでした。十字架は尚更眩しく映され、キリスト者に大きな励みになりました。ある牧師が十字架の現象についてこのように言いました。「当局がいくらで無神論主義を主張しても、十字架を私達の国から消す事は出来ない。」

2009年04月05日 | カテゴリー: マタイによる福音書 , 新約聖書

クリスマスに応えて ウイリアム・モーア宣教師

マタイによる福音書2章1−12◆占星術の学者たちが訪れる

1:イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、2:言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」 3:これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。

4:王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした。5:彼らは言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いてい ます。6:『ユダの地、ベツレヘムよ、/お前はユダの指導者たちの中で/決していちばん小さいものではない。お前から指導者が現れ、/わたしの民イスラエルの牧者となるからである。』」 7:そこで、ヘロデは占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめた。8:そして、「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」と言ってベツレヘムへ送り出した。

9:彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。10:学者たちはその星を見て喜びにあふれた。11:家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。12:ところが、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。


【最大のクリスマス・プレゼント】
メリークリスマス!今日、私達は主イエス・キリストの御降誕の記念日、クリスマスをお祝い致します。2000数年前に愛である全能の神が全人類の永遠の救いの為、御独り子イエスをこの世に遣わして下さいました。その驚くべき恵みの御業によって、唯一の神は私達に最大のプレゼントを下さいました。ですから、今日その比類なき、貴重なクリスマス•プレゼントを感謝し、記念する為に私達はここに集まりました。

2008年12月21日 | カテゴリー: マタイによる福音書 , 新約聖書

「強風を見て」淀川キリスト教病院付牧師 田村英典

マタイ14章22~33◆湖の上を歩く

22:それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸へ先に行かせ、その間に群衆を解散させられた。23:群衆を解散させてから、祈るためにひとり山にお登りになった。夕方になっても、ただひとりそこにおられた。24:ところが、舟は既に陸から何スタディオンか離れており、逆風のた めに波に悩まされていた。25:夜が明けるころ、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに行かれた。26:弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、「幽霊だ」と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声をあげた。27:イエスはすぐ彼らに話しかけられた。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」28:すると、ペトロが答えた。「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください。」29:イエスが「来なさい」と言われたので、ペトロは舟から降りて水の上を歩き、イエスの方へ進んだ。

30:しかし、強い風に気がついて怖くなり、沈みかけたので、「主よ、助けてください」と叫んだ。31:イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われた。32:そして、二人が舟に乗り込むと、風は静まった。33:舟の中にいた人たちは、「本当に、あなたは神の子です」と言ってイエスを拝んだ。


【ペトロの失敗に学ぶ】
今日の箇所は、主イエス・キリストが正に全知全能の神の独り子であられることを示す有名な箇所の一つです。しかし、今朝はその点ではなく、ペトロが湖の上を歩こうとして失敗した出来事から学びたいと思います。

ペトロは信仰的にとても勇敢に行動し始めました。しかし、その後、困難を覚え、ぶざまな姿を露呈しました。最初は信仰に満ち溢れていました。でも後には、惨めな挫折者となり、悲鳴を上げ、イエスに助けを叫び求めました。

2008年10月26日 | カテゴリー: マタイによる福音書 , 新約聖書

「迫害に遭っても喜ぶ」マタイ福音書5章11~12 淀川キリスト教病院牧師 田村英典

淀川キリスト教病院牧師 田村英典

聖書:マタイ5章(山上の説教)

1:イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。2:そこで、イエスは口を開き、教えられた。

◆幸い

3:「心の貧しい人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。

4:悲しむ人々は、幸いである、/その人たちは慰められる。

5:柔和な人々は、幸いである、/その人たちは地を受け継ぐ。

6:義に飢え渇く人々は、幸いである、/その人たちは満たされる。

7:憐れみ深い人々は、幸いである、/その人たちは憐れみを受ける。

8:心の清い人々は、幸いである、/その人たちは神を見る。

9:平和を実現する人々は、幸いである、/その人たちは神の子と呼ばれる。

10:義のために迫害される人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。

11:わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。

12:喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」


【迫害を受けるクリスチャンの反応】
マタイ5章の冒頭にあるイエスの教えから、真のクリスチャンとはどういう者かを学んでいます。イエスは3~10節で8つの側面からそれを描かれますが、その最後は10節

「義のために迫害される」


という点です。今日の11、12節は10節の続きであり、補足説明と言えます。

2008年08月10日 | カテゴリー: ヘブライ人への手紙 , ペトロの手紙一 , マタイによる福音書 , ヤコブの手紙 , ルカによる福音書 , ローマの信徒への手紙 , 新約聖書

御名を知る人 ウイリアム・モーア宣教師

詩編9:1−21

1:【指揮者によって。ムトラベンに/合わせて。賛歌。ダビデの詩。】

2:わたしは心を尽くして主に感謝をささげ/驚くべき御業をすべて語り伝えよう。3:いと高き神よ、わたしは喜び、誇り/御名をほめ歌おう。4:御顔を向けられて敵は退き/倒れて、滅び去った。5:あなたは御座に就き、正しく裁き/わたしの訴えを取り上げて裁いてくださる。6:異邦の民を叱咤し、逆らう者を滅ぼし/その名を世々限りなく消し去られる。7:敵はすべて滅び、永遠の廃虚が残り/あなたに滅ぼされた町々の記憶も消え去った。8:主は裁きのために御座を固く据え/とこしえに御座に着いておられ る。9:御自ら世界を正しく治め/国々の民を公平に裁かれる。10:虐げられている人に/主が砦の塔となってくださるように/苦難の時の砦の塔となってくださるように。

11:主よ、御名を知る人はあなたに依り頼む。あなたを尋ね求める人は見捨てられることがない。12:シオンにいます主をほめ歌い/諸国の民に御業を告げ知らせよ。13:主は流された血に心を留めて/それに報いてくださる。貧しい人の叫びをお忘れになることはない。14:憐れんでください、主よ/死の門からわたしを引き上げてくださる方よ。御覧ください/わたしを憎む者がわたしを苦しめているのを。

15:おとめシオンの城門で/あなたの賛美をひとつひとつ物語り/御救いに喜び躍ることができますように。16:異邦の民は自ら掘った穴に落ち/隠して張った網に足をとられる。17:主が現れて裁きをされるとき/逆らう者は/自分の手が仕掛けた罠にかかり〔ヒガヨン・セラ

18:神に逆らう者、神を忘れる者/異邦の民はことごとく、陰府に退く。

19:乏しい人は永遠に忘れられることなく/貧しい人の希望は決して失われない。20:立ち上がってください、主よ。人間が思い上がるのを許さず/御顔を向けて異邦の民を裁いてください。

21:主よ、異邦の民を恐れさせ/思い知らせてください/彼らが人間にすぎないことを。〔セラ


【あるインデイアンの成人式】
昔のアメリカインデイアンのある部族には青年の訓練の独特のやり方がありました。先ず、13歳位になる青年達は一人前になる為にその父親はもちろん、部族の長老達によって色んな技術を教えてもらいました。魚釣り、狩猟、乗馬、弓術などのような必要な事をしっかり訓練させられました。そして、最後には青年達は試練を受けなければなりませんでした。それは独りで森林の中で一夜を過ごす事です。その時点まで青年はいつも家族の保護に囲まれ、部族から離れた事が一度もありませんでした。しかし、試練の夜、彼は目隠しされ、深い森の中の知らない所へ案内されました。そして、「暫く目隠しを取ってはいけない」と注意されてから、案内する人が去ってしまいました。言うまでもないが、青年は目隠しを外した時、恐れを感じました。暗い夜に色んな不気味な音が聞こえました。そして、その全ての音は襲って来る野獣の現れだと想像したのです。寂しくなってどうしても家に帰りたかったのです。更に、夜の寒さを感じると、震えました。眠る事が出来なくて、地面に座り泣きたいのを我慢し、声も出さず息を抑えて、ただじっとするしかなかったのです。

2008年07月13日 | カテゴリー: イザヤ書 , マタイによる福音書 , 新約聖書 , 旧約聖書 , 詩篇

パン種に似ている天の国 ウイリアム・モーア宣教師

マタイによる福音書13章33−35節

33:また、別のたとえをお話しになった。「天の国はパン種に似ている。女がこれを取って三サトンの粉に混ぜると、やがて全体が膨れる。」 ◆たとえを用いて語る  34:イエスはこれらのことをみな、たとえを用いて群衆に語られ、たとえを用いないでは何も語られなかった。  35:それは、預言者を通して言われていたことが実現するためであった。「わたしは口を開いてたとえを用い、/天地創造の時から隠されていたことを告げる。」  

 
【パン種】
皆さん、手製のパンを作った事がありますか。もし作った事があればその基本的材料を思い浮かべるでしょう。小麦粉、砂糖、塩、水、と油ですね。その材料を捏ねて、発酵して焼くと、美味しいパンが食べられるでしょう。実は、その材料だけを用いたら、美味しいパンどころか、全く食べられない物になります。ふわふわするパンになるどころか煉瓦のような成果をあげてしまいます。忘れてはならない一つの材料が分かりますか。それはもちろんパン種です。パン種を加えないと、焼く時、パンが食べられない程固くなり、捨てるしかありません。
 
【パン種を入れ忘れた】
実は家内は昨日YWCAの委員会があって、金曜日の夜、遅くまでその会議のおやつになるバナナパンを作っていました。朝、起きてみるとパン種をうっかり入れ忘れて、固く、全然膨らんでませんでした。家内は特別に美味しくする為にアーモンドペーストまでも入れたのに、「パン種を忘れたのよ」と嘆きました。そして、残ってしまったそのぺちゃんこバナナパンは私のおやつになりました。
 
パンを作る時、パン種を少し入れますと、生地が段々膨らんでパンは軽くなり、美味しく食べられます。パン種は酵母菌で、発酵させると二酸化炭素が生じます。そして、その気体が生地に泡を作り、膨らみます。生地を焼く時、泡が残り、柔らかいパンが出来上がります。
 
主イエスの時代もパレスチナではパンは主食でした。ですから、誰でもパン種の重要性がよく分かりました。現在と違って、大昔はインスタントパン種がまだなかったので、主婦は壷に生酵母を培養していました。そして、パンを作る時、その酵母を少し生地に混ぜて、膨らんでから焼きました。

2008年05月11日 | カテゴリー: マタイによる福音書 , 新約聖書

主イエス•キリストの権威 ウイリアム・モーア宣教師

◆汚れた霊に取りつかれた男をいやす

21:一行はカファルナウムに着いた。イエスは、安息日に会堂に入って教え始められた。 22:人々はその教えに非常に驚いた。律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。23:そのとき、この会堂に汚れた霊に取りつかれた男がいて叫んだ。24:「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」 25:イエスが、「黙れ。この人から出て行け」とお叱りになると、 26:汚れた霊はその人にけいれんを起こさせ、大声をあげて出て行った。27:人々は皆驚いて、論じ合った。「これはいったいどういうことなのだ。権威ある新しい教えだ。この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聴く。」28:イエスの評判は、たちまちガリラヤ地方の隅々にまで広まった。

 

【時は満ち、神の国は近づいた】
主イエスが御自分の地上の働きを始めたばかりの時でした。バプテスマのヨハネによって洗礼を受け、そして、荒れ野で40日間誘惑を受けましたが、悪魔に負けませんでした。それから主は弟子達を選び始め、伝道活動を開始しました。主は国を巡回して、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言うメセージを述べ伝えました。
 
【権威ある者として】
ある日、イエスは弟子と共にカファルナウムと言う町に着きました。そして、安息日にシナゴーグ、すなわちユダヤ教の会堂に入って、巡回教師としてイエスは人々を教え始められました。その聖日に与えられた聖書の朗読と主イエスのお話の内容も記されていませんが、御言葉によりますと、「人々はその教えに非常に驚いた。律法学者のようにではなく、権威ある者として教えになった」と書いてあります。イエスは権威ある者として教えましたので、人々は驚きました。そのお話の内容は重要でしたが、内容よりも、その話し方が人々にとって印象的でした。つまり、イエスは神と救いについて発言する権利があったようにお話をなさいました。やはり、主は神の独り子としてそう言う権利と資格があったからこそ、権威ある者として人々に教えることが出来ました。

2008年04月27日 | カテゴリー: マタイによる福音書 , マルコによる福音書 , ヨハネによる福音書 , 新約聖書

 悪から善を ウイリアム・モーア宣教師

マタイによる福音書27章32−56

◆十字架につけられる  32:兵士たちは出て行くと、シモンという名前のキレネ人に出会ったので、イエスの十字架を無理に担がせた。 33:そして、ゴルゴタという所、すなわち「されこうべの場所」に着くと、34:苦いものを混ぜたぶどう酒を飲ませようとしたが、イエスはなめた だけで、飲もうとされなかった。 35:彼らはイエスを十字架につけると、くじを引いてその服を分け合い、 36:そこに座って見張りをしていた。  37:イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王イエスである」と書い た罪状書きを掲げた。 38:折から、イエスと一緒に二人の強盗が、一人は右にもう一人は左に、十字架につけられていた。 39:そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしって、40:言った。「神殿を打ち倒し、三日で建てる者、神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。」 41:同じように、祭司長たちも律法学者たちや長老たちと一緒に、イエスを侮辱して言った。42:「他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう。 43:神に頼っているが、神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ。『わた しは神の子だ』と言っていたのだから。」  44:一緒に十字架につけられた強盗たちも、同じようにイエスをののしった。

◆イエスの死
 45:さて、昼の十二時に、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。 46:三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。 47:そこに居合わせた人々のうちには、これを聞いて、「この人はエリヤを呼んでいる」と言う者もいた。 48:そのうちの一人が、すぐに走り寄り、海綿を取って酸いぶどう酒を含ませ、葦の棒に付けて、イエスに飲ませようとした。 49:ほかの人々は、「待て、エリヤが彼を救いに来るかどうか、見ていよう」と言った。
 50:しかし、イエスは再び大声で叫び、息を引き取られた。 51:そのとき、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け、地震が起こり、岩が裂け、 52:墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った。
 53:そして、イエスの復活の後、墓から/出て来て、聖なる都に入り、多くの人々に現れた。 54:百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たちは、地震やいろいろの出来事を見て、非常に恐れ、「本当に、この人は神の子だった」と言った。 55:またそこでは、大勢の婦人たちが遠くから見守っていた。この婦人たちは、ガリラヤからイエスに従って来て世話をしていた人々である。 56:その中には、マグダラのマリア、ヤコブとヨセフの母マリア、ゼベダイの子らの母がいた。

 


【受難週】
今日で私達と全世界の教会は受難週に入ります。イエス・キリストが受難を前にエルサレムに入った日曜日からの一週間をキリスト者は特に主の十字架の貴い犠牲を新たに覚え、その意味と恵みについて思案します。私達は受難週の際、主イエスが払った犠牲に集中すべきです。何故なら、来週の主の日にイエス様の復活をお祝います。


2008年03月16日 | カテゴリー: マタイによる福音書 , ローマの信徒への手紙 , 新約聖書

主イエス・キリストのみ ウイリアム・モーア宣教師

マタイによる福音書17章1−8

◆イエスの姿が変わる   1:六日の後、イエスは、ペトロ、それにヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。2:イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。3:見ると、モーセとエリヤが現れ、イエスと語り合っていた。4:ペトロが口をはさんでイエスに言った。「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。お望みでしたら、わたしがここに仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」   5:ペトロがこう話しているうちに、光り輝く雲が彼らを覆った。すると、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」という声が雲の中から聞こえた。   6:弟子たちはこれを聞いてひれ伏し、非常に恐れた。7:イエスは近づき、彼らに手を触れて言われた。「起きなさい。恐れることはない。」8:彼らが顔を上げて見ると、イエスのほかにはだれもいなかった。

 
【六甲山の魅力】
家の北側の窓から六甲山がよく見えます。そして、小さい時から山が好きだった私は毎朝起きると、窓のカーテンを開けて、その日の六甲山の様子を眺めます。ある朝は、六甲山は雲と霧に包まれて、完全に見えなくなります。又ある冬の日は雪で美しく輝いていました。春になって暖かくなると、六甲山は段々緑に覆われて、見るだけで気分が爽やかになります。そして、秋の六甲山は燃えるかのような紅葉になり、とても奇麗です。山は平地より、季節の変化が目立ちますので、とても面白くて魅力があります。
 
【高所から】
しかし、季節の変化以上に、やはり山の高度は山の魅せられるところではないかと思います。高い山に登ると別の世界に入るような気がします。空気が美味し、人里離れますので自然の音しか聞こえないし、すずしいです。そして、山から平地を見下ろすと山の魅力が特に感じられます。つまり、自分が全ての上にいるから、遠くまで見えるし、下にある普通の世界は小さくなります。ある面では、高い山から世界を見下ろすと、私達人間は神の目から見られているような感じかもしれません。         

2008年03月09日 | カテゴリー: マタイによる福音書 , ルカによる福音書 , 新約聖書

イエスにお目にかかりたい ウイリアム・モーア宣教師

ヨハネによる福音書12章20−26

【イエスにお目にかかりたいのです】
今日の御言葉によりますと過越しの祭りの為に何人かのギリシア人がエルサレムに上って来ました。その外国人はイスラエルの神を信じ、わざわざエルサレムの神殿まで来て、礼拝を捧げました。そして、都にいる間に彼らは主イエスの弟子フィリポにやって来て、願うことがありました。「お願いです。イエスにお目にかかりたいのです」と求めました。フィリポはその嬉しいお話を聞いて、直ちに弟子同士のアンデレに知らせて、その二人は主イエスの元へ行って、ギリシア人の事を伝えたのです。

 【イスラエルの王に】
弟子達は知りませんでしたが、その時、主イエスの受難が近付いて来ました。数日の内にイエスはユダヤ人の当局によって逮捕され、十字架で処刑されてしまいます。イエスはその事をよく御存知ましたが、弟子達にはさっぱり分かりませんでした。実は、主がエルサレムに入った時、都の大勢の住民が向かえに来て、イエスの為に熱烈な歓迎をしました。国王を迎えるように、人々はなつめやしの枝を道にひいて、ロバに乗っていたイエスを都に案内しました。更に、群衆はこのように叫び続けました。

「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように、イスラエルの王に。」


(ヨハネ12:12−13)

2008年02月17日 | カテゴリー: マタイによる福音書 , ヨハネによる福音書 , 新約聖書

私達の金の子牛は何か ウイリアム・モーア宣教師

聖書 出エジプト記32:1−14
 
【出エジプトと十戒】
今日与えられた御言葉は旧約聖書の劇的な出来事の中でも、非常に印象的であります。もしデミル監督の有名な映画、「十戒」を見られたら、今日の個所を描写する場面をよく覚えていると思います。
 
【モーセとアロン】
イスラエルの民族が全能の神の奇跡的力によってエジプトの奴隷の家から導き出された時です。エジプトから約束された地カナンまで旅中の事件ですが、彼等のリーダー・モーセは神から十戒を含んだ律法を頂く為、独りでシナイ山に登りました。その帰りが遅いと思った人々はモーセの兄弟また助手であるアロンに行って、このように願いました。「さあ、我々に先立って進む神々を造って下さい。エジプトの国から我々を導き上った人、あのモーセがどうなってしまったのか、分からないからです。」
 
【金の子牛】
そして、不思議に思うのですが、アロンはその願いに応じて、皆が寄付した金の耳輪で、拝む為に子牛の鋳像(ちゅうぞう)を造りました。そしてその偶像を見ると人々はこのように言いました。「イスラエルよ、これこそあなたをエジプトの国から導き上ったあなたの神々だ。」
 
【モーセの怒り】
すると、アロンは祭壇を作り、翌日に行うお祭りを宣言しました。人々は金の子牛を拝んで、飲み食いし、わいわいしました。モーセは山から下り、その光景を見ると大変怒りました。救い主である本当の生ける神の戒めをすぐ忘れ、偶像を造って拝むと言うのは信じられませんでした。モーセは子牛の像を取り、粉々に砕いて、水の上にまきちらし、罰として人々にそれを飲ませました。

2008年02月03日 | カテゴリー: マタイによる福音書 , ヨハネによる福音書 , 出エジプト記 , 新約聖書 , 旧約聖書

嵐の中にも神の平安と喜び ウイリアム・モーア宣教師

詩編4篇1−9:

【指揮者によって。伴奏付き。賛歌。ダビデの詩。】 2:呼び求めるわたしに答えてください/わたしの正しさを認めてくださる神よ。苦難から解き放ってください/憐れんで、祈りを聞いてください。3:人の子らよ/いつまでわたしの名誉を辱めにさらすのか/むなしさを愛し、偽りを求めるのか。〔セラ   4:主の慈しみに生きる人を主は見分けて/呼び求める声を聞いてくださると知れ。5:おののいて罪を離れよ。横たわるときも自らの心と語り/そして沈黙に入れ。〔セラ   6:ふさわしい献げ物をささげて、主に依り頼め。   7:恵みを示す者があろうかと、多くの人は問います。主よ、わたしたちに御顔の光を向けてください。8:人々は麦とぶどうを豊かに取り入れて喜びます。それにもまさる喜    びを/わたしの心にお与えください。9:平和のうちに身を横たえ、わたしは眠ります。主よ、あなただけが、確かに/わたしをここに住まわせてくださるのです。  


【苦悩の叫び】
「呼び求めるわたしに答えてください」とダビデ王は今日の詩編で神に祈願をこめました。「呼び求めるわたしに答えてください。」私達はその同じようなお祈りを聞いた事がありますか。あるいは、自分自身の口からそのようなお祈りを心から捧げた事がありますか。多分、私達一人も残らず、いつかその同じような祈りを神に捧げた事があるのではないでしょうか。そして、恐らくある難しい時期、毎日のように、「呼び求めるわたしに答えてください」と祈願した事があるに違いありません。
 
【ダビデ王の苦悩、その原因と結果】
詩編第4編を書いた人物ダビデ王はその祈りを何回も捧げた事がありました。ダビデはイスラエルの王として力がありましたけれども、それと同時に、敵も試練も誘惑も結構あったのです。今日与えられた詩編の背景が記されていないんですが、先月学んだ詩編第3編と同じ状態で書かれていると思われています。ダビデはイスラエル軍の幹部であるウリヤの妻バド•シェバを無理に自分の妻として取ってしまいました。そして、その罪を揉み消す為、もっと酷い罪を犯してしまいました。ダビデ王はわざわざバド•シェバの夫ウリヤを戦場の最も危険な所へ行かせて、結局彼の死を起こしました。その事件のずっと後の事ですが、アムノンと言うダビデの息子が自分の異母姉妹タマルに惚れて彼女に対して暴行を起こしてしまいました。それからタマルの同父母の兄弟アブサロムがその暴行を聞いて、アムノンに復讐する機会を狙(ねら)って、彼を殺してしまいました。しかし、ダビデ王はアブサロムの罪をちゃんと扱いませんでした。息子を罰する為にただ彼を都エルサレムから追放したのです。その軽い罰の理由は、ダビデ王も同じ殺人罪を犯した事があったからです。結局、その為、ダビデが道徳的権威を失ってしまいました。

2008年01月13日 | カテゴリー: サムエル記上 , マタイによる福音書 , 新約聖書 , 旧約聖書 , 詩篇

新しい年の為の新しい態度 ウイリアム・モーア宣教師

ローマの信徒への手紙5章1−5
 
【新しい年への期待と不安】
明けまして、おめでとうございます。あっと言う間に2007年が終わり、新しい年、主イエス・キリストの2008年になりました。更に、二週間前のクリスマスで、新しい教会暦年が始まりました。この新しい年の玄関に立つ私達はどう言う気持ちでしょうか。2008年は2007年より優れたものになると言う期待がありますか。それとも、2008年に入ることに、何よりも不安を感じていますか。経済的心配や家庭の事の悩みや健康上の問題などの為に心が重いのでしょうか。また、これから、どうなるかを思い煩っているのではないでしょうか。
 
【何事にも揺がない態度】
実は、私達は、この世の中の多くの事を変えられません。例えば、多くの場合、経済的状況と健康の状態は私達の管理を離れています。更に、私達は人の行動と偶然の出来事と事故もコントロール出来ない場合が多いです。しかし、誰でも少なくとも一つの事をいつもコントロール出来るはずです。そして、その事は生活に、健康や経済や不幸な出来事よりも遥かに重要であります。何といっても、その事は私達の態度です。私達が示す態度は生活の豊かさに何よりも大事であります。育てられた家族や学歴や物質的状況や仕事や失敗や成功などは人に強い影響を与えるけれども、自分の日常生活においての態度の影響は最終的にはそれらの事に必ず勝ちます。

2008年01月06日 | カテゴリー: マタイによる福音書 , ローマの信徒への手紙 , 新約聖書

占星術の学者達から学ぶ事 ウイリアム・モーア宣教師

聖書:マタイによる福音書2章1−12節
 
【東方から来た占星術学者】
今日の御言葉に於ける占星術学者達の物語は神秘に包まれています。と言うのは、その人物の事についてあんまり知られていません。聖書には彼等の 国と人数、また名前さえも載ってありません。ただ、「占星術の学者達が東の方からエルサレムに来た」と記されています。ですから、長年にわたってその学者達について伝統が結構生じて来ました。例えば、彼等は主イエスに黄金(おうごん)、乳香(にゅうこう)、モツ薬の三つのお贈り物を献げたので、恐らく学者達三人で来たと思われますが、聖書を注意深く読んで見ると、それは確かな事ではありません。また、国はペルシア、つまり現代のイランと言う伝統がありますが、聖書にはただ、彼等は「東の方から」来たと書いてあります。ですから彼等はバビロニアかアラビアから来た可能性もあります。伝統によりますと学者達の名前はガスパルと、メルチオルと、バルテャザルですが、実際にその名前も不明です。さらに彼等はラクダに乗って来たと言う固定的なイメージがありますけれども、それも憶測に過ぎません。
 
【占星術の学者とは】
「占星術の学者」と日本語に訳されたギリシャ語の原語は「マゴイ」です。マゴイはその時代の学問が一番優れた人物でした。色んな課目を学んだ彼等は、当時の学者、あるいは博士でした。彼等の優れた学問の故、中東の諸国でマゴイは国王の顧問になり、地位のとても高い者でした。そして、彼等が学んだ課目の中で天文学と占星術が重要でした。星と惑星の位置と運行によって人や国家の運命が分かると信じた彼等は常に夜の空を研究しました。

2007年12月16日 | カテゴリー: サムエル記下 , ヘブライ人への手紙 , マタイによる福音書 , ヨハネによる福音書 , ローマの信徒への手紙 , 創世記 , 新約聖書 , 旧約聖書

インマヌエル-神は我々と共におられる ウイリアム・モーア宣教師

マタイによる福音書1章18−25
 
【主イエスの呼称】
聖書には主イエスが数多くのお名前で呼ばれています。例えば、平和の君、キリスト、救い主、世の光、ユダヤ人の王、神なる言(ことば)、油注がれた者、アルファでありオメガである。それぞれの素晴らしいお名前は私達に主の役割と重要性と存在を豊かに教えます。つまり、そのお名前を通して私達は主イエスがどう言うお方であるかを悟るのです。
 
今、アドベントを守っている私達には主イエスの多くの名前の中でもっとも意味深いものが一つがあります。そのお名前は先程読ませて頂いた個所に載ってあります。マタイによる福音書1章22と23を見ますと、こう書いてあります。

「このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。『見よ、おとめが身ごもって男の子を生む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』この名は、『神は我々と共におられる』と言う意味である。」

 
【インマヌエル】
インマヌエル、すなわち、神は我々と共におられる。実は、神の独り子イエス・キリストが人間の赤ちゃんになり、この世に誕生されました。天国の全ての特権と栄光を捨てて、我々と共におられる為、又、私達を罪から救って下さる為、この世に生まれました。しかも、神の御子は貴族や大金持ちなどの家庭に誕生されませんでした。却って、普通の大工と許嫁(いいなずけ)になっている若い娘に生まれました。そして、宿がなかったので、主の生まれた所は馬小屋で、ベッドは飼い葉桶でした。御自分の救いは全人類の為であるので、人間としてこの世に入った時、主イエスが自分を非常に低くして我々と共におられました。

2007年12月09日 | カテゴリー: イザヤ書 , マタイによる福音書 , ヨハネによる福音書 , 新約聖書 , 旧約聖書

イエス・キリストのアドベント ウイリアム・モーア宣教師

聖書:マラキ書3章1−4
 
【アドベント:明けましておめでとうございます】
皆さん、明けましておめでとうございます。そうです。明けましておめでとうございます。実は、今日は正にアドベント、すなわち待降節の始まりの日で、キリスト教暦年の元日になります。大昔からキリスト教会はクリスマス前の約四週間の間、世界の唯一の救い主であるイエス・キリストの御降誕を祝う心の準備をして来ました。そして、更に、将来、主が再びいらっしゃる事、主の再臨を私達はアドベントに心から待ち望みます。アドベントと言う単語の文字通り意味は、「出現」、あるいは、「いらっしゃる(来臨)」と言う事です。ですから、アドベントに私達は喜びを持って主イエスの降臨を記念すると同時に、大きな希望を抱き、これからの主の御再臨を待っています。
 
キリスト教会は結局主イエスの御降誕に起源を持ているので、当然教会暦年はアドベントで始まります。2007年前に父なる神は御自分の独り子イエス・キリストをこの世に遣わして下さいました。そして、主イエスの救いを通して私達は新しい命と新しい希望が与えられたのです。その比類なき程素晴らしい再出発を記念して、今日私達はアドベントの始まりと教会暦年の元日を覚え祝います。明けましておめでとうございます!
 
【アドベント•リース】
アドベントを豊かに守るように、毎年のように、今年も津村姉妹がまた私達の為にアドベント•リースを準備して下さいました。長い伝統ですから、リースはシンボルとして色々な深い意味を生じて来ました。先ず、リースの円形によって私達は神が始めもなければ終わりもない永久の神である事を覚えます。また、神の愛と憐れみは限りがないと言う意味もあります。そして、リースの常緑の葉っぱはイエス・キリストが賜って下さる新しい誕生と永遠の命を示します。更に、ろうそくの火は神の光、イエス・キリストのシンボルになります。
 
【世の光・主イエス】
世の光である主イエスの御降誕の際に、神、御自身がこの世にいらしゃって、救いと愛の光を全人類に照らして下さいました。アドベントの毎週、主の日に、外側のろうそくを一本ずつ点す事によって、イエス・キリストの御降誕を待ち望んでいると言う意味なのです。そして、真ん中のろうそくは「キリストのろうそく」と言われています。私達はやがてクリスマス礼拝を迎えるとそのろうそくを点します。神の光である主イエスはクリスマスの中心だけではなく、この世の歴史の中心である事の印になります。
 
外側の赤いろうそくは、一本、一本も特別な意味があります。それは主イエスの御降誕から来る、私達が頂いた賜物なのです。今日点すろうそくは希望を現します。来週のろうそくは平和を意味します。そして、その次のろうそくは喜びと、その次は愛を表します。今年のアドベントにその四つの貴重な賜物を覚えながらクリスマスを迎える準備を皆さん一人一人と共にしたいと思います。アドベント•リースを用いて私達は今年もクリスマスを記念し、共にその神の賜物、希望と平和と喜びと愛を新たに経験したいです。

2007年12月02日 | カテゴリー: マタイによる福音書 , マラキ書 , ルカによる福音書 , 旧約聖書

「キリスト者と迫害」
淀川キリスト教病院牧師 田村英典

聖書:マタイによる福音書5章1~10節

10:義のために迫害される人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。

 

【キリスト者と迫害】
3節から始まるイエス・キリストの幸福の教えを学んで来ました。今日は最後の8番目、10節に進みます。本当は11、12節も関係していますが、今朝は10節だけを取り上げます。
まず前後関係から気づくことがあります。
第一に、これは3節から始まった一連の教えの最後で、いわば締めくくりです。つまり、クリスチャンを完全な形で描く上で、迫害に触れない訳にはいかないということです。厳しいですが、クリスチャンと迫害は切り離せません。
 
第二に、これは9節

「平和を実現する人」


についての教えの後に来ています。クリスチャンが神の御心に従い、平和を実現しようと努力した結果が、しばしばこの世から迫害だということです。悲しいですが、これが現実です。
 
第三に、この教えに付いている約束は3節と同じで、

「天の国はその人たちのものである」


と主は言われます。主はまず3節で人々の心を永遠の天国に向けさせ、またこの最後の教えでもう一度人々の関心を栄光の天に向けようとされます。
 
「迫害はある。だが忘れるな。あなたが受けようとしているものは、生れつきの人が如何にしても手に入れることのできない神の永遠の祝福、天の国である。当座は辛い。だが迫害は決して永遠ではない。あなたは永遠のものを受けようとしている。だから、忍耐して戦い抜きなさい」と励ましておられます。
 
以上、前後関係から簡単に見ました。もう一度10節を見ます。

「義のために迫害される人々は幸いである。」


これが既に永遠の天の御国に国籍をいただいている幸いな人の紛れもない特徴の一つなのです。
主は正直です。「私を信じたら、何もかもうまく行く。いやなことなどなくなる」とは言われません。それは大嘘つき、またサタンの言うことです。サタンはマタイ福音書4章8節でイエスを誘惑して言いました。

「もし、ひれ伏して私を拝むなら、これをみんな与えよう。」


「これ」とは「世の全ての国々とその繁栄」だ。要するに、何でも思い通りになる、万事OKということです。しかし、これは嘘です。イエスは事柄を曖昧にされません。率直に事実を告げられます。「あなたに信仰の故に迫害はある。それが激しいか緩いかは、天の父の御心による。だが迫害を受けるなら、それこそ、あなたが天に国籍を持ち、永遠の神の国の住民であることの明確な証拠である」と主は断言されます。

2007年10月21日 | カテゴリー: テモテへの手紙二 , ペトロの手紙一 , マタイによる福音書 , ルカによる福音書 , ローマの信徒への手紙 , 新約聖書

イエス・キリストを動かした女の信仰 ウイリアム・モーア宣教師

聖書:マタイによる福音書15章21−28
 
【カナンの女】
今日与えられた御言葉は非常に感動的なお話になります。と言うのは、その語られた事件を通して私達はあるお母さんの素晴らしい愛をはっきりと見る事が出来ます。そのお母さんは自分の病気の娘の回復の為に最善を尽くして、その癒しを頂くまで諦めませんでした。
 
今日の個所の21節と22節を見て下さい。マタイによる福音書15章21節の所を開いて下さい。


「イエスはそこをたち、テイルスとシドンの地方に行かれた。すると、この地に生まれたカナンの女が出て来て、『主よ、ダビデの子よ、私を憐れんで下さい。娘が悪霊にひどく苦しめられています』と叫んだ」


と記されています。
 
【娘の病気と悪霊】
その娘の病はどう言うものかは分かりません。主イエスの時代、分からない病気、特に変わった、気味が悪い症状と行動を示した病気は「悪霊の為」と思われました。恐らく娘は激しい癲癇を起したり、あるいは、精神病の故、不合理な振舞いを現しました。とにかく、お母さんはひどく苦しめられた娘の事を大変心配して、助ける為、あらゆる手段を尽くしました。恐らく廻りの者と相談して色んなアドバイスを聞きました。そして、多分娘を悪魔払いの祈祷師へ連れて癒しを求めました。また、願いを叶えようと様々な神々に生贄を捧げました。さらに、聖地を巡礼して娘の為に必死に祈りました。しかし、どんなに励んでも最愛の娘は良くなりませんでした。却って、その症状が悪くなってしまいました。しかし、お母さんはこうなるのも運命と諦めませんでした。

2007年09月30日 | カテゴリー: マタイによる福音書 , 新約聖書

真の自由 ウイリアム・モーア宣教師

聖書:ヨハネによる福音書8章31−38
 
 
【ウオレス将軍】
「パッション」と言う映画で有名になったメル•ギブソン監督は1995年に「ブレイブハート」と言う他の映画でスコットランド人のウオレス将軍の役を務めました。その映画はウオレス将軍が無残なイギリスから自分の国スコットランドの自由を回復しようとするストーリです。ウオレス将軍は立派にイギリス軍と戦って多くの勝利を得ましたが、最後に彼は友人によって裏切られ、イギリスの王に渡されてしまいました。そして、イギリスの王はウオレス将軍を処刑するつもりでした。しかし、処刑する前にイギリスの王はウオレス将軍に恥をかかせる為、慈悲を乞わせようとしました。ウオレス将軍はあざける群衆の前に連れ出され、唾を吐かれたり、物を投げられたりしました。それから、死刑執行人は拷問をかけ始め、ウオレス将軍に言いました。「もし、慈悲を乞うなら、死刑を速く進めよう、しなかったら、もっと酷い拷問をかける」と脅しました。また、ウオレス将軍の声が聞こえるように、執行人は群衆を黙らせました。しかし、将軍は恥をかきませんでした。むしろ、残った力を全部奮(ふる)い起こして、大きい声で「自由」と叫びました。
 
【自由】
「自由。」その言葉は力強いです。自由の為に多くの人々は自分の命を犠牲にしました。又、自由の為に敵を殺す事も少なくありませんでした。歴史が始まった以来、自由の為に数え切れない程の戦争が起りました。又、現在も自由はいたるところで重んじられています。自分の自由を束縛されたいと思う人は珍しい事でしょう。

2007年08月19日 | カテゴリー: イザヤ書 , エフェソの信徒への手紙 , マタイによる福音書 , ヨハネによる福音書 , 新約聖書 , 旧約聖書

わたしの父の家には ウイリアム・モーア宣教師

聖書:ヨハネによる福音書14章1−3
 
 
【モリソン宣教師夫妻】
略100年前の事ですが、モリソンと言う宣教師御夫妻は長年のアフリカでの奉仕後、定年を迎えアメリカのニューヨークに帰る事になりました。二人の健康は衰え、年金もなかったので、モリソン御夫妻は色んな心配がありました。偶然の事ですが、彼等はアメリカの大統領セオドア•ルースヴェルトと一緒に同じ客船に乗りました。探険旅行帰りの大統領は一等スウィートルームに泊まりましたが、モリソン夫妻は薄暗い三等船室でした。大統領とその仲間はVIP待遇を受けていましたけれども、誰も宣教師達に留意しませんでした。
 
まだ航海中に、先生は奥さんにこう呟きました。「これは大変不公平ですよ。我々はアフリカで辛苦に耐えながら一生を捧げましたのに、誰一人私達の事を覚えてくれる人はいませんね。しかし、大統領はただヴァカンスから帰りだけなのに、皆は大騒ぎではありませんか。」
 
客船がニューヨックに着いた時、ブラスバンドが大統領を歓迎して、大勢の高位高官にある人々は出迎えに来ました。新聞も大統領の帰りを大きく取り扱いました。その反面、誰一人宣教師の帰りを気づく人はいませんでした。その二人はただカバンを持って船から降りて安いアパートを捜し回りました。それから、生活をする為に、仕事を捜そうとしたのです。

2007年08月12日 | カテゴリー: コリントの信徒への手紙一 , フィリピの信徒への手紙 , ヘブライ人への手紙 , マタイによる福音書 , ヨハネによる福音書 , ヨハネの手紙一 , ヨハネの黙示録 , 新約聖書

霊の結ぶ実:柔和 ウイリアム・モーア宣教師

マタイによる福音書11章28−30節
ガラテヤの信徒への手紙5章22−23節
 
【柔和なロッキー】
三週間前から家内と娘セーラと私は家の家族にロッキーと言う新しい一員を引き受けて世話をするようになりました。その新しい一員はまだ7歳なのに、とても毛深いです。更に、ロッキー君は50キロで、結構重いのですが、背はまだ70センチしかなっていません。また、鼻が大きいし、耳もでっかいです。今朝、教会に連れて来て、皆に紹介したかったのですが、その子は臭うから、多分歓迎されないと思いました。実は、ロッキー君は人間ではありません。その子は四つ足で歩くゴールデンレトリーヴァーと言う犬です。近所の家内の英国人の友達は夏休みの帰国為、ロッキーを家に預けました。
 
ロッキー君は何よりも散歩が大好きです。ですから、降っても照っても、必ず朝と晩、近所を散歩しなければなりません。そして、歩きながらロッキーは常に道にあるものを嗅ぎ出します。また、餌を捜します。ロッキーは道にある物、何でもかんでも食べてしまうので、散歩をさせる私達は危ない物を食わないように、気をつけなければなりません。
 
ロッキー君はとても大人しい犬で、吠える事は滅多にないです。不思議だと思いますが、散歩の時、他の犬に巡り合っても、ロッキーはあんまり反応しません。ある日、そう言うロッキーを連れて歩いているとある小さい犬はロッキーを見る瞬間、震えて動けませんでした。また、ロッキーは、吠えられても、お返しに吠えません。他の犬が一生懸命に吠えながらロッキーの方へ走っても、ロッキーは、その犬をただちらっと見て、平然とゆっくり散歩を続きます。脅かされても、ロッキーは相手を脅かしません。他の犬より大きく力強いので、ロッキーはどんな相手であっても勝つ事が出来るはずですが、戦う興味が全くないようです。それは訓練の為か、生まれつきの性格の為なのかが分かりませんけれども、ロッキーは素晴らしい徳目を示します。ロッキーはきっと私達人間に教える事があると思います。

2007年07月22日 | カテゴリー: ガラテヤの信徒への手紙 , マタイによる福音書 , 新約聖書 , 民数記

洗礼の恵み ウイリアム・モーア宣教師

マタイによる福音書28章16−20節
(川合兄弟姉妹受洗をまえに)
 
【大きい鍋】
ある小学校の先生はクラスでshow&tell、すなわち「見せて語る」為、生徒達に、それぞれの家族に宗教の代表的物を学校へ持って来るようにと言いました。そして、翌日ある男の子はダビデの星を持って来て、ユダヤ教徒にとってその意味と重要性を説明しました。今度はイスラム教の生徒は新月旗を持って、そのシンボルについて語りました。また、ある仏教の子供は教室の前に来て、小さい仏像を皆に見せて、その意味を説明しようとしました。そして最後に、ある女の子は台所の大きい鍋を持って来て、皆に見せたのです。生徒達も先生もその鍋を見て驚きました。
 
それはどう言う宗教の代表的物がさっぱり分かりませんでした。女の子はこう説明しました。「我々キリスト者は洗礼を大事にするから、教会にある洗礼盤を持って来ようとしました。しかし、それはあんまり貴重な物だと言われ、持って来られなかったから次善の物、この鍋を皆に見せる為、持って来ました」と言いました。
 
ここ西谷集会で2003年クリスマス礼拝時に森田兄弟姉妹の洗礼式を行い、皆がクリスマスの大きなプレゼントだと大喜びしたのをよく覚えています。それからもはや三年半になりました。そして、ここ西谷集会にまた神からの大きな喜びが与えられました。今日は川合御夫妻が洗礼をこの礼拝中に受けます。川合御夫妻が今日の日の為に祈りを持って一日一日を待っていらっしゃった事を私はよく知っています。私達も皆この日の為祈って、嬉しく待ち望んで待って参りました。
 
先程のストーリの女の子が言われた通りです。我々キリスト者は洗礼を大事にします。今日、川合兄弟姉妹は洗礼を受ける際に、私達既に洗礼を受けた者も、まだ受けてない者もその礼典の恵みと意味を新たに学びたいと思います。それによって、私達皆は今日の洗礼式の恵みをよりもっと経験出来ると思っております。

2007年06月24日 | カテゴリー: マタイによる福音書 , ヨハネの手紙一 , ローマの信徒への手紙 , 新約聖書

『悔い改めにふさわしい実を結べ』吉田 謙千里摂理教会牧師


*聖書 マタイによる福音書3章1節~12節
 
【そのころ、洗礼者ヨハネが現れて】
今、朗読いたしました記事は、

「そのころ、洗礼者ヨハネが現れて」

という言葉で始まっています。では、ここで言われている「そのころ」とは、いったい、いつ頃のことなのでしょうか。4つの福音書の全てが、今日の洗礼者ヨハネの登場を告げていますけれども、その中でも歴史家とも言われる福音書記者ルカは、洗礼者ヨハネの登場をこのように述べています。

「皇帝ティベリウスの治世の第十五年、ポンティオ・ピラトがユダヤの総督、ヘロデがガリラヤの領主、その兄弟フィリポがイトラヤとトラコン地方の領主、リサニアがアビレネの領主、アンナスとカイアファとが大祭司であったとき、神の言葉が荒れ野でザカリアの子ヨハネに降った。そこで、ヨハネはヨルダン川沿いの地方一帯に行って、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。これは、預言者イザヤの書に書いてあるとおりである。」

( ルカによる福音書3章1~4節)。

2007年06月17日 | カテゴリー: マタイによる福音書 , マラキ書 , ルカによる福音書 , 新約聖書

霊の結ぶ実:親切 ウイリアム・モーア宣教師

ルカによる福音書6章32−36

「自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな恵みがあろうか。罪人でも、愛してくれる人を愛している。また、自分によくしてくれる人に善い事をしたところで、どんな恵みがあろうか。罪人も同じ事をしている。返して貰う事を当てにして貸したところで、どんな恵みがあろうか。罪人さえ、同じものを返して貰おうとして、罪人に貸すのである。しかし、あなたがたは敵を愛しなさい。人に善い事をし、何も当てにしないで貸しなさい。そうすれば、沢山の報いがあり、いと高き方の子となる。いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである。あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。」


ガラテヤの信徒への手紙5:22−23

【小さな親切】
ある青年が自分の高校の時の体験談を語りました。「私は高校一年生の時、学校から家へ帰る途中、同級生ヘンリーを見かけました。週末の初め、金曜日なのに、彼は山程の教科書を手で運んで歩いていましたので、ヘンリーは余程ガリ勉屋だと思いました。私は週末にはいつもパーテイーとスポーツで楽しい予定がありましたから、勉強する余裕がありませんでした。突然、不良連中がヘンリーの方へ走って行って、何も言わずに彼が持っている教科書を取って地面に投げ捨てました。そして、彼等はヘンリーを強く蹴って倒しました。彼の眼鏡は数メートルまで飛んで行って芝生に落ちました。連中が去ってからヘンリーが顔を上げた時、私は彼の目に恐ろしい悲しみを見ました。

2007年06月10日 | カテゴリー: マタイによる福音書 , ルカによる福音書 , 新約聖書

霊の結ぶ実:寛容 ウイリアム・モーア宣教師

マタイによる福音書18章21−35(本文参照)
 
ガラテヤの信徒への手紙5章22−23

霊の結ぶ実は愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。

 
【些細な事を許せない!】
読売新聞によりますと、最近、行儀が悪い人に対して暴力事件が増えて来ているそうです。関東の方ですけれども、ある28歳の高校先生は電車に乗って、足を組んで座っている青年の足に触れられました。先生はその事で怒り出し、青年を大声で叱って、頭を殴りました。
 
又、他の事件で57歳の警察官が逮捕されました。それは、彼は山の手線に乗っている若い女性の髪の毛を強く引っ張ったからです。尋問されると、警察官はこのように自分の行為を説明しました。「彼女は携帯電話でうるさく長話をして、態度が悪かったんです。」
 
又、28歳の女性の人も逮捕されました。彼女は空気銃で人の車を撃ちました。信号待ちの時、その車が彼女の車の前へ割り込んだからです。

2007年06月03日 | カテゴリー: ペトロの手紙二 , マタイによる福音書 , 新約聖書 , 旧約聖書 , 詩篇

霊の結ぶ実:平和 ウイリアム・モーア宣教師

ヨハネによる福音書14章15−27

◆聖霊を与える約束  15:「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。  16:わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあ     なたがたと一緒にいるようにしてくださる。17:この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。18:わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。19:しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。  20:かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる。21:わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す。」  22:イスカリオテでない方のユダが、「主よ、わたしたちには御自分を現そうとなさるのに、世にはそうなさらないのは、なぜでしょうか」と言った。 23:イエスはこう答えて言われた。「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。24:わたしを愛さない者は、わたしの言葉を守らない。あなたがたが聞いている言葉はわたしのものではなく、わたしをお遣わしになった父のものである。25:わたしは、あなたがたといたときに、これらのことを話した。26:しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。27:わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。

ガラテヤの信徒への手紙5章22−23

「霊の結ぶ実は愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です」。  


【シカゴ大火とスパーフォドさん】
アメリカのシカゴ大火は1871年に起こりました。その火事はシカゴの中心商業地区を全焼して、死者は300人、住む家を無くした者は十万人でした。シカゴ大火の一人の英雄は弁護士で実業家であるホレイショー•スパーフォドさんでした。彼は敬虔なキリスト者で讃美歌の歌詞も書く人でした。実は、スパーフォドさんは大火で多くの物件を失いました。その上、大火の年に幼い独り息子を病気で失くしました。それにも関わらず、彼は大火の犠牲者の為に色んな救援活動に参加しました。財産が結構無くしたのに彼は残った物を惜しまずに苦しんでいる住民の回復の為、寄付したのです。特にスパーフォドさんは家と肉親を亡くした人を慰めて、助けて下さいました。

2007年05月27日 | カテゴリー: マタイによる福音書 , ヨハネによる福音書 , 新約聖書

わたしの母とはだれか ウイリアム・モーア宣教師

マタイによる福音書12章46−50

  ◆イエスの母、兄弟 46:イエスがなお群衆に話しておられるとき、その母と兄弟たちが、話したいことがあって外に立っていた。47:そこで、ある人がイエスに、「御覧なさい。母上と御兄弟たちが、お話ししたいと外に立っておられます」と言った。48:しかし、イエスはその人にお答えになった。「わたしの母とはだれか。わたしの兄弟とはだれか。」49:そして、弟子たちの方を指して言われた。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。  50:だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である。」  


【今日は母の日】
御存じのように、今日は母の日です。母の日に私達はお母さんを覚え、特別に敬う日なのです。私達それぞれは、誰でもどんな人でも、母がいますので、皆この日に参加する事が出来ます。今日は世界中で、数え切れない人がこの日を覚え、祝っています。北、中、南米の殆ど全ての国は5月の第二の主の日に母の日を祝います。そして、ヨーロッパとアフリカ諸国も今日、母の日を祝っています。アジアだったら、フィリビン、シンガポール、マレーシア、韓国、もちろん日本などにも母の日は大切に守られています。実は、最近中国さえも多くの人々は今日、自分のお母さんを特別に覚えています。

2007年05月13日 | カテゴリー: エフェソの信徒への手紙 , マタイによる福音書 , 列王記上 , 新約聖書 , 旧約聖書

復活の約束 ウイリアム・モーア宣教師

マタイによる福音書28章1−10
 
【守られない選挙公約】
皆さんも十分お気付きと思いますが、私達は選挙シーズンに入りました。何所へ行っても宣伝車が走り回り、政治家、あるいは政治家になりたい者は車のスピーカで国民にアピールをしています。また、駅前でも、昨日のような雨でも、政治家は選挙運動に励んでいます。他の時は分かりませんが、選挙のシーズンの政治家は大変だと思います。一票でも取る為に必死の努力をしているようです。朝早くから夜遅くまであちこちへ行って住民に顔を売っています。彼らはスピーカで色んな事を叫びますが、そのお話の中で約束事が多いようです。たとえば、「私が国家議員になったら、日本は美しい国になる。」「明るい政治の為に私を選出して下さい。」「我が党は安定した生活を保証します。」何所の国でも同じ事だと思いますが、選挙に勝つ為に、政治家は国民に約束する事が多いのです。しかし、多くの場合、約束を果たすのは全く別の事になります。政治家は約束する時、恐らく皆は心からその約束を守りたいですが、色々な理由で誓った事を実現出来ません。政治的力が足りないか、約束した事は実際的でなかったりします。あるいは、事情があって止むなく約束した事を実現出来ない。また、政治家は選挙に勝つと、選挙の時、約束した事をすっかり忘れる場合もあるかも知れません。とにかく、色々な理由で政治家の言う事を割引して聞いた方が良いと思います。

2007年04月08日 | カテゴリー: イザヤ書 , エレミヤ書 , マタイによる福音書 , ヨハネによる福音書 , 創世記 , 新約聖書 , 旧約聖書

イエス・キリストの犠牲 ウイリアム・モーア宣教師

マルコによる福音書15章33−39
 
【主イエスの受難】
私達の主イエス・キリストの受難記念日はもうすぐです。実は、今週の金曜日になります。主イエスの受難の全ての犠牲はあなたの為、私の為でしたので、この際、主の犠牲を改めて思案すべきだと思います。来週、いよいよイエス・キリストの復活をお祝いします。しかし、この受難がなければ、復活もなかった事でしょう。そして、イエス・キリストの十字架の死の意味が分からなかったら、その復活の意味と喜びも分かるはずがありません。ですから、今朝、主イエスの犠牲について一緒に思案したいと思います。
 
イエス・キリストの犠牲を考えるとき、すぐに残酷な十字架を思い出します。十字架に掛けられた間、イエスが言い尽くせない程、肉体的苦しみを経験されました。ローマ帝国の処刑の方法として、十字架の死は一番酷い拷問でした。普通の犯罪者は他のもっと速い方法で死刑に処されたのですが、国に対して謀反(むほん)のような重い罪を犯した場合、十字架刑を使いました。つまり、これ以上の厳しい刑罰がありませんでした。一日の拷問に限られなくて、死ぬまで大抵二日、三日程の時間がかかりました。あまり残酷なので、私達は主イエスの十字架の死の肉体的苦しみを十分想像出来ないと思います。

2007年04月01日 | カテゴリー: イザヤ書 , マタイによる福音書 , マルコによる福音書 , ルカによる福音書 , 新約聖書 , 旧約聖書

「平和を実現する人々は幸いである」田村英典

聖書:マタイによる福音書5章9節

「平和を実現する人々は幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる。」

 

【平和を実現する】

今朝はマタイ福音書5章9節に注目します。イエスは言われます。

「平和を実現する人々は幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる。」


何度もお話していますが、イエスは3~10節で、真の信仰者の幸いな特徴、特質を8つの角度から光を当てて描かれ、全てのクリスチャンがこうであることを強く願っておられます。で、真のクリスチャンの7つ目の特徴が「平和を実現する」、あるいは平和を造り出すことです。

まず私たちは、これが人間の様々なあり方や行動の中でも最も価値あることの一つであることを深く心に刻みたいと思います。私たちはこの世で生きる上で色々なことに携わり、様々な行動が要求されます。

勉強すること、働くこと、社会的、文化的なことに関与するなど、多くのことがあります。しかし、最終的に平和を私たちの周りに造り出すことに貢献しないようなものは、主イエスによれば余り価値がないとさえ言えます。

聖書で言う平和は、単に戦争や争いがないだけではありません。平和とは、国と国、人と人が、互いに愛をもって理解し、助け合い、そうしていわば人が人として造り主なる神の前で完成される上で必要な大切な環境と条件と言えます。大国も小国も、大企業も中小企業も、健康な者も病める者も、皆が夫々の固有性を失わず、全体の益のためにも夫々の存在を守られ支えられ、最終的には造り主なる神に喜ばれるように自らを完成することの出来る環境と条件。これが聖書の言う真の平和と言えます。そうだとするなら、これは極めて尊いものであり、本当は全ての人間が意識的にこのために貢献すべきことと言えます。

2007年02月11日 | カテゴリー: イザヤ書 , テサロニケの信徒への手紙一 , マタイによる福音書 , マルコによる福音書 , ヤコブの手紙 , ローマの信徒への手紙 , 新約聖書 , 旧約聖書 , 詩篇

満ち足りた生活の秘訣 ウイリアム・モーア宣教師

ヘブライ人への手紙13:1−8

【突然の遺産相続】
ある日、二人の友人が久しぶりに道端でばったり出会いました。一人はとても悲しそうな顔をして、目に涙がにじんでいました。その様子を見ると友人が驚き、「一体どうかしましたか」と尋ねる、彼はこのように説明しました。「三週間前に伯父が亡くなって遺言で500万円を頂いた」と言いました。「それは嬉しい事じゃないか。どうして悲しいですか」と友人が聞きました。「実は、二週間前にあまりよく知らなかったいとこも死んで私に一千万円を残してくれたのよ」と悲しい友人は述べました。「あなたは運が本当に良いですね」と友人は返事すると相手は言いました。「どうして私の気持ちを理解してくれないの。先週大おばも急に息を引き取って、三千万円を譲ってくれた」と言いました。そうすると、納得出来なかった友人はこう聞きました。「こんなに恵まれているあなたは涙を流す必要がないのに、どうして悲しいですか。言って下さい。」「あなたはまだ私の気持ちが分からないの?。実は、今週は、誰一人死んでないので、一円も今週貰ってないから悔しいのよ」と彼は言いました。

【満ち足りる事とは】
今日、12月31日、私達は正に新しい年、2007年の玄関に立っています。後13時間ぐらいで2006年は完全に過ぎ去り、主イエス・キリストの2007年を迎える事が出来ます。この際、新しい年に入る私達は満ち足りる事について一緒に考えたいと思います。つまり、新しい年にはどういうふうに満ち足りた人生を歩む事が出来るのでしょうか。

2006年12月31日 | カテゴリー: フィリピの信徒への手紙 , ヘブライ人への手紙 , マタイによる福音書 , 新約聖書 , 旧約聖書 , 詩篇

子供のようにクリスマスを ウイリアム・モーア宣教師

ルカによる福音書2章1−20
 
【最初のクリスマス】
皆さん、メリークリスマス!私達は大きな喜びを持って、この世の唯一の希望、私達の救い主、イエス・キリストの御降誕をお祝い致します。
2006年前にマリアと言う乙女が全能の神の独り子をベツレヘムと言う町にある馬小屋でお産みになりました。宿屋には彼らの泊る場所がなかった為、マリアはその御子を布にくるんで飼い葉桶に寝かせた、と聖書に記されています。万物の造り主で永遠の神は自ら進んで非常に低くなり、この世に下って、人間として私達と共に宿りました。そして、主は、「神の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」と書いてあります。ですから、クリスマスは非常に大切な記念日になります。唯一の神が天から下って人間の赤ちゃんの姿でこの世に入るのは決して普通の事ではありません。歴史上、その最も素晴らしい出来事を通して神は私達に対する御自分の驚くべき愛を具体的に表されました。
 
愛する兄弟姉妹、私達は救い主である、神の御子の誕生の記念日をどういうふうに祝うべきでしょうか。この世の人々は色々なかたちでクリスマスを迎えようとしていますが、恐らく、私達は今年、幼子のようにクリスマスを迎え祝いたいのです。

そして幼子のようにクリスマスを迎え祝う事によって神の恵みと祝福をより豊かに受けたいと思います。
 
先程読ませて頂いた聖書の箇所はクリスマス•ストーリーです。その中に「初めての子」と「乳飲み子」と言う表現が見られます。神は御自分の全ての栄光と力ある姿で私達に現れる事が十分お出来になりました。しかし、主はわざわざ防御出来ない人間の赤ちゃんとしてこの世に下りました。全能の神が御自分の全勢で私達に現れたら皆は恐れる事でしょう。その故に皆が見た事がある可愛らしい赤ちゃんの姿で私達の世に現れて下さいました。
 
ですから、幼な子が現れないうちはクリスマスの出来事が不可能のように、私達は子供のようにならないと、クリスマスを豊かに祝う事が出来ません。主イエスはこのように言われました。

「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入る事は出来ない。自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国で一番偉いのだ。」(マタイ18:3−4)

2006年12月24日 | カテゴリー: イザヤ書 , マタイによる福音書 , ルカによる福音書 , 新約聖書 , 旧約聖書

用意していなさい ウイリアム・モーア宣教師

マタイによる福音書24章36−44
 
【ある日、突然】
先週の金曜日の午後2時に何をしていましたか。覚えていますか。職場で働いていましたか。家で家事をしていましたか。あるいは、お買い物で忙しいでしたか。想像して見て下さい。丁度その時、誰かが突然やって来て、「今、している事を辞めて私と一緒に行くんだ」と命令しました。そして、あなたは、 「この仕事がまだ終わってないんだ」と返事します。その人はもう一度、「今やってる仕事を辞めるんだ」と言います。すると、あなたは答えます。「まだ2時なのにどうして今仕事が辞められるのですか。」しかし、相手は、「仕事はもう出来ない。辞めなさい。速く私と一緒に来て下さい」と主張します。あんまり強く言われるから、あなたはその人と一緒について歩きます。しかし、「仕事を済ます為、後で戻れますか」と聞きますと、彼はただ、「それは出来ない」と答えます。そして、あなたは恐怖を感じ、「私を何処へ連れて行くんですか」と訪ねると彼は、ただ「遠い所へ行きます」と答えます。「ちょっと待って下さい。私、週末に計画があります。遠い所へは行けません。ちょっと待って下さい」とあなたが言うのに、その人は、 「速く来なさい」とまた命令します。そして、あなたは、「旅の準備が出来てないので、一度家に帰らせてくれ」と頼むと、その人は、「それは不可能だ」と答えます。更にあなたは、「ちょっと待って下さい。準備が出来ていないのに」と叫ぶと、彼はただもう一度、「早く来なさい」と強く主張します。

2006年12月10日 | カテゴリー: テサロニケの信徒への手紙一 , マタイによる福音書 , ヨハネの手紙一 , 新約聖書

「心の清い人々は幸いである」田村英典牧師/淀川キリスト教病院伝道部長

【心の清い人々は幸いである。その人たちは神を見る】
5章8節だけ、もう一度お読み致します。

「心の清い人々は幸いである。その人たちは神を見る。」


何か私たちの心に静かな余韻を残す言葉ではないかと思います。
これは今から二千年前、神の御子イエス・キリストが真の信仰者の特徴と幸せについて語られた教えの一つですが、まだ洗礼を受けず、クリスチャンになっておられない皆様にも、さ程抵抗なく、受け止めていただけると思います。
 
心の清い人々が幸いであることを否定する人はまずいないでしょう。また、もし神を見ることが本当にできるなら、それは幸いだと思う方も少なくないと思います。私は10代の終り頃、生きる道を求め、20歳の時に初めて近くの教会へ行ってみました。とはいえ、最初は強く警戒し、極力深入りすまいと心に決めていました。しかし、それとは別に、私は教会の中に何か世間とは違う真実なものがあると感じました。少し大袈裟に言えば、それは私に別の世界のあることを気付かせ、心を洗われる気がしました。
 
そして、人間というものが、いいえ、私自身が罪深いことも素直に認めることができました。聖書が行なう人間や社会の分析、そして洞察についても、余り抵抗はありあせんでした。「これならクリスチャンになってもいい」と割合早い時期に思ったものです。

2006年11月19日 | カテゴリー: コリントの信徒への手紙一 , マタイによる福音書 , ヨハネの黙示録 , 新約聖書

「憐れみ深い人々は幸いである」田村英典牧師/淀川キリスト教病院伝道部長

聖書:マタイ5章7節

【真のクリスチャンの幸いとは】

5章3節からのイエス・キリストの幸福の教えの中で、今日は5番目、7節に進みますが、その前にイエスの教えを正しく理解するために三つの点を確認しておきます。第一に、これら一連の教えは、全て信仰により霊的に生れ変った信仰者が聖霊によって与えられる新しい特質を描いたものです。キリスト教信仰に生きる人はこういう人だということです。

第二に、これらは全体として適用されなくてはなりません。真のクリスチャンは3節「心の貧しい」、つまり謙遜な人ですが、同時に6節「義に飢え渇」き、9節「平和を実現」し、いいえ、 3~10節の全ての特徴を持っている人です。これらの内の一つを持っているだけで満足することは、主の御心ではありません。

第三に、これらは私たち自身の人間性と信仰を探り、私たちの心をテストします。これらを学んで「これは私の考えとは違う。私には合わない」というなら、それはその人がまだ本物のキリスト教信仰から遠い存在であることを意味します。逆に、これらの教えに自分を照らして見て、「あぁ、私はまだまだ信仰の薄い者だ。だが、これらは確かに真理だ。私もこうありたい」と心底願うなら、その人は本物のキリスト教信仰を持ち、救いの道を既に歩み始めています。このように、これらは私たち自身をテストします。以上、三つの点を確認しました。

2006年11月12日 | カテゴリー: マタイによる福音書 , ローマの信徒への手紙 , 新約聖書 , 旧約聖書 , 詩篇

「義に飢え渇く人々は幸いである」 田村英典牧師/淀川キリスト教病院伝道部長

マタイ5章6節
「義に飢え渇く人々は幸いである。その人たちは満たされる。」

 
マタイ5章初めの幸福の教えを続けて学んでいます。今日は4番目の6節に進みます。イエスは言われました。「義に飢え渇く人々は幸いである。」
 
【義に飢え渇く】
私は20歳の時、初めて聖書のここを読みました。正直なところ、良く分りませんでした。

「義」


とは何か。

「義に飢え渇く人々」


とは強い表現だが、どういう人のことなのか。こういう疑問を抱いたことを今も覚えています。
 

2006年10月17日 | カテゴリー: コリントの信徒への手紙一 , フィリピの信徒への手紙 , マタイによる福音書 , ヨハネによる福音書 , ルカによる福音書 , 使徒言行録 , 新約聖書 , 旧約聖書 , 詩篇

「柔和な人々は幸いである」 田村英典牧師/淀川キリスト教病院伝道部長

マタイ福音書5章5節 「柔和な人々は幸いである。その人たちは地を受け継ぐ」

 
【幸いな者とは】
イエス・キリストの語られたマタイ5~7章にある山上の説教の冒頭の「幸福の教え」の三つ目、5:5「柔和な人々は幸いである。その人たちは地を受け継ぐ」を今朝は学びます。イエスは3~10節で真に幸いな信仰者がどういう特徴、特質を持つ人かを八つの側面から描かれますが、その三つ目の特徴、特質が柔和ということです。
 
【柔和な人々は幸いである】
柔和な人々は幸い!しかし、これは当時の多くのユダヤ人たちに違和感を与えただろうと言われます。何故なら、紀元1世紀のユダヤはローマ帝国の支配下にあり、それをユダヤ人たちは非常な屈辱と感じ、事あらば、武力に訴えてでもローマの支配をはね返そうという反抗心が常にくすぶっていたからです。
「世の中、何だかんだ言っても、力がものを言う。強い人間が勝って、得をするんだ。」これが当時の多くのユダヤ人が体で覚えた人生哲学でした。これは支配者であるローマ人にしても同じだったでしょう。「結局、力だ。強引さだよ。幸せになりたいなら、これだ。」
こういう考えは、今日にも見られると思います。確かに「人にも自然にも優しく」という言葉に見られますように、優しくあることの良さが、近年、言われ出しました。でも、根本ではどうでしょう。「ほしいものを手に入れたいなら、やはり力だ」という思いが根強いのではないでしょうか。しかし、人間とその永遠の運命をも全てご存じの神の御子イエスは断言されます。「柔和な人々は幸いである。」

2006年10月08日 | カテゴリー: マタイによる福音書 , 新約聖書 , 旧約聖書 , 詩篇

「悲しむ人々は幸いである」 田村英典牧師/淀川キリスト教病院伝道部長

聖書:マタイ5章4節「悲しむ人々は幸いである。その人たちは慰められる。」

【悲しむ人々は幸いである】
今朝は、イエスの語られた山上の説教の冒頭の「幸福の教え」の二つ目に進みます。4節「悲しむ人々は幸いである。その人たちは慰められる。」

ここですぐ疑問が湧いてきます。「ちょっと待ってほしい。悲しみは不幸以外の何ものでもないではないか。何故こんなことが言えるのか。」恐らく誰もがこういう疑問を抱くと思います。

「悲しむ人々は幸い。」この逆説はどういうことでしょうか。イエスはどういう意味でこう言われるのでしょうか。

最初に一つのことを確認しておきます。イエスは悲しむ人の誰もがこうだと言われるのではありません。前回も申し上げましたが、ここの教えは皆、イエスを神の御子、また私たち人間を罪と永遠の滅びから救うことのできる、ただ一人の救い主と心から信じる真の信仰者、真のクリスチャンの幸いな特徴、特質を八つの角度から描いたものです。これはクリスチャンでない人たちを締め出すというのではありません。ただ、真のクリスチャンとはどういう人で、どういうことが真に幸いか、ということです。

次のような誤解もあります。これは世間にしばしば見られ、クリスチャンですら時に誤解しているものです。つまり、クリスチャンはいつも笑顔で明るいというものです。成程、教会へ行くと皆明るい。笑顔で挨拶し、爽やかな印象を与えます。「私はクリスチャンだから、人につまずきを与える苦しそうな暗い顔をしてはいけない。明るくなくては」と思って努力する人もいます。中には、常に明るいことを自分のトレードマークとし、他のクリスチャンにもそれを要求する人もいます。これでは、クリスチャンは悩んではならず、悲しむことはキリスト教信仰と相容れないみたいです。

2006年09月17日 | カテゴリー: コヘレトの言葉 , コリントの信徒への手紙一 , マタイによる福音書 , ヨハネによる福音書 , ローマの信徒への手紙 , 新約聖書 , 旧約聖書 , 詩篇

「心の貧しい人々は幸いである」 田村英典牧師/淀川キリスト教病院伝道部長

マタイによる福音書5章 ◆山上の説教を始める 1:イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。2:そこで、イエスは口を開き、教えられた。 ◆幸い 3:「心の貧しい人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。 4:悲しむ人々は、幸いである、/その人たちは慰められる。 5:柔和な人々は、幸いである、/その人たちは地を受け継ぐ。 6:義に飢え渇く人々は、幸いである、/その人たちは満たされる。 7:憐れみ深い人々は、幸いである、/その人たちは憐れみを受ける。 8:心の清い人々は、幸いである、/その人たちは神を見る。 9:平和を実現する人々は、幸いである、/その人たちは神の子と呼ばれる。 10:義のために迫害される人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。 11:わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。 12:喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。


【山上の説教】

今朝は、主イエスの語られた山上の説教の冒頭の教えに注目したいと思います。

3~10節で主は


「~は幸いである」

と言われます。どういう人のことを、主は語っておられるのでしょう。実は真の信仰者、真のクリスチャンとは、どういう特徴を持つ人かを、8つの角度から描いておられるのです。従って、これらにより、私たちはクリスチャンとしての自分を様々な角度から吟味することができ、また何が真に幸いなのかも再確認できます。

2006年09月10日 | カテゴリー: イザヤ書 , コリントの信徒への手紙一 , コリントの信徒への手紙二 , テモテへの手紙一 , マタイによる福音書 , ヤコブの手紙 , ルカによる福音書 , ローマの信徒への手紙 , 出エジプト記 , 新約聖書 , 旧約聖書

思い煩いからの解放 ウイリアム・モーア

聖書:フィリピの信徒への手紙4章4-7節

【思い煩い】
「思い煩い」は誰にでもあると思います。夜中に目が覚めて、思い出し、眠れません。朝起きると、やはり同じ思い煩いが頭の中を巡っています。「ああ、この悩みさえ解決されれば、私はどんなに幸せか」と思って、一ヶ月も、二ヶ月も、心の中は黒い雲のように晴れません。「あんな事さえしなければ、良かったのに」、「あの人が悪い」と自分を責めて、また、人を責めます。

しかし、一つの思い煩いが去っても、しばらくしてまた別な事が起って来ます。自分の中で、家庭で、職場で、また友人の間で。いつまで経っても生活から思い煩いは消えません。

そして、どうしますか。独りになって考えます。また、人に相談します。話すと少し気が楽になったようですが、またそれ以上の思い煩いになります。人は信頼出来なくなったので、今度はお金を払って占い師を訪ねる人もいます。このような方法で一時の慰めを得ても、決して思い煩いをなくしてしまう事は出来ません。

【思い煩いという病原菌】
しかし、考えて見ると、この世の中では思い煩う事は無理もないと思います。誰でもよく知っていますが、この世は危険な所だからです。色々な恐ろしい病気があるし、事故や天災などは珍しくはありません。そして御存知のように人間関係が齎す思い煩いには限りがありません。

それで「誰にでも思い煩いはある事さ。引きずって生きていこう」と心に決めていませんか。「解決の方法はない」と諦めていませんか。しかし、思い煩いを甘く見てはいけません。思い煩いは、全ての人の心の中にあって、人を死にまで追いやる、しつこい病原菌です。思い煩いによって病気になる人は大勢おります。内科医師の弟によると彼の患者の病因の半分ぐらいは精神的な事だそうです。そして、その思い煩いは精神的の原因の中で一番大きくて、万病の元だそうです。

でも思い煩いは病気の元になると言う理由の為だけではなく、また色々な理由でも無くした方が良いのです。第一は先ず、あんまり心配すると毎日の生活は自分を希望と挑戦と成長するよりも、退歩し、自分の生活が面倒臭くなって、楽しくはありません。自分の人生を精神的に豊に生きる事が出来ません。そして、思い煩いを引きずって生きていると、自分の仕事はもちろん良く出来ない、周りの人まで迷惑を掛ける事があります。持っているあなたの才能を半減させます。

【どのようにして思い煩いから解放されるか】
私達皆は思い煩いが良くない事であると認めると思います。思い煩いで悩んだ事のある人は良く分っていらっしゃると思います。しかし、どのように思い煩いからの解放を得るのでしょうか。自分の力で解決出来る方法はありますか。もし自分の精神をもう少ししっかりコントロールするなら、解決出来ますか。もし自分の問題をもっと積極的に扱ったら、心配する理由がなくなるのでしょうか。自分のあらゆる力を使って自分の思い煩いから解放して見て下さい。そうするとその方法は駄目であると言う事が分って来ると思います。

2006年06月04日 | カテゴリー: コリントの信徒への手紙一 , フィリピの信徒への手紙 , マタイによる福音書 , 新約聖書

十字架上の御言葉(その4):「我が神、我が神、なぜ私をお見捨てになったのですか」ウイリアム・モーア

聖書:マタイによる福音書27章45-50

【父に縁を切られたエリザベス】
英国の詩人エリザベス・バレットは四十一歳で詩人同士のロバート・ブラウニングと結婚しました。しかし、残念ながらエリザベスの父親はその結婚を認めず、娘との縁を切ってしまいました。何故なら、奥さんを亡くした彼には、今度は娘がお嫁に行く事は大変辛かったからです。ですから、エリザベスが家を出た時から、父は彼女とまったく連絡せず、彼女を死んだ者のように扱いました。

結婚してからエリザベスとロバートはイタリアへ移りました。年月が経つにつれて、お父さんの心が和らいで来ると信じたエリザベスは、毎週お父さんに手紙を書きました。その手紙に彼女はお父さんに対する愛を表し、これからどうしても父と和解したい熱望も伝えたのです。しかし、彼女が父に数百枚の手紙を書いたのにも関わらず、返事は全く帰って来ませんでした。

エリザベスはやがて英国に帰りました。そして彼女は仲介者を通して父との関係を回復しようとしました。ある日、突然父からの小包が届きました。しかし、小包を開けて見ると、心が沈みました。そこには彼女が今まで父に送った手紙が全部入ってありました。そして、手紙を詳しく見ると、エリザベスは大変なショックを受けてしまいました。それは父がその手紙の一つも開けなかった事が明白になりました。心の慰めのない状態で父によって見捨てられた彼女は国をもう一度出て、終生愛した父と会う事はありませんでした。

見捨てられる事。きっとそれは我々人間には大変恐ろしい事です。特に、愛した者によって縁が切られる事は、涙と心痛と耐えられない孤独感を伴います。

【十字架上の第四のお言葉】
今日、続けてイエス・キリストの十字架からおっしゃった御言葉を学びたいと思います。そして、今日与えられた第四の御言葉はこの苦悶に満ちた主イエスの叫べです。


「我が神、我が神、なぜ私をお見捨てになったのですか。」

聖書に記されていますが、主イエス・キリストの処刑は6時間程かかりました。朝9時頃兵士達は主イエスの手と足を釘で打ち十字架につけました。そして、9時から12時の間に、苦しみを受けながら最初の三つの御言葉をおっしゃいました。皆さんはそれを覚えているでしょうか。第一は、

「父よ、彼らをお赦し下さい。自分が何をしているのか知らないのです」

と主が祈られました。そして、第二は、共に十字架に掛けられた一人の犯罪人に永遠の救いの約束をして下さいました。

「あなたは今日私と一緒に楽園にいる。」

また、先週学びましたけれども、第三の御言葉として御自分の母マリヤに弟子ヨハネについてこのように言われました。

「婦人よ、ご覧なさい。あなたの子です。」

次に、ヨハネに向いて、マリアの事について、

「見なさい。あなたの母です」

とおっしゃって、マリアの将来を保証しました。

2006年04月02日 | カテゴリー: イザヤ書 , マタイによる福音書 , 新約聖書 , 旧約聖書

隣人を愛する事 ウイリアム・モーア

マタイによる福音書22章34-40節

【ある運転手と暴走族】
あるトラックの運転手が高速道路のサービスエリアで車を止めて、レストランに入りました。大変空腹を覚え、ハンパーグステーキとマッシュポテトとグリンビンズを注文し、口に唾がたまる程その大好きなメニューを楽しみに待っていました。そして、やっとウェートレスが食事を持って来て、運転手さんは美味しそうに食べ始めました。その時です。暴走族の連中がレストランに入って来て、運転手の隣のテーブルに座り込みました。しかし、そのテーブルには皆が座れる余地がないから、番長らしい人が運転手に向かって、「退け!あんたのテーブルを譲れ」と怒鳴りました。そうすると、運転手は、「食事はもうすぐ済むから、ちょっと待って下さい」と言いました。すると、番長らしい人が運転手のコーヒー・カップを自分の手に取って、コーヒーをその食事の上に流してしまいました。そして、「これで食事が済んだぞ。早く帰れ」叫びました。

運転手は何も言わずに立ち上がって、平然とレジの方へ歩いて、暴走族の笑いを後ろにしながら会計を済ませました。事件を見ていたウェートレスは申し訳ない気持ちで外まで運転手に付いて行って見送りました。そしてウェートレスがレストランに戻った時、連中の一人は彼女に言いました。「あの親爺は弱虫だぞ。本当に男らしくないね。」すると彼女はこう返事しました。「男らしくないと言えば、運転も大変下手ですよ。運転手なのに出た時、外で並んでいたあなた達のオートバイ8台をトラックで轢いて帰ってしまったよ。」

【復讐】
私達はこのストーリを聞くと笑いますが、更に何とも言えない満足も感じる事だと思います。なぜなら、あの暴走族の連中は相応(そうおう)の罰を受けたからであります。正義が行われました。私達は傷つけられたら、傷をつけたい気持ちが強いのです。しかし、多くの場合は勇気が出せないから仕返しが出来なくて、我慢するしかありません。ですから、私達は先程のストーリの何倍もの復讐劇を聞いては喜ぶのです。恐らく私達は密かにあの運転手のようになりたいかも知れません。やられたらその倍にして返すのです。

2006年02月26日 | カテゴリー: マタイによる福音書 , 新約聖書

神を愛する事 ウイリアム・モーア

マタイによる福音書22章34-40 ◆最も重要な掟 34:ファリサイ派の人々は、イエスがサドカイ派の人々を言い込められたと聞いて、一緒に集まった。 35:そのうちの一人、律法の専門家が、イエスを試そうとして尋ねた。 36:「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」 37:イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』 38:これが最も重要な第一の掟である。 39:第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』 40:律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」

【613の掟】 今日の御言葉によりますと、ある日、ユダヤ教の律法専門家がやって来て主イエスにこのように尋ねました。「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」その当時、律法はユダヤ教の中心になり、宗教の律法を守る事によって、信者は神を喜ばせようとしました。ですから、専門家達が律法を研究して、御言葉の中から613程の掟を見つけました。そして、その613の掟を「重い」、つまり重要なものと「軽い」すなわち、それ程大事ではない掟に分けました。

またある学者によりますと、律法を重いものと軽いものに分けてはいけない事だそうです。なぜなら、もし神から授けられたものだったら、全ての掟は同じく重要であり、従わなければならないものなのです。ですから、律法を区別する事は神に対して罪になります。ユダヤ教の学者達がこの二つの立場を激しく議論しましたけれども、なかなか決定する事が出来ませんでした。

【最も重要な二つの掟】
恐らく律法の専門家が主イエスをこの問題に巻き込む為、また、試そうとして、

「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか」

と聞きました。そして、イエスは迷わずにはっきりとこのように答えられました。

「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」

主イエスのお答えは真に素晴らしいものでした。その二つの掟に神の全ての律法が纏められています。何故なら、もし神を本当に愛するならば、真の神をおいて他の神を拝まないし、神の名をみだりに唱えません。また、神を愛する者は安息日を心に留め、聖別します。同様に、もし隣人を愛するならば、もちろん隣人を殺さないし、その物を盗まないし、彼に関して偽証などをもしません。つまり、愛の掟に従ったら、神の御旨に従って生きる事が出来ます。

「律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている」

と主が言われました。もし心からこの二つの掟だけを守ろうとしたら、同時に残りの611の掟も守る事になります。

2006年02月19日 | カテゴリー: マタイによる福音書 , ヨハネの手紙一 , 新約聖書 , 旧約聖書 , 詩篇

命を選びましょう ウイリアム・モーア

マタイ7章13-29

【豊かな命を与える主イエスの教え】
今朝の与えられた個所はイエス・キリストの山上の説教の結末になります。二ヶ月に渡って私達は山上の説教を通して、主イエスの基本的な教えを学んで来ました。主の八福や、心からの義と心からの敬虔や、お金の使い方や、人を裁かない事や、神に求める事などを一緒に学んで来ました。この主イエスの一番大事な教えを新に覚え毎日の生活に活用して、私達の信仰がよりもっと元気なものになったでしょうか。また、その主の教えに従う事によって、私達は周りの者に、よりもっと大きな祝福と証になりましたか。

イエス・キリストの教えを聞いて、それを実際に行うと、きっとその実を結びます。更に、イエス・キリストを心から信じ、主御自身の教えに従う事によって、私達は神が賜る本当の命を歩みます。すなわち、真の希望と目的、また力ある生活が与えられます。その意味で主イエスはこのように宣言しました。


「私が来たのは、彼等が命を受ける為、しかも豊に受ける為である。」(ヨハネによる福音書10:10)

【二つの門、二つの道】

山上の説教の結末にイエス・キリストは御自分のみが提供するその「豊かな命」を受ける為、色々な大事なアドバイスを私達に与えて下さいます。

今朝の御言葉の13と14節に、この主イエスの御言葉が記されています。

「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。」

2005年11月20日 | カテゴリー: イザヤ書 , マタイによる福音書 , ヤコブの手紙 , ヨハネによる福音書 , 新約聖書 , 旧約聖書

求めなさい ウイリアム・モーア

マタイ7章7-12

【祈りの大小】
皆さん、今朝、一つの質問を致したいのです。それは、祈る時、神にどのような祈りを捧げますか。つまり、自分のための願いは大きいですか。それとも小さいですか。この質問をするには理由があります。それは、何よりも祈りは神に対する私達の態度と概念の現れなのです。ですから、私達は自分の祈りを調べてみたら、実際にどのような神を私達が信じているかが分ります。

【子供が親に願う事】
子供が親に願う事と、神に祈るのはある面で非常に似ているところがあると思います。実は、アメリカで勉強している次男のポールは今、車を欲しがっています。ロサンジェルスは広くて、また、公共輸送は不便ですから、車があったら活動が随分楽になると考えられます。ですから、ポールは家に電話する時、車の課題がよくでます。この間、彼は、「$2、000があったら車を手に入れられる」と言いました。そして、車を買ってくれたら、アルバイトを探す事が出来るし、その報酬で自動車保険にも入れると更に言ってきました。つまり、ポールは親の予算を考えながら、願っています。間違いなく、もし金持ちの親であったら、ポールは新車の高級スポーツカーを願った事でしょう。しかし、彼は家族の状態が分るから、言われなくてもそれは不可能だとよく知っています。

同じように、私達は神の力が限られていると思ったら、私達の祈願があんまり大きくはないでしょう。神には不可能だと思った事を願うはずがないからです。また、神は私達の願いを出し惜しむ、気難しいお方だと思っていたら、祈りをあんまりしないかも知れません。その反面、神は全てを造り、全てを所有する愛する天のお父さんだと信じたら、きっとその願いは大きいはずです。

【求めなさい。そうすれば、与えられる】
今日の聖書の朗読はイエス・キリストの山上の説教の続きになります。そして、主はこのように私達に命じています。

「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。」(マタイ7:7)

2005年11月13日 | カテゴリー: コリントの信徒への手紙二 , マタイによる福音書 , 新約聖書

人を裁くな ウイリアム・モーア

マタイ7章1一6

【皮肉屋の理髪店主】

次のストーリは本当か、どうかは分りませんけれども、ある男の人が理髪店へ行って、主人に髪を切ってくれるように頼みました。理髪店の主人は非常に頑固で何でも批判的な態度を取る習慣がありました。どんな話題であっても、彼の話はいつも悪口と酷評で終わてしまいました。「政治家は皆賄賂を取る奴ら」とか「今の若い人は怠け者ばっかりだ」のような発言で有名になりました。

散髪する間、いつものように男の人と主人の会話が盛り上がり、男の人は「出張でもうすぐイタリアのローマへ行くつもりなんだよ」と言いました。床屋さんは「どんな航空会社を使って、何と言うホテルで泊るのかい」とすぐ聞きました。そして、男の人が答えると床屋さんは、「あの航空会社は危ないよ。去年恐ろしい事故があったの覚えてるだろう。」そして、「特にそのホテルは酷い。サービスが最低だと聞いてる。ローマへ行かない方が良いじゃないか」と強く押し付けました。

「大事な仕事があるので、ローマへ行かなければなりません。そして、仕事が済んでからローマ法王に拝謁を賜りますから、是非行こうと思います」と男の人が返事しました。しかし、「ローマ法王は一番堕落した神父なのに、どうして会いたいのかい」と床屋さんが言い返しました。

数週間後、男の人はローマから帰って来て、理髪店へまた行きました。「ローマの旅はどうだったかい。多分大変だっただろう」と言う挨拶で主人が男の人を迎えました。「いいえ、素晴らしい出張になりました。航空会社もホテルも大満足しました」と答えました。「法王に会ったかい。がっかりしたでしょう」と主人が言うと男の人はこのように答えました。「もちろん会いましたよ。実は、法王の前にひざまずいて法王の指輪にせっぷんする事が許されました。大変な光栄でした」と男の人が言いました。

「教えて。その時、法王は何を言ったかい」と床屋さんが聞きますと、男の人はこのように言いました。「実は、ひざまずくと、法王は御自分の手を私の頭に置いて下さって、このようにお尋ねになりました。『我が子よ、この下手くそな散髪はいったいどこでされたのか』とお聞きになりました。」

2005年11月06日 | カテゴリー: マタイによる福音書 , 新約聖書

お金の使い方 ウイリアム・モーア

マタイ福音書6章19-34

長年の謎

1997年、長年の謎がやっと解けました。それは誰が、全部で数十億ドルを寄付したかという事です。その寄付を受けた福祉施設や学校や救済団体などは寄付者が全く分りませんでしたので、お礼の手紙さえも送る事が出来ませんでした。寄付金はいつも銀行口座宛小切手の形で送られましたから、寄付者は不明でありました。そして、小切手と一緒に来たメモには、送り主は無名で寄付したいと書いてありました。

マスコミは誰かが莫大な金額を無名で寄付している事を聞いて、その送り主の身元を調べました。そして、調査は10年程かかりましたけれども、やっと寄付者の名前が明かになりました。それは66歳のチャールズ・フィーニー社長でした。彼は大きな免税店チェーンストアのオーナーで、アメリカで400人のお金持ちの中の一人と思われました。しかし、詳しく調べたらフィーニー社長は実際にそれ程の金持ちではありませんでした。財産の99%をもうすでに寄付していましたからです。自分の会社の株を少しずつ売って、全部で40億ドル、すなわち、4600億円を密かに寄付していました。フィーニー社長は古い衣服を着て、5ドルの腕時計を使って、家も、車さえも持っていません。彼は本当に質素に暮しています。

2005年10月30日 | カテゴリー: マタイによる福音書 , 新約聖書

心からの敬虔 ウイリアム・モーア

聖書:マタイ6章1-18

施しと祈りと断食

主イエス・キリストの当時、敬虔なユダヤ人だと言う人は誰でも信仰生活で、必ず三つの事を行いました。それは施しと祈りと断食です。敬虔な信者は少なくともその三つの宗教的行為を実行しました。ユダヤ人はこの三つを大変重んじましたので、主イエスも山上の説教でこれを扱いました。施しと祈りと断食と言う行為を通して、イエスは神が望んでおられる「心からの敬虔」を教えられました。

さて、今日の個所の始めのところ、マタイによる福音書6章1ー4を見て下さい。

「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いを頂けない事になる。だから、あなたは施しをする時には、偽善者達が人から褒められようと会堂や街角でするように、自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない。はっきりあなたがたに言っておく。彼等は既に報いを受けている。施しをする時は、右の手のする事を左の手に知らせてはならない。あなたの施しを人目につかせない為である。そうすれば、隠れた事を見ておられる父が、あなたに報いて下さる」

とイエスは言われました。

善行の動機

イエスも善行と施し、その行動を大事にしました。しかし、善行その行為よりも、善行の裏にある私達の態度と動機をもっと大切にしました。実は、動機が誤まったら、善行の霊的な意味がなくなるからです。主イエスによりますと、もし人の褒め言葉と賞賛を得る為と言う動機ならば、神はその善行を高く評価しません。更に、自分が他の人よりも偉いと言う気持ちで良い行いをすると、神はその善行をも受け入れません。

2005年10月23日 | カテゴリー: マタイによる福音書 , ルカによる福音書 , 新約聖書

心からの義II ウイリアム・モーア

マタイ5章27-48

【律法を完成する者】

先週、主イエス・キリストが教えて下さった「心からの義」を一緒に学びました。今日も引き続き「心からの義II」を学びたいと思います。さて、覚えておられると思いますが、主は山上の説教でこのような意味深い宣言をしました。「私が来たのは律法や預言者を廃止する為だと思ってはならない。廃止する為ではなく、完成する為である。」つまり、主イエスによりますと、神の掟をただ表面的に守るのは不十分であり、神を喜ばせる事が出来ません。なぜなら、神と隣人に対して、愛のない、また心が曲がった人でも表面的に十分律法に従えます。実は、主は私達に心からの義を求めておられます。すなわち、神は掟の本当の目的とスピリットを守ろうとする精神を私達の中に見たいのです。主は私達の表面だけを見るのではなく、私達一人一人の心の奥そこまで見られます。何故なら、私達の態度と動機は神には大事であるからです。

【神の恵みを頂くのに相応しい態度】

しかし、神はどうしてそんなに私達の態度と動機に対して関心を持たれるのでしょうか。表面的でも、人間が御自身の掟を守るだけで十分ではありませんか。私達の思いまでも監督するのはちょっと求め過ぎだと思われる人がいるかも知れません。実は、神は私達一人一人を愛して下さいますので、正しい態度と動機を望んでおられるのです。つまり、主の豊な祝福を受けるように、特に霊的な祝福を受ける為に、相応しい態度と動機が必要であります。神が授けて下さった掟は神御自身の益の為ではありません。却って、それは私達個人と、社会全体の幸福の為に定められました。そして、それを喜んで心から守ると、主の祝福を豊に経験出来ます。その反面、心からではなく、ただ掟の表面的な要求だけに従うと、その祝福は余り分らなくなります。

2005年10月16日 | カテゴリー: エレミヤ書 , マタイによる福音書 , ローマの信徒への手紙 , 新約聖書 , 旧約聖書

心からの義 ウイリアム・モーア

マタイによる福音書5章17-26

◆律法について

17:「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。

18:はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。

19:だから、これらの最も小さな掟を一つでも破り、そうするようにと人に教える者は、天の国で最も小さい者と呼ばれる。しかし、それを守り、そうするように教える者は、天の国で大いなる者と呼ばれる。

20:言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない。」

◆腹を立ててはならない

21:「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。

22:しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。

23:だから、あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、 24:その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい。

25:あなたを訴える人と一緒に道を行く場合、途中で早く和解しなさい。さもないと、その人はあなたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡し、あなたは牢に投げ込まれるにちがいない。

26:はっきり言っておく。最後の一クァドランスを返すまで、決してそこから出ることはできない。」

腰痛とスポーツクラブ

私はずっと前から腰が弱いので、腰の手入れにかなり気を付けています。そうしないと腰がすぐ痛くなり、ある時はベッドから全然起き上がられない程ひどくなります。

数年前、特に苦しかった時、病院へ行って、腰痛の対策を教えて貰いました。それはおもに腰と腹の筋肉を強くさせる運動と足のストレチング・エクササイズでした。その運動をちゃんとすれば、腰が良くなると言われた私は頑張りました。しかし忙しい時は、忘れてしまいました。そうすると、やはり腰がまた痛くなります。

ですから、運動がもっとちゃんと出来るように近くにあるスポーツ・クラブに通い始めました。実際よく続けて運動しました。そうして腰は良くなりました。

2005年10月09日 | カテゴリー: コリントの信徒への手紙二 , マタイによる福音書 , 新約聖書

塩と光 ウイリアム・モーア

◆地の塩、世の光(マタイによる福音書5章)

13:「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その 塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、 外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。

14:あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。

15:また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。

16:そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、 あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」

チャーリーとペパーミント

ある日、ピーナッツと言う漫画の主人公チャーリー・ブラウンは自分の友人ペパーミント・パテイーにこのように言われました。「チャーリー、今日は新学年の始めの日なのに、あなたの為に私は校長先生の世話になってしまった。」びっくりしたチャーリー・ブラウンは、「私の為?学校が違うからそんなことはないはずよ。どうして全てが私の為といつも言うの」と言い返しました。すると、ペパーミントは返事しました。「チャーリー、私たちは昔からの友人でしょう。友人だったら、あなたは私にもっと良い影響を与えるべきだったのよ。」

また、ある牧師が家の庭で犬小屋を建てる最中に近所の坊やがやって来てその作業をじっと見つめていました。長い間何も言わずに坊やはただ牧師の姿と犬小屋を面白そうに見学していました。自分の月曜大工(日本では日曜大工)としての腕前が良いと思った牧師は坊やが興味深いのは賛嘆と受け取り、このように話しかけました。「犬小屋の建て方を教えようか。君も自分の犬の為にきっと建てられるよ。」そうすると、坊やは言いました。「家には犬がいないから、犬小屋を作る必要はないよ。実は、牧師先生が親指をハンマーで打つと、どんな言葉が出て来るかと思って待っているだけなの。」

2005年10月02日 | カテゴリー: マタイによる福音書 , 新約聖書

霊的な革命 ウイリアム・モーア

聖書:マタイによる福音書5章

1:イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。 2:そこで、イエスは口を開き、教えられた。

◆八福

3:「心の貧しい人々は、幸いである、/天の国はその人たちのもので

ある。

4:悲しむ人々は、幸いである、/その人たちは慰められる。

5:柔和な人々は、幸いである、/その人たちは地を受け継ぐ。

6:義に飢え渇く人々は、幸いである、/その人たちは満たされる。

7:憐れみ深い人々は、幸いである、/その人たちは憐れみを受ける。

8:心の清い人々は、幸いである、/その人たちは神を見る。

9:平和を実現する人々は、幸いである、/その人たちは神の子と呼ばれる。

10:義のために迫害される人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。

11:わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。

12:喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」

幸せになりたい
私たちは誰でも幸福になりたいです。幸福の追求は人間に生まれながらの本能ではないかと思います。もし誰かが「私は幸せに暮したくない」と言ったら、その人の精神状態を疑う理由が十分あります。誰でも重要な目標として「幸せになりたい」と言う事を心に抱いていると思います。

2005年09月18日 | カテゴリー: マタイによる福音書 , 新約聖書

山上の説教 ウイリアム・モーア

◆山上の説教を始める(マタイによる福音書5章1-2)

1:イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。2:そこで、イエスは口を開き、教えられた。

讃美歌501

【クリスチャン生活の中心と基盤】
当然な事ですけれども、主イエスの教えは我々キリスト者にとって生活の中心と基盤になります。毎日の生活にその教えを覚え、心から従う事によってこそ、私達は本当のキリスト者になります。ですから、私達は常にその教えを学んで、毎日具体的に実行する必要があります。そうしないと私達の信仰はただ形式的なものとなり、主イエスが約束した豊な命を経験出来ず、空しい状態になります。

この最も大事な事について主イエスはこのように語られました。「そこで、私のこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである。私のこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家に襲いかかると、倒れて、その倒れ方がひどかった」(マタイ7:24~27)と主イエスが言われました。
神の御子イエス・キリストの御言葉、すなわち御自分の教えははっきりと聖書に残されています。ですから、それを学ぶ為、聖書を開く必要があります。しかし、聖書を何処から学べば良いのか分からなくなる時があります。聖書の中で色々なお話が載ってありますので、イエスの教えとなる良い出発点は何処なのでしょうか。

【山上の説教:キリスト教の憲法】

実は、主イエス・キリストの基本的な教えを覚えようとしたら、一つのところを勧めたいと思います。それはマタイによる福音書に於けるイエスの「山上の説教」と言われるお話です。マタイによる福音書5章、6章、7章にあるこの山上の説教は何処の個所よりも主イエスの一番大事なお話を纏めています。ですから、ある人は山上の説教を「キリスト教の憲法」と呼びました。このマタイによる福音書の5~7章だけをマスターしたら、主イエスの教えの一番重要な点を理解出来るようになります。そして、その教えに従って、毎日の生活に実行すると、主の約束通りに「岩の上に自分の家を建てる人」になります。どんな事が襲って来ても、しっかり立つ事が出来、神は豊に勝利と恵みを授けて下さいます。

2005年09月11日 | カテゴリー: マタイによる福音書 , 出エジプト記 , 新約聖書 , 旧約聖書

神の祝福である私たちの子供 ウイリアム・モーア

箴言22章6:若者を歩むべき道の初めに教育せよ。年老いてもそこから離れることがないであろう。

マタイによる福音書18章1-4

1:そのとき、弟子たちがイエスのところに来て、「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか」と言った。 2:そこで、イエスは一人の子供を呼び寄せ、彼らの中に立たせて、 3:言われた。「はっきりいっておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。4:自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ。



マタイによる福音書19章13-15

13:そのとき、イエスに手を置いて祈っていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。 14:しかし、イエスは言われた。「子供たちを来させなさい。わたしのところに来るのを妨げてはならない。天の国はこのような者たちのものである。」15:そして、子供たちに手を置いてから、そこを立ち去られた。

2005年9月4日子供達

【子供の頃】
子供の頃のどんな思い出が残っていますか。よく考えて見たら色々な思い出が溢れるように出て来ると思います。楽しい思い出、辛い思い出、沢山あるでしょう。幼い頃の思い出の一つとして父と一緒に町ヘ出掛けることでした。町に用事がある時、父は「私と町に行きたい人はいるか」と聞きました。もしいれば、車に乗せて用事の所へ一緒に連れてってくれました。私はいつも喜んで、すぐ父と行きました。色々な店や役所があって、郊外に住むわたしにとって、町はすごく面白かったです。私にとっては町に行く事は楽しい冒険になりました。でも父が側にいるからいつも安全な冒険でした。ほかにも色々な楽しい思い出が沢山あります。

2005年09月04日 | カテゴリー: マタイによる福音書 , 創世記 , 新約聖書 , 旧約聖書

「あなたがたは世の光である」ウイリアム・モーア

マタイによる福音書5章14~16

14:あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。

15:また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。

16:そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」


コリントの信徒への手紙一10章31

31:だから、あなたがたは食べるにしろ飲むにしろ、何をするにしても、すべて神の栄光を現すためにしなさい。

【ピエロの宣教】
最近、キリスト教の世界にも世の流れと共に色んな宣教方法があります。青年伝道や、学校・病院のチャプレンの働きや、神学校で教える事などは昔からよく知られている奉仕ですけれども、最近は珍しい、あんまり知られていない特別な奉仕もあります。例えば、ある団体の働きは、道路がまだないアフリカと南米のジャングル村まで宣教師達を飛行機で移送して下さる事です。飛行機は小さいですが、宣教師の為の航空会社みたいです。またある団体は聖書を珍しい言葉に翻訳します。御言葉は全ての民の為であると信じ、わずか数千人の部族でも、その人の言葉に聖書を提供します。しかし、私が聞いた変わった宣教方法の中で、恐らくピエロの宣教は一番珍しいのであります。その方々はピエロのスーツを着て、観衆を楽しませながら、聖書のお話を語ります。

2005年05月15日 | カテゴリー: マタイによる福音書 , 新約聖書

恐れることはない。イエス・キリストは復活なさったのだ ウイリアム・モーア宣教師

2004年12月19日ウイリアム・モーア宣教師 

◆復活する
1:さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方にマグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行った。
2:すると、大きな地震が起こった。主の天使が天から降って近寄り、石をわきへ転がし、その上に座ったのである。
3:その姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった。
4:番兵たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。
5:天使は婦人たちに言った。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、
6:あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。
7:それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』確かに、あなたがたに伝えました。」
8:婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。
9:すると、イエスが行く手に立っていて、「おはよう」と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。
10:イエスは言われた。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」

【イエス・キリストは復活された】
 今日はイースター、すなわち復活祭です。この日に私達は世界の全てのキリスト者と共にイエス・キリストの栄えある復活を祝って、死から主イエスを蘇らせた愛する天の父なる神を賛美し、心から褒め讃えます。
間違いなく、イエス・キリストの復活は我々の信仰の中心的出来事になります。何故かと言いますと、もし主イエスがただ死んでしまった優れた人物であるならば、ずっと前に忘れられていた事でしょう。実は、世界の歴史の中で優れた人物は大勢いましたが、ほとんど皆はやがて忘れられてしまいました。しかし、イエスが現在まで世界中の人々に覚えられた理由は、確かに、主は唯一の全能の神の力によって蘇られて、今、生きておられるからです。ですから、今日、生きておられるイエス・キリストを祝っています。

使徒パウロは主イエスの復活についてこのようにコリントにある教会に書きました、「最も大切な事として私があなたがたに伝えたのは、私も受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてある通り私達の罪の為に死んだ事、葬られた事、また、聖書に書いてある通り、三日目に復活した事、ケファに現れ、その後十二人に現れた事です。次いで、五百人以上もの兄弟達に同時に現れました。」(コリント第一15:3~6a、)
使徒パウロが伝えた通りです。確かに、イエス・キリストの復活は「最も大切な事」です。特に、その当時、蘇られたイエスを目撃した弟子達には最も大切な事になりました。

2005年03月27日 | カテゴリー: マタイによる福音書 , 新約聖書

「新しい教会へのメッセージ・パートⅡ」
グラハム・スミスCMS宣教師KGK主事

◆テサロニケでのパウロの宣教      1テサロニケ2章1-16 1:兄弟たち、あなたがた自身が知っているように、わたしたちがそちらへ行ったことは無駄ではありませんでした。 2:無駄ではなかったどころか、知ってのとおり、わたしたちは以前フィリピで苦しめられ、辱められたけれども、わたしたちの神に勇気づけられ、激しい苦闘の中であなたがたに神の福音を語ったのでした。 3:わたしたちの宣教は、迷いや不純な動機に基づくものでも、また、ごまかしによるものでもありません。 4:わたしたちは神に認められ、福音をゆだねられているからこそ、このように語っています。人に喜ばれるためではなく、わたしたちの心を吟味される神に喜んでいただくためです。 5:あなたがたが知っているとおり、わたしたちは、相手にへつらったり、口実を設けてかすめ取ったりはしませんでした。そのことについては、神が証ししてくださいます。 6:また、あなたがたからもほかの人たちからも、人間の誉れを求めませんでした。 7:わたしたちは、キリストの使徒として権威を主張することができたのです。しかし、あなたがたの間で幼子のようになりました。ちょうど母親がその子供を大事に育てるように、 8:わたしたちはあなたがたをいとおしく思っていたので、神の福音を伝えるばかりでなく、自分の命さえ喜んで与えたいと願ったほどです。あなたがたはわたしたちにとって愛する者となったからです。 9:兄弟たち、わたしたちの労苦と骨折りを覚えているでしょう。わたしたちは、だれにも負担をかけまいとして、夜も昼も働きながら、神の福音をあなたがたに宣べ伝えたのでした。 10:あなたがた信者に対して、わたしたちがどれほど敬虔に、正しく、非難されることのないようにふるまったか、あなたがたが証しし、神も証ししてくださいます。 11:あなたがたが知っているとおり、わたしたちは、父親がその子供に対するように、あなたがた一人一人に 12:呼びかけて、神の御心にそって歩むように励まし、慰め、強く勧め たのでした。御自身の国と栄光にあずからせようと、神はあなたがたを招いておられます。 13:このようなわけで、わたしたちは絶えず神に感謝しています。なぜなら、わたしたちから神の言葉を聞いたとき、あなたがたは、それを人の言葉としてではなく、神の言葉として受け入れたからです。事実、それは神の言葉であり、また、信じているあなたがたの中に現に働いているものです。 14:兄弟たち、あなたがたは、ユダヤの、キリスト・イエスに結ばれている神の諸教会に倣う者となりました。彼らがユダヤ人たちから苦 しめられたように、あなたがたもまた同胞から苦しめられたからです。 15:ユダヤ人たちは、主イエスと預言者たちを殺したばかりでなく、わたしたちをも激しく迫害し、神に喜ばれることをせず、あらゆる人々に敵対し、 16:異邦人が救われるようにわたしたちが語るのを妨げています。こうして、いつも自分たちの罪をあふれんばかりに増やしているのです。 しかし、神の怒りは余すところなく彼らの上に臨みます。

【倣うもの】
有名な聖書のことばを紹介します。


「わたしがキリストに倣うものであるように、あなたがたもこの私に倣うものとなりなさい。」(1コリント11:1)

これは使徒パウロという初代教会の宣教師が言ったことばです。私に倣うものとなりなさいと。
別の箇所で、パウロはテモテという福音の働き人にこう言いました、


「信じる人々の模範になりなさい。」(1テモテ4:12)

一人の弟子であるペテロも、キリストの苦しみを模範とすることを勧めました(1ペテロ2:22)。模範を示すことや倣う者になることは、人間の成長のために重要な方法です。異文化の生活に慣れるために回りの人がやっていることを注意深く見て、同じように行動することは大切なのです。 (例え)

2004年05月09日 | カテゴリー: コリントの信徒への手紙一 , テサロニケの信徒への手紙一 , テモテへの手紙一 , マタイによる福音書 , 新約聖書

復活節礼拝メッセージ【ここに私達の希望がある】ウイリアム・モーア

◆復活する マタイ28章 1:さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行った。 2:すると、大きな地震が起こった。主の天使が天から降って近寄り、石をわきへ転がし、その上に座ったのである。 3:その姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった。 4:番兵たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。 5:天使は婦人たちに言った。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、 6:あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。 7:それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』確かに、あなたがたに伝えました。」 8:婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。 9:すると、イエスが行く手に立っていて、「おはよう」と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。 10:イエスは言われた。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」

【主イエス・キリストの復活】
今日、復活祭、イースターの際に、私達は主イエス・キリストの蘇りを覚え祝う為にここに集めて来ました。そして、世界中数え切れない程の主にある兄弟姉妹も私達と一緒に復活の喜びを分かち合っています。しかし、主の蘇りを祝うと同時に私達の心は重いです。特に今年はこの世はテロと戦争に巻き込まれ、平和と愛の世界は夢にすぎないような気がします。毎朝、新聞を読むと悪いニュースは良いニュースより遥かに多く、この世はいったいどうなるのか心配で心を取り乱しています。

2004年04月11日 | カテゴリー: マタイによる福音書 , 新約聖書

【私達が愛するのは神がまず私達を愛して下さったから】ウイリアム・モーア 

【神は愛です】ヨハネの手紙一4:16bー21 神は愛です。愛にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。 17:こうして、愛がわたしたちの内に全うされているので、裁きの日に確信を持つことができます。この世でわたしたちも、イエスのようであるからです。 18:愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します。なぜなら、恐れは罰を伴い、恐れる者には愛が全うされていないからです。 19:わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです。 20:「神を愛している」と言いながら兄弟を憎む者がいれば、それは偽り者です。目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません。 21:神を愛する人は、兄弟をも愛すべきです。これが、神から受けた掟です。

【ウエスレー兄弟の先輩―ウイリアム・ロー】
メソジスト教派の創始者であるジョン・ウエスレーは神学生の時、良いクリスチャンになる為に、一所懸命に頑張りました。兄弟チャールズと一緒に英国のオクスフォード大学で仲間を集め、厳しいクリスチャン生活を送りました。そのグループは「ホーリイクラブ」すなわち神聖クラブと呼ばれていました。色々な厳しいルールを作って、真面目、真面目に神に従おうとしました。しかし、残念ながら、いくら頑張っても彼等は平安と喜びをあんまり経験出来ませんでした。ウエズレー兄弟がアドバイスを求め、先輩ウイリアム・ローに訪ねたどころ、ロー先生はこのように言いました。「君達はキリスト教から面倒くさい複雑なものを作っている。実は、キリスト教信仰は本当に簡単です。我等の信仰の本質はただこれです。『私達が愛するのは、神がまず私達を愛して下さったからです。』」

【キリスト信仰の本質―神は愛です】
キリストの信仰は基本的に難しくはありません。もちろん聖書のある箇所は色々な解釈があって、神学の微妙な違いで議論に入る事が出来ますけれども、本質は実に簡単です。その本質について少し考えると、キリスト教信仰の重要な点はピントが合って来て、主イエスに従う意味が新たに分かってきます。
さて、簡単にキリスト教信仰とキリスト教会を説明する事が出来ますか。「私達が愛するのは、神がまず私達を愛して下さったからです。」恐らく何よりも、これは私達の信仰の本質だと思います。ある程度、神秘に包まれているので、全能の唯一の神についてまだ分からない事があります。しかし、私達人間に対しての神の御業は、十分分かっています。それは主に愛です。神様は御自分の大きな愛から私達を愛して下さいます。今日の朗読の通りに「神は愛です。」もちろんキリスト信仰には天国の素晴らしい事についての教えがありますが、今、この世にあっては、神に愛された事と隣人を愛する事を強調します。そして、キリスト教には律法、すなわち規則があるけれども、愛は全ての 律法を成就します。

社会では愛の事について良く聞きますね。多分これはキリスト教の影響だと思います。しかし、社会に愛を実現するのはなかなか難しいです。なぜなら、愛がかなり誤解されていると思います。その理由は、愛にとって絶対に必要な基盤を知らず、愛を実現しようとしているからです。その基盤とは私達の為の神の愛であります。神が先ず私達を愛して下さったから、私達は愛する事が出来ます。本当の愛の源は神からです。

2004年02月01日 | カテゴリー: マタイによる福音書 , ヨハネの手紙一 , 新約聖書

【私は何の為に生きていますか】ウイリアム・モーア

◆「タラントン」のたとえ マタイ25:14~30 14:「天の国はまた次のようにたとえられる。ある人が旅行に出かけるとき、僕たちを呼んで、自分の財産を預けた。 15:それぞれの力に応じて、一人には五タラントン、一人には二タラントン、もう一人には一タラントンを預けて旅に出かけた。早速、 16:五タラントン預かった者は出て行き、それで商売をして、ほかに五タラントンをもうけた。 17:同じように、二タラントン預かった者も、ほかに二タラントンをもうけた。 18:しかし、一タラントン預かった者は、出て行って穴を掘り、主人の金を隠しておいた。

19:さて、かなり日がたってから、僕たちの主人が帰って来て、彼らと清算を始めた。
20:まず、五タラントン預かった者が進み出て、ほかの五タラントンを差し出して言った。『御主人様、五タラントンお預けになりましたが、御覧ください。ほかに五タラントンもうけました。』
21:主人は言った。『忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。』
22:次に、二タラントン預かった者も進み出て言った。『御主人様、二タラントンお預けになりましたが、御覧ください。ほかに二タラントンもうけました。』
23:主人は言った。『忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。』

24:ところで、一タラントン預かった者も進み出て言った。『御主人様、あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集められる厳しい方だと知っていましたので、 25:恐ろしくなり、出かけて行って、あなたのタラントンを地の中に隠しておきました。御覧ください。これがあなたのお金です。』

26:主人は答えた。『怠け者の悪い僕だ。わたしが蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集めることを知っていたのか。
27:それなら、わたしの金を銀行に入れておくべきであった。そうしておけば、帰って来たとき、利息付きで返してもらえたのに。
28:さあ、そのタラントンをこの男から取り上げて、十タラントン持っている者に与えよ。

29:だれでも持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。
30:この役に立たない僕を外の暗闇に追い出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。』」

2004年01月18日 | カテゴリー: マタイによる福音書 , 新約聖書

【一番良いものを得る事】ウイリアム・モーア

マタイ13:45~46 45:また、天の国は次のようにたとえられる。商人が良い真珠を探している。 46:高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う。

【欲しかったカメラ】
何かの物をどうしても手に入れたいと言う気持ちになった事がありますか。とでも素敵な物を見て、それを欲しくてたまらない程憧れがあった事がありますか。誰でもそのような経験があったと思います。私は中学生の時代、カメラの事で夢中になって、ある新しく出たカメラが欲しかったのです。そのカメラのパンフレットとカタログをよく見て、カメラを触る為に、わざわざ店へ何回も足を運びました。夢にもそのカメラを見る程でした。とにかく、あのカメラをどうしても手に入れたかったのです。しかし、結構高かったので、中学生の私の予算ではなかなか合わなかったんです。でもそのカメラは私の一番憧れる物だったので、どんな犠牲を払っても、それを自分の物にしようと決心をしました。お小遣いを全部貯めて、お金を稼ぐ為に近所のお庭の芝生刈りをして、そして持っていたカメラと他の私の宝物を全部売ってしまいました。そしてようやくカメラの代金を集め、買いに行きました。長く欲しかった物をやっと手に入れた気持ちは何十年が経った今も良く覚えています。

【高価な真珠を見つけた商人】
先ほど読んだ聖書の箇所にイエス様はその同じようなお話を語って下さいました。もう一同読みましょう。マタイ13:45~46。「また、天の国は次のようにたとえられる。商人が良い真珠を探している。高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う。」

このイエスの譬え話は大変短いです。恐らくこれはイエスの譬え話の中で一番短いものなんですが、その背景には意味深いものがあります。お仕事で宝石商人があちこちへ行って、真珠を探していました。でも、今回は普通の真珠ではなくて、特別に優れた真珠を求めていました。

ところで、その当時はもちろん養殖真珠の時代のずっと前ですから、真珠は珍しく、大変高かったのです。一般の人には夢でも真珠を持つ事は想像も出来ませんでした。普通の小さい真珠はすごく高かったんですが、特別に良い物は大変珍しいですので、信じられない程高かったんです。クレオパトラ、古代エジプトの女王は一つの優れた真珠を持っていました。それは、今のお金で5億円の値打ちがあったんだそうです。とにかく、イエス様の譬え話の商人は色々な所へ行って良い真珠を買い求めました。

2004年01月11日 | カテゴリー: マタイによる福音書 , 新約聖書

クリスマス・メッセージ ウイリアム・モーア 待降節第4週

◆イエス・キリストの誕生 18:イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。 19:夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。 20:このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。 21:マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」 22:このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。 23:「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。 24:ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ、 25:男の子が生まれるまでマリアと関係することはなかった。そして、その子をイエスと名付けた。

2003年12月21日ウイリアム・モーア先生

【私のクリスマス・プレゼントは何?】

私の子供の頃、クリスマスが近くになると、両親はいつも私達三人の兄弟に一つの素晴らしい質問を問い掛けました。普段には両親からの質問は「宿題が済んだの?歯を磨いた?帰りは何故遅くなったのか?」などのようなあんまり歓迎されるものではないけれども、クリスマスの頃の質問は私達兄弟三人が一年中楽しみに待っていたのです。

2003年12月21日 | カテゴリー: マタイによる福音書 , 新約聖書

【洗礼の意味】ウイリアム・モーア 待降節第3週

◆弟子たちを派遣する マタイによる福音書28章16~20節 16:さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。 17:そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。 18:イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。 19:だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、 20:あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」 

洗礼の意味

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       合衆国長老教会宣教師ウイリアム・モーア


昔のアメリカでは多くの田舎の教会は洗礼式を川で行ないました。そして、ある日、一人の男の人はちょっと飲み過ぎて、散歩しながら、洗礼式を行なう教会の群れに巡り会いました。彼はあんまり深く考えないで、その式を近くで見る為に川の水に入って、牧師の側に立ちました。

2003年12月14日 | カテゴリー: マタイによる福音書 , ヨハネによる福音書 , 新約聖書