新約聖書

2016年2月7日説教「神の言葉は滅びない」金田幸男牧師

説教「神の言葉は滅びない」 

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聖書:マルコによる福音書1328~31

28 「いちじくの木から教えを学びなさい。枝が柔らかくなり、葉が伸びると、夏の近づいたことが分かる。29 それと同じように、あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、人の子が戸口に近づいていると悟りなさい。30 はっきり言っておく。これらのことがみな起こるまでは、この時代は決して滅びない。31 天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」

 

要旨

 【いちじくの葉が出る頃】

いちじくの木はパレスティナでは大変よく知られた果樹で、ぶどう、やし、ざくろと並んでその果実はよく食用に供されています。もともと小アジア原産でしたが、古くから移植され、広く栽培されていました。果実は生のままか、乾燥されて食べられていました。熱帯では常緑樹なのですが、山地では冬(12月ごろ)、葉が落ち、早春の3月ごろ、小枝の先に小さな緑のこぶしができ、そこから葉が出てきて、その葉のところに青い実がなり、夏ごろ急激に大きくなって食用になります。

 

いちじくは聖書にもしばしば登場しますが、マルコ2-14,20-22に出てきます。そこでは実がなかったためにイエスに呪われて一晩で枯れてしまった木のことが記されていました。

 

【エルサレム神殿崩壊とこれらのこと】

ぶどうはしばしばイスラエルを象徴し、神の豊かさを表わすものとして描かれますが、なぜかいちじくの木は神の裁きと結び付けられています。想像をたくましくすれば何か言えるかもしれませんが、ここからだけではその理由は分かりません。植物は季節に敏感です。自然現象を見て季節の変わり目を知るという農民や漁師の感覚を私たちは驚きをもって経験します。いちじくの葉が伸びてくると夏が近いと悟る。そのように「これらのこと」を見たら、人の子が戸口に立っていると悟れ。この「これらのこと」が何を指しているのか、という問題があります。この主の言葉が語られて40年後のローマ軍によるエルサレム、その神殿の破壊を指しているとする考え方もありますが、ここはそれも含めて、キリストがすでに語られた苦難を指していると見たほうがよいと思われます。   

 

【人の子の来臨】

戦争、飢饉、地震、迫害、内部告発などキリストの弟子たちが味わうであろう苦難のすべてが起きるのを目撃したら、人の子の来臨の近さを知りなさい。キリストはこのように言われたと解釈されます。

 30節を見ますと、はっきり言っておく、という主の言葉がでてきます。主が来られる終わりのときの接近に当たって、私たちはどういう姿勢、態度を示すべきなのか。このはっきり言っておく、という言葉をキリストはしばしば用いられますが、このことは重要だから決して軽く見ないようにという警告を含みます。アーメン、然り、わたしはあなた方に言う。キリストは厳かに命じられます。しかし、それはまた、聞くものがおうおうにして軽く評価をしているということを意味します。

 

キリストが言われていることは重視せず、どうでもいいことに時間を費やし、精神力を消耗するのがつねです。主の来臨、接近を私たちは軽々に判断してはならないのです。

 

【人の子が戸口に立っている】

 人の子が戸口に立っている。このキリストの来臨の言葉は聖書のほかのところでも出てきます。

 

ヤコブ書5:7-9「兄弟たち、主が来られるときまで忍耐しなさい。農夫は、秋の雨と春の雨が降るまで忍耐しながら、大地の尊い実りを待つのです。あなたがたも忍耐しなさい。心を固く保ちなさい。主が来られる時が迫っているからです。兄弟たち、裁きを受けないようにするためには、互いに不平を言わぬことです。裁く方が戸口に立っておられます。」

 

【忍耐していなさい】

主が来られる。そのために忍耐していなさい、とヤコブは命じます。忍耐とはただ我慢のことではありません。動揺せず、神を信じ、心を堅く保つことを指しています。ここでは、主の来られるときとは終わりのときを指していることは明らかです。主が終わりのときに再び私たちのところに来られるという事実を、戸口に立つと証言されます。

 

【悔い改めよ】

終わりの日を直接指しているわけではありませんが、ヨハネの黙示録3・19-20では、「悔い改めよ。見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。」と語られています。

 

主が来られるときの私たちの備え方は悔い改めだと言われます。このように、主が近いという事実を前にして、私たちはもっともっと真剣にならなければならないのです。

 

 これらのことはみな起きるだろう。しかし、これらのことが起きるまで、この時代は決して滅びない。この主の言葉には二つのことが含意されます。ひとつは、終わりがくるまでこれらの災難、苦難、危機、困難はまだまだ起きるという警告と取ることができます。キリストは弟子たちに、終わりのときがまだ来ていない以上、神の民を襲う苦難はまだまだ続く。そのように言われます。だから苦難を避けることはできません。それはいつまで続くのか誰も分かりませんが、それまでは災いは終わることがない、そのように覚悟をしなければなりません。これでもか、これでもかと災いは襲ってくる。これが現実でもあります。

 

【滅び】

 もうひとつの点は必ず終わりが来るという予告です。すべて計画されていることは実行されます。実行されるべき計画が終われば必ず滅びがきます。

 

 滅びとは何でしょうか。私たちは存在しています。私たちがここにあるということは自明の真理で動かしがたい真実であると私たちは思っています。ところがどうなのでしょうか。存在しているこのことほど脆いものはないのではないでしょうか。存在するものは何かの上に存在している=立っていると言うことができると思います。エルサレムの壮大なヘロデが建てた神殿は大きな基礎の上に建てられていました。その土台の上の神殿は不動のものと思われていました。しかし、それは簡単に倒されます。存在しているものは、実は危うい基礎の上に建てられているに過ぎません。

 

【私たちの存在の基盤】

わたしはここにある。存在するものはそれ自体存在している。何ものにも依存していないと思っていますし、そう確信しています。それは反面、事実です。しかし、その基礎はあっけなく崩壊してしまいます。この世界は何の上に建てられているか。私たちは大地の上にしっかり足を踏ん張っているように思います。都市はしっかりとした地盤のうえに建てられたと思っています。ところがあっけなく崩れます。地震は来て大揺れにゆり動いたものは崩壊します。大地という基礎はさほど堅固ではなかったということです。私たちの人生もそうです。私たちの人生は基礎の上に建てられています。資産、学歴、健康、良運、人間関係、その他の人生にとって基礎と思われるものが多くあります。そのような基礎の上に立てられた私たちの人生は堅固そのものと思いますが、それは錯覚に過ぎません。その基礎はそんなに強固ではないのです。人生を強固としていたものは一夜にして失われます。

 

 滅びとはその基礎を失うことです。神はこの世界の基礎を失わせます。終わりの日に起きることです。終わりの日とはこの世界を成り立たせていたものはことごとく失われ、存在していたものがもはや存在できなることを意味しています。あらゆるものは失われるときが必ず来ます。それが終末です。

 

【最後の審判】

 終わりが来たら一切は消滅します。存在していたものはことごとく失われます。終わりとはそのように思っている人が多いのではないでしょうか。まさしく、終わりとは存在していたものが存在しなくなること。それはゼロに帰することなのだ、何もなくなることだ、というふうに考える人が多いと思います。

 この世界の終わりとは何もなくなること。そういう観念はどこから来たのでしょうか。それは滅びに対する誤解です。根拠がありません。滅びは神のさばきが行われることであり、恐るべき審判の行われる日であるという理解は間違っていません。しかし、それだけなのでしょうか。

 キリストはこの世界はことごとく滅びると宣告されます。同時に、「わたしの言葉は滅びない、決して滅びることはない」と断言されます。

 

【新しい創造】

 キリストの言葉とは単なる音声ではありません。語られたことは必ず実現するという言葉です。終わりの日に一切合切終わり、何もなくなるというのではありません。終わりの時、キリストが来られる時、天と地は全く新しくされます。終わりではなく、新しい創造が起きるのです。すべてが刷新されます。終わりの日はこのまったく新しい天地の始まりでもあります。終わりの日はそれで究極の終末というわけではないのです。イエス・キリストが約束されたことはことごとく成就します。キリストが予告されたことはすべて実現します。神の主権と威厳は完全に回復し、神の栄光が明らかになります。死んだものも生き残っていたものも、すべての神の民が結集されます。

 終わりの時、世界は一新されます。キリストの言葉は滅びてしまい消滅するようなことはありません。

 

【私たちの人生の終末】

 そして、大切なことは、世界の終末を考える場合、私たちの終わりも考えるべきだということです。この世界が終わるように、私たちの人生も終わります。私たちの死はあらゆる意味で終わりを意味するのでしょうか。死をそのように受け止める人のなんと多いことでしょうか。死はあらゆる意味で終わり。それで終結。後は何にもない。しかし、このような死生観を持っている人はそれを証明できたわけではありません。それは根拠のない話です。

 

だれが死んでしまえば一切おしまいといったのでしょうか。根拠なしにそう思っているだけです。イエス・キリストは「わたしの言葉は滅びない」。つまり存在を失うのではないと言われます。キリストはおられる限り、私たちは滅びることはありません。存在しなくなるわけではなく、それどころか、終わりの時は新しい始まりとなります。

 このようなことは信じるしかありません。終わりの時はいつか分かりませんが、今から言えば、まだ将来のことですし、未来のことは誰にも分かりません。私たちはただキリストのみ言葉を信じるだけです。信仰とはまさしく信じるだけなのです。(おわり)

2016年02月08日 | カテゴリー: マルコによる福音書 , 新約聖書

2014年12月21日説教「神がまことの人になるとき」金田幸男牧師

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新約聖書
ヨハネによる福音書1章1 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。
2 この言は、初めに神と共にあった。
3 万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。
4 言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。
5 光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。

説教 「神がまことの人となる」

聖書:ヨハネ1:1―5

 

要旨 

【「めでたい」と言うこと】

 クリスマスはイエス・キリストの誕生を祝う日と、このように一般に捉えられています。誕生日はめでたい。「愛でる」とは美しさを褒めるという意味があります、誕生日は何が美しいでしょうか。生まれてきた、可愛い赤ん坊が美しいとも言えるかも知れませんが、むしろ新しいのちが存在するようになったことがうるわしいと言えるのではないでしょうか。今まで存在していなかった生命が存在するようになった、そこに、めでたさがあります。

 

【クリスマスを祝うとは】

イエス・キリストの誕生もまた、それまでありえなかったような存在が地の上に与えられた、だから、クリスマスは祝うべきだというのです。

 

 しかし、クリスマスの喜ばしさはそれだけではありません。ヨハネ福音書1章4に「言は肉となって私たちの間に宿られた」という文章が記されています。その言は1章1では「はじめに言葉があった。言葉は神と共にあった。言は神であった」と記されていいます。つまり、「神が肉をとって人間となられた」ということになります。

 

【はじめに】

「はじめに」は、いつか分からないけれども単なる時間のはじめというような「はじめ」を意味していません。むしろ「永遠のはじめ」を意味しています。永遠のはじめなど、言葉の使い方が間違っていると思われるかもしれません。永遠にははじめもなく終わりもないというべきでしょう。しかし、すべてが始まる以前、時間すら開始される前、その永遠から存在していた言葉が、とき至って肉体を取り、人間となられたのです。時間というようなものがまだなかったときから存在しておられた方が来られたという意味です。

 

【「宿られた」】

 「宿られた」とは「住まわれた」と言うことであり、私たち人間の間で生活し、行動されるようになったというのです。

 神である方が人間と成り、人間の中に住まわれて、生きるようになった。これがクリスマスの大きな意味なのです。神が人となられた。

 

【人間が神になる世界】

私たちは人間が神になるという世界にいます。歴史に残るような大きな活躍をした英雄、傑出した業績を残した人が死後神として祭られる世界、これが私たちの住む世界です。人が死ねば、その人は人間を越えるものとして、例えば子孫を守護する存在として崇められます。人間の神化はごく自然な現象として認められています。でも、神となった人間は、生きていたときの特質をあまり失いません。人間としての特質に神の特質が加わると言うことでしょう。

 

【神が人間となる】 

 しかし、クリスマスはこれとは異なったことを教えられます。神が人間となった、つまり、逆方向の出来事が起きたとされます。神が人となった。

 これはどういうことでしょうか。神がどこか遠くに存在するだけで、人間世界で起きていることを眺めているだけだというのではありません。人間の住む只中に降って来られたと言うのです。神が神であることをやめず、しかし、人間となってくださった。

 

 神が人となるということとは、人が神を見ることが出来るということを意味しています。イエス・キリストこそその人間となった神です。イエス・キリストの周囲には、残念ながら、画家はいなかったようです。もしいたら、彼はイエス・キリストを描くことができました。むろん写真で撮影することができました。キリストはそのような点でまぎれもなく人間となられました。

 

 キリスト教では神は見えないことになっています。私たち日本人もその神観念では、神は見えないことになっています。ご神体の多くは鏡です。鏡は像を移すことができますが、神は見ることができない存在です。神は目には見えません。

 

【見えざる神】

 わたしは牧師としていろいろな質問を受けますが、そういう中で一番多い難問は「神がいるなら見せてくれ、見たら信じる」というものです。神を見せることができれば、手っ取り早く神存在を証明することができるかもしれません。でも、神は見ることが出来ないのです。見ることが出来るようにされた神は神ならざるものでしかありません。

 

【人となられた神イエスは見ることができた】

 イエス・キリストは神であるにもかかわらず、人間となられたのですから、キリストそのものは見ることが出来ます。キリストは幻の中で姿を表したのではありません。

キリストを見れば、確かにそこでは「人間イエス」を見ていることになりますが、そのイエスが神です。神を肉眼で見ることが出来ませんが、イエスの働き、行動行為、説教を聞いておれば、私たちは神の何かを見ていることになります。

 

言は肉となったと記されていました。肉体を取った神、それは言が肉の姿をとっただけではなく、言葉はイエスの口から発せられます。それは単なる音声に留まるのではなく、神の意志を伝えます。神が何を願い、何を求め、何を欲し、どんな驚くべきことをしようとしておられるのか明白にされます。

 

言葉は神の御心を明らかにします。その言葉を聞いておれば神とはどういう存在か、神は私たちにとってどういう価値があるのか。神は一帯どんな恵みを提供しようとしておられるのか。神は決して人間を滅ぼしつくそうとしておられるのではありません。そうすればきっとよきことをしようとされています。神は憐れみの神です。救いの神です。

 

【聖書に記録された神の言葉】

キリストを通じて、私たちは神の意志を知ることができるのです。単なる宗教的天才の発明した思想を受け取るのではありません。

キリストの言葉、すなわち神の言葉は聖書に記録されています。聖書を読めば、神の意志が分かります。キリストが降誕されたのは、イエス・キリストによって神の御心が明白に、隠れるところなく示されるようになるため、また、すばらしい神の働きがなされたことを示されるためです。キリストを信仰の目で見れば神が見えてくるということができます。肉眼で見えなくても、心で神を見ることが出来るようになります。

 

【処女マリアから生まれたキリスト】

神の子、イエス・キリストが降誕した、その意味は多くありますが、中でも最も大切な意味が何か。キリストの降誕で、キリストは私たちと同じ人間になられました。正確に言うと、罪を除いて、全く私たちと等しい人間となられたということです。罪を除いて、について詳しい説明が必要ですが、処女マリアから生まれた理由です。この点、キリストは私たちとは同じ出生ではありませんでした。だから、キリストは罪なくして生まれてこられました。

 

【身代わり】

同じ人間であると言うのは私たちの身代わりになれるということです。

子どもが何か悪いことをして誰かに損害を与えたとします。その場合、親が子どもに代わり、謝ります。ときには賠償責任も負います。こうして身代わりになるものが負い目を引き受けて、その(よこしま)な行為の張本人は免罪されます。責任を取らされず、処罰されないのです。

 

【イエス・キリストの贖罪】

イエス・キリストが人間となられたのは身代わりになれる、いや、身代わりになるためでした。人間は身代わりを必要とする闇を背負っています。それは死の陰という闇です。私たちは死の気配の中で生きています。そして、世界もまた、破滅の予兆を示しています。人類はその罪のゆえに戦争、戦乱、飢饉、疫病など数え切れない不幸と災いに見舞われます。その原因は、どこにあるのでしょうか。直接の原因は解明できるでしょうけれども、その打開策を人間は持っていません。例えば戦争ですが、戦争の原因はいろいろと探り知ることができるでしょうけれども、根本的な原因は見い出せません。むろん人間の貪欲、あくなき欲望と言えるかもしれませんが、それを解決する方策は今もって見い出せていません。

 

人間の悪き存在は自覚されていてもその解決はありません。

イエス・キリストは、人間の悪とその結果を引き受けるためにこの世に来られました。ご自身が十字架につけられることで身代わりになられました。

キリストは、自らを犠牲にすることで、神の裁きを引き受けてくださいました。そうすることで、根本的な人間の中にある闇を取り払われました。

 

【キリストによる平和の完成】

現在はなおも罪の支配があります。それはまだ力を発揮しているかのようですが、根本は解決しています。キリストのこのみわざを信じるところでは闇は払われています。信じる心があるところで平和が来ています。完成されるまではまだ時間がかかるかもしれませんが、それでも、神は徐々に完全な平和の到来を実現しておられます。

クリスマスはこの神の働きを覚え、また救いの完成を待ち望むときでもあります。主を待ち望みつつこの季節を過ごしたいものです。 (おわり)


2014年12月21日 | カテゴリー: ヨハネによる福音書 , 新約聖書

2014年11月2日説教「あなたの罪は赦される」金田幸男牧師

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2014年11月2日説教「あなたの罪は赦される」金田幸男牧師

 

聖書:マルコによる福音書2章

1 数日後、イエスが再びカファルナウムに来られると、家におられることが知れ渡り、

2 大勢の人が集まったので、戸口の辺りまですきまもないほどになった。イエスが御言葉を語っておられると、3 四人の男が中風の人を運んで来た。

4 しかし、群衆に阻まれて、イエスのもとに連れて行くことができなかったので、イエスがおられる辺りの屋根をはがして穴をあけ、病人の寝ている床をつり降ろした。

5 イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、「子よ、あなたの罪は赦される」と言われた。

6 ところが、そこに律法学者が数人座っていて、心の中であれこれと考えた。

7 「この人は、なぜこういうことを口にするのか。神を冒涜している。神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか。」

8 イエスは、彼らが心の中で考えていることを、御自分の霊の力ですぐに知って言われた。「なぜ、そんな考えを心に抱くのか。

9 中風の人に『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて、床を担いで歩け』と言うのと、どちらが易しいか。

10 人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」そして、中風の人に言われた。

11 「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい。」

12 その人は起き上がり、すぐに床を担いで、皆の見ている前を出て行った。人々は皆驚き、「このようなことは、今まで見たことがない」と言って、神を賛美した。

 

 

要旨 

【4人の男と中風の男】

 2:1に「数日後」とありますが、マルコ福音書はいつも正確な時間の経過を記していませんので、これがかなりの時間が経ってからなのか、それとも文字通り、4、5日の間なのか分かりません。イエス・キリストは再びカファルナウムの町に戻って来られました。その間ガリラヤ地方で宣教を続けておられました。

 

カファルナウムでは今度は会堂に入らず、一軒の、おそらく農家に入って行かれます。当時の農家は四方が土壁に囲まれ、多くの場合一部屋があるだけで、台所と寝室が同じ部屋であることも珍しくなかったそうです。大きめの家ならば2、30人は容易に入ることができたと思われます。

 

キリストはここで専ら御言葉を語っておられました。ところが事情が急変します。そこへ4人の男が床=戸板に中風になった人を運んできたからです。脳梗塞か脳出血のために体が麻痺してしまっている人だったと思います。いつごろ中風になったのか分かりません。

 

4人の男はイエスのうわさを聞いてこの人を連れてきたのでしょう。イエス・キリストが話をされている家の入り口はすでに人が一杯でした。家の中も立錐の余地もなくなっていたのではないでしょうか。そこで彼らは思いつきます。当時の農家の屋根は木の梁をわたし、その間に草を葺くというもので、屋根に瓦のようなものをかぶせる場合もありました。屋根は地面から登ることができるほど、低くなっていたようで、4人の男は、屋根に上り、一部を剥いで穴をあけ、そこから病人を床ごとおろします。他人の家の屋根を壊すこと自体非常識で乱暴な行動です。

 

【かれらの信仰を見て】

その上、イエス・キリストの頭のま上ですから、土ぼこりがばらばら落ちてきてとてもキリストは話を続けることができなかったはずです。こんなひどい行動を見てキリストは怒り、しかりつけられたのではあれば話が分かります。ところがキリストはこの人たちに信仰を見たと記されます(5)。

 

これを読んだ人は以外に思うに違いありません。どこに信仰があるのだろうか。しかも、信仰は中風の人の信仰とは記されず、病人を運んできた人も含めて、「その人たちの信仰」と記されます。病人が自分の病気を直してくれるかもしれないイエスキリストに期待するというのであれば信仰と言えるかも知れません。ここでは、とてもむちゃくちゃな行動をしている人たち、キリストの宣教の働きを中断させてしまった人たちに信仰を見ているのです。

 

 私たちは、なぜこれが信仰だと思うかもしれません。しかし、キリストはこれを信仰と見られます。私たちは自分で信仰とはこういうものだろうと推測します。そして、その規準で信仰であるとかないとかを決めようとします。そうであれば、私たちから見て、とても信仰と思えないこともあります。他人を見て、あの人は本当に信仰を持っているのか、と言います。自分に対しても、こんなことで信じていると言えるかと疑問を抱きます。

 

しかし、信仰はいろいろなタイプがあっていいのではないでしょうか。いたって知的な信仰の人もいます。かと思うとわけが分かっていると思えないような幼稚な信仰の人もいます。強烈な信仰を自覚している人もおれば疑ってばかりする人もいます。でも、信仰があるとか、ないとかは簡単に言うことはできません。イエス・キリストがここで信仰があると見なした人たちの場合、私たちの評価基準からすればどうして信仰かと思えますが、イエス・キリストはこの人たち、その行動を信仰と見なしておられます。

 

【子よ、あなたの罪は赦される】

 さらに意外と思われることが記されます。イエス・キリストは病人を癒す奇跡を行われません。乱暴に屋根を剥いでキリストの前に病人を連れてきた人、そして何よりも中風の人は病気の癒しの奇跡を期待していたはずです。ところがそれを行なわれずに、ただ。「あなたの罪は赦されている」と言われただけです。そして、これで物語は終わっていたかもしれません。

 

 律法学者が登場します。彼らがなぜこの場に居合わせたのか不明です。あるいはイエスのことを調査にやってきていたのかもしれません。キリストのうわさが広まり始めていました。その教えが異端的ではないかどうか調べるのは律法学者の務めであったはずです。それとも、彼らは単純にキリストの説教を聞きたいと思っていただけかもしれません。どちらとも判然としませんでしたが、キリストの言葉を聞いて、内心、「イエス・キリストは神を冒涜している」と思ったのです。なぜか。罪を赦すことができるのは神だけだ。ところが、イエスは罪の赦しを宣言している、というわけです。

 

律法学者たちは内心で思ったとあります。口で言い出すことができなかったという意味でもありました。言うことは憚れるという感情が支配していたと思います。それほど重大問題です。人間が自分は神だという。これは当時のローマ社会では通用していたかもしれません。日本のような多神教世界では、人間の神化は珍しくありませんが、ユダヤ人の間では決してそうではありません。恐ろしい言葉です。そんなことは決して許されません。イエスはその恐ろしいことを口にしているのです。

 

 罪を赦すことができるのは神だけだ、というのは当時のユダヤ人の常識でもありますが、また旧約聖書に記される真理です。罪は律法の規定に反することです。その罪を赦されるために犠牲をささげなければなりませんでした。こうして罪が赦されます。それは神だけが赦すということを示しています。ユダヤの裁判で、裁判官が無罪を宣告するとすれば、それは神の代理人が罪を赦すのであって、何か中立の立場の人間が単に法律に沿って罪を赦すのではなかったのです。

 

日本人である私たちは、人間が罪を赦せると思っています。例えば事件の被害者が、加害者のことを「私たちは絶対犯人を赦すことができません」と強い調子で語るニュースを見たことがあります。これは逆から見れば、加害者を赦すことができるのは我々だけであって、ありえないだろうが、その気になれば、罪を赦せると思っていることを示しています。人間は罪を赦す権利を持っている。

 

【神だけが罪を赦せる】

ところがユダヤ人はそう考えません。神だけが罪を赦せるのだ。これは強い信念でした。

 私たちはここで重大なイエス・キリストの証言に直面しています。キリストは「罪は赦されている」と言われました。罪を赦すという意味です。それができるのは神だけだということをイエス・キリストも良くご存知である。とすれば、キリストはここで、ご自身が神であって、神として罪の赦しを宣言しておられるということになります。これは重大な発言です。キリストの言葉をそのまま受け止めるとしたら、キリストは自らを神としておられるのです。

 

 イエスは律法学者の心にあることを「霊の力によって」見抜いたとも記されますが、「御霊において」分かったと記されます。これもキリストが単なる人間の直観力とか推量で分かったのだというのではなく、神的な能力を持って悟ったということになります。つまり、ここもキリストが神であったと証言しています。イエス・キリストの宣教のはじめのときからキリストはご自身が神であることを明瞭にしておられます。これは驚くべきことです。キリストは神の自覚を持って働いておられるのであって、単なる新しい教えの主唱者に過ぎないというので決してありません。

 

【どちらがやさしいか】

 話はここで終わりません。キリストは、「罪は赦されている」というのと、中風の人に「床を取り上げて歩け」というのとどちらがやさしいのかと質問をされています。質問の仕方からすれば二者択一の答えが求められているように思われます。しかし、どちらが難しいと見るべきでしょうか。罪を赦すことは神だけができます。人間には不可能です。そして、病人を癒す奇跡も人間にはできません。かつては奇跡が行われ、科学文明が発達してからの現代では奇跡は起こらないというようなことはありません。キリストの時代も今日も奇跡は殆ど起こり得ないのです。それができるのは人間を超えた力を有する方だけです。ということはどちらも困難どころか人間には不可能だということになります。

 

どちらも難しい、困難というよりも不可能と答えるべきです。イエス・キリストはここで奇跡を行なわれます。病人に「起きて、床を取り上げて家に戻れ」と命じられるとその通りになりました。これができるのは神だけです。人間にはできません。こうして、この一連の物語で明らかになったのは、キリストが神であるという真実です。

 

【キリストは神】

 キリストが神であるならどういうことになるのでしょうか。神であるがゆえに罪を赦すことができます。キリストがご自身を犠牲としてささげ、十字架の上で死なれました。それは罪の赦しのためでしたが、キリストは神でありますから、ご自身の十字架によって私たちを確実に赦してくださいます。

 

キリストが神であるならば、神としての全能性を持っておられます。私たちは確実に祝福を受けます。そして、救われます。罪の結果である死も、呪いも、虚無も打ち砕かれます。キリストが神であるゆえに、私たちに永遠の命は保証され、神の御国に安んじて入れると確信できます。

 私たちの信仰は弱いものです。疑うときもあり、不信感を持つときもあります。しかし、そういう私たちをもキリストは愛して、赦しを確実にしてくださいます。イエス・キリストが神であるとの信仰はキリスト教のもっとも重大な信仰です。ここに私たちの信仰の中心部があるというべきなのです。(おわり)



2014年11月02日 | カテゴリー: マルコによる福音書 , 新約聖書

2014年10月26日説教「清くなれ」金田幸男牧師

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20141026日説教「清くなれ」金田幸男牧師

 

聖書 マルコによる福音書1

40 さて、重い皮膚病を患っている人が、イエスのところに来てひざまずいて願い、「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と言った。

41 イエスが深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると、

42 たちまち重い皮膚病は去り、その人は清くなった。

43 イエスはすぐにその人を立ち去らせようとし、厳しく注意して、

44 言われた。「だれにも、何も話さないように気をつけなさい。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めたものを清めのために献げて、人々に証明しなさい。」

45 しかし、彼はそこを立ち去ると、大いにこの出来事を人々に告げ、言い広め始めた。それで、イエスはもはや公然と町に入ることができず、町の外の人のいない所におられた。それでも、人々は四方からイエスのところに集まって来た。 

 

 

要旨

【ライ病、ハンセン病、重い皮膚病】

 「らい病」という言葉は、この病気に対する悲惨な扱いの歴史からあまり使われなくなっています。むしろ、この病気の病原菌の発見者であるハンセンという人の名をとってハンセン病というのが一般的です。この病気に対する扱いは最近まで、犯罪人でもないのに療養所に強制的に隔離し、外部との接触を厳しく制限するなどという非人間的なものでした。

 

聖書においても、狭い意味でのハンセン病ではなく、重い皮膚病に対して、このような規定がありました。「重い皮膚病にかかっている患者は,衣服を裂き、髪をほどき、口ひげを覆い、『わたしは汚れた者です、わたしは汚れた者です』と呼ばわらねばならない。この症状がある限り、その人は汚れている。その人は独りで宿営の外に住まわねばならない」(レビ13:45-46)。

 

多くを説明する必要はありません。私たちの感覚からすればひどく残酷な規定です。神の言葉である聖書にこのようなことが書かれているゆえに躓きを感じる人はいると思います。確かにこのような規定を文字通り実践する必要はありません。この律法の掟は古代イスラエル国家の法律として機能しましたが、それはイエス・キリストによって完成するはずの御国を指し示す役割を担っているだけであって、キリスト以降はもう廃棄されています。さらに、「汚れ」の意味も変わっています。聖書は古代の書物であり、当時の思考方法や考え方を反映しています。宗教と実生活は密接でした。レビ記11章(食物規定)、12章(出産時)、13-14章(皮膚病)、13:47以下(家屋のカビ)、15章(男女の漏出物)にあるように、外見上の汚れは宗教上の穢れと深く結びついて理解されていました。今日では両者は別のものと理解されています。

 

【御心ならば】

重い皮膚病にかかった人がイエス・キリストのところに来て平伏します。これは明らかにレビ13:45-46に規定された律法に反する行動です。イエス・キリストの時代、この律法は厳格に実行されていました。この病にかかっている人は町のなかに入ってくることは禁じられています。おそらく周囲にいた人はぎょっとしたに違いありません。それどころか石を投げられたかもしれません。しかし、彼はそのようなことを顧慮せずイエス・キリストに近づいたのです。驚くべき行動です。

「御心ならば」と言いますが、この言葉は彼の行動と比較すると違和感を感じます。もしよければというのはそこに譲歩、あるいはへりくだりの感じを受けます。しかし、彼の態度や行動はとても積極的です。律法の掟は社会的拘束力のある規定ですが、彼はそれを無視し、違反してまで強行に行動しています。大胆というべきか。跪いたとも記されますが、東洋と違い、跪く行為は相手が神(的)なもの、あるいは絶対的な権力者に対して取るものでした。これはこの思い皮膚病を患う人の最大級の期待の表現であると言っても過言ではないでしょう。何とかしてほしいと言う思いが強くこめられています。

 

【祈りは期待】

彼はイエスの奇跡を見聞したに違いありません。カファルナウムでの悪霊の追放や、病人の癒しにニュースをよく知っていたことでしょう。自分にもイエスの力が現われると期待したのでしょう。

イエス・キリストに何も期待しないというところでは何事も起きません。祈りは期待です。期待してこそ祈ります。何も期待せずという祈りは無きにしも非ずです。しかし、多くの場合、祈りは期待を持って祈るものです。祈りは決して独り言ではありません。単なる願望ではありません。祈りがそうであるように信仰も期待です。期待のない信仰はありえます。しかし、期待なくして信仰から何も生じません。

 

この思い皮膚病の人が抱いたのは強い期待でした。だからこそ「御心ならば」と言ったのであって、可能性は低いけれどもまあ少しだけは期待しておこうというような態度でキリストの前に身を投げ出したのではありませんでした。期待はずれを恐れる信仰や祈りはあるかもしれません。しかし、期待なしには何も起きないのも事実です。重い皮膚病の人は積極的にイエス・キリストに懇願しています。

 

【深く憐れみ】

キリストは深く憐れみ、彼に触ったと記されます。これは律法の規定からすれば違反行為です。してはならないことでした。汚れたものに触れる人も汚れるからです。ところがイエス・キリストにはためらうことがありません。このような行動の動機は、憐れみでした。異なった聖書の写本では、ここでは「怒りをおぼえて」と言う言葉もあります。

 

イエス・キリストは人間を悲惨にし、苦しめている状況を憤られたと見るのです。しかし、「深く憐れむ」という方がキリストの思いを的確に表現していると思います。キリストは深く同情されました。心を動かされました。それは習慣や掟を破ってまで、そのためには石を投げられても仕方がないと言う状況下であえてキリストに願いがささげられたのです。キリストはこの思い皮膚病を患う人の境遇に同情されます。ただそれだけです。イエス・キリストはその御業にふさわしい条件を求められません。何かその人の価値を見つけられたのでもありません。ただただ深く同情されただけのことなのです。

 

【手を伸ばされ】

イエス・キリストは直接彼に手を伸ばされます。この意味も深いのです。キリストは私たちと全く同じ人間となられました。少しも変わることがありません。ただひとつの点を除いて。キリストは罪なき、従って罪の結果である汚れにも染まっておられません。それで孤高を守られたかと言うとそうではありません。私たちと同じところに立ってご自身は汚れなどないお方であるのに、私たちの汚れを引き受けてくださいました。キリストはご自身が汚れがないのに、他人の汚れを、一人の人間として一身に引き受けられます。それだけならばキリストは汚れた存在になるのですが、神の子として、このような汚れを克服する力を持っておられます。汚れを払拭し、汚れを除去し、清くする力をキリストは所持されています。

 

【清くなれ】

だから、「清くなれ」と命じることができるのです。私たちは宗教施設で清らかな水で手を洗うと汚れが洗い流されるという信仰を見ることが出来ます。それは宗教的な一種の儀式です。キリストはそうではありません。キリストは神の御子として自ら汚れを克服されるだけではなく、「清くなれ」と命じられます。もはや汚れてはおらず、私たちもまた清くされます。

 

私たちはさまざまな汚れの中に生きています。魂もまた汚れていると思わざるを得ない思いに打ちのめされることもあります。自分は汚れたものだ。心が汚い。生活も汚い。そういう思いに悩まされることもあります。そのような汚れの感覚はキリストによって除去されます。それは確実です。キリストがこの思い皮膚病の患者に示されたのは一切を清めるキリストのみわざと力です。

 

【祭司たちに見せなさい】

重い皮膚病は癒されます。これで物語りは終わってもよいのですが、キリストはレビ記13章に記されているような行動を取り、さらに、癒しそのものについては沈黙を求められます。なぜなのでしょうか。

 

祭司たちに見せなさいと命じられます。祭司は神殿でいけにえをささげるだけの務めを行なう人ではありません。この皮膚病の検査に見られるように、そして,そのようにするために、医師の仕事も課せられていました。他に、占いもしました。カウンセリングのようなこともしました。また、民事の争いには裁判官の役割も果します。祭司がもう病気は治ったと判断しますと、この思い皮膚病の人は社会復帰できました。 キリストはこのような律法のとおりにさせることで、余計な摩擦を避けられたのです。彼は堂々と町のなかでもとの生活をすることができます。キリストはこのようにスムーズな生活ができるように律法どおりの手順を命じられます。

 

【だれにも、何も話さないように】

さらに、キリストは、この人には誰にも奇跡を語るなと命じられます。逆のように思われます。癒された人が自分の体験をどんどん語ったほうが伝道になる。証しというキリスト教会の伝道集会などで行われる信徒の体験談があります。伝道集会で聖書の話だけでは面白くない。だから体験談も語ってもらいましょうと。このように体験談を語ることで伝道が推進されます。ですから、重い皮膚病を癒された人のほうが宣伝効果は出そうです。ところがイエス・キリストは沈黙せよと命じられます。なぜこんなことをされたのでしょうか。

 

イエス・キリストの伝道活動が単なる人集めであればそうかもしれません。人々は、キリストの奇跡だけを求めて集まってきます。関心事は癒しです。そうすることで、御言葉の宣教はないがしろにされます。もう聞く耳を持ちません。キリストは実際、多くの人に追いかけられます。病気を癒し、悪霊を追放する奇跡だけが人を集めるきっかけとなりますが、ただそれだけです。

 

奇跡を見聞きした人が神を信じるのではありません。奇跡的に助かった人が、では信仰を告白するかと言うとそうなりません。信仰は奇跡によって生じるのではありません。私たちは実は数限りない奇跡的な出来事を経験しながら生活をしています。では、奇跡が行われるとこぞって信仰を持つか。そんなことはありません。奇跡が信仰を生み出さないのです。信仰が奇跡を生みます。この思い皮膚病を癒された人は確かに奇跡を経験しています。それは彼がイエス・キリストに大きな期待と希望を抱いたからです。だから、奇跡が起きたのです。奇跡だけを求める人のためにかえって宣教が妨害されます。だからこそ、誰にもしゃべるなとキリストは命じられたのです。(おわり)



2014年10月26日 | カテゴリー: マルコによる福音書 , 新約聖書

2014年10月19日説教「力と喜びとしての祈り」城下忠司伊丹教会長老

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ペトロの手紙一1章3~9節
 わたしたちの主イエス・キリストの父である神が、ほめたたえられますように。神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え、
4 また、あなたがたのために天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者としてくださいました。
5 あなたがたは、終わりの時に現されるように準備されている救いを受けるために、神の力により、信仰によって守られています。
6それゆえ、あなたがたは、心から喜んでいるのです。今しばらくの間、いろいろな試練に悩まねばならないかもしれませんが、
7 あなたがたの信仰は、その試練によって本物と証明され、火で精錬されながらも朽ちるほかない金よりはるかに尊くて、イエス・キリストが現れるときには、称賛と光栄と誉れとをもたらすのです。
8 あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。
9 それは、あなたがたが信仰の実りとして魂の救いを受けているからです。

2014年10月19日 | カテゴリー: ペトロの手紙一 , 新約聖書

2014年10月12日説教「病気を癒すキリスト」金田幸男牧師

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2014年10月12日説教「病気を癒すキリスト」金田幸男牧師

 

マルコによる福音書1章29~39

29 すぐに、一行は会堂を出て、シモンとアンデレの家に行った。ヤコブとヨハネも一緒であった。

30 シモンのしゅうとめが熱を出して寝ていたので、人々は早速、彼女のことをイエスに話した。

31 イエスがそばに行き、手を取って起こされると、熱は去り、彼女は一同をもてなした。

32 夕方になって日が沈むと、人々は、病人や悪霊に取りつかれた者を皆、イエスのもとに連れて来た。

33 町中の人が、戸口に集まった。

34 イエスは、いろいろな病気にかかっている大勢の人たちをいやし、また、多くの悪霊を追い出して、悪霊にものを言うことをお許しにならなかった。悪霊はイエスを知っていたからである。

(ほかの町や村で宣教する)

35 朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた。

36 シモンとその仲間はイエスの後を追い、37 見つけると、「みんなが捜しています」と言った。

38 イエスは言われた。「近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである。」39 そして、ガリラヤ中の会堂に行き、宣教し、悪霊を追い出された。

 

 (要旨)

【すぐに】

 安息日、カファルナウムの会堂(シナゴーグ)で、イエス・キリストの働きを妨害しようとした汚れた霊=悪霊を追い出されました。29節によると、キリストはそのあと「すぐに」会堂を出られたようです。何か急いで、あるいは慌ててすぐに会堂を出てペトロの家に行かれたと感じるほどです。それは安息日の悪霊追放と関係があると想像できます。

 

ユダヤ人、特に律法の遵守を力説するファリサイ派の人々はこのイエス・キリストの行為は認めがたいものであったはずです。安息日の厳守は妥協できない戒律でした。ファリサイ派の批判攻撃を避けるために早々と会堂を去ったと考えられます。

 

【安息日にペトロの姑が熱病に】

キリストとその一行はシモン・ペトロの家に行かれます。ペトロの姑が熱を出して横になっていました。シモン・ペトロは結婚していて、妻とその母と同居していたことが分かります。キリストの弟子たちはのちの修道士のように独身者ばかりではありませんでした。キリストの弟子たちは、よくあるように戒律中心のゆえに自由を失うというようなことはありませんでした。シモンの姑の熱病の原因や程度は何も記されていません。当時は効果のある解熱剤はなく、あっても高価でした。また、この日は安息日で医者は医療行為を禁じられていました(マルコ3章1-6参照)。高熱であってもただ横になっているだけという場合も多かったのです。

 

30節、人々はイエスにシモンの姑の熱病のことを話したと記されます。状況から判断すると、ただ彼女の病状を報告しただけであったのではないかと推測します。その日は安息日です。医療行為は禁止されています。あえてキリストにシモンの姑の癒しを願ったとは思われません。ただ、キリストには彼女の病の深刻なことが知らされただけだったと思います。ところが、キリストはどうされたか。

 

31節、イエスは姑の近くまで行き、手を取って起こした、とあります。詳しい癒しの過程は記されていません。福音書はそんなことにはあまり関心を示していないと見ることが出来ます。私たちにとってはイエスがどういう手順で病気をなおされたのか知りたいところですが、この福音書は教えてくれません。大事なことは癒しがキリストによって安息日に行われたということです。

 

 キリストはこの日が安息日であったことをよく承知しておられたはずです。しかし、キリストはペトロの姑を癒されました。この日は安息日であったからこそキリストは癒しのわざを実行されたというべきでしょう。安息日はユダヤ人にとっては何もしない(してはならない)という戒律の第一位に位置づけられる重要な日です。

 

【安息日の本義】

キリストはこの日の重要性を否定されませんが、誤って用いられているのには反対をされます。この日は何かをしてはならない厳格な律法遵守の日ではなく、神の大きな働きが示される日なのです。安息日であるがゆえに神の大きなわざが啓示されます。それは悪霊追放や病気の癒しという形で明らかになります。

 

安息日だから何もしないというのではなく、この日に大きな奇跡が実施されたのです。そして、病に苦しむものをその縄目から解放されます。キリストの奇跡は行われました。詳しいことは書かれていませんが、安息日に神は大きなみわざをなされたという事実は否定できません。

 

ペトロの姑は熱病のために会堂の礼拝に出られませんでした。戒律を重視する立場から見れば安息日を守れなかったものに神の祝福があるはずもありません。ところが、ペトロの姑は安息日であるからこそ神の大きな幸いを味わう事ができました。安息日はこのように一方的に恵みを受けるときなのです。神は真実に生きようとするものを、安息日であるが故に、大きな喜びを体験させられます。安息日とはそういう日なのです。

 

シモンの姑は癒されました。彼女はさっそく起きて一同をもてなします。安息日は煮炊きが禁じられていました。彼女は前日から食事を用意していたに違いありません。イエス・キリストから大きな祝福を受けたものは直ちにその応答をしています。

 

【夕方になると】

 32節によると、夕方になるとたくさんの病人や悪霊につかれた人が連れて来られました。ユダヤ人の日の数え方では、一日は日没で終わります。ここでは安息日(土曜日)が終わり、日曜日が来たことを意味しています。するとたくさんの人々が癒しを願ってやってきました。安息日を避けたことが分かります。人々は安息日に癒されることはないと思ったのか、またファリサイ派から攻撃されると思ったのか分かりませんが、とにかく、日が変わってから続々とやってきました。

 

考えて見ると、彼らは都合のよいことだけを求めています。安息日の規定に反するのを避けるのはいいのですが、それはファリサイ派かの批判を避けるためというなら便宜主義です。しかし、彼らはそれでも病人を癒してもらいたいという切なる願いを持っていました。だから連れてきたのです。キリストはこのような人々の思いを無視したり退けたりはされません。このような人をも見捨てられないのです。イエス・キリストは大勢の人たちを癒されます。キリストは憐れみのみ手を誰に対しても差し伸べられます。

 

【近くにある多くの町や村に宣教しよう】

35節によると、日曜日の朝、一人離れて祈りに専念されます。ところがシモンその他の人々がイエスを追いかけてきたとあります。彼らの目的は何か。みんなが探していますという報告ですが、もっと多くの人が癒しを求めているということでもあります。

38節、イエス・キリストはこれを聞いて「近くにあるもっと多くの町や村で宣教しよう」といわれます。これは人々が宣教よりも癒しを求める、弟子たちでさえまだこの頃はイエスの超自然的な奇跡実行者であることだけを期待していたので、それを拒絶するために、カファルナウムでの働きを中止されたのだと取れますが、イエス・キリストは宣教とそれに伴う神の力の発露のために、もっと多くの地で宣教活動をしようと決意されたとも取れます。ガリラヤ近辺での働きを拡大されていきます。

 

【癒しとは】

 病気の癒しについてさらに考えたいと思います。マルコは個人の癒し(ペトロの姑)をまず記し、ついで、集団の癒しを記します。さらに多くの人の癒しも語られます。福音の宣教の拡大と癒しの数は比例します。宣教がなされるところでこそ神の大きなみわざが行なわれるのです。

 

病気は人間が存在するところではどこでも起きます。なくなることはありません。最近、医療技術が格段に進歩しました。そのために人は長く生きるようになりました。高齢化は医学の進歩の結果であることは間違いありません。かつては、人は40歳代、50歳代亡くなっていましたが、今は80歳、90歳も普通となりました。そのために、私たちは病気が克服されたと錯覚しています。

 

でもそれは誤りです。高齢化して、それだけ多くの病気を経験しなければならなくなりました。今まで聞いたことにない病名に出会います。検査方法が進歩したから、今まで見落とされていた病気が発見されたといえるかもしれませんが、また人は長生きしたために、今までかかる可能性が少なかった病気になるということもありえます。時代はグローバル化しています。すると、今まで地域の病気であったものが世界中に拡大するということも現実になっています。がんについていえばどうでしょうか。かつてはがんは即、死に繋がる病として恐れられました。

 

がんになると死ぬと思われていたのです。ところが今ではがんも克服されつつあります。それでがんは制圧されたのでしょうか。現在、死因の内、がんが第2位を占めています。がんという病気が克服されたということは正しくありません。がんの治療方法は増えましたが、がんで死ぬ人は多くなって来ています。これは何を意味するのか。病気は消滅しないということです.病気はなくなることはありません。

 

 そして、死はあいも変わらず人間に苦しみを与え続けます。肉体の苦痛は残ります。確かに痛みを制御する方法は進歩しました。肉体の苦痛は解決しつつあるかもしれません。かつてこの病の痛みが病人を苦しめました。今はどうか。精神的な苦痛はかつて以上に人を悩まします。不安や恐怖、あるいは不快さ、時間との戦いは決してなくなりはしません。病気が周囲に人々を苦しめる状況は変わりません。経済的な負担もかえって大きくなりつつあります。国家そのものが今や病気のために財政破綻の危機にさえ直面する時代です。病気はなくなってなどしていません。病気は社会的な立場を失わせます。仕事ができなくなることで大きな損失を蒙ります。

 

 そして、病気は死と直結しています。病気は死の予告なのです。人間は必ず死ななければならないということを教えるのが病気です。死は必ずやってきますが、病気はその死の到来を予告するものです。ところがたいていの人はそう思っていません。

 

【死の勝利者キリスト】

 イエス・キリストは病を癒されます。これはキリストが死も克服する救い主であることを示すものです。病気は私たちに死の備えをさせます。人は病みます。そのとき、その病が死をもたらすことを学ばなければなりません。死に直面したものはどうするのか。諦める。死は一切の終わりであると諦観する。死など考えない。いろいろな備え方があります。キリストは私たちに語られます。病を癒す力ある方は究極的な死の勝利者であられる。

 誰もが病みます。病んで、そのときこそキリストが病を癒す救い主であることをおぼえます。だから、病気の癒しを祈り願うのです。キリストはその力を保持しておられます。そして、病気と死が直結している鎖を断ち切ってくださいます。(おわり)

2014年10月13日 | カテゴリー: マルコによる福音書 , 新約聖書

2014年8月24日説教「キリストの律法の実現」金田幸男牧師

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20148月24日説教「キリストの律法の実現」金田幸男牧師

聖書 ガラテヤの信徒への手紙61 兄弟たち、万一だれかが不注意にも何かの罪に陥ったなら、"霊"に導かれて生きているあなたがたは、そういう人を柔和な心で正しい道に立ち帰らせなさい。あなた自身も誘惑されないように、自分に気をつけなさい。

2 互いに重荷を担いなさい。そのようにしてこそ、キリストの律法を全うすることになるのです。

3 実際には何者でもないのに、自分をひとかどの者だと思う人がいるなら、その人は自分自身を欺いています。

4 各自で、自分の行いを吟味してみなさい。そうすれば、自分に対してだけは誇れるとしても、他人に対しては誇ることができないでしょう。

5 めいめいが、自分の重荷を担うべきです。

 

 

 要旨

【御霊の導き】

私たちは御霊に導かれています。「イエスは主である」と告白し洗礼を受けるという事実が御霊の導きのもとにあるという証拠です。御霊に導かれているものは肉の欲望を十字架につけています。つまり極刑に処しています。そうはいうものの、私たちは完全に肉の欲望の罠から脱出できていません。私たちの内なる魂に罪の残りかすがこびりついています。

 

だから、私たちは意志を固め、自分の足で前進しなければなりません。キリスト者になればエスカレーターでそのまま救いの完成に至るのではありません。キリスト者はただ信仰によって救われるのであって、律法の行いは不要です。信仰プラス律法の行いでもありません。

 

しかし、救われたものは律法(の成就)を必要とします。御霊に導かれたものにはキリストの律法を全うする目標があります。またそれはどうでもよい勧めではなく、キリスト者の義務でもあります。

 

パウロは5:26で、「うぬぼれて、互いに挑戦しあい、嫉みあってはならない」と命じます。パウロは論理的、順序だてて勧めを書いているように思われません。これが第一に挙げられているのは理由があると思います。ガラテヤ教会は設立されて10数年しか経っていませんでした。最初は教会員の間では区別などなかったと思いますが、次第に教会員が増え、組織が整ってきますと、指導力を持つものが出てきます。

 

【ガラテヤ教会の実情

そういう人の中に権力を振るい、他の会員を支配する傾向が出てきたのではないかと思います。そうすると必ず反抗する人が出てきます。教会員に亀裂が生じ始めます。パウロはそのようなガラテヤ教会の実情を念頭に置きながら、この言葉を語っていると見てよいのではないでしょうか。

 

自己主張、自己過信が教会員の間を裂く。こういうことは教会が形を取り始めたときに起きやすいのです。嫉妬や競争心が分裂を招きます。そして、教会が割かれるとき、教会は存立の危機に直面せざるを得ません。だからこそこの命令を最初に置いたのだと想像することができます。せっかく教会が形を取り、整い始めた矢先、大きな問題を抱えることになります。パウロはそのようなことがあってはならないと考えています。

 

【6章1節「万が一」】

パウロは万が一、と仮定を立てて文章を書き始めます。誰かが罪を犯すようなことがあれば。万が一ということは仮初にもそんなことがあるはずがないけれども、という気持ちが表されているように思えます。教会にはそんなことがあってはならない。教会の中に平然と罪が見逃されているようなことがあってはならない、そんなはずがない。パウロはこのように教会は本来罪はあるべきではないと言いたいのでしょう。しかし、現実がそうではありません。教会に罪が認められます。いえ、世間でも起きないような、忌むべき、罪が犯されています。だから、霊に導かれているものは、そのような罪を犯している人を正しい道に戻さなければなりません。正しい道へ方向転換させるとは悔い改めさせるということでもあります。

 

【教会の「訓練」と役員】

霊に導かれているものはキリスト者のことです。同じ教会員であるものが罪を犯していたら、教会はその罪を矯正する必要があります。このような働きを「訓練」といいます。けれども、訓練はいわゆるトレーニングではありません。この言葉はいろいろな意味を含みます。鍛錬、教練、しつけ、懲戒・折檻というような意味が含まれています。教会はこのような訓練を行なうために教会役員を立てました。教会役員の最も重要な務めは訓練を実施することです。

 

罪を犯している信徒がおればその人を戒め、正す必要があります。厳格に信徒の訓練ができるかどうか、教会は問われています。キリスト者とその共同体である教会が御霊に導かれているならば、その教会は、罪を犯している人を悔い改めに導かねばならないのです。ところがたいていの場合は、うまく行きません。特に今日、信徒訓練は有名無実化しています。教会役員は教会員の単なる世話役、相談役になっています。

 

教会の中で罪が犯されていても見過ごされたり、黙認されたりしています。罪を犯している人は反省することもありません。なぜなのだろうかと思います。訓練というと厳しく叱責し、ときには暴力的な仕打ちをしてまで罪を犯した人を懲らしめるという誤解があります。教会は訓練を伝家の宝刀として用いて、教会員を責めたり、批判したりするだけではその効果はありません。

 

【柔和な心で】

パウロはここで「柔和な心で」はといいます。これは「謙遜な気持ちをもって」と訳される場合もありますが、強権的に信徒を訓練するのではなく、その反対のやり方で信徒を訓練すべきであると言われます。そんな甘いことを言っていても罪を犯した人は悔い改めることはないと、断固たる手段を選ぼうという誘惑に駆られますけれども、そのようにして成功したためしはありません。教会の訓練は別の原則、方法でなされます。

 

確かに教会の訓練は困難を極めています。訓練のことを「戒規」ともいいますが、これが効果あるように執行された例をあまり知りません。それほど訓練は有名無実化しているわけですが、だからこそ、霊に導かれたものは罪を犯した人を反省させ、悔い改めさせるために真剣さと祈りが求められています。

 

罪を犯している人を非難し、叱責するとき、あるいは告発し、弾劾するときに陥りやすい過ちは自分のことを棚に挙げて他人の罪を責め、攻撃することだけに集中してしまい、自分も同じような過ちを犯しているということを看過してしまうことです。同じ罪を犯している、あるいは、その誘惑に曝されている場合もあります。

 

【互いに重荷を負いなさい】

2節で、パウロは互いに重荷を負いなさいと命じます。これこそキリストの律法を成就することとされます。キリストの律法はキリストが命じられる律法という意味ですが、キリストは律法を要約されています。

 

【律法の要約】

マタイ22章34-37で、キリストは律法を、「神を愛すること」と「隣人を愛すること」に要約されています。また、これは当時の律法研究者の共通の認識でもありました。マタイ19:16で、キリストに永遠の命を獲得するために教えを請うた若者が自ら律法の大切な項目として隣人を愛することを挙げますし、よきサマリヤ人のたとえ(ルカ10:25-38)でキリストの問い、律法には何が書かれているのか、に律法学者が隣人への愛と答えているところから分かります。

 

パウロもガラテヤ5:14で律法はこの隣人への愛という一句にまとめられると語っています。ところがここではパウロは互いに重荷を負うことが律法の成就だと語ります。隣人を愛することは結局互いの重荷を負うことということになります。重荷とは何か、ここでは明確に語られていません。

 

【5節:自分の重荷を負え

しかし、私たちの人生は数え切れない重荷を負っています。他人の重荷を負うことがキリストの律法の実現に他なりません。どんな重荷でもそうすることが求められます。ところで、5節では、各自、自分の重荷を負えと命じられます。こうして、私たちは他人の重荷と自分の重荷を負うことになります。これには納得できない人も多いでしょう。

 

結局、キリスト者は自分だけではなく他人の重荷を背負わなければならないのか。パウロはそう言います。だから、結論的には、わたしの罪を他人には負わせられないということにもなります。私たちは何とかして重荷を軽くしたいものです。しかし、他人には重荷を負わせてはならず、自分自身の重荷も背負う。何ともキリスト者の人生はしんどいということになるかもしれません。

 

できるだけ荷物は軽くしたい。他人に荷物を背負ってもらえれば大助かりです。ところが、パウロは、自分の重荷を他人に負わせるなと命じているのです。だから、私たちは背負えない重荷に打ちひしがれてしまいかねません。私たちはとどのつまり、神に重荷を背負っていただくしかありません。キリストは私たちの重荷の全てを背負って下さる方です。

 

私たちは自分の重荷を背負い、誘惑に負けないように気をつけよと命じられています。まさに個人責任です。誰も個人としては弱いものです。神に助けを求めていく以外に道はありません。

 

【自分を過大評価するな】

3-4節は5章26との関連で見れば同じようなことが語られます。自分をえらいものと思う。過大評価です。自分には力がある。うぬぼれです。だから、他人と比較して自分のほうが立派だと採点します。こうして、他人を見下します。けれども、このようなことがあってはならないとされます。

 

私たちは実際には何ものでもない。教会という少数者の中では権力があるかのように思い、そのように振舞います。他者を支配しようとします。パウロはこれを戒めています。そうであってはいけないのです。自分がひとかどのもの、実力者と思いあがって、権力を振るおうとします。だからこそ自分自身をしっかり見極めなければなりません。自分を過度に評価するものは自分を欺いています。それは虚構です。何の根拠もありません。絵空事です。

 

自分の行いを吟味せよ

しかし、私たちはしばしば真実ではない自分の姿を勝手に描き出して、それをあたかも真実であるかのように錯覚してしまいます。特に自分の行いを吟味せよと求められます。行いは外に現れていますから、自分で評価できます。外に現われたものを直視すれば本当の姿と評価されます。

 

パウロは自分に対しては誇れるが、と申しますが、自分が善であると思ってしたこと、誠実に行なったことまで否定する必要はないと語ります。そのようにして行為したことは、自分がよく知っています。自分で自分の行動を見極めることができます。けれども、私たちの行動は、どんなことであっても、他人に対して誇ることができません。だから、実力があるなどと思ってはならないのです。行いを冷静に見つめれば自己評価できます。大したことはないと分かります。

自分の良心にかけて正しいことをしておればそれだけでいいのであって誰かに誉めてもらう必要はありません。(おわり)


2014年08月24日 | カテゴリー: ガラテヤの信徒への手紙 , 新約聖書

2014年8月3日説教「御霊なる神の導き」金田幸男牧師

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20148月3日説教「御霊なる神の導き」金田幸男牧師

 

聖書:ガラテヤの信徒への手紙5

16 わたしが言いたいのは、こういうことです。霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。

17 肉の望むところは、霊に反し、霊の望むところは、肉に反するからです。肉と霊とが対立し合っているので、あなたがたは、自分のしたいと思うことができないのです。

18 しかし、霊に導かれているなら、あなたがたは、律法の下にはいません。

19 肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、

20 偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、

21 ねたみ、(殺人)、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。以前言っておいたように、ここでも前もって言いますが、このようなことを行う者は、神の国を受け継ぐことはできません。

 

 要旨

【キリスト者はどのように生きるべきか】

律法の束縛から解放され、罪の赦しをいただいているキリスト者はどのように生きるべきか。

洗礼を受けた後の生き方について明確な理解を持っていなかったために、ガラテヤの信徒たちはパウロの教えた福音から外れていきました。彼らは信仰だけではだめだ、律法の行いも救いに必要だというユダヤ主義者の教えを簡単に受け入れてしまいました。そのために割礼やユダヤの宗教的な暦の遵守などに血道をあげることになりました。

 

これとは別にコリントの信徒のように救われたら後は自由だといって放縦にふける人たちもいました(コリント1 5:1)が、どちらもキリスト者がいかに生きるべきかの明確な知識を持っていなかったせいです。

 

ガラテヤ5:16以下でパウロは答えます。その場合、ふたつの観点から見ています。ひとつは消極的な観点からで、肉の欲に従って歩まないということです。もうひとつは積極的な観点からで、御霊の導きに従って生きて行きなさいというものです。

 

【キリスト者も罪の支配下にある】

まず、私たちが知らなければならないことは、キリスト者といえども肉の欲望は全く消滅していないという事実です。キリスト者は罪赦され、もはやその奴隷ではありません。しかし、依然として罪は残存し、支配しているのです。神を信じたとたん一切の罪から自由になったのではありません。全く聖とされたのではありません。時間が経っても肉の思いは残るのです。それどころか火山の噴火のよう突然肉の欲望が爆発します。枯野の野火のように急激に拡大し、肉の欲の支配下に戻ります。 

 

肉の欲とは何か。19-21節にそのリストが挙げられています。しかし、肉の欲は多種多様でこれだけではとても描き切れません。ある翻訳聖書(KJV欽定訳)にはねたみの後に殺人を加えますが、肉の思いの数はもっともっと多いということができるでしょう。

 

ある人はこのリストを4種類に分類します。

 

第1は、姦淫、わいせつ、好色。いずれも性に関わる欲望です。なぜパウロはこれを最初に挙げたのでしょうか。当時のギリシヤ世界では、禁欲が徳目として挙げられていました。しかし、禁欲には反動が起きやすいものです。肉欲の命じるままに生きることが幸福だという考えが生じ、美しいものは肉体美だとされます。ギリシヤの彫刻には肉体の美しさを追求する作品が多く見られます。そして、性を謳歌する傾向が伴います。実際、ギリシヤ文化は、性的放縦を伴う場合が多かったのです。買春、姦通、不倫、不貞が横行する社会でした。ローマ人の社会も同様です。パウロはその有様を直視しているのです。

 

フランシスコ・ザビエルが日本伝道を志したのはインドで出会った日本人の聡明さであったといわれます。論理的にものを考え、理路整然とその考えを示す。こうして日本宣教のため上陸しますが、ザビエルは日本人の欠陥は性的なことに関しては野放図だと指摘しています。性的な放縦は人間の目立つ、さらに制御できない肉の思いなのです。だからパウロはここで最初に列挙します。

 

第2は偶像礼拝と魔術。これらは「霊的な」=宗教的な面での肉の思いです。矛盾した表現ですが、宗教の領域こそ人間の欲望の発露の場所にもなります。自分で神を作り出し、超自然的な力を誇示し、それを欲望の実現のために乱行をします。

 

第3は、敵意以下ですが、これらは対人的に作用する肉の思いです。一番多く挙げられています。それだけ一般的かつ多様ということでしょう。これらは心の中で生じるだけではなく、実践に移されます。その結果は醜い人間同士の争いとなり、多くの不幸の源泉となってしまいます。

 

第4は泥酔と酒宴ですが、これらは自己に対する肉の思いです。

 

肉の思いは多様ですし、時代が変わると形を変えます。また個人によってその現われは異なります。しかし、キリスト者といえどもこの肉の思いから逃れられません。私たちは肉の思いにいつも縛られています。キリスト者はどうすればこの肉に縛られない生活を構築できるのでしょうか。

 

【キリスト者は御霊に導かれなければならない】

答えは一言で言えば、キリスト者は御霊に導かれなければならないということです。肉の思いの縛られないためには霊に導かれるべきなのです。なぜなら、霊と肉は対立し、決して両立しないからです。肉に従いたくないなら御霊に従うべきなのです。御霊の導きを拒否すれば肉に縛られて生きていくし中のです。

 

では御霊の導きに従って生きるとはどういうことなのでしょうか。

 霊の導きに従って歩みなさい。歩むというのは「生きる」ということです。日常生活を営みなさい。新共同訳聖書は、「霊」と翻訳していますが、従来の翻訳聖書は「御霊」と訳しています。

 

このような訳の違いは意図があります。なぜ、「御霊」とせず、「霊」と訳したのか。御霊は、私たちの霊に働きかけられますが、その場合、私たちの自覚、意識、理性、判断、記憶などを無視されることはありません。むろんときに聖霊は奇跡的超自然的に作用されることもあります。預言者の場合、全てではありませんが、恍惚状態、無意識で神の託宣を与えられる場合があります。

 

しかし、このような御霊の働きは例外的であるといってもよいと思います。たいていの場合、人間の自覚、自意識が用いられます。預言者の場合もそうですが、別段意識を失うことなく、神の言葉を語ります。それは聖霊の導きです。聖書の著者、例えばパウロは冷静に、自覚して書簡にペンを走らせます。彼は決して恍惚状態で書いてはいません。しかし、御霊の働きかけ、霊感によって記したのです。

 

コリントの信徒への手紙一123 ここであなたがたに言っておきたい。神の霊によって語る人は、だれも「イエスは神から見捨てられよ」とは言わないし、また、聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えないのです。4 賜物にはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ霊です。

 

私たちは自覚的にイエス・キリストを信じます。そして、そのみ言葉に従います。私たちは操り人形のようにそうするのではありません。ロボットのように神に命令されて、考え、思い、行動するのではありません。わたしはわたしです。決してわたしを失ったりしません。それどころか、わたしが決心し、わたしが決意するのです。最終的には、わたしの霊が意志し、実行します。

 

ところが、そのわたしの霊の思っているところが御霊の思いなのです。わたしの精神と御霊の思いが一致するのです。こういうことが信仰において起きます。だから、新共同訳聖書では、御霊と訳さないで、「霊」と訳されたのです。ここで「霊」は純粋に人間の霊、精神、心ではなく、聖霊に導かれ、聖霊と同じ思いになっている霊のことなのです。

 

私たちは肉の思いに支配されやすい現実の中を生きています。その肉の支配から脱出するためには御霊に導かれなければなりません。御霊に導かれるとは、わたしの心の命じるままに生きることです。むろん、単にわたしの心の思いではありません。わたしの心は絶えず肉の思いに支配されます。ここではそのような単純な心の思いではなく、御霊に導かれ、御霊と一致しているわたしの心の思いに従うことなのです。

 

では、私たちは、どうすれば御霊に支配されるのでしょうか。当然、御霊は御言葉をもって語られる方です。神の言葉、律法もまた神の言葉です。神の言葉によって御霊は私たちに語ってくださいます。神の言葉とは聖書のことです。聖書が説き明かされる。そのとき、私たちの肉の思いは反発します。しかし、御霊に導かれて、私たちの霊はそれが神の意志であると知ります。そして、示された神の御心に従うとき、あるいは従おうとするとき、私たちは肉の思いではなく、御霊に導かれます。礼拝において私たちは常に神の言葉を聞きます。

 

【私たちの内に残る肉の思い】

私たちには肉の思いに従って生きていこうとする傾向が残っています。それは強力である場合も多いのです。逆に私たちの心は頑なです。神の御旨であると知っても従おうとしません。信仰の決心がそれをよく示します。信仰はいいものだ、人間には救いが必要だ。神の恵みは素晴らしい、と思います。しかし、だからすぐに誰もが信仰を持つとは限らないのです。私たちの心はそう簡単に変わりません。

 

伝道を志す人は皆これを経験します。どんなに熱心に説得してもなかなか人は決心しません。暴力を持って脅しても人の心は信仰に入るわけではありません。しかし、その不信仰は砕かれます。とても神を信じると思えない人が神を信じるようになります。私たちの霊は、そのままでは決して神に服従などしません。抵抗するばかりです。ところが、その頑固な心も聖霊によって変えられます。

 このことはキリスト者の生涯にわたって言うことができます。私たちは聖霊によらなければ御霊の導きに服することはありません。そのままではかえって肉の思いに縛られます。それが人間です。だから、禁欲で解決しようとしたり、人間的な熱心(苦行難行など)で打開を図ります。でもそのような努力には甲斐がありません。人の心ほど堅固なものはありません、ちっとやそっとでは動きません。ではどうすることもできないのか。そうではありません。

 

【ここは「御霊の導き」と翻訳すべきでしょう】

やはりここは「御霊の導き」と翻訳すべきでしょう。御霊は神です。御霊なる神は全知全能です。だから、不可能と思われることも可能とされます。御霊が働かれるとき、人の心を生まれ変わらせることもできます。事実再生することもできます。私たちは聖霊に頼ります。聖霊は神です。神として働かれます。肉の思いに抵抗することは至難のわざです。肉の思いにいつも敗北するのが現実です。しかし、私たちの魂を揺り動かしているのは聖霊です。私たちは霊に導かれます。決して、御霊は間違った方向に導かれません。御霊に信頼して行くことが信仰です。(おわり)

2014年08月03日 | カテゴリー: ガラテヤの信徒への手紙 , 新約聖書

2014年7月27日説教 「愛によって互いに仕える」金田幸男牧師

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2014年7月27日説教「愛によって互いに仕える」金田幸男牧師

 

聖書:新約聖書ガラテヤの信徒への手紙5

13 兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。

14 律法全体は、「隣人を自分のように愛しなさい」という一句によって全うされるからです。

15 だが、互いにかみ合い、共食いしているのなら、互いに滅ぼされないように注意しなさい。

 

要旨

【真の自由と奴隷状態】

 パウロはガラテヤの人々がキリストによって自由にされていると語ります。キリストは彼らを自由にするために召されました。ガラテヤの人々は自由ではない状態、つまり奴隷状態から解放されました。

 

何からの自由なのか。まず第一に、律法の下からの自由です。彼らは律法の束縛下にありました。彼らは異邦人でしたが、心に律法が刻み込まれており、その律法が遵守を要求しました。律法によって自らが神の前に義とされなければならない、そのために律法を守らなければならない、さもなければ神から裁かれて滅びるるという、ユダヤ人同様の拘束下にありました。それは人間の力で救いを勝ち取る方法です。

 

そして、重大な問題は、神に対して傲慢な態度からその願望が出てくるということです。だから第二に、この肉的な思いの拘束からの自由のこともパウロが念頭に置いていました。肉の思いはガラテヤ5章19-21に列挙されています。私たちをがんじがらめにしている肉的な思い、願望からキリストはご自身にほうに呼び出して自由にしてくださいました。

 

【自覚されない罪】

このような肉の思いは罪から生じます。しかし、この思いはあまり自覚されていません。罪は自覚されているとは限りません。気がつかないなら、そこからの解放もまた意識されていません。

 

例えば、肉の思いの中に妬みがあります。妬みは、至るところに見られます。小さな子どもにも妬みは見られます。兄弟間でも親の愛をめぐって嫉妬が生じます。集団同士でもこの嫉妬は作用します。富める階級と貧しい階級の間で嫉妬が支配して対立が生じます。国同士が妬みから戦争を引き起こすことは珍しくありません。嫉妬などという心の動きが大きな災いを引き起こします。いろいろな大義名分を掲げてもその根本には妬みがある。妬みに世界中が支配され、束縛されています。この所の妬みは潜在化していて自覚・認識されていません。

 

妬みだけではなく、自尊心、うぬぼれ、過大な自己評価、過剰な自信に縛られている人が何と多いことか。逆に劣等感、自己憐憫、うつ状態に縛られて身動きできない人生を営んでいる人も多いのです。人間の心を支配する感情は複雑です。それがどういうものであれ、人の魂を束縛し、奴隷のように扱います。キリストはこのような心を縛る奴隷的な束縛から私たちを解放されます。

 

【十字架による解放】

キリストの十字架の意味はこの肉の支配からの解放なのです。自由はそこから生じます。霊的な束縛からの自由に他なりません。

 

今日、世界で支配的な思想は「ありのままでよい」というスローガンであると思います。

あなたはそのままでよろしい。そう言うのです。この思想が有力なのは当然です。

 

今日は他者を否定する時代です。才能や能力の欠如、営業成績不振などを理由にして、人間の価値を低く見積もる社会です。ときには金銭の多寡で人間の価値を計ります。このような社会では、ありのままの自分を認めて欲しいと誰もが思っています。ありのままの自己を肯定する思想も今日では殊の外、必要かもしれません。

 

しかし、結局この『思想』は自分で自分を認め、許す思想でもあります。それは究極的な魂の解放にはならないと思います。自分で自分を許してみても束縛そのものは消滅していません。結局のところ、気持ちの持ち方で終わってしまいかねません。許しは他者から来ます。

 

【キリストによる神の赦し・解放】

キリストは、私たちを赦されます。肉の思いに縛られていてがんじがらめになっている私たちを、ご自身の犠牲によって赦されます。神の御子が赦しを約束し、宣言し、保証されます。この赦しこそが究極的な自由の源であるといえます。

 

キリストはこの自由に私たちを召されます。つまり、呼び出されます。み言葉によって私たちを自由に導かれます。まず、わたしたちが肉の思いに縛られている事実を自覚させます。それから、私たちが霊的に奴隷状態であることをみ言葉によって知らせ、そこからの脱出を勧められます。まことの自由はキリストにあります。

 

私たちは長くこの束縛状態に置かれていました。あまりに長く奴隷状態であったために、キリストから解放されていることに気がつきません。足かせ、首かせは壊されています。ところが、束縛が日常となって、相変わらず束縛されているように錯覚しています。ガラテヤの信徒が味わっている状態はこれです。すでにキリストから自由にされていますが、また、肉の奴隷に戻って行こうとします。

 

自由人と奴隷状態の共存は、当時は社会の制度でした。その格差は大きいものです。奴隷身分であることは自由がないというだけのことではありません。人間ではなく、売買の対象であり、生殺与奪の権を一方が持っているということを意味していました。キリストに自由にされるということは、律法からの自由であり、肉の支配からの自由を意味していました。ガラテヤの信徒が奴隷の状態から自由を勝ち取ることができました。それなのに奴隷状態への逆行は信じがたい行動というべきなのです。

 

【キリスト者の自由】

こうして、キリスト者は自由にされています。全く自由なのです。もはや律法を義と認められる方法は破棄されました。ところで、この自由を強く主張することは、律法の破棄に繋がることはありません。現実には、自由の主張が、放任、放縦につながって生きました。キリストを信じるものは律法の行いから自由です。それによって救いを勝ち取ることはありません。すると、律法を軽んじる傾向が生じます。自由を、肉が罪を犯す機会とするという弊害が生じます。

 

 【自由と奔放の違い】

なんでも自由だ、何でも赦される、何を仕様が、何を言おうが勝手だという主張がまかり通ります。あるいはそういう口実が平気で語られます。キリスト者は自由である。もはや何によっても束縛されることはない。こういう主張が出てきます。

 

戒律が厳しい宗派が存在します。そのような宗派に比較してプロテスタントは自由を強調しました。キリスト者は律法の行いや戒律などに縛られない。救いには関係ない。そこから律法の軽視が生じます。道徳的にたがが外れた状態が起きました。

 

残念ながらプロテスタントの有力なところで、このような誤った自由の観念が罷り通るという事態が生じました。厳格な戒律で救いを得られない、それはその通りなのですが、律法軽視、あるいは無視の傾向が生じます。

 

【偶像に捧げられた物を食すこと】

パウロは、自由を乱用したり誤用したりしてはならないと警告をします。実際にガラテヤの信徒とは違った極端が生じています。コリント教会で起きていたことです(コリント1 8:9)。当時ギリシヤでは神殿で犠牲がささげられますが、屠られた動物の肉は市場に払い下げられました。大量の食材が市場に出回っていて、それを買って食べることは一般的な市民の日常生活でした。偶像はただに石や木切れに過ぎない。神は唯一であるから、異なる神などありえない。そういう神に奉献された犠牲の肉を食べることは何ら差し支えないという人もいました。

 

しかし、そのような行動に躓きを覚える人もいました。一方では自由を主張します。他方では躓いている人もいました。パウロは自由な言動が弱い信徒を躓かせることになると警告をしています。自由は乱用されやすいのです。自由を主張する人は自由を行使しているだけだと思っています。やましさを感じているわけではありません。ところが、自由を乱用して、ある人たちを躓かせ、信仰から離れさせる結果となります。

 

【指針としての律法】

律法は廃止されるのではなく、救いの手段としての律法は不要となったけれども、律法そのものが不要になったのではありません。キリスト者の人生は律法から離れてあるのではありません。あくまで律法はキリスト者がそれを守って生きていく指針なのです。道しるべといった模様と思います。

 パウロは律法の要約をここで引用します。マタイ22:39で、律法の要約がレビ19:18を用いて語られます。パウロはローマ13:9でも同じ点を語っています。

 

新約聖書マタイによる福音書22:39

第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』

 

旧約聖書レビ記19:18

復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である。

 

ローマの信徒への手紙13:9

「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」、そのほかどんな掟があっても、「隣人を自分のように愛しなさい」という言葉に要約されます。

 

自分を愛するように隣人を愛しなさい。これこそ律法の要約で、律法の条文が不要になったり、無効になったりしているのではありません。愛して互いに仕えあうと言われます。

 

【律法の効用】

律法の要約は、律法全体を指し示します。律法は不要になったのではなく、律法はキリスト者には重要であるとされています。律法は廃棄されたのではありません。救いの手段としてユダヤ人が確信していたような仕方で律法が重視されるのではありませんが、律法はキリスト者の行動規範であり続けます。神を信じるものは律法を重んじるべきです。

 

 十戒、使徒信条、主の祈りと共に3要文と呼ばれます。キリスト教において、この三つは肝心要の位置を占め、キリスト教信仰を簡潔に表明するものです。

 

 パウロは警告します。だから、教会員が互いに挑みあい、噛みあい、共食いまでしているならば、そのときキリスト者も、教会も滅びてしまう。教会の外面的なものは存続するでしょう。しかし、教会の内部にあるものは失われます。教会がするべきことは互いに仕えあうことであるはずです。

 

ガラテヤの教会もまた律法を正しく用いないならばその破局は近くなります。教会は律法を正しく学ばなければならないのです。キリスト者にとって律法は生きていくために指針です。その律法を用いないで、あるいは無視してしまうとき、滅びに至るとは重大な警告です。

 律法を守っていないという現実は残ります。だから、律法などどうでもよいものとし、律法を学ばず、律法を生きていく術にしないならば、そのとき、律法は救いの手段ではないとしても、滅びの手立てとなるという皮肉な事態となってしまいます。そのようなことがあってはならないのは当然というべきです。(おわり) 

2014年07月27日 | カテゴリー: ガラテヤの信徒への手紙 , 新約聖書

20014年7月20日 説 教 「十字架のつまづき」金田幸男牧師

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2014年7月20日説教「十字架の躓き」金田幸男牧師

聖書:ガラテヤの信徒への手紙5章

7 あなたがたは、よく走っていました。それなのに、いったいだれが邪魔をして真理に従わないようにさせたのですか。
8 このような誘いは、あなたがたを召し出しておられる方からのものではありません。
9 わずかなパン種が練り粉全体を膨らませるのです。
10 あなたがたが決して別な考えを持つことはないと、わたしは主をよりどころとしてあなたがたを信頼しています。あなたがたを惑わす者は、だれであろうと、裁きを受けます。
11 兄弟たち、このわたしが、今なお割礼を宣べ伝えているとするならば、今なお迫害を受けているのは、なぜですか。そのようなことを宣べ伝えれば、十字架のつまずきもなくなっていたことでしょう。
12 あなたがたをかき乱す者たちは、いっそのこと自ら去勢してしまえばよい。

 

要旨 

【競走のコースを曲げること】

 7節で、パウロは陸上競技を比ゆに用います。古代世界でも競争は盛んで、その勝者は民衆の尊敬を受けました。競走は全速力で走ったり、持久力で長距離を走ったりしますが、コースから外れることは許されません。ガラテヤの信徒は今まで全力で走ってきました。ところが誰かが邪魔をします。競走のコースを曲げるようなこと、ゴールを偽ものにすることなど、いろいろな工夫をしてガラテヤのキリスト者の信仰を途中で挫折させようとするものがありました。

 

パウロはここで邪魔をするもの、10節では「惑わす者」、12節では「かき乱す者」といいます。彼らは、福音だけではなく、律法の行いも必要だと教えました。そのために割礼を要求します。その他の律法の行いを実践しなければ救われない、異邦人もユダヤ人のようにならなければ神の国を継承できないと主張をしたのです。

 

 パウロはここでガラテヤの信者を厳しく断罪していません。信仰は個人の問題です。だから、ガラテヤの信徒たちが福音のみを信じる信仰から、律法の実践も救いに必要だという誤った教えに傾いていきましたが、その場合責任は決断した彼らにあるはずです。今日は自己責任の時代ですから、信仰を動揺させたガラテヤの信徒たちがその責任を問われなければならないはずなのです。

 

【偽教師、ユダヤ主義者】

パウロはこの手紙の中でガラテヤの人々厳しく責め、責任を問い、告発して当然です。パウロがそれをすることは正当であると思われます。ところがパウロが弾劾しているのは、彼らを惑わす偽教師たち、ユダヤ主義者です。福音信仰に律法の実践を加えてそれが救いの条件だとする異端をパウロは激しく非難します。それどころか呪い、呪詛さえします。誰であろうとも、ガラテヤの信徒を惑わし、最初の告白した信仰を歪めるものはさばきを受けなければなりません。パウロはこの偽教師には全く譲歩などしません。このパウロの姿勢には抵抗を感じる人もいるかもしれません。

 

本来厳しく責められても仕方がないガラテヤの信徒にはパウロは柔軟に対応しています。信頼さえ表明します。しかし、ユダヤ主義の偽教師にはもっとも過酷な裁きを願います。この落差は、人間的な感情と異なります。少々の違いなどには目をつぶる。これが私たちのすることです。福音理解に関してもそうです。ちょっとした違いなら何でも構わないと思います。

 

ところがパウロは福音の真理に関しては妥協しません。少しの妥協などしません。福音を捻じ曲げ、水増しし、曖昧にするようなものたちを許しておくことができないとするのです。一歩も退きません。彼らはれっきとしたキリスト者であると主張していたに違いありません。福音を奉じている。キリストを信じている。聖書を受け入れている。こういう点で同じだといい、そしてすぐあとで、ただし、行いも必要だと言い出すのです。パウロはこのような考え方を容赦しません。なぜなら、福音の真理、神の大きな恩寵をないがしろにするからです。福音を歪曲したり、曖昧にすることは決して許されないのです。

 

【勧誘する宗教】

 偽教師からの「誘い」がガラテヤの信徒に向けられていました。この語はパウロに向けられた言葉ではないかと言われています。ガラテヤの信徒たちを誤った方向に勧誘していると。しかし、パウロは偽教師たちこそガラテヤの信徒を勧誘するものだというのです。よく戸別のチラシ配付をしましたが、郵便受けに「セールス、宗教の勧誘、お断り」というステッカーが張ってありました。伝道などセールスと同じようなものと見なされています。パウロはそうではないといいます。ガラテヤの信徒の信仰を危うくするような偽教師たちこそ勧誘をしているのです。自分たちの陣営にガラテヤの信徒をお招きし、お誘いして、人数を増やすことが目的です。宗教団体の活動は多くの場合その団体の人数を増やすことを目的としています。まさしく勧誘することが伝道なのです。

 

【宣教】

私たちキリスト者も所詮同じだと言われてはなりませんし、自分にそんな言い訳をしてもいけません。勧誘に対置される言葉は「宣教」です。すなわち、キリストを救い主として宣言し、キリストの約束を恵みとして宣言するキリスト教会の伝道は単に自己の宗派の人数増やしに留まるものではありません。福音のみが救いに至る道であると確言し、明瞭に指し示すことです。

 福音に欠けがあり、人間が補いをする必要があるなどという教説は破棄されなければなりません。そんなことは決してありません。そんな教えを主キリストが認めるわけがありません。

 

【腐ったパン種の喩え】

 9節でまたパウロは比ゆを用います。パン種、イースト菌の喩えです。古代のイースト菌は雑菌も多かったといわれます。ですから、暖かく湿気の多いところにパンの生地を放置しますと、急速に膨らむのはいいのですが、食べるには適さなくなってしまいます。パン種が作用して練り粉全体が膨らみすぎると味も落ち、酸っぱくなったりして食用にならなくなってしまいます。

 

【別な考え】

パン種はいうまでもなく偽教師の教えを意味しています。10節で、それは「別な考え」とされています。異なる教えです。その間に何らかの共通点などない教えです。みかけは似たように思えます。実際、共通点がたくさんあるように思えます。福音そのものを否定しているのではありません。福音も必要、しかし、律法も上乗せされると教えるのです。このような偽教師たちの教えはパウロから見れば異なった教え、まったく別の教えとなります。見たところ共通点があっても、肝心の、イエス・キリストを信じる信仰だけが救いに必要だという教えとは水と油の関係なのです。

 

【パウロの信頼】 

これほどパウロは福音のみをいう教えに固執します。それはゆるぎない確信でした。救われるのはただ神の恩寵、恵みによるだけなのです。ここには妥協も譲歩もありません。それがパウロの姿勢でした。

 

 ガラテヤの信徒に対しては、パウロは驚くべき言葉を使います。「信頼する」という言葉です。ガラテヤの信徒が異なれる福音に行ってしまうことはありえない。パウロはそのように断定します。でも現状はどうであったでしょうか。ガラテヤの信徒とパウロの距離はすでにかなり離れていました。ガラテヤの人々はパウロに背を向けていました。しかし、ガラテヤの教会員が別の教えに傾いていくはずがないとパウロは語っています。それどころかあなた方を信頼している。現実は違っていました。ガラテヤの信徒たちは敵対さえしていました。パウロはその事実をよく認識していたはずです。ガラテヤの信徒たちはもうすでに律法の行いに拠って立っていたかもしれません。

 

 私たちの人間関係は少し溝ができると埋めがたいものとなります。そこにあるのは不信感です。教会でもこのことは起こりえます。そして事態は深刻になっていくものです。

 教会から離れて行ってしまった人々に、私たちはついそのような人が神から捨てられたのだと断言します。教会の外に救いはない。だから教会に背を向けたような輩は救いから漏れているに違いない。彼らは選ばれてはいない。こういう早合点をしているのです。

 

 パウロはそう言いません。彼らガラテヤの信徒を信頼している。なぜなら、主を拠り所とするからです。教会の人間関係の基礎はキリストです。この基礎の上に立っていたら信頼できる。ガラテヤの信徒たちは必ず戻ってくる。パウロは信じています。彼らが復帰する可能性は低いかもしれません。いったんパウロから離れてしまったのです。もう二度と戻ってくるはずもないと思いがちです。パウロはそう考えませんでした。

 

ガラテヤの信徒はユダヤ主義者の教えを捨ててもう一度戻ってくると信じています。あのユダヤ主義者の語る教えに満足できなくなるとパウロは思っていたに違いありません。なぜならキリストこそ宝だからです。そこに最大級の価値があるのです。福音の恵みを知ったものが、ユダヤ主義者の惑わしに惑わされ続けるはずがない。福音は素晴らしい。パウロはそのように確信をしていましたから、ガラテヤのキリスト者も同じようになるのだと信じていたのです。

 

キリストを拠り所にしてこそ、真の信頼が生じます。私たちの人間関係は相互不信と敵対や憎悪、嫉妬や疑念に満ちています。そのためにたがいの関係がばらばらです。教会だけではなく、キリスト者の家庭にもこの影響は及んでいます。パウロの言葉に耳を傾けるべきです。

 

【ユダヤ人には十字架は躓き】

 11節で、パウロが割礼を宣教しているという批判のあったことを推測させます。ユダヤ人には割礼を教え、異邦人には違ったことを言っているというのです。パウロははっきり否定します。相手がユダヤ人であろうとも割礼を宣伝したことはありません。割礼を宣教していたら迫害を受けることはない。ユダヤ人には十字架は躓きでした。十字架を語ったからユダヤ人からの迫害を受けるのです。ユダヤ人は、律法の行い、特にいけにえ奉献で贖われると思っていました。罪が許され、神の民として受け入れられると信じていました。だからキリストの十字架が贖いの犠牲だというようなパウロの教えは受け入れられず、伝統的なユダヤの宗教を破壊すると思われたのです。

 

1コリント1章23に記されているとおり、十字架はユダヤ人には躓きで受け入れがたかったのです。ユダヤの宗教がキリスト教の存在を認めがたいのはここにあります。律法を語っておれば、割礼を教えておればユダヤ人との摩擦は起きません。

 

 割礼は男性器の一部を切断する儀式ですが、男性器全部を取ってしまえと12節でパウロは語ります。激昂したような言い方です。しかし、福音のみを言う教えを否定して何かを付加する教えはパウロには決して認めることができない誤った教えなのです。(おわり)



2014年07月20日 | カテゴリー: ガラテヤの信徒への手紙 , 新約聖書

2014年6月29日説 教 「自由と束縛]金田幸男牧師

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説教「自由と束縛 」金田幸男牧師

聖書:ガラテヤの信徒への手紙4章21―27

21 わたしに答えてください。律法の下にいたいと思っている人たち、あなたがたは、律法の言うことに耳を貸さないのですか。

22 アブラハムには二人の息子があり、一人は女奴隷から生まれ、もう一人は自由な身の女から生まれたと聖書に書いてあります。

23 ところで、女奴隷の子は肉によって生まれたのに対し、自由な女から生まれた子は約束によって生まれたのでした。

24 これには、別の意味が隠されています。すなわち、この二人の女とは二つの契約を表しています。子を奴隷の身分に産む方は、シナイ山に由来する契約を表していて、これがハガルです。

25 このハガルは、アラビアではシナイ山のことで、今のエルサレムに当たります。なぜなら、今のエルサレムは、その子供たちと共に奴隷となっているからです。

26 他方、天のエルサレムは、いわば自由な身の女であって、これはわたしたちの母です。

27 なぜなら、次のように書いてあるからです。「喜べ、子を産まない不妊の女よ、/喜びの声をあげて叫べ、/産みの苦しみを知らない女よ。一人取り残された女が夫ある女よりも、/多くの子を産むから。」

 

要旨 

【初期のがラテやの信徒の信仰】

ガラテヤの信徒への手紙4章8-20でパウロはガリラヤ伝道をしたころのガラテヤ人のパウロに対する態度を思い起こさせていました。パウロが心身ともに弱くなっているときに福音を宣教しました。そういうパウロの状態にもかかわらず、ガラテヤの人々はパウロを好意的に受け入れました。まるで天使でもあるかのように、キリスト・イエスでもあるかのようにパウロを受け入れました。

 

【ユダヤ主義者キリスト教師の悪影響】

ところが今は両者は敵対関係になってしまいました。その理由はユダヤ主義キリスト教の教師たちの教えをガラテヤ人が受け入れてしまったからです。ユダヤ主義者たちはユダヤの宗教的な暦を遵守すること(4:10)、割礼を受けること(5:2)、その他のユダヤ人が守っている律法を異邦人キリスト者も守らなければ救われないと教えていました。

 

彼らはおそらく汚れの規定には神経質であったのではないかと思います。特別な病気になったり、死体に触れたり、あるいは汚れた動物の肉を食する外国人との付き合いで汚れるという考えです。このようなユダヤ人が厳格に守ろうとしている規則を異邦人キリスト者にも要求するという立場がユダヤ主義者で、彼らは信仰だけではなく、律法の行ないも救いに必要だと語っていたのです。

 

パウロはこのような律法を守らなければ救われないというユダヤ主義者の教えを採用した人々に問いかけます。律法のもとにいたいと思っている人たち、律法の行いで救われたいと思っているガラテヤの信徒に呼びかけます。あなた方は律法の言っていることに耳を貸さないのか。この場合の律法は、モーセの律法、旧約聖書のはじめに記されるいわゆるモーセの5書のことで、ここでは特に創世記を意味しています。

 

【アブラハムの2人の妻とその子ども】

そこにはアブラハムの子たちとその母親のことが記されます。アブラハムには2人の子どもがいました。ひとりはイシュマエルという名前で、母はハガルといいました。もうひとりはイサクです。イシュマエル誕生の次第は創世記16章に記されています。

 

アブラハムにその子孫が増え広がるという約束が語られていましたが、一向に実現しません。そこでサラは自分の奴隷であったハガルを夫に与えます。こうして生まれてきたのがイシュマエルでした。パウロはこのイシュマエルの誕生を「肉によって生まれた」と語ります。肉的な思いによって、という意味で、何とかして、子どもを獲得し、そのことで子孫増加という神の言葉を強制的に実現しようとするものでした。

 

これに対してイサクはアブラハム100歳、サラ90歳のときに生まれました(創世記21章)。高齢で子どもを産める年齢ではありません、しかし、サラはイサクを産みます。それは全く神の約束によるものでした。

 

確かにここには処女降誕のような奇跡が記されていません。アブラハムとサラは夫婦であり、2人の間からイサクは生まれました。天変地異、あるいは思いも及ばないような奇跡がここに起きたのではありません。しかし、やはり、奇跡と言わなければなりません。

 

【100歳の夫と90歳の妻が子を】

100歳の夫と90歳の妻から子どもが生まれてくるなどというようなことが普通起きません。しかし、それは神の約束により、神の介在によって実現しました。これは神の約束の実現でした。神の約束は神の言葉です。このみ言葉が成就したのです。それを信じることによって神は介入し、介在してくださいます。

 

【奴隷の女ハガイの場合】

ガラテヤ人は肉の思いで、神から祝福を引き出そうとするハガイの立場と同じです。何とかして人間的に神を思うように動かそうとしています。しかし、そこからは神の恩恵を期待することはできないのです。

 

【正妻サラの場合】

他方、アブラハムはただ神を信頼します。その信頼に応えて神は行動されます。神の言葉とおりに神は実行されます。律法の働きによって神は行動されることはなく、ただ神を信じ、神の信頼するところから神は行動されます。神は祈れと命じられます。主の御名によって祈ることは何でもかなえてあげようと約束されました。私たちはこの神の約束を信じるのです。そして、信じるものに約束を実現されます。祈るしかないのですが、祈ることは神の約束を基礎としています。

 神の約束を放棄して、律法の行ないに頼ることほど愚かしいことはありません。

 

【イサクとイシュマエルの誕生をめぐる深い意味】

 ところで、パウロはこの創世記のイサクとイシュマエルの誕生をめぐる記事には別の意味が隠されている(24)と言います。

 

これは当時の聖書解釈の方法です。表面上の言葉や意味に現れてきていない、あるいは関係のない意味を想像をたくましくして引き出す解釈の仕方がありました。寓話という文学形式があります。この巧者はイソップです。いくつもの寓話を残しています。それはただ面白い話というのではなく、表面には出てきていない隠された意味があります。例えばウサギとカメの喩え話ですが、競争して、はじめウサギが大きくリードします。ところがゴール寸前で、ウサギはカメがなかなか姿を現さないので、居眠りをし始めます。カメはその間、のろのろと、しかし休まず歩き続けたのでウサギに勝ちます。この話で、勤勉の徳が説かれます。ウサギとカメには勤勉とか忍耐とかの徳目が意味されているわけではありませんが、連想して、あるいは想像して、ときにはこじつけと思われるような仕方で、つまり、別の意味を引き出す解釈法で当時流行していました。

 

ハガルとサラはふたつの契約を意味する。ハガルとサラは直接契約と関係ありません。しかし、ハガルが奴隷であり、サラが自由人であるというところから連想して、旧約における有名な二つの契約を象徴するもの、そこから連想されるものとして取り上げられています。

 

【シナイ契約】

ひとつの契約はシナイにおける契約です。シナイ山でモーセは神から律法を与えられます。イスラエルはその律法を守らなければならないとされます。律法授与から始まってイスラエルは民族として国家として形作られていきます。そのための規範が律法でした。律法を完全に守って神から栄光を受けようとします。しかし、現実は律法違反の積み重ねでした。そのために、バビロンによるイスラエル滅亡を言う歴史的事件を招来しました。律法違反に対して神に赦しを求めるべきでした。

 

本来、律法はこのような目的に用いられるべきでありましたが、イスラエルは律法を神の民になるための必須の条件としてしまいました。律法を完全に守ることができる。だから守らなければならないとされたのです。律法はそのときからイスラエルを縛り付けるものとなり、律法の行いによって救いを勝ち取ろうとするのは律法の奴隷となることなのです。

 

シナイ山での律法授与はシナイ契約と呼ばれますが、イスラエルにとっては律法の遵守と結びつく契約とされてしまいました。本来はそうではありません。イスラエル国家の基本的な法規、そして、その違反に対しては神からの赦しを求めるべき契約でありました。だから、結局、当時のエルサレムの住民が律法を守ろうとしている態度と同じです。彼らは神殿で律法の通り儀式を守ったりしています。それによって神の恩寵を獲得できると思っていたのです。ユダヤ主義者と同じです。  

 

パウロはハガル、シナイ山、エルサレムをこうして繋ぐようにしたのです。奴隷女であったハガルが現している別の意味は律法遵守を強制する契約理解です。

 

【サラによるアブラハム契約】

他方、イサクを生んだサラが示していたのは、もうひとつの契約です。アブラハムとの契約を指していることは言うまでもありません。ただ信じることによって神の義を確保できる契約です。ハガルが示しているのは、地上のエルサレム、つまり律法を何とかして厳守し、神の恩寵を引き出そうとする立場です。

 

サラはアブラハム契約を示し、ハガルは律法の遵守を求めるシナイの契約を意味するといいます。この聖書解釈は文字そのものや文法的解釈でありません。ある飛躍がなければ解釈できません。その意味でこの解釈は面白いのです。しかし、聖書の語句、語彙、あるいは文脈との照合などの解釈と違い、とんでもない推測まで突き進んでしまいます。恣意的な解釈は警戒しなければなりません。パウロはとても自制的に解釈をしています。特に文字や数字の恣意的な解釈は警戒しなければなりません。

 

サラは自由の女、つまり、奴隷ではありません。律法の奴隷ではありません。律法を遵守して神からの救いを獲得しようとするものは奴隷の系譜に属します。ただ神を信じて救われたいと願うものの自由な判断からそうするのです。

 

【不妊の女:イザヤ預言】

 パウロはこのようにサラを、約束に従って生きていくものとして捉えています。先の創世記16章に記されるように、彼女こそイシュマエルの誕生に大きな役割を占めたのですが、そのことは触れられていません。サラは神に約束を保証され、それを信じて生きたとされます。このように神の約束に生きていく女性はサラだけではありません。

 

イザヤがそのことを預言しているとして、パウロは預言の1節を取り上げます。不妊の女。古代世界では蔑まれるべき存在でした。また、彼女は結婚もできなかったのです。そのような境遇の女性が幸福であるはずがありませんでした。ところが事態は一変します。エルサレムはバビロンに滅ぼされます。栄華を極めたダビデとソロモンの建設した町です。ところが徹底的な破壊を蒙ります。律法を誇りとし、律法を守れる自らを評価した民の都は滅亡します。しかし、神はある少数の者たちを残されたものとされます。その中の一人が不妊の女性、以前は未婚で過ごした女性がいました。

 

彼女はバビロン滅亡後、ひとり残されますが、彼女から多くの子どもが生まれてくる。それまで蔑まれ、ひどい扱いを受けていたこの女性が最高の祝福を受けることになります。それはただ神の御心によって実現することです。残された民から神はまことの神の民を起こされます。それは神の約束に依拠します。私たちが求められていることはただ約束を信じて生きていくことだけなのです。(おわり)

2014年06月29日 | カテゴリー: ガラテヤの信徒への手紙 , 新約聖書

2014年5月11日説教「律法はキリストに導く養育係」金田幸男牧師




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本日録音失敗のため説教音声はありません。


聖書 ガラテヤの信徒への手紙3章19~25節

19 では、律法とはいったい何か。律法は、約束を与えられたあの子孫が来られるときまで、違犯を明らかにするために付け加えられたもので、天使たちを通し、仲介者の手を経て制定されたものです。

20 仲介者というものは、一人で事を行う場合には要りません。約束の場合、神はひとりで事を運ばれたのです。

21 それでは、律法は神の約束に反するものなのでしょうか。決してそうではない。万一、人を生かすことができる律法が与えられたとするなら、確かに人は律法によって義とされたでしょう。

22 しかし、聖書はすべてのものを罪の支配下に閉じ込めたのです。それは、神の約束が、イエス・キリストへの信仰によって、信じる人々に与えられるようになるためでした。

23 信仰が現れる前には、わたしたちは律法の下で監視され、この信仰が啓示されるようになるまで閉じ込められていました。

24 こうして律法は、わたしたちをキリストのもとへ導く養育係となったのです。わたしたちが信仰によって義とされるためです。

25 しかし、信仰が現れたので、もはや、わたしたちはこのような養育係の下にはいません。

 

要旨

【アブラハム契約(約束)

アブラハムにまだ子どもがなかったにもかかわらず、また夫婦とも高齢になっていたにもかかわらず(創世記12章4ではアブラハムは75歳)、神はあなたの子孫が増え広がるようにすると約束されました。人間には不可能なこと、ありえないことを神は約束されたのです。アブラハムはその神の言葉を信じました。信仰とは人間にはできないことを神がしてくださるに違いないと信じる希望でもあります。

 

【モーセ律法授与】

ところがその約束が与えられて長い時間が経ちます。パウロは430年後、アブラハムの子孫であるイスラエルの民にモーセを通して律法を授けられたと語ります(17)。神はアブラハムに一方的な恵みとして約束を与えられました。ところがその後、律法が与えられて事情は大きく変わったのでしょうか。実際ユダヤ人の中には、シナイでの律法授与以来、律法を守って神の約束が成就すると確信するものたちが現われます。イスラエルこそ神に選ばれたもの、だから律法を守って優れた特質を神の前でも、人の前でも明らかにしようというのです。

 

律法を与えられたときから、イスラエルはエジプトを脱出し、約束の地で国家を建設するようになります。律法を守っておれば必ずイスラエルが世界に覇を唱える強大国家となると思う思想はずっとユダヤ人の心を捉えていました。律法遵守こそ神の恩恵を受ける手段、方法と考えられたのです。パウロの時代にはそれがファリサイ派に属するユダヤ人の信念となっていました。

 

神が直接支配する神の国が完成するとき、律法を厳守するファリサイ派が真っ先にその国に入ることができると信じ、そのように教えていました。律法をあまり守れないような輩は神の国に相応しくないとされたのでした。パウロはそのようなファリサイ派の考えを固守してきました。しかし、彼はイエス・キリストとの不思議な出会いによってその考えを打ち砕かれたのでした。

 

パウロは聖書を何度も引用しながら、神の約束は不変であると主張します。神の一方的な約束が突然モーセを通して律法が与えられて神の救いの仕方が変更されたのではないといいます。

 

19節の、天使たちを通して、仲介者の手を経て律法が制定されたという文章となっていますが、天使の介在について旧約聖書には出てきません。仲介者とはモーセのことです(申命記5章。出エジプト記20章)。

 

【何のために律法が与えられたのか】

では、何のために律法が与えられたのか。律法は神のアブラハムへの約束に取って代わるのではありません。モーセを通して与えられた律法は神の救いの恵みを与えるやり方を修正したり、以前の神の約束に並立させるものでもありません。

 

神はイスラエルに厳かな仕方で律法を与えられた目的は何か。

パウロは比ゆ的な表現で律法の役割を明らかにします。19節の約束を与えられた「あの子孫」とはイエス・キリストのことであるのは明らかです。

イエス・キリストの来られるまでは、律法の役割は違反を明らかにすることであったといわれます。違反とは罪のことです。イスラエルの悪事を明らかにするために律法がイスラエルに与えられたのです。イスラエルは国家建設の端緒を開きます。そうであれば、神はイスラエルに国家の仕組み、特に法的な整備、あるいは国家的宗教の制度、組織、あるいは壮麗な施設建設、そこで行われる祭儀を詳細に規定する律法を与えれば丁度相応しい神の指示ということになるでしょう。

 

ところが神はそのような目的で律法を授与されたのではないとパウロは考えるのです。むしろ、イスラエルの違反、罪、罪過を明らかにするためだといいます。正義、善、あるいは聖潔といったものと正反対の状態であることをイスラエルの知らせるため、自覚を促すために神は律法を与えられたのだといいます。神の民にはそれが重要とされます。

 

イスラエルに神は普通では考えられないみわざ(業)をなさいます。それは罪の許しを神にいただくようにするためであったのでした。

 

【律法の役割は罪の支配下に閉じ込めること】

22節で律法の役割は罪の支配下に閉じ込めることとされています。罪の監視下におく、律法が明らかにする違反である罪は、イスラエルの人々の日常を監視し、そこから脱出できないように縛り付けるのだといいます。律法はイスラエルの人々が選良(エリート)であることを立証するものであるどころか、暗い罪の闇の中に放り込んでしまう役割を与えられているとパウロは語ります。

 

つまり、律法は罪のもとで私たちが縛り付けられていることを自覚させるのです。ローマ5章13で、パウロは言います。「律法が与えられる前にも罪は世にあったが、律法がなければ罪は罪と認められない。」要するに罪は自覚されないという意味です。律法がなければそれが罪であるとは知らされないのです。

 

律法の役割を無視したり、棚上げしたりするとどうなるでしょうか。

罪を犯しているのに当人は罪と認めない、そうするとどうなるでしょうか。人間の本能だとか、社会が、世間がそうさせたのだ、果ては成り行きだとか、ちょっと行為を大袈裟に言っているだけと、罪を過小評価し、あるいは無視して、罪の問題の深刻さから目を逸らします。

 

罪の結果は神の呪いでしたが、そんなものは神話、作り話と片づけてしまうのです。結局律法がなければ無責任がはびこります。そうすると逆に誰も責任を取らないために自己責任という言葉が独り歩きし始めます。罪の存在を認めようとしないのです。

 

23節で、信仰が現われる前とパウロは言いますが、これはイエス・キリストの来臨前とも、また個人の領域ではキリストを知って信じる前、つまり、パウロにとっては入信前ということになります。

律法がモーセを通して与えられてからまた長い時間が過ぎます。神はイエス・キリストをこの世に遣わされました。それまでは、律法は人間が罪を犯していると告発し続ける役割を果たしていました。パウロは多くのユダヤ人同様、律法を懸命に守ろうとしていました。ところが、それはただ律法に自らのあり方を監視されていただけであったと気がついたのでした。

 

キリストを信じるようになって律法の役割をはっきり理解するようになったとパウロは考えたのでした。律法を遵守しようとしたが、それは日常の言動が律法に沿っているかどうかだけに関心がいく、しかし、そのたびに不完全さを思い知らされる。これがパウロの個人的な体験であったと思われます。律法では、救いへの絶望が出てきます。

 

【律法は養育係】

24節でもまた比ゆ的な表現が出てきます。律法は養育係だというのです。

古代ローマ社会は奴隷制が敷かれていました。上流階級では子弟の教育をその奴隷に任せました。奴隷の中で読み書きできるものや知識人であるものを選んだり、そのためにわざわざ奴隷を購入したりして、子どもの教育、それには躾けも含みますが、読み書き計算などを教えさせます。

 

奴隷は、奴隷所有者から命じられたようにしなければなりません。何歳までに読み書きができるように、と命じられると、その命令を守らなければ処罰を受けます。奴隷はたとえ相手が主人の子弟であっても、与えられた命令には従わなければなりません。目標に達しなければひどい仕打ちを覚悟しなければなりません。

 

【律法の過酷さ】

養育係は鞭とか棒を持って脅しながら教育します。養育係はそうまでして子どもをしつけることになります。むろん、例外はありましょうが、厳しい教育に反発して、子どもは養育係を憎みます。

律法は養育係のようなものとパウロが言うとき、律法の過酷さを言い表しています。律法は手加減などしません。私たちのあらゆる行動を吟味し、批判します。律法を好きになる人はいません。律法の厳しい命令を知れば誰もがたじろぎます。それが律法です。

 

このような律法は異邦人には関係のないこととでしょうか。ローマ2章14-15「たとえ(モーセの)律法を持たない異邦人も律法の命じるところを自然に行なえば、律法を持たなくても、自分自身が律法なのです。こういう人は律法の要求する事柄が人の心に記されていることを示しています。わたしの良心もこれを証ししており、また、心の思いも互いに責めたり、弁明し合って同じことを示しています。」律法が異邦人にも刻み込まれていると言います。

 

どのような人にも宗教心があり、道徳心があります。また良心もあります。良心はいつもちくちく私たちを責めます。

むろんそれだけで、良心の指摘することに従ったり、悪をやめたりすることはありません。私たちの得意技は常に良心の訴えを無視することです。やむをえなかった、相手が悪い、状況がそうさせた、いろいろ口実を設けて罪を認めず、ますます悪に染まっていきます。

 

【キリストに生きる】

心に刻まれている律法は罪を抑制することができません。それはただキリストに導いていくだけです(24節)。子どもは愛する親のところに行くしかありません。そこで赦しを請い、そして実際に赦されます。キリストは私たちのために十字架につけられて、罪の呪いを代わりに負ってくださいました。

 

キリストにより頼むところに赦しがあります。律法は養育係であって罪を帳消しにするような力はありません。ただ批判し告発し、情け容赦なく責めるだけです。決して赦す力を提供などできません。それができるのはイエス・キリスト、その十字架だけです。良心を無視したり、軽んじたりすることはできますが、罪はますます蔓延するだけです。必要なことはキリストの赦しを求め、そのキリストの愛を信じ、キリスト共に生きることです。(おわり)

2014年05月11日 | カテゴリー: ガラテヤの信徒への手紙 , 新約聖書

2014年1月19日、説教「キリストと神の使徒からのよき知らせ」金田幸男牧師

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転入式:金田益美姉

2014年1月19日説教「キリトと神の使徒からのよき知らせ」金田幸男牧師

聖書:ガラテヤの信徒への手紙1章1 -- 5

1 人々からでもなく、人を通してでもなく、イエス・キリストと、キリストを死者の中から復活させた父である神とによって使徒とされたパウロ、2 ならびに、わたしと一緒にいる兄弟一同から、ガラテヤ地方の諸教会へ。3 わたしたちの父である神と、主イエス・キリストの恵みと平和が、あなたがたにあるように。4 キリストは、わたしたちの神であり父である方の御心に従い、この悪の世からわたしたちを救い出そうとして、御自身をわたしたちの罪のために献げてくださったのです。5 わたしたちの神であり父である方に世々限りなく栄光がありますように、アーメン。

 

(説教要旨)

【使徒とは】

まず最初に、パウロは、自分のことを、「使徒」であると語ります。「使徒」とは全權を委託された使者、国家間では「全権大使」のような役割を与えられたものを意味しています。

外交官である大使は本国政府や(古代世界では)王侯の意志を正確に伝える義務があります勝手に自分の所信や考えで.発言したり、行動することは許されていません。使徒も同様です。

 

【父なる神とイエス・キリストの使徒であるパウロ】

パウロは、自分は、父なる神とイエスキリストの使徒であると言います。つまり、パウロは父なる神とイエスキリストから派遣されて語るものです。彼は神とキリストの言葉を語るものだと主張しているのです。

 

これはとても重要なことです。神が不在と思われ、神の言葉など聞けないと思っているこの世の中に生きる人に、パウは神の言業を語るものなのだと主張しているからです

 

【聖書は神の言葉】

聖書は、聖なる書というのですが、多くは、しかし、普通の人間が書いたもののように思われて います。古代のひとつの宗教的文書に過ぎない、あるはユダヤ教という民族宗教の経典に過ぎないとも思われています。

 

また、聖書は神の言葉と言われます。でも、所詮人間が書いた書物に過ぎないと考えられています。つまり多くの古典のひとつに過ぎないと見られています。けれども、パウロの主張によれば、彼の書いているこの書物こそ神の言葉だということになります。

 

古代世界では、私的な手紙のほかに、書簡といわれる公的な手紙が用いられていました。私的な ことは、多くの場合、蝋の張った板に鉄筆で書きます。これはすぐに消すことができます。それと共に、羊皮紙あるいはパピルス紙という材料に書かれる公的な文書がありました。

 

【神の言葉であるパウ口の手紙】

パウ口の手紙は 私的な内容を含んでいるから単なる私信と言うのではありません。彼は使徒として、その資格で公的な權威ある書簡を書いているのです。それは神の言葉もあります。

こうして、私たちは神の言葉を読み、また聞くことができるのです。この亊実はとても重いことです6

【牧師も神の言葉を語る】

牧師は説教を主とする働きに従事しています。牧師の説教は神の言葉だといわれます。それをいて多くの人はそんな馬鹿なと思うに違いあません。牧師も一人の人間に過ぎません。その牧師がどうして神の言葉を語ることができるのか。畏れ多いことではないでしょうか。神の言葉を語れるのは、牧師もまた神から派遣されているからです。どうしてそれが分かるのか。

【パウロの驚くべき体験】

パウロの場合、使徒言行録にある劇的な経験をしました。彼はキリスト教の迫害者でしたが、ダマスコという町に行く途中、そこで驚くべき体験をします。それはイエスキリストの出現ですが、それと同時に彼が経験したことは、主イエスのために仕えるものとされたという亊実です。

 

パウロはそのときアナニヤという人物から洗礼を受けていますし(使徒9:18〕、彼が使命を伝えられたのもアナニヤによりますが、パウロはそのような一連の出来事を経験して、主が直接使徒に任命されたのだと確信をしています。

 

それがガラテヤ1章1節の言葉となっています。「人からでも、人を通して でもなく」、いかなる団体の任命によってでもなく、自分はキリストと神から使徒として任じられた と強く断言しています。

 

これはパウロの、特異ではあるが単なる宗教体験だと切り捨てることはできるかもしれません。しかしどうであれ、パウロはおそらくその体験は真実であると語るはずです。 これはパウロにとって否定しがた事実であるのです。

 

【牧師の召命感】

牧師の体驗はパウロと違います。けれども、似たような経験を踏んで牧師になっています。それは召命感と言われています。それぞれの体験は異なっている様相を示します。どうして牧師になったのかは人それぞれ千差万別です。同じ体験はありません。強烈な自覚を持っている人もおれば、そうでない人もいます

 

共通していることは、牧師として神から召しだされたという思いです。あるいは確信と言ってもよいと思ます6この召命感はその人の確信で、そんなの自己満足だと他人は言っても、妄想だと批判しても、牧師に召されたと思っている人には通じませんそれを確かめる方法を教会の組織や制度は有していますが、決定的なものではありません。人間的な能力という点では、牧師以上の知識を持ち、話術や雄弁さをはじめ多くの才能に恵まれた人はいます。牧師にそういう能力が不要と言うのではありませんし、だからこそ自己修練は常に求められるのですが、牧 師の立っているところは神から牧師に召されたという確信です。

 

パウロは自分が使徒に任命されたという信念に生きていました。だから、彼は自分の語るところは神の言葉だと確信できました。派遣した方の権威をもってその意志を忠実に語る限り、彼は神の言葉を語ったのです。

 

牧師もまた、自分は牧師として立て、召してくださった方の意志を語っていると確信するところ で神の言葉を語りうるのです。むろん、牧師の権威を振りかざして、何事でも自分のいうことを聞 け、と命じるなどは乱暴な話です。牧師にはこの誘惑を避けることができません。自分の言っていることがどうして受け入れないのか、言うこと、つまり説教を聞かないのかと思うのです。牧師が いうことは何でも神の言葉だというほど単純でほありません。パウロ自身、彼が書いたり、話した りする何でもかんでも神の言われることだと主張しているわけではありません。神の言葉であるの は根拠があるのです,

 

2 -- 3節は今回省きす。

 

【死者を復活させる神】

パウロは,自分が神に使徒とされたと言いますが、1節では、キリストを死者の中からよみがえらせた神とも語ります。彼は確かに神の使徒であり、その神から遣わされました。それだけではないのです。その神は死者を復活させる神なのです。つまり、彼は復活の力を持ち、それを行う神の 使者なのですから、彼が語る言葉はこのことを切り離すことほできません。っまり、パウロは確か に神の言葉を語るのですが、懣然と神を語るのではなく、死者を復活させる神の言葉を語るのです。

 復活の力はイエス・キリストにおいてはっきり示されていると語ることを含みます。換言すれば、 復活のない神の言葉はありえないということです。いろいろな神の言葉があるようで、実はキリス トを復活させるほどまで死を打ち倒す神でなければ、その言葉は神の言葉とは言いえないのです。

 

【罪の支配下にある世界】

さらに、4節で、そのキリストは、この悪の世から私たちを救い出そうとして、ご自身を私たちのためにささげた方と言います。悪の世とはいうまでもなく、私たちが住んでいるこの世界です。ただし、この世界は悪の世界だと言う場合、ただ悪人がのさばっている世(事実そうなのですが)、 あるいは災害などの災いが生じる生きにくい世に中を指しているのではありません。この世は私たちには去って行きたいところと思っている人がたくさんいます。この世界は天国でも極楽でもありません。ただパウロがここで言うのは、単純な悪の世ではなく、罪の支配下にある世界という意味であり、罪の結果である死の支配する世界と言うべきです。

 

【罪と死の世界を打ち破られたキリスト】

死は大きな力を有します。人間のあらゆる部分を侵食しています。キリストはこの世界から私たちを救い出そうとしているのです。

 

キリストは私たちの罪のために自らをささげられました。あるいは犠牲としてささげられたというべきです。それはキリストが十宇架にかけられたことを意味しています。キリストが十本架につけられた亊実を誰も否定しないでしょう。事実間題として、復活のほうは信じられないと語る人は多くいます。でも、同時に、キリストの十字架の「意味」を否定する人も多いのです。単なる亊実 ではなく、そこに大きな意味があります。

 

【あらゆる罪を赦すキリスト】

キリストはあらゆる罪のためにご自身をささげ、十字架の上で死なれました。キリストはあらゆる罪を赦されます。例外はありません。ときどき「聖霊を汚す罪は赦されない(ルカ12 :10)」 とあり、赦されない罪もあると主張する人がいますが、聖霊を汚す罪とは神を拒否し、キリストを 否定し、背を向ける罪で、赦されない罪があるなどいうのもこれにあたります。

 

キリストはあらゆる罪を赦すために十字架にかかられたのです。そして、それはただ恵による というのがパウロの堅い信仰でした。

 

このキリストの使徒ですから、パウロはキリストの十字架を語り続けました。そのとき、パウロ はキリストの使徒として語っています。

 

【説教の生む実】

説教もまた同じことが言えます。牧師が自分の信念や聖書研究の結果だけを語っていてそれで神 の言葉だというわけではありません。牧師を召した方の御心を語るのでなければ、説教が自動的に神に言葉に変化するのではありません。

 

会衆はただの聞き手ではありません。説教で十字架と復活が真実に語られているかどうか吟味しなければなりません。語られておれば、好き嫌いの問題ではなく神の言葉として受け入れなけれ ばなりません。会衆には、その「義務」があります。他でもない、神が語るからです。

 

この職別する営みが説教を聞く人の中で生じてくるのでなければ牧師の説教はいかなる結果も生じないと言えましょう。(おわり)

2014年01月19日 | カテゴリー: ガラテヤの信徒への手紙 , 新約聖書

2014年1月5日説教「神は私の目を開いてくださる」金田幸男牧師

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2014年1月5日説教「主はわたしの目を開いてくださる」金田幸男牧師

聖書:旧約聖書、詩編1461 ハレルヤ。わたしの魂よ、主を賛美せよ。

2 命のある限り、わたしは主を賛美し/長らえる限り/わたしの神にほめ歌をうたおう。

3 君侯に依り頼んではならない。人間には救う力はない。

4 霊が人間を去れば/人間は自分の属する土に帰り/その日、彼の思いも滅びる。

5 いかに幸いなことか/ヤコブの神を助けと頼み/主なるその神を待ち望む人

6 天地を造り/海とその中にあるすべてのものを造られた神を。とこしえにまことを守られる主は

7 虐げられている人のために裁きをし/飢えている人にパンをお与えになる。主は捕われ人を解き放ち8 主は見えない人の目を開き/主はうずくまっている人を起こされる。主は従う人を愛し

9 主は寄留の民を守り/みなしごとやもめを励まされる。しかし主は、逆らう者の道をくつがえされる。

10 主はとこしえに王。シオンよ、あなたの神は代々に王。ハレルヤ。

 

参照:ヨハネ福音書9章1~12節

 

要旨 

【ハレルヤ詩編集】 

詩編146から150までは、ハレルヤという言葉で始まる、まとまった部分で、ハレルヤ詩編集と分類されています。そのほかにハレルヤ詩編集は三つあり、113-118(エジプト・ハレルヤ集)、120-136(大ハレルヤ詩編集)となっています。

なお、111と112もハレルヤという言葉が含まれていますが、省かれています。「ハレルヤ」はヘブライ語で、聖書がギリシヤ誤訳されたときでも翻訳されず、原語のまま残されました。アーメンとか、インマヌエルという語もそうです。翻訳されなかったのは、ギリシヤ語に変えてしまえば語彙が持っている意味と音の響きの結合が失われると思われたからではないかと思います。音の響きが宗教生活において聞きなれていたせいかもしれません。「ハレルヤ」とは「主を賛美せよ」という意味です。神賛美に促す歌です。

 

【人生の中で最も重要な営みとは?】

 ところで、人生の中で最も重要な営みは何であるか考えます。あまり深くこんなことを考えたことがないかもしれません。人間が人間である最も根本的な行為、生き方は何か。

ただ食べたり、飲んだりだけの、いわば本能に従って生きているだけではどうなのでしょうか。人間の格好はしているでしょうけれど人間らしい生き方とはいえません.

人間とは何か。人間が人間であるためには何が決め手なのか。現在は人間と人間でないものの境界があいまいでぼんやりしてきている時代になったのではないでしょうか。

しかし、私たちは人間です。人間が人間であることの特質とは何か。有名な哲学者は「人間は考える葦だ」といいました。思惟すること、思索すること人間の固有性を保証するというのです。わたしは、意図して意識的に礼拝する人間、これこそ他の被造物と区別される特色ではないかと思います。人間とは礼拝する存在です。

 

【牧師として】

 わたしは牧師として教会で40年以上礼拝のために奉仕をしてきました。牧師としていったい今まで何をしてきたのかと思います。説教を1万回くらいしてきました(1年に250回以上説教をしたら。たぶんそれ以上やっていると思います)。葬儀や結婚式の司式を何度かやってきました。

 

成果はともかく、伝道、牧会も精一杯しました。信徒の世話も何とかやってきました。でもわたしは牧師として一番力をこめたのは何であったのか。礼拝の遵守、特に主の日を礼拝の日とするために労してきたと思わざるを得ません。

 

【神礼拝】

礼拝は、人生の中で最も基本的で肝心な営みです。そのことに奉仕的たことは光栄でありました。思い通りの理想的な礼拝を守れたわけではありません。礼拝出席者を増やすこと、安息日厳守を訓練すること、充実した喜びに満ちた礼拝を守ること。こういうことを列挙するとわたしは恥ずかしくなります。でも、わたし自身、人生の下部構造として、40年以上、信徒が礼拝を守るために奉仕をしてきました。

 礼拝なしの人生は宗教のない人生です。礼拝なしの人生とは神なしの人生です。現代人は自己責任を強調されて生きています。神などなくして、自分の決断、判断で行動し、その結果責任は当人が負うというものです。

しかし、神なしに、自分の力だけで生きていく人生は、いつも恐怖と不安に付きまとわれます。特に、私たちは老いてついには死んでいかねばなりません。誰かが看取ってくれていても一人で死ぬほかはありません。充実した人生も一寸先の将来は見えません。先がどうなるか分からない人生は不安に付きまとわれます。不明の将来に突進する人生に耐えられる人はいません。

神を礼拝するということは、そのような宗教なき人生、神なき人生の対極にある生き方です。私たちは何か分けが分からない相手を拝んだり礼拝したりしたりしているのではありません。神がどうのようなお方であるかを知るからこそ確信して礼拝できます。

 

【礼拝とは】

 礼拝とは何か、改めて考えます。ある人は説教を聞くことと思っています。ある人はミサ儀礼のような儀式(プロテスタントでは聖餐)にあずかることと思っています。ある人は祈りに行くことだと思っています。ある人信徒同士の交わりに参加することと考えています。これらは間違いではありませんが礼拝の一面を見ているだけです。

礼拝の中で肝心な部分を占めているのは賛美です。賛美は礼拝の業の中で筆頭を占めていると考えることは間違っていません。神を賛美することのない礼拝は人間中心の、人間が工夫している儀式に終わります。

 礼拝とは賛美することと定義できます。賛美のない礼拝はありえます。聖書研究、聖書講義だけの礼拝もありえます。儀式、香をたいたり、ともし火を挙げたりする行為を伴う恭しい礼拝もあります。集まって祈っているだけの礼拝もありえます。

でも、それだけではあまりにも単純、無味乾燥した礼拝であるといってもよろしいでしょう。賛美なしの礼拝は考えられません。礼拝において、私たちは賛美します。ハレルヤと神に叫びます。

ただ、わたしたちの教会の礼拝においての賛美の営みは、賛美歌を歌うことによります。ですから、礼拝の奏楽者の役割は決して小さいものではありません。会衆の歌はとても価値があります。

そして、賛美は祈りの重要な要素です。私たちはまず賛美から祈りを始めるのが普通です。

さらに、説教の中でも神が賛美されますし、賛美に促されます。賛美は礼拝の中で重層的に行われます。礼拝は賛美そのものでもあります。

 

礼拝は神をほめたたえることです。ではどのようにして私たちは神を心から賛美できるのでしょうか。相手も分からないままに真実な礼拝はできません。漠然と何かを礼拝しているか分からないままにただの恐れから礼拝することもありえます。ありがたい,霊験あらたかな神的なものに礼拝を捧げているのです。それは礼拝には違いありませんが、相手がどういう言う方であるか知って礼拝することと、相手も分からないで礼拝することは全く特質が異なります。

 

【礼拝の対象】

礼拝は礼拝する相手を深く知る機会でもあります。礼拝において、神を正しく賛美できるのは、この詩編の作者が教えてくれています。礼拝とは、つまり賛美とは、一生の営みです(2節)。気が向いたときとか人生のわずかの時間だけ礼拝するべきではありません。礼拝となると、いのちのある限りでなければなりません。礼拝は長時間であればいいというのではありませんが、礼拝は人生の中で繰り返されるとき、私たちは神を深く知り、神がどういうことをなされるか分かります。

礼拝なしに宗教なし、信仰なし、そして神なしと行っても過言ではありません。礼拝なしの年限が多くなってきたこの時代は神をもたない人が圧倒的に多くなってきたことを示します。それが時代の風潮だと決め付けることはできません。神なしの人生こそ最も不幸なことなのです(5節)。

  

【君侯に頼るな】

どうすれば、私たちは心から神を賛美できるでしょうか。この詩編は二つのことを教えています。ひとつは人間に賛美を帰すべきではないということです(3-4節)。君侯は古代世界では権力の保持者でした。君侯が国民に平和と繁栄をもたらすと信じられていました。君侯、つまり政治や、政治の仕組みが人間の魂を救うとまで期待されています。何でもかんでも政府の力が頼りです。私たちは人生のさまざまな局面で制度や体制が安心を与えてくれると思っています。

しかし、私たちは経験上それらが本当に頼りにならないことを知っています。究極的には政治の仕組み、福祉政策が人間の幸福を保証しません。時代と共に変化します。そして、頼りになりません。

人間は、その中に自分も含まれていますが、所詮、土から造られた人間は土に帰るだけです。そのようなものに頼れない、これは地上的もの、人間的なものに信をおけない以上は、それらを賛美などできないという結論に導かれます。神賛美に向かわざるを得ません。

 だから、人間的なものの救いを断念すれば、神に賛美を向けざるを得ません。その神はどういうことをされたのか。7節以下に列挙されています。                                                                                      

      ①   虐待されている人に正当なさばき、正義に基づく裁判を行われます。人間の裁判には間違いがあります。人間の判断には不正があります。神はそうではありません。

      ②   神はその人間として最も基本的な生の糧を用意されるかたです。

       ③   捕虜を解放されます。戦争捕虜だけではなく、私たちを縛り付けているものは多くあります。そのために不自由な目にあっています。

私たちは多くの欲望、願望に縛られ、人間関係に縛り付けられています。ある人は運命や宿命に縛られていてがんじがらめとなっています。主はあらゆることの解放者です。

見えないの目を空けてくださる方です。私たちは見えるべきものも見ていません。特に真実が見えていません。見えなければ闇に住んでいます。神は私たちに真理の光を提供してくださいます。

   うずくまり、打ちのめされ、打ちひしがれている人がいます。立ち上がることができず、苦悩のどん底に呻いている人がいますが、主は立ち上がらせてくださいます。

   社会的に弱者といわれている人は不当な扱いを受けてきています。しかし、神は寄留の外国人、孤児や寡婦を豊かに守られます。神は大王であって、ここで列記されていることを実現することができる方です。

 

しかし、ここに書かれているような神を体験できなく、それどころか神の助けを期待できない目に遭うものです。私たちの人生は不幸と不運に見舞われます。そのような時、とても神を賛美できない心境になるものです。神に恨みでも言いたくなるかもしれません。

そのとき礼拝から遠ざかるのではなく、礼拝においてますます神を知る、神がどういうことをして下さるかを知り、その真実を信じます。

信仰から、たとえ失望のどん底にあっても神を礼拝して、神を知ります。その神を信じます。この循環、つまり、礼拝、信仰、賛美、礼拝、信仰、賛美を繰り返すときに、私たちの礼拝は喜びと幸いの源泉となるでしょう。(おわり)




2014年01月05日 | カテゴリー: ヨハネによる福音書 , 新約聖書 , 旧約聖書 , 詩篇

2013年12月22日説教「神の秘かな愛の決起」佐々木弘至牧師

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20131222日説教「神の秘かな愛の決起」佐々木弘至牧師

【ヨハネ福音書31621節】

16 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。17 神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。18 御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。19 光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。20 悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。21 しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために。」

 

《説教の主》暗い世を愛され神の愛の光・キリストを見上げよう

 

I》今年一年を顧みて

 

本年もクリスマスを迎えました。クリスマスの時季になりますと、私は一年を振返って様々の事を回顧することがあります。1年を回顧すると言っても、個人的 なことも回顧もするのですが、クリスマスは何と言っても全世界的な出来事でありますから、自己の一年を回顧すると同時に、むしろ社会に現れた特微的な事共に想いが向けさせられるのであります。

 

今年も社会の世相を振り返ってみて同様の事を感じるのですが、今年も明るさをえた事柄と、暗い事柄を比較してみますと、暗い出来事の方が圧倒的に多かったことであります。皆さん、如何でしょうか?今年のニュースの中で明るい事柄をどれだけ想い起すことができますでしょうか?私の個人的な性格の故であるかどうか解りませんけれども、どうも明るいニュースを明確に思い出すことがあまりないのです。一~二 想い起すなら、富士山の世界遺登録と、2020年に東京オリンピックの開催が決まったこと、東北楽天が日本シリーズで優勝したこと、最近では日本料理が無形文化遺産に登録された位のものです。健忘症ではないか、と言われてしまうかもしれませんが、あまり明るい事柄が思い出せませんでした。

 

それに引き替え、暗い出来事はと言いますと、枚にいとまがないほどに思い出される訳です。特に、暗さの頂点と言えるものには、今年一年で消え去るようなものではなく、むしろ将来に亘って日本の国を暗黑に包み込んで行くような法案の強行採決がありました。

 

【巷のクリスマス】

このように、年末を象微するクリスマスになりますと一年を回顧するのでありますが、もう一つ、クリスマスの持っているクリスマス特有の特微について想いを向けさせられることがあるのです。

それは、クリスマスの掛け声と共に、年々日本の国がまるでキリスト教国にでもなったかのように、クリスマスツリーが主要都市などの駅前や目技き通りなどに色とりどりのイルミネーションで豪華に飾られ、道行く人々にクリスマスのムードを盛りあげていることであります。

 

【イエス・キリストの御降誕】

しかし、その賑やかなクリスマスムードの中身であるイエス・キリストの御降誕を記念するという本質は、殆ど認識されることはなく、人々は唯何となく年末のお祭り気分のようなものを感じているだけではないかと想われる訳です。

 

けれども、そのことを思います時に、それは現在の日本の場合に限る事ではなくて、そもそも、イエス・キリストの御降誕という出来事自体が、同じように多くの人々にその事実が認識されていた訳ではなく、世界の片隅のごく一部のわずかな人々によって、認識され、祝われていた秘かな出来事であったことを想い起すのであります。

 

【不思議な星に導かれて】

確かに、イエス・キリストの降誕は、神様が広大な天体にその誕生を表明したと聖書は記しているですが、その天体に現わされた星を発見し、そこに救い主の降誕を認識することが出来たのは、イスラエルの東方の国(現在のイラン、イラク)の占星術の学者達だけだったというのです。それも現代ならば、先月末太陽の熱で蒸発してしまったアイソン彗星のように、きっと世界中の人々が見つめることになったであろう出来事ですが、わずかニ〜三人の專門学者にしか知られていなかった事実だったのです。

 

マタイによる福音書21 イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、2 言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」3 これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。

 

9 彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。

10 学者たちはその星を見て喜びにあふれた。11 家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。

 

【夜野宿をしていた羊飼たち】

もう一つ、ルカ福音書が伝えています救い主御降誕の出来事は、降誕の地ベツレヘムの町は全ての宿屋が滿杯になるほど賑わっていましたが、誰一人イエス.キリストの誕生を認識せず、唯、真っ暗な野原で羊の群れの番をし ていた僅かな羊飼達だけであったと言われているのです。*ルカ2:420

 

このように、クリスマスは元々多くの人々が認識した出来事ではなく、ごく僅かな人々にだけ認識された、秘かに起こった出来事であったのです。

 

そのように思います時、現代社会が、キリストの御降誕を認識することなく、 唯クリスマスのムードだけを盛り上げている姿も、それ程驚くべきことではなく、 唯教会とクリスチャンたちが、東方の学者達や羊飼達に倣って、真実にイエス・キリストの御降誕を記念し心から感謝し、日ごろ心にかけている人々をクリスマスに招待する事が出来れば良いのだと思うのです。

 

そこで、私たちは、救い主イエス・キリストの降誕を記念しますこの時、一年を振り返りながら、改めて神様の御心は何であるのかを示されたいと思います。

 

》現在の世の闇の只中にわされた神の愛

 

そして、私たちはこのような暗く悲しいニュースの方が圧倒的に多い現代の社会に現れている、本質を知らないままに迎えているクリスマスは、2000年前のキリスト誕生の時の情景と類似していることを憶えるのであります。

 

イエス・キリストの降誕は、月明かりだけの真っ暗な闇夜に一つだけの星の輝きと、これまた深夜の野原に救い主の誕生を告げる天使が神の光を照 らしましたが、それを見たのは羊飼い達だけであり、マリアとヨセフ夫婦が泊まる宿さえもなく、馬小屋の飼葉桶に寝ておられたというイエス様の御降誕の貧しい光景は、神様が正に暗闇の世に秘かに現わされた出来事でありました。

 

【暗き世に贈られた神の御子】

現代の私たちの社会のこの暗い有様と、イエス様の誕生を告げる光景は、 真に良く類似しているのではないでしょうか?そしてこの類似にこそ、神様の御心が現わされたのだ、と聖書は告げているのであります。

 

つまりクリスマスの御心は、神様が、敢えて悲しむべきことや忌まわしい悲惨なことの多いこの暗い世の只中に、その苦しみや悲しみを受け止めて下さり、 確かな希望と朽ちることのない喜びをお与え下さる為に御子をお贈り下さったのだ、と告げられているのであります。

 

①悲惨の暗闇の中に見る人の敵意

 

では、世の暗闇とは何なのでしょうか?そこには物理的な暗さというよりも、 むしろ聖書が語る暗闇とは、霊的そして精神的、倫理的、人道的な暗黑を意味している訳です。そしてそれらを一まとめにするなら「人の罪と死とそこに伴うあらゆる悲惨」ということになります。

 

そして人間の「罪と死に伴うあらゆる悲惨」が現わす霊的・精神的・倫理的、人道的な暗黑は、神と人、人と人との愛と信頼を失っている暗黑なので す。

政治は「民主主義は数の多さによって成立つ」とばかり、主権者である 国民の声に耳を傾けようともせずに、内閣と与党の意のままに危險を孕んだ 法案を強行採決してしまう。そこに国家の暗がり度合いが色濃くなっている。

 

社会には、詐欺事件や食品の偽装表記が身の周りに存在して、何をどこまで信用して良いのやら解らない暗闇があります。教育や子どもたちの世界においてさえ、体罰や虐待、虐めの増大が神と人、人と人との愛と信頼が色 あせて暗い影が覆っている。

 

【資本主義経済の行き詰まりの原因】

経済の主導権を握っている資本主義経済といえども今や行き詰まりを見せて困迷しているのです。元々資本主義経済は、根本にプロテスタント・キリ スト教の倫理から生み出された精神がありました。その倫理とは「神の栄光のために」という精神でした。             

 

それを解いたマックス・ウェーバーは、その説を机上の空論でないことを檢証しようと資本主義の国アメリカに旅行して色々と調をしました。

 

ある時アメリカで働くドイツ人の友人医師からこういう話を聞いたという。

 

その医師が話した事は、一人のアメリカ人患者が診察を受けに来た。診察台に橫になったその男は、さっと起き上がって、こう言ったという。なんと言ったかと言うと「先生,私はこの町の〇〇教会の会員です」と言ったと言う。

 

つまり、キリスト教会の会員を表明するという事は、私は治療費を踏み倒すような人間ではありません。診察して下さい。そういう意味だと言うのです。その友人は、その言葉を聞いてびっくりしたのだ、とウェーバーに語ったという。

 

マックス・ウェーバーは、そのような実地検証を伴って「資本主義の精神」 はプロテスタント・キリスト教の倫理に基づいて形成されたのだ、というのです。

 

けれども現在では、資本主義経済は、いつの間にか「神の光のために」という基本理念が技け落ちてしまって、単に機構だけが残って、全ては市場に委ねられる事になった結果、資本主義経済は「神の栄光」ではなくて「唯利得追求のため」というものに変わってしまっているのです。

 

そこに資本主義の暗闇の源があるのです。神の光を拒否し、神に敵対するところに暗黑があるのです。かつては唯物主義経済が「神の光」を拒否しましたが、その唯物主義経済は70年で立ち行かなくなり、今では独裁政治のために資本主義絰濟を導入して利用しています。

 

【まず神の国と神の義を求めよ】

そもそも、聖書の教えによりますと、この世の衣食住生活は、神様が保証してくださるものだと教えているのです。

 

マタイによる福音書625 「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。26 空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。27 あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。28 なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。

29 しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。30 今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ。31 だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。32 それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。

33 何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」

 

まず何事よりも神の国と神の義を第一に求める生活を誠実に行いなさい。 そうすれば、この世の生活は、思い悩まなくとも保証されるのですと。

 

現在の社会生活は、このような聖書の教えに照らすとき、如何に最も肝心な事を失っていることでしょうか。即ち現代社会と現代人は、何と神に対して敵対をしていることでしょうか?!そして、この神と人への敵対こそが、現代の暗闇の源泉なのです。

 

   悲惨の中に見える神の痛みと愛

 

そもそも神様は決して冷酷な方ではありません。むしろ人間の悲惨を共に 悲しまれる神なのです。神の御子イェス様は、災害の悲惨に苦しむ人々のように、言葉を失うような苦を味合われました。

 

旧約聖書イザヤ書536 わたしたちは羊の群れ/道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて/主は彼に負わせられた。7 苦役を課せられて、かがみ込み/彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように/毛を切る者の前に物を言わない羊のように/彼は口を開かなかった。

8 捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。彼の時代の誰が思い巡らしたであろうか/わたしの民の背きのゆえに、彼が神の手にかかり/命ある者の地から断たれたことを。

9 彼は不法を働かず/その口に偽りもなかったのに/その墓は神に逆らう者と共にされ/富める者と共に葬られた。10 病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は望まれ/彼は自らを償いの献げ物とした。彼は、子孫が末永く続くのを見る。主の望まれることは/彼の手によって成し遂げられる。

 

新約聖書ヘブライ人への手紙216 確かに、イエスは天使たちを助けず、アブラハムの子孫を助けられるのです。17 それで、イエスは、神の御前において憐れみ深い、忠実な大祭司となって、民の罪を償うために、すべての点で兄弟たちと同じようにならねばならなかったのです。18 事実、御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです。

 

神の御子キリストは、他ならぬ私達人間の罪を贖うために正に未會有の試練を受けて苦しまれたと言っているのです。             

 

《Ⅲ》神は敵意の只中に御子をる程に世への愛を決起された

 

さて、今までは今年一年の、私たちの社会の暗闇のことを中心に話して来ました。しかし今日はクリスマス記念の礼拝です。それにしては今までのお話は、 クリスマスを祝うのに相応しくないのではないかと思われる方もいらっしゃるのではないでしょうか。私自身そのように感じながら説教準備をしておりました。

 

けれども、どうしても今までお話して来たことを語ることなくしてはクリスマスのメッセージは語れなかったのです。つまりクリスマスは、私たち人間が神に対して如何に鈍感であり、その心と思いがどんなに神を離れ、どんなに神に敵対しているのかを悟らなければならない出来事だからなのであります。

 

〜アガペーの愛と全ての人の希望の光・キリスト〜

そこで、今日選んだ聖書の箇所を見たいと思います。ヨハネ3:16神は、その独り子をお与えになった程に、世を愛された。』

 

先程来お話して来ましたとおり、人は心の奥底に神への拒絶反応を表わし、神を拒否し、確かに神に敵対する暗闇の中に生きているのです。

 

ところがです。神は驚くべきことにそのような世の暗闇に御子をお与えになったいうのです。神は敵対する敵の只中に、正に暗闇の真只中に御独り子を送り込んで来られた。それがクリスマスの出来事なのです。

 

人間同士の関係であったなら、自分を無視し自分を拒んでいると思える人、自分に敵対している人に対して、心尽くしの贈物などすることは考えられないことです。却って、自分もその人を無視して、敵閧係を保ったままにするのではないでしょうか。贈物をするような価値のある相手ではないからです。

 

しかし、神は御子イエス・キリストを、敵であるこの世に贈られたのであります。

 

神は何故そこまでなさったというのでしょうか?神は『その独り子をお与えになった程にこの世を愛された。』つまり、神は無視し敵対する世を愛されたからだというのです。神がそこまでなさったのは、ご自分を拒絶するこの世を愛するが故だ。その愛の証として御子を送ろうと決起されたのだといわれるのです。

 

神様はどんなことがあろうとも、私たち人間を永遠に愛するのだ、と愛の決意を表明されたのです。それがクリスマスの出来事なのです。

 

人間同士の愛はどうでしょうか?相手に愛するに価値が在るかどうか、それが判断の基準になるのです。そこには、当然愛する相手に見返りを期待するのです。けれどもクリスマスに表わされた神様の愛は『アガベ一』という愛で、 相手に価値を求めない愛、お返しを期待しない無償の愛です。無償(只のこと)の愛といっても、どうでもいいような安っぽい愛ではありません。無償の愛といっても、それを戴くならば、価値のない私たちであっても、高い価値のある者になることが出来るのです。

 

ですから神様が私たちに求められる事は唯、その無償の愛の証であるイエス・キリストを、感謝と喜びをもって受容れることだけが求められるのであります。ヨハネ福音書3

16神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者がー人も滅びないで、永遠の命を得るためである。17神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなぐ御子によって世が救われるためである。

 

御子イエス・キリストが世の暗闇に送り込まれたのは、イエス様が暗闇の故に悲惨にみ苦しむ私たちの仲間となり、私たちの苦しみみを背負い、私たちに永遠の命を与えて下さるために贈られたことを意味しているのです。

 

現代社会が、あらゆる面で暗闇の中に行き詰まっている原因も、天地万物の創造者なる神を忘れ、神を無視し、神を拒絶しながら気付かないで唯ひたすら走っているからなのです。ですから、まず全ての人が、悲惨の只中で 自分自身の罪を自し、神を見上げることが必要なのです。

 

そしてこのクリスマスを通して、神様の愛の決意表明に気付いて頂きたいのです。神の無償の愛のしるしであるイエス・キリストを心に迎え入れる備えのときとして欲しいと思います。

 

人となられた神の独り子キリストこそが、全ての人と、現代社会が真に希望を託すことが出来る唯一つしかない光だからです。何故なら、神様は敵であった私たちを、永遠に愛して下さる証として御子イエス様を世にお与え下さいました。この良き知らせこそ、本日記念致しますクリスマスの出来事です。神様の無償の愛に感謝をお祈りしましょう。

 

《祈り》西谷伝道所の愛する兄弟姉妹と共にクリスマス記念礼拝を捧げることが出来ました事を感謝致します。尊い独り子イエス・キリストをお与えになった程に、あなたに背いたこの世を愛して下さいました父なる神様、御名を褒め称えます。御子イエス様のご降誕を記念しますこの時、この世があなたとあなたの御心を忘れ、その誤った歩みの故に、多くの悲惨を招き、み苦しみを抱えつつクリスマスを迎えています。けれどもあなたは、私たちの思いを超えて、そのような忘恩の罪をもって敵対した世を尚も愛すること止めず、独り子をお与え下さいました。この計り知れない神様の無償の愛を,私達を初め全ての人々がクリスマスを通して改めて知る機会となり、救い主イエス様を心を開いて迎えることが出来るように祈ります。東北の被災者の方々、今年天災に遭って家族や家を失い悲しみと不安の中にある人々の上に豊かな慰めを祈ります。

貴き主イエス・キリストの御名によりて祈り願います。アーメン。

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2013年12月22日 | カテゴリー: ヨハネによる福音書 , 新約聖書

2013年12月15日(日)説教「王であり、僕(しもべ)でもあるイエス・キリスト」姜 世媛先生(WEC派遣宣教師)

 

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20131215日説教「王であり、僕(しもべ)でもあるイエス・キリスト」姜世媛先生(WEC派遣宣教師神戸改革派神学校特別聴講生)

 

聖書:新約聖書マルコによる福音書1045 人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためである」。                             

 

【僕(しもべ)である王】

皆さん、こんにちは。今日は、主イエス・キリストのご生涯を一緒に考えてみたいと思います。

 

私は韓国で「十字架への道」というアメリカからきたセミナーに出たことがあります。

そこで私が1番印象に残った事はServant King「僕である王様」ということです。

 

イエス様は王であるということに依存ありませんでしたが、イエス様が僕であるという事は私にとって驚きで貴重な機会になりました。

日本に来て、イエス様のことを王でもあられ、僕でもあるとのまとめを皆様とともに分かち合いたいと思いました。

 

私は中学三年のとき、クリスチャンになって高校生、大学生とキャンパス クルセードというところで活動しました。

キャンパスクルセードは世界宣教をする団体で、高校一年生の時、新入生歓迎会に行きました。その時の牧師先生のメッセージを今も覚えています。

 

【真の人生の目的は何か】

その内容は人間はどこか来てどこに行くのか、真の人生の目的は何か。どのような目的のために人生はあるのかと言うことでした。

その時まで私は深刻に考えたことがありませんでした。

高校一年生の私にとっては、正直な内容だったのです。神様からこの世に遣わされた人間は動物と違って人生に目的を持っているということでした。

 

愛する兄弟姉妹の皆さん。皆さんはご自分の人生の目的が何であるか考えたことがありますか。

ある方はその人生の目的を見つけて、そのために努力しておられるでしょう。

ある方はそれがなんであるかわからないで悩んでおられるかもしれません。

ある方はそれを一度も考えたことがないかもしれません。

私たちの人生の目的はなんでしょうか。考えるだけでも難しい、そのためにそれを達成するのは本当に難しい。

 

【イエス・キリストは王】

今日、皆さんにある方を紹介いたしましょう。

その方はご自分の人生の目的が何であるかご存知の上、その道を歩まれたのです。この方はイエス・キリストです。

今日のメッセージを通してイエス・キリストがこの世にこられた目的は何であるか、またイエス・キリストはどんなお方であるかを一緒に考えていきたいと思います。

 

一番目はイエス・キリストは王であるということです。

イエス・キリストは神の独り子として、この世に来られたお方です。

 

ヨハネによる福音書316 節を一緒に読みましょう。

神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。

 

神様はこの世のすべて作られたお方です。神様は御言葉でこの世作られました。神様がこの世を創られたときイエス・キリストも神様と一緒に居られました。

 

ヨハネによる福音書1章~3節を一緒に読みましょう、

1 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。

2 この言は、初めに神と共にあった。3 万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。

 

私たちが読んだ聖書で言葉と書かれているお方はイエス・キリストです。

イエス・キリストははじめから存在されたお方です。神様と一緒に居られました。

またその方こそ神であったと聖書は語っています。

 

イエス様は神様と一緒にこの世を創られました。

 

マタイによる福音書2818 を一緒に読みましょう、

イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。

 

イエス・キリストは、「わたしは天と地の一切の権能を授かっている」と言われています。イエス・キリストは天地を創られましたが、また創られた全てを治めるお方です。

 

イエス様は全てを治める王様であられます。

 

フィリピの信徒への手紙29 節~11節を一緒に読みましょう、

このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。

10 こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、

11 すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。

 

神様はイエス・キリストにあらゆる名に勝る名をお与えになった。それはどういった意味でしょうか。

 

天と地の全てのものがイエス・キリストは主であると告白するということです。

イエス様はすべてを治める王であられるということです。

 

【世に降られた御子イエス・キリスト】

では王さまでおられるイエス・キリストはこの世に来られて何をなさいましたか。

この世の国の王様になって治められましたか。

 

それは次のことを通して考えてみましょう。

二番目はイエス・キリストが僕であるということです。

 

【馬小屋で生まれた神の御子】

皆さんクリスマスのお話を覚えておりますか。始めてイエスさまに会いに来た東方の博士達はどこに行きましたか。

彼らが王様にふさわしい場所だと思って行ったのはヘロデ王の宮殿でした。しかしイエス・キリストはエルサレムの宮殿ではなくベツレヘムの小さい馬小屋でお生まれになりました。

 

皆さんはどこで生まれましたか。昔は家で生まれる方が多かったですが最近は病院で生まれる方が多いです。

皆さんは大体病院でお生まれになった方が多いいかもしれませんが、ルカによる福音書2章7節にイエス様のおうまれがこう書かれています。一緒に読みましょう、

ルカによる福音書

2:7 初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。

 

愛する兄弟姉妹。イエス様のお誕生はイエス・キリストの謙遜を顕しています。

皆さん。その時の光景を考えてみましょう。王様であられるイエス様が宮殿でもなく、家の中でもない馬小屋でお生まれになりました。イエス様のお父さん、お母さんがエルサレムに来たとき泊めてもらう場所がありませんでした。

愛する兄弟、姉妹。飼い葉桶に寝かされたイエス様は主の謙遜を示しています。

皆さん。この世の創り主であるイエス様が本当に小さくて人間の姿として来てくださいました。その上、人の住むところでなく馬小屋に生まれたまいました。

 

これは何ということでしょうか。

 

【仕える主イエス】

フィリピの信徒への手紙2章5~8節を一緒に読みましょう、

5 互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです。6 キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、7 かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、8 へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。

 

兄弟姉妹。イエス様は神の身分でありながら僕の身分になり人間と同じようになられました。今日私たちが読んだ聖書には書かれています。イエス様は人に尊敬されるお方なのですが、尊敬されるよりも人に仕えました。

人間の基本的欲望の中に偉くなりたいということがあります。イエス様の時代でも同じでした。

ルカによる福音書22章24~26節を一緒に読みましょう、

24 また、使徒たちの間に、自分たちのうちでだれがいちばん偉いだろうか、という議論も起こった。25 そこで、イエスは言われた。「異邦人の間では、王が民を支配し、民の上に権力を振るう者が守護者と呼ばれている。26 しかし、あなたがたはそれではいけない。あなたがたの中でいちばん偉い人は、いちばん若い者のようになり、上に立つ人は、仕える者のようになりなさい。

 

【だれが一番偉いか】

イエス・キリストが十字架にかけられる前の最後の晩餐の時にその晩イエス弟子達はイエス様と最後の食事をしながらイエス様と時間を共に過ごしました。その時こそ本当に貴重な時間ではなかったでしょうか。それなのにイエス様の弟子達はどんなことを話しましたか。彼らの中で誰が偉いかと言う議論が起こりました。イエス様は最後のご自分の任務のためにとても辛い、いちばんつらい任務のために準備をしておられますのに、弟子達の中では誰が一番偉いかと言う議論がありました。

皆さんは聖書の中の弟子達の姿を見てどう思いますか。本当に愚かなことだと思いませんか。イエス様はご自分の任務のために本当に辛い時間を過ごしておられますけど、弟子たちは誰が一番偉いかを議論していました。イエス様は彼らにこう訴えられました。あなた方の中で一番偉いと思うものは一番若い者のようになり、上に立つ人は仕える者になりなさい。

 

【お互いに仕え合う】

夫と私が属しているWECに導かれた理由の一つはWECが国際的なチーム宣教の団体だということでした。

 

私は自分が韓国人であることを誇りに思っています。韓国の伝統の1つは年上の人を尊敬して、目上の人に従うことです。それは個人的にとても素敵だと思いますが、時々否定的に表すことがあります。人に会うときありのままの姿でなく、その人の年齢、学歴、社会的な地位、経済力、家柄また体験などで先入観を持って、相手を判断するという根拠です。もちろんこれらがある程度人間にとって役立ちます。しかしこれが人の本来の姿を隠します。

例えばある団体のリーダーを選ぶとき、その人の実力や人格より、その人がその、団体に入って何年経つかそれが1番重要視されます。

 

夫と私は韓国の上下関係の中にいましたが、もっと平等な人間関係を求めてこのWECに入りました。

ところが私たちは平等な人間関係を求めてWECに入ったはずなのに、私たち自身が尊敬されたいという気持ちがあるということに気付きました。

私たちはまだまだ信仰も人格も成長が必要です。

 

ヨハネによる福音書131217節を一緒に読みましょう、

12 さて、イエスは、弟子たちの足を洗ってしまうと、上着を着て、再び席に着いて言われた。「わたしがあなたがたにしたことが分かるか。13 あなたがたは、わたしを『先生』とか『主』とか呼ぶ。そのように言うのは正しい。わたしはそうである。14 ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。15 わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。

16 はっきり言っておく。僕は主人にまさらず、遣わされた者は遣わした者にまさりはしない。17 このことが分かり、そのとおりに実行するなら、幸いである。

 

私たちもイエス様を見習ってお互いに相手の足を洗い合いましょう。これが神様が私たちに願っておられることではないでしょうか。

 

【主イエスさまを見習う】

最後の三番目は私たちはイエス様を見習って王にもなり僕にもなりましょう。

今までの御言葉を通してイエス様は王でもあり、僕でもあることを考えてみました。

イエス・キリストは統べ治める王様でありながら同時にへりくだって人々に仕える見本を見せてくださいました。

イエス・キリストを信じて告白する皆は神様の子どもになるとヨハネによる福音書112書かれています。一緒に読みましょう、

ヨハネによる福音書112 しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。

子どもになるということはイエス・キリストと共に神様の跡継ぎになるということです。

 

【神の相続人】

ローマの信徒への手紙817を一緒によみましょう、

 もし子供であれば、相続人でもあります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです。

 

イエス・キリストを信じる私たちは神様の子どもになりました。またイエス様と共に神様の相続人になりました。すなわち私たちの身分が変わったということです。

王様であられる神様の相続人になったということは、つまり王様の権力を持ったということです。

 

ペトロの手紙一29 しかし、あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。それは、あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるためなのです。

 

私たちが神様の全てを受け継ぐ相続人で王様の権威を持っています。

私がクリスチャンになった15歳までは私がどれだけ神様に愛されているか知りませんでした。

家庭はそれほど裕福ではなかったからです。でもクリスチャンになって世界中の王様である神様がわたしのお父様になってくださいました。そのとき私は王様である神様の子どもである。だから私がお姫さまになりました。

当時よく教会の中で歌った歌の中で「私は姫様です。私は王子様です」という歌を今も覚えています。日本語なら「私は神様のひーひーひーひー姫様です」。「私はおーおーおーおー王子様です」という感じで韓国の教会で歌いました。

 

それから私は王様である。神様の娘であって王様の権威を持っていることを信じるようになりました。

それは私の自己形成に肯定的な影響を与えました。

でも私が下僕でもあることにはあまり気がついていませんでした。私は教会で奉仕は熱心にしましたが、深く実感していませんでした。

 

私は神学校に入るまで皆さんと同じように教会で熱心に奉仕をしました。日曜学校のスタッフとして、聖歌隊のメンバーとして、讃美のリーダーとして、青年会のリーダーとして奉仕しました。時に教会で掃除もしました。

 

【人に仕えるために宣教師として】

神学校を卒業して、夫は牧師として私は伝道師として働くことになりました。

面白いことに韓国の教会では奉仕に対して偏見があるように思いました。奉仕を霊的な奉仕と非霊的な奉仕に分けます。説教、祈祷、聖書を教えることは霊的で重要で、掃除、皿洗い洗濯などは、霊的奉仕に劣る余り重要でない仕事と考えることです。

 

それで自分が神学校に入るまでは教会で掃除をしたりしたんですけれど、もし私が、夫が教会で掃除をしたら、「先生。それ止めてください。先生はもっと大事なことがあるんじゃないですか。説教の準備をしてください」という感じで話されます。それで教会で掃除や皿洗いから離れて偉そうな格好で歩き回るという感じだったのです。

 

それで私はWECの宣教師になったとき神様からいろいろ教えていただきました。

神様の愛で人に仕えること、奉仕に重要な奉仕とか、そうでない奉仕の別がないと分かりました。

 

ある日私たちはアメリカで食事をしに行ったら一番偉い方が、改革派神学校なら理事長に当たるような方が皿洗いをされるのを見て、私たちがびっくりしてやめてくださいと言いたかったほどだったのです。70代の方で、ちょっと身体の不自由な右半分麻痺の方で手が震えている方でした。その先生が皿洗いをされているのを見て、私は遠慮して欲しいと思いました。でも思いました。牧師でも自分できることは自分でやるということです。例えば牧師という、30年以上宣教師として働いた先生も、掃除をされるのを見て私たちの考え方がちょっと違うのだなあということが分かりました。

 

私たちのWECという団体はみんながそういう働きだったので、日本に来て滋賀で働いて、今は関西神学校の校長をされている中沢先生がおられて、その先生の下で協力宣教師として働いたのですが、その先生はいつも30分まえに教会に来られて準備をされたり、お茶を入れたりしてくださって「とても恐れ入ります」といって遠慮したいなと思いました。

西谷にきたらコーヒーを入れてくださったり、皆がお互いに仕え合う姿をみて考えて見ました。

マルコによる福音書1045 節には「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」と書かれています。

 

皆さん。イエス様は王様であられる尊い御方なのですが、この世にこられたのは人に仕えるためだと書かれています。イエス様のご奉仕はただの口先だけの言葉でなくて本当に多くの人の贖いの代価としてご自分の命を捧げられました。皆さん。私たちは神様の全てを与えられている王様です。また同時に私たちは神様の愛する人に仕える下僕です。イエス・キリストを見習って神様が私たちに与えてくださった人々に仕えましょう。これが神様が私たちに望んでおられることではないでしょうか。

 

お祈りしましょう。

愛する天のお父様。あなたの愛と恵みを感謝します。私たちをあなたの子供として選び受け入れてくださってありがとうございます。あなたから与えられた愛をもって、その愛を待っている方々を愛することができるように助けてください。王様であられるイエス・キリストが僕(しもべ)となって大勢の人々に仕えられました。私たちも神様の権威を戴いたものとして堂々とこの世の人々、また周りの人々に謙遜に仕えるように祝福してください。

王様でもあり、僕でもあられる主イエス・キリストの尊い御名によってお祈りいたします。アーメン。         


2013年12月15日 | カテゴリー: マルコによる福音書 , 新約聖書

2013年12月1日、説教「私の福音」崔 宰鉉牧師(WEC派遣宣教師、神戸改革派神学校特別研究生)

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2013121日、説教「私の福音」崔 宰鉉牧師(WEC派遣宣教師、神戸改革派神学校特別研究生)

 

新約聖書:ローマの信徒への手紙1625 神は、わたしの福音すなわちイエス・キリストについての宣教によって、あなたがたを強めることがおできになります。この福音は、世々にわたって隠されていた、秘められた計画を啓示するものです。

26 その計画は今や現されて、永遠の神の命令のままに、預言者たちの書き物を通して、信仰による従順に導くため、すべての異邦人に知られるようになりました。

27 この知恵ある唯一の神に、イエス・キリストを通して栄光が世々限りなくありますように、アーメン。

 

【教会の財産は福音】

皆さん。教会の財産の中で何が1番大切ですか。建物ですか。設備でしょうか。それとも会員数や出席者の人数でしょうか。教会の建物や設備がいくら素晴らしくても、人数が多くても、教会に福音がなければその教会は教会とは思いません。イエス・キリストの教会は福音というものの上に築かれています。

それが教会を教会らしくする1番大切なものだと思います。今福音を大切にしている人々が集まっている場所が教会だと思います。

 

私は10年前,短期奉仕者として日本に来たことがあります。

その時一つびっくりさせられたことがあります。ある日本の牧師先生から紹介されてある教会に行ったことがあります。

素晴らしい教会だと思いました。このような素晴らしい教会が日本にもあると私は本当に驚きました。それもホテルに教会があるということは。ホテルの牧師先生に紹介されその先生から言われた事は私には考えられないことでした。その牧師先生はただ結婚式のための牧師でした。教会もまた結婚式だけのための教会だったからです。その教会は私には教会ではありません。その牧師も牧師と言えませんでした。なぜなら福音を述べ伝える場所ではなく、福音を述べ伝える牧師でないからです。

 

【福音の栄光】

それでは福音とはいったいどういうものでしょうか。

福音とは何かを、パウロはローマの信徒の手紙全体を通して、教会を教会らしくする福音がどういうものかを説明しています。

パウロは1章から11章にかけて福音の真理と栄光について語っています。そして12章からは福音のためにクリスチャンはどう生きるべきかを話しています。今日私たちが読んだ16章25節から27節でパウロは福音の栄光が何であるかをもう一度語っています。

 

パウロは25節で私の福音と言っています。今日私はパウロが語っている「私の福音」とは一体どういうことであるか皆さんと一緒に考えたいと思います。

 

パウロが語っている「私の福音」すなわちパウロの福音はどういうものだったでしょうか。

 

【パウロの福音はイエス・キリスト】

1つ目、パウロの福音はイエス・キリストです。25節から26節を一緒に読みたいと思います。

ローマの信徒への手紙1625 神は、わたしの福音すなわちイエス・キリストについての宣教によって、あなたがたを強めることがおできになります。この福音は、世々にわたって隠されていた、秘められた計画を啓示するものです。

26 その計画は今や現されて、永遠の神の命令のままに、預言者たちの書き物を通して、信仰による従順に導くため、すべての異邦人に知られるようになりました。

 

パウロは「私の福音」すなわちイエス・キリストと25節で話していますが、パウロにとって、福音はイエス・キリストでした。パウロはイエス・キリストが救い主である事は福音だと語っています。

パウロはローマの信徒への手紙1章から救い主であるイエス・キリストがどういうお方であるかを詳しく語っています。

皆さんと一緒にパウロが語っている福音、イエス・キリストはどういうお方であるかをみましょう。ローマの信徒への手紙11節を共に読みましょう。

 

ローマの信徒への手紙11 キリスト・イエスの僕、神の福音のために選び出され、召されて使徒となったパウロから、――

 

ここでパウロが話していることはなんでしょうか。神の福音のために選び出されたという言い方で自分がどうして使徒になったかを語っています。

 

続いて2節3節前半を共に読みたいと思います。

ローマの信徒への手紙12 この福音は、神が既に聖書の中で預言者を通して約束されたもので、3 御子に関するものです。

 

ここでパウロが語っている福音とはなんでしょうか。パウロの福音は預言者たちが述べ伝えた神の御子イエス・キリストに関することだと言っています。

 

【イエス・キリストは真の人間であり真の神である】

即ちパウロの福音はイエス・キリストだと言うことです。イエス・キリストは長い間、預言者たちを通して神様から約束された人だと言う事をここで語っています。

 

続いて3節後半と4節を読んでみましょう。

御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ、 聖なる霊によれば、死者の中からの復活によって力ある神の子と定められたのです。この方が、わたしたちの主イエス・キリストです。

 

パウロはここでイエス・キリストは肉によればダビデの子孫から生まれたと言い、イエス・キリストは真実の人間としてこの世に来られたことを語っています。また続いて聖なる霊によれば死者の中から復活された、力ある神の子としてと定められたと言い、イエス・キリストは真実の神様としてこの世に来られたことを語っています。

つまりイエス・キリストは真の人間としてまた真の神様として、この世に来られたと真の救い主だということを語っています。

 

真実の人間としてまた真実の神様としてこの世に来られたイエス・キリストこそが、真実の福音だと説明しています。

 

【わたしは福音を恥としない】

イエス・キリストすなわち福音に関してパウロは1章16節において次のように告白しています。

ローマの信徒への手紙116 わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。

 

福音はパウロにとってどういうものだったでしょうか。パウロは「私は福音、イエス・キリストを恥とはしない」と言います。

パウロがそのように話すことができた理由はなんだったと思いますか。

 

それは福音とは信じるものすべてに救いをもたらす神の力だからです。

皆さん、私たちはクリスチャンだと言われ呼ばれています。パウロのようにイエス・キリストが私たちの福音だと言うことができるでしょうか。

真の人間として、真の神様としてこの世に来られたイエス・キリストが私たちの救い主だと言うことができるでしょうか。パウロのように私は福音を恥としない、思わないということができるでしょうか。

 

【ローマ帝国とその文化】

パウロはこの手紙をローマにいるクリスチャンたちに読ませるために書きました。

 

この時、皆さん、ローマはどういう国だったでしょうか。ローマ帝国は非常に強い軍事力を持っていました。その力で多くの国を征服して、その国から多くの宝石や宝ものを強奪して豊かになった国です。またローマは世界最高の哲学体系を発展させた国でもありました。

しかし皆さん次のようなことを知っているでしょうか。

ローマの哲学によって救われた人は1人もいません。多くの宝石や宝物や軍事力はただ独りの人の人生を変えたことはありませんでした。

 

パウロは福音を持ってローマの人びとに次のように言います。「私は福音を恥としない。福音はユダヤ人にもギリシャ人にも信じるものすべてに救いをもたらす神の力である」。

パウロの福音はイエス・キリストでした。

パウロは一生をとうしてイエス・キリストは救い主である事を述べ伝えました。パウロはこのイエス・キリストを恥とは思いませんでした。皆さんが知っている福音はどういうものでしょうか。それはイエス・キリストではないでしょうか。

 

使徒言行録4章12を一緒に読みましょう。

「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」

             

またヨハネによる福音書14章6を一緒に読みましょう。

イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。

 

福音の核心、福音の唯一の焦点はイエス・キリストです。イエス・キリストのみがすべての人間を救ってくださることのお出来になる真の人間です。

 

皆さん、パウロのように私たちもイエス・キリストを永遠の救い主として持ってみませんか。また福音を恥と思わないで大胆に隣の人々に述べ伝えてみませんか。

 

【天地創造の前に建てられたご計画】

二つ目、パウロの福音は神様が天地創造の前に建てられたご計画です。

 

福音はある日、突然に空から降ってきたものではありません。

神様は天地創造の前に福音を準備しておかれました。

 

神様は人間をお創りになったとき人間が自分の自由意志を乱用して神様に背を向けて神様から離れることを知っておられました。この人間の罪を許してくださるために、神様はどう言うご計画をお立てになったでしょうか。それはイエス・キリストをこの世に遣わして十字架の死を通して私たちに新しい命を与えてくださるというご計画です。これが神様が天地創造の前に人間をお造りになる前に与えられたご計画です。

 

【世々にわたって隠されていた福音】

パウロは今日読んだ箇所で世々にわたって隠されていたと言ってます。天地が創造される前、万物が創造されるまえ、長いあいだ福音は隠されて来ました。長いあいだ隠されてきた神様のご計画、即ち福音は今どうなっているでしょうか。

26節を一緒に読みましょう。

1626 その計画は今や現されて、永遠の神の命令のままに、預言者たちの書き物を通して、信仰による従順に導くため、すべての異邦人に知られるようになりました。

 

福音は世々にわたって隠されていた秘められたご計画でした。しかしその福音は今や顕されたとパウロは語っています。即ち奥義が啓示されたのです。

 

もっと簡単に言うと救われる道が私たちに明らかに啓示されたということです。皆さん。福音は難しいことではありません。この世には難しい哲学があり、むずかしい本もたくさんありますが福音はむずかしいものではありません。

福音は抽象的なものでなく具体的なものです。どのような人も分かることができるのが福音です。福音は誰もやさしくわかることができるように私たちに提示されています。

 

今私たちは神の福音に触れられるようになり、このことによって私たちは福音を読めるようになり聴けるようになりました。この福音によって私たちは救われて新しい命を受けるようになりました。

 

皆さん。神様は天地創造の前に私たちを救うご計画を建てられました。これがパウロが今言っている「私の福音」と言う意味です。なんと偉大な福音でしょうか。この偉大な福音は今私たちのものです。神様は私たちがこの福音を持って生きることを望んでおられます。

そしてこの福音を隣の人に伝えることを望んでおられます。

 

【福音は全ての人への祝福】

三つ目、パウロの福音は祝福です。

パウロは福音はクリスチャンに限らず、クリスチャンでない人にも祝福になるものだと言っています。

皆さん、どうしてクリスチャンではない人にも、クリスチャンにも福音が祝福になることが分りますか。その答えは26節にあります。

1626 その計画は今や現されて、永遠の神の命令のままに、預言者たちの書き物を通して、信仰による従順に導くため、すべての異邦人に知られるようになりました。

 

【信仰による従順】

26節でパウロは信仰による従順に導くためと言っています。パウロが言ったこの言葉を通してクリスチャンになった人々になぜ福音が祝福になるのかが分かるようになります。

神様がこの世にイエス・キリストを遣わしてくださった理由は何だと思いますか。それはただ私たちを救う事のためだけだと思いますか。

 

真の福音は私たちを救ってくださることだけでは終わりません。神様の救いのご計画はイエス・キリストを通して私たちが救われることと、神様の御前で私たちが従順になるように導くことです。ですから真の福音とは私たちの罪を許してくださるだけでなく、同時に私たちが神様のみ言葉に従順になるように助けてくださるものです。福音がなければ私たちは神様に従順になることができません。

 

福音があるから救われた私たちが神様に従順に従うことができるのです。

ですから私はパウロの福音はクリスチャンに祝福になることができると言いたいのです。

 

【神様を知らない異邦人が救われること】

ではなぜクリスチャンでない人々に福音は祝福になるでしょうか。パウロは26節でこのように言っています。すべての異邦人に知られるようになりました。つまり神様を知らない異邦人たちが福音によって救われるようになったということです。

 

神様を知らない異邦人がイエス・キリストによって救われていることこそが、真の恵みでは無いでしょうか。ですから私はクリスチャンでない人にも福音は祝福になると言いたいのです。

 

【幸せな人生とは】

皆さん。幸せな人生とはどういうものでしょうか。

パウロの表現で言うと神様に従順に従うことです。逆に幸せでない人生とは神様に従順に従わないことでは無いでしょうか。

多くの人が神様のみ言葉を聞かずに自分の好きなように生きること、そのことが幸せな人生だと思っているのです。

 

このような人生の最後における結末は何だと思いますか。

無駄な人生、迷った人生、無意味な人生ではないでしょうか。それは空を飛ぶ鳥は空の中にいることだけで自由になることができます。空の気流に従って羽ばたくとき、鳥は本当の自由と幸せを感じます。

海の魚は海の中にいるとき、波に従って泳ぐとき魚は本当の幸せを感じると思います。

皆さん。人間にとって本当の幸せなんでしょうか。神様に従って生きることでは無いでしょうか。

 

【ある神学者の回想】

アメリカの有名な神学者ボルドウィンが福音について次のように話しました。

私は20代の時、様々な宗教や哲学を勉強しました。それらの宗教や哲学に比べてキリスト教の福音は単純すぎることに気がつきました。

福音は人生をかけて信じるほどのものではないと思いました。しかし30代に、私が志した宗教や哲学は私の人生の悩み苦しみを解決する答えを与えてくれませんでした。

 

私が迷っているうちに福音は私に近づきました。40代に私は福音を信じて人生の様々な問題と戦っている内に、私に福音の力がつきました。その時、私にとって福音は偉大なことになりました。

50代の時、私はこれまで築き上げたものが崩れてしまったので、人生の真の意味はなんだったのかと悩みました。その時福音は私に残っていたもので一番大切なものになりました。

60代に私の友人たちが1人ずつ、天に召されると、私の手にあるものが1つづつ無くなっていく中で、私が頼ることができるのは福音しかありませんでした。

 

福音はもはや単純なものではありませんでした。福音は奥深いものでもなく大切なものでもありませんでした。福音は私に残った唯一のもの、私の人生の全てになりました。

 

皆さん。このようなことが福音の祝福ではないでしょうか。

福音はクリスチャンでない人々に救いを与えてくださる唯一のものであり、クリスチャンになった人々が神様に従順になることができるように助けてくださるものです。

 

更にクリスチャンには信仰が固くなるように導いてくださるものです。

この世で誰がこのような祝福を与えてくれることができるでしょうか。ただ天地万物を創造された神様を通して与えてくださることができます。

 

【私の証】

私の証を少ししたいと思います。

私は特に貧しくもなく裕福でもない平凡な家庭に生まれました。私が子供の頃、未来に二つの夢がありました。

一つはお金持ちになる事でした。お金が沢山あれば何でもできると思っていました。特に友達が持っているものが欲しかったので、それを手に入れたかったのです。

その時親に言って返って来ることは叱られることだけでした。

 

二つ目の夢は世界で有名人になることでした。有名人になればお金持ちになるのは当然だと思ったのです。

 

しかしある日、私に福音が聞こえてきました。私が福音を聞いてイエス・キリストを救い主として受け入れた時に不思議なことが起こりました。私の二つの夢が消えてしまったのです。私はイエス・キリストに出会って以来いちどもお金持ちになりたいと思ったことはありませんでした。イエス・キリストが無駄な夢を取り除いてくださったからです。

 

私は福音のために熱心に働いているうちに神様が私に必要なことを満たしてくださいました。

ある時は溢れるほど豊かに与えてくださいました。私は福音によってもうお金には興味がないと告白するようになりました。神様は私が有名人になる夢を取り除いてくださいました。

私は福音を受け入れて以来、一度も地位や名誉を求めたことがありません。

勿論、今からもそのような道を歩み続けたいと思います。

しかし私には一つのの夢があります。それは福音です。福音は、私の人生を通して、私が奉仕している教会を通して、大勢の人々に福音を伝えることが私の夢です。

 

旧約聖書ハバクク書2:14には 水が海を覆うように/大地は主の栄光の知識で満たされる」

私を通して、水が海を覆うように主の栄光が日本全土に満たされるようになることが私の夢です。

 

全ての日本の方が口を合わせて天地を創造された神様に栄光と讃美を捧げることを見ることが私の夢です。私はこの願いやビジョンを持って教会を築きあげたいと思っています。

 

福音を恥としない。福音を恥としないと言う人々が集まって希望がない人々に福音は述べ伝える教会を築き上げることが私のビジョンです。

 

1年間私は神戸改革派神学校で色々な事を勉強しました。

もう一年が過ぎました。来年3月になると滋賀県に戻らねばなりません。今からそろそろ戻る準備をしなければなりません。私は滋賀県で何をしたいか。それは一つのことだけです。私の生き方を通して福音が伝えられることです。神様にたくさん用いられて福音を知らない人に神の福音を述べ伝えることができるように、祈って頂ければ幸いです。

 

【お祈り】

愛する天のお父様。今日御言葉を通してパウロが告白している福音はどういうものであるかを考えてきました。

福音はイエス・キリストです。イエス・キリストは私たちを救ってくださるためにあなたが遣わしてくださったお方であることを私たちは信じます。

このイエス・キリストを私たちの一生を通して隣の人々と分かち合うことができるように私たちを強めてください。

12月に入って忙しくなると思います。 12月には全国でも色々なクリスマス集会が持たれます。あなたの願いは集会を通してイエス・キリストの救いが述べ伝えられることと信じます。様々なすクリスマス行事を通してあなたの救いと愛を分かち合うことができるように私たちを強めてください。イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。



2013年12月01日 | カテゴリー: ローマの信徒への手紙 , 新約聖書

2013年11月24日、説教「神の恵みの深みを知る」佐々木弘至牧師

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20131124日、説教「神の恵みの深みを知る」佐々木弘至牧師

【聖書】ルカによる福音書5111

1 さて、群衆が神の言を聞こうとして押し寄せてきたとき、イエスはゲネサレ湖畔に立っておられたが、2そこに二そうの小舟が寄せてあるのをごらんになった。漁師たちは、舟からおりて網を洗っていた。

3 その一そうはシモンの舟であったが、イエスはそれに乗り込み、シモンに頼んで岸から少しこぎ出させ、そしてすわって、舟の中から群衆にお教えになった。4 話がすむと、シモンに「沖へこぎ出し、網をおろして漁をしてみなさい」と言われた。5 シモンは答えて言った、「先生、わたしたちは夜通し働きましたが、何も取れませんでした。しかし、お言葉ですから、網をおろしてみましょう」。6 そしてそのとおりにしたところ、おびただしい魚の群れがはいって、網が破れそうになった。7 そこで、もう一そうの舟にいた仲間に、加勢に来るよう合図をしたので、彼らがきて魚を両方の舟いっぱいに入れた。そのために、舟が沈みそうになった。8 これを見てシモン・ペテロは、イエスのひざもとにひれ伏して言った、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者です」。9 彼も一緒にいた者たちもみな、取れた魚がおびただしいのに驚いたからである。10 シモンの仲間であったゼベダイの子ヤコブとヨハネも、同様であった。すると、イエスがシモンに言われた、「恐れることはない。今からあなたは人間をとる漁師になるのだ」。11 そこで彼らは舟を陸に引き上げ、いっさいを捨ててイエスに従った。


【主題】キリストの御言葉に聞き従う祝福の偉大さ

《Ⅰ》私たちの人生(悲喜こもごも)をご覧になっているイエス.キリスト

《Ⅱ》主は私たちの生活の中に語りかけて下さる

①人知を超えた御言葉の深みへ(全知の神への信頼)

②生ける神を知る畏れ

》イエス.キリストに従う光栄

 

I》私たちの人生(悲喜こもごも)をご覧になっているイエス.キリスト

【ガリラヤ湖畔で主の周りに集う群衆】

今日のルカ福音書の御言葉は、読者である私たちの胸をワクワクさせるような楽しさを持っています。この出来事は、恐らくちょうど今くらいの時刻か、あるいはもう少しお昼近い頃のことであったと思います。イエス様は、ゲネサレト湖、別名ガリラヤ湖の湖畔に立っておられました。

 

私たちにもそういうことがあるのですけれども、湖などの岸辺に立ちますと、湖畔の美しい景色や、湖に浮かぶ舟を眺めたりして、神様が創造された自然界の美しさに心を和ませられるものです。私もこの西谷伝道所を訪れるとき, 千刈キャンプ場近くに静かに流れる美しい流れが好きで眺め、一寸車を止めて眺めています。イエス様が岸辺に立っておられたのも、そのような美しい湖の風景を見ておられたのではなかったでしょうか。

 

するとそこへ、御言葉を聞こうとする大勢の群集がイエス様の周りに押し寄 せてきたといいます。そして、その群集の数は段々盛り上がって、恐らくイエス様も段々群集に押されるようにて水際までさがってお話しするような、足場もない状況になって来た程でありました。

 

イエス様は、この状態では、舟に乗って舟の中からお話する以外にないと考えられたのでありましょう。西谷伝道所のこの会堂も舟です。でもシモン達が乗っていたような漁師の小舟とは違います。ですから大勢の人が入ることが出来ますので、ガリラヤ湖畔の時のように、説教者の居場所に困る位、会堂が礼拝する人々でいっぱいになったらどんなに望ましいことだろうかと思うのです。

 

神様は、このような会堂を建てさせて下さったのですから、私たちにはこの地域の全ての人々をイエス様の許へ招く責任があると思います。さて、イエス様は岸辺を見渡して、ニ艘の舟が岸にあるのをご覧になったといいます。

 

そして、舟の傍には漁師たちが船から上がって、今しがた漁で使った網を洗 って繕っている姿をご覧になったというのです。*朗読2そこに二そうの小舟が寄せてあるのをごらんになった。漁師たちは、舟からおりて網を洗っていた。

 

この網を洗う漁師たちの姿は、一日の激しい勞働や様々な働きに疲れた姿であります。そしてそれは、彼らの社会生活・市民生活の姿であります。

 

【網を洗うシモンたち】

そしてこの網を洗う光景には、彼らの生活が抱えている苦しみや喜びや悲しみ、彼らの生活の香りが漂っています。そしてイエス様は、そのニ艘の舟と漁師たちの姿に、この世に生きる彼らの人生とその労苦をご覧になっておられるのです。そして、彼らの心の中をもご覧になっているのです。

 

そして片やこちら側には、イエス様を囲む、神の国,天国の福音に耳を傾けている夥しい人々の集まりがあるのです。そして、ガリラヤ湖畔における、このニつの光景のコントラストは、今このように西谷伝道所の会堂に集まって、神を礼拝している私たちの光景と、私たちの外で營まれているであろう地域の人々の様々な活動の光景と同じコントラストがあるのであります。

 

私たちは今、この世の唯中であれやこれやと働いたり、喜んだり、悲しんだり、楽しんだり、んだりしている人々の生活の直ぐ近くで、こうしてルカ福音書の言葉を語り聞き、神を贊美し、神に祈り、神の安息に与るという神の国・天国 の活動の真唯中に身を置いているのです。

この私たちと教会の外側の地域の人々とのコントラストと、ガリラヤ湖のイエス様を囲む群衆と、漁師たちのコントラストは重なるものがあるのです。

 

【シモンはイエス様を乗せた舟を】

そしてイエス様は、この二つの別々の活動を、決して無関係のものとして見ようとしてはおられなかったことを3節に見るのです。*朗読3 その一そうはシモンの舟であったが、イエスはそれに乗り込み、シモンに頼んで岸から少しこぎ出させ、そしてすわって、舟の中から群衆にお教えになった。

 

イエス様は、この世の只中で、網を洗っているシモンの持ち舟に乗って、「岸から少し漕ぎ出してくれるように」と頼んだのでした。イエス様は、この世の働きから、神の国の働きの中に参加し、天国の働きのために奉仕し貢献することを願って、シモンに船を出してくれるよう頼まれたのです。

 

すると、頼まれたシモンはどうしたのでしょうか。

 

恐らくシモンは夜通しの漁で疲れ果てていたことでしょう。それも、少し位収穫があったなら、その疲れはあまり苦にならなかったでしょうけれども、その日は、 雑魚一匹取れなかったというのですから、疲労の上に落胆の気持ちが重な って、大変辛い思いを抱いていたに相違ありません。シモンとしては正直のところ、網を洗い終えたら、すぐにも家に帰って休みたいところだったと思います。

 

しかし、イエス様は、そんなことが分からない訳ではないのですけれども、むしろそれを承知の上で、シモンに舟を出してくれ、と賴まれるのです。

 

そして、その賴みを聞いたシモンはどうしたかと言いますと、むげに断ることもなく、快くイエス様の賴みに応じたのでした。

 

そして、シモンはイエス様を乗せた舟を漕ぎ出しましたので、②

イエス様は舟に腰を下ろして、岸辺に集まった多くの群集に向かって無事に説教を語ることが出来たのでした。

 

しかしシモンとしては、まだこの時、自分が神の国・天国の働きに仕えている のだという意識はなかっただろうと思います。そして、くたびれており失意の中にありましたけれども、唯イエス様から賴まれたので、それを断ろうとはせずに、唯親切心から自分の舟を出しただけのことだったと思います。けれども、イエス様は 彼の人生を良く知っておられ、彼はこの時意識せずして、この世から召し出されて、神の国・天国の勸きに用いられてぃたのでした。

 

そして、やがて彼はこの湖の出来事の後に、後日イエス様によって正式に使徒として召されることになるのです。そしてイエス様は、現在も神の国・天国と教会のために、この世をも見ておられるのです。そして主イエスは、この世には、世の労苦やしがらみの中から、神の国・天国の平安の中へ招き入れようと神が定めておられる人々がおり、神の国と教会に奉仕する人々を召し出そうと望んでおられるのであります。

 

《Ⅱ》主は私たちの生活の中に語りかけて下さ

さて、このシモンとは誰かといいますと、438節を見ますと、 妻の母親の病を癒やして戴いたシモンであります。そして彼は、この日の出来事の後でイエス様から「シモン・ペトロ」と呼ばれる人になる訳です。

 

ルカによる福音書438 イエスは会堂を出てシモンの家におはいりになった。ところがシモンのしゅうとめが高い熱を病んでいたので、人々は彼女のためにイエスにお願いした。

 

【イエス・キリストからの召し】

そして私たちは、この時の彼の態度から、素晴らしい手本となるものがあることを学ぶのであります。それは、彼がイエス様の突然の賴みに対して「自分は疲れていますから、今お手伝いすることは出来ません」と言って断らなかったことであります。むしろ快くイエス様の言葉に応じたことであります。このシモンの態度がこの後、神様の大いなる祝福と惠みを体験するきっかけになり、そして神の国,天国の福音に仕える働きに召されることになって行ったのであります。

 

私たちが、教会の役割や奉仕などに召される場合に、つい自分の都合や、 自分のしたいことを優先させて、あるいはこの世の働きを優先して、教会の御用を後に回したり、場合によっては逃れてしまうというようなことがありはしないでしょうか。シモンの姿に見習わねばならないと思ぃます。

 

私たちは、礼拝を始めとして、教会の活動には、全て必ずイエス・キリストからの召しがあること、そして神の国の働きのためにイエス・キリストが私たち一人一 人を賴みとして下さるものがあるのだ、ということを覚えている必要があると思います。そしてシモンのように、自分の思いを後に回してでも、まずは神の召しに応えて行くことを優先させるように心がけていきたいものであります。

 

     人知をはるかに超えた神の惠みの深みへ(全知の神への信頼)*4~7節

さて、シモンとしましては、イエス様の語る御言葉を聞いて感激もし、同時に自分の舟がイエス様に用いられたことに対する満足感を覚えて舟を岸に戻そうと思っておりました。その時でした。御言葉を話し終えたイエス様の口から、シモンに向って思いもよらぬ言葉が告げられたのでした。

 

【沖へこぎ出し、網をおろして漁を】

4 話がすむと、シモンに「沖へこぎ出し、網をおろして漁をしてみなさい」と言われた。 

 

イエス様は、このような言葉をもってシモンに語りかけてくださいました。そしてこの御言葉は、シモンにとって少し意外なものに聞こえたのでした。

 

私たちの日常生活において、神様の御言葉というものは、この場合のように とはかけ離れた、思いもよらない内容の言葉である場合が以外に多くあるのであります。このシモンに対する言葉が正にそうでありました。それは、漁師シモンの返事にその驚きが表われています。

5 シモンは答えて言った、「先生、わたしたちは夜通し働きましたが、何も取れませんでした。しかし、お言葉ですから、網をおろしてみましょう」。

 

シモンにしてみれば、このイエス様の言葉は、あまりにも現実離れした啞然とするような言葉であったのかと思います。シモンは、プロの漁師だったからです。 しかもガリラヤ湖の漁については、知り尽くしているベテランの漁師でした。いつ 頃、どのくらいの深さで、どうやって網を降ろしたら魚が最も良く獲れるのか。

 

それをよくよく知っている玄人であります。そのベテラン漁師のシモンを始め、 いずれ劣らぬその仲間達が、頃合を見計らって、夜通し最善を尽くして苦労したけれども、何故か雜魚一匹獲れなかったというのです。そもそも長年の漁師生活の中でも、朝まで網を降ろして一匹も取れないというようなことは滅多 にないことでした。それなのに、イエス・キリストは「沖に漕ぎ出して網を降ろし、 漁をしなさい。」これは、漁のことを知り尽くした腕に自信のある漁師にしてみれば、なんと現実的でない無益なことではないか。

 

シモンはイエス様の提案を内心そう思ったかもしれません。シモンだけではなく、漁師仲間たちは皆、そう思ったことと思います。

 

確かにイエス様の言うことは実情に合わないことでした。何故なら、第一、 漁に適した時間は夜間から夜明けまでであって、自分たちはその時間に朝まで漁をして、しかも一匹も獲れなかったのでした。

 

そのため身体はくたくたに疲れているのです。たまたま折り良くイエス様の御言葉も聞けたので、もう家に帰りたいところなのです。叉当時の資料によると、網による漁は投網漁と引き網漁があったと言われますが、投網漁ならもちろんのこと、引き網漁にしても沖,即ち深みに網を降ろすということも、当時の漁法としては考えられない方法だと言われます。

 

けれども、イエス様は時間も場所も関係ないかのように「さあこれから漁をしなさい」と言われるのです。        

 

【お言葉ですから】

しかも「沖に漕ぎ出して深みに網を降ろしなさい」と、なんとも無知とも、無邪気とも思われることを言われるのです。シモンは、それに対して答えました。

「先生、わたしたちは夜通苦労しましたが.何もとれませんでした。しかしお言葉ですから、網をおろしてみましょう」。

この、前半分はイエス様の提案に否定的な答えであります。「これから漁をしても無馱でしょう」という気持ちの表れであります。しかし、ですけれどもシモンは「私の経験や知識はともかくとして、イエスお言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答えているのです。

 

このシモンの思いには「何か変わったやり方だから試してみましょう」というものはないのです。「はっきり言って私の知識や経験とは全く違います。けれども、 イエス様あなたの言われる言葉、あなたの御意志であるならば、網を降ろしてみましょう」と言うのです。沖に網を降ろすことは、彼らの人生の未絰驗ゾーンでありましょう。しかし、シモンのこの柔軟な判断と決断は素晴らしい驚くべき結論をもたらしました。*5B~6節。

 

イエス・キリストの教え,聖書の教えというものは、全てが、私ども人間の知惠や一般常識と違うものであるという事ではありません。聖書の教えは、多くの場合、天地自然の法則と矛盾するものではありません。しかしある信者は、薬や化学的な治療に頼らない方が良いと言って、神様に祈る事を強調して失敗する人がいます。もちろん病気のために祈ることは必要です。が、迷信的に祈りに頼るべきではありません。しかしまた、科学的でさえあれば、祈りは不要であると言う考えも、これ又迷信的な生き方であることを現代人は知るべきであると思います。そもそも、私たちは自然と言うものをどう考えるかが大切なのであります。

 

つまり、自然は偶然に存在していると考えるのか、それとも自然は偶然に存在しているのではない、と考えるかは重大な違いがあるのです。それは無神論と有神論の違いです。    

有神論はこの天地自然は神が創造されたものと考えるのです。そして神の創造を信じることは神の摂理(自然は神が保存し治している)と信じる訳です。

 

しかしこの自然界が自然に、言い方を変えれば偶然に発生し存在しているという無神論的な考えからは、自然の中に神の働きを考えませんから、病のために神に祈ることは愚かなことになる訳です。けれども同時にこの自然界を神が摂理(保存し治)しているという有神論的な考えは、 自然の秩序も神が創造し、神が摂理しておられると考える訳です。

 

ですから、私どもは自然の秩序から学んでいる科学を常識として重んじますけれども、科学万能を信じる訳でもありませんから、神に祈ることを大切にするのです。しかし、近頃の社会は、大気汚染や地球温暖化等の現象から、 科学万能に疑義を感じるようになりました。          

 

ですから天地の創造者であり摂理の主である神を知りませんと、唯やたらに科学を否定してカルト的な奇跡や、怪しげなスピリチャルカウンセリングなどに惑わされる危険性もあるです。そういう意味からも、私どもは、全ての物事を摂理しておられる天地の主なる神であり、救い主であるキリストの言葉を、隣人に証する責任が大いにあるのです。そしてキリスト者は、生活において有神的な人生観・世界観を世に証する者として召されているのです。

 

そこで、イエス様の言葉に率直に從ったシモンたちの様子を見ましょう。

 

朗読67節、6 そしてそのとおりにしたところ、おびただしい魚の群れがはいって、網が破れそうになった。7 そこで、もう一そうの舟にいた仲間に、加勢に来るよう合図をしたので、彼らがきて魚を両方の舟いっぱいに入れた。そのために、舟が沈みそうになった。

8 これを見てシモン・ペテロは、イエスのひざもとにひれ伏して言った、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者です」。

 

彼らはイエス様の言われるままに、沖へ深みへと舟を漕ぎ出しました。そして網を降ろしますと、そこに恐ろしいほどの手応えを感じたというのです。 確かに、彼らのプロの漁師としての絰驗と知識は科学的に適うものでした。

 

しかし、彼らは謙虛に自分の絰驗を横に置いて、とにかくキリストの言葉に率直に從ったのです。あるいはその行動は岸辺いる群衆からはからかわれる事かもしれませんでした。しかし反面、彼らが沖へ漕ぎ出すということは、一旦そういう世間的な考方から離れる事でもあったのです。

彼らが沖へ漕ぎ出すことは、彼らが沖へ漕ぎ出すということは、一旦一般世間の環境から離れて、心を解放し自由にしてイエス様と面と向き会うときともなったのです。そうすることによって彼らは、この社会で每日生きている処とは異なる世界を、湖の沖の深みに体驗するのです。

 

彼らは、神の言葉に從うという体験の中に、それまでの自分知識や経験をはるかに超えた、神の支配・.神の深い恵みの支配を見たのです。シモンは、 この時はまだそこまでは自していたかどうかは分かりません。

 

けれども、シモンの成功の鍵は、神の言葉に対して自分を無にしたことにありました。自信に滿ちた自分の知惠も知識も驗も、この際横に置いて、とにかく神の言葉に生きてみようとした結果、彼はこの世界の全てを創造し、全てを摂理しておられる神の図り難く深い知恵と、大いなる力に触れたのでした。そして、その結果は大変なものになりました。

 

 

ここでイエス様が教えようとしたことは、決して大漁になる極意をシモンに伝授するためではありません。叉、プロの知識や絰驗が間違っているということでもありませんでした。神の摂理の計り難さ、それ故の人生の計り難さ、神様の御心の計り難さ、驚くべき神の恵み深さ・.豊かさ、正に驚くべき恵み、ァメージン グ・グレースを実感させられる事だったのです。

 

 生ける神を知ることの畏れ  

恐らく彼らは網に入った魚を二つの舟いっぱいに引上げて、舟が沈みそうになるまでは無我夢中でした。事の成り行きを落ち着いて考える余裕も何もありませんでした。しかし、この驚くべき収穫に気付いた時、シモンはイエス様の足元に平伏して叫びました。

 

ルカによる福音書5:8 これを見てシモン・ペテロは、イエスのひざもとにひれ伏して言った、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者です」。

ここにシモンの言葉と態度に大きな化が起こりました。

 

5節ではイエス様を「先生」と呼んで、その提案を半ば否定的に思っていましたが、ここでは「主よ、私から離れて下さい。私は罪深い者なのです

 この福音書記者ルカも叉、唯[シモン]ではなく、「シモン・ペトロは と書き変えています。彼はイエス様の言葉に、自然を超えて働く神の力を知らされたのです。そして神の力が彼自身の心に届いたのです。それ迄イエス様は 単なる尊敬する「先生」でしたが、ここで'は「主よ、即ち神よ丨という呼び方に 変化しているのです。真の神に触れたとき、彼は自分が「罪深い者」である事を悟る人になっているのです。自分の罪深さを認識する。それは神の御業なのです。私たちは、イエス・キリストの言葉に聞き從って生きて行きますとき、その惠みと力を味合うことが出来るのです。そして、神の患みと祝福溢れるばかりの豊かさを知りますなら、私たちは生ける神の前に自分が罪に汚れた不信仰な存在であることの畏れを実感させられるのであります。

 

皆さんの信仰に至るプロセスも同様です。初めはキリストは単に世界的に有名な宗教家か人生の偉大な指導者であり、愛の人に過ぎないのかも知れません。しかし、その福音を聴いていて信じ、従って行きますと、次第にイエス様 が天地の主なる神であることが分かり、自分が罪人であることが分かって来るのです。そして、イエス様が惠み豊かな救い主であることが分かって来れば来る程に、自分の罪が鮮明に見えてくるのです。

 

《Ⅲ》イエスキリストに徙う光栄

【人間をとる漁師】

そしてシモン,ベトロの信仰は更に深くされる必要がありました。何故なら、真のキリストへの信仰は、決してキリストから遠く離れて恐れおののくことではないからです。イエス様はシモンに言われました。

10節後半」すると、イエスがシモンに言われた、「恐れることはない。今からあなたは人間をとる漁師になるのだ」。

確かに真のキリスト信仰には「私は不信仰で汚れた罪人であります」という意識が伴います。

 

けれども、それはイエス様にして「どうかわたしのような者から離れて下さい」というところから、逆にキリストの懷に飛び込んで行くのがキリスト信仰なのです。信仰は、 謙遜そうに,聖なる神から,イエス・キリストから遠く離れて生きるものでは決してありません。イエス様は「恐れることはない」と救しを宣言して下さるのです。

キリスト信仰は、恐れおののいて神を離れて生きるのではありません。罪人が罪赦されて、神を畏れ敬いつつも、その恵みに信賴してキリストと一緒に生きるのです。そればかりか、キリストの使命に生きることが真の信仰なのです。

 

「人間を獲る」は「人間を生け捕りにする」という意味です。

 

「人間をとる漁師になる」これは直接的には、シモンを使徒として:召された言葉ですが、 元の意味は「人を真に生かすために漁る」という意味です。      

 

酸素の欠乏し濁った溜まり水の中から、生け捕って、酸素を豊かに含んでいる生きた水の中に移す、それを「人間を漁る」というのですね。

 

ですからこの出来事全体は、将来の教会の使命を予表した出来事なのでした。つまりこの出来事は、教会とキリスト者は、この世の人生に唯衣食住を追求して、神もなく希望も平安もなく唯労苦し、思い患いつつ生きている人を、 イエス・キリストが恵み深く支配する神の支配の幸いと喜びの中に、伸び伸びと自由に生きる人生へと漁る働きに召されていることを、前もって表す出来事でありました。

 

神様は私たちの日常生活の中に啄木が「働けど働けど猶(なほ)わがくらし楽にならざり,じっと手を見る」と歌ったそういう現を体驗することがあります。 ベトロ達のこの日の漁も似ています。神は通常の人間生活の中に、時として、 労苦が無駄であるかのような試練を与えられることがあります。神が通常の惠みの御手を控えられることがあるのです。

 

今の社会も、かつての右肩上がりの絰情勢がまるで夢であったように想われる行き詰った状態が繞いています。そればかりか、自然の大災害や原発事故のような恐るべき人災が相次いで起こります。高級有名ホテルやレストランが誤表示や偽表示を行い、政治や経済や教育の世界までもが人間の生命の大切さを見失い、人間としての正常な感が麻痺して来ているので す。子どもたちの、友達を自殺にまで追い込む虐めが心を痛めます。

 

【一般恩恵と特別恩惠】

これが近・現代社会に現れている頸著な兆候です。神が恵みの御手を控えられているのです。余りにも、人間が人間の知恵・.知識・経験だけを良しとし、神の恩恵への感謝を忘れて歩むとき、神はそこに一般的な恩恵(コモン グレース)を差控えられることがあるのです。ペトロ達の夜通しの漁のように、雜魚一匹取れない試練を与えられるのです。

 

しかしそのような試練は、同時に、神の言葉という特別な恩惠(スペシャル グレース)を教え示されるときでもあるのです。それは、人間の思いを遥かに超えた神の恩恵を伴う言葉です。それは人間の罪を救し、救いを与えるキリストの十字架の福音です。

 

【福音の網を社会の沖へ、浅瀬ではなくて深みへ】

キリストの福音、それは、救い主であるイエス・キリストが十字架の上に死に、 死から甦ることによって罪人の罪を救し、救いを与えるという良き知らせです。 ですが、キリストの十字架の福音程、人の経験や知惠や常識とかけ離れたことはありません。ある人には十字架の言葉は、愚かにも思えるのであります。

 

しかしこの十字架の福音にこそ、実は滅びゆく人を生かす神の知恵と力が 秘められているのです。*1コリント1:1825       18 十字架の言は、滅び行く者には愚かであるが、救にあずかるわたしたちには、神の力である。                     

 

人は天地万物を創造し保持し統治しておられるキリストの恵み深い支配を受けて生きてこそ、真に生かされるのであります。

 

そして神の言葉を聴くためのキーポイントは、漁師ペトロのように自分の心を低くし空しくてイエス・キリストの御言葉に聞いて従うことにあるのです。

 

人を罪と死に結び付ける人生から、キリストのいのちの中に漁どるキリストの言葉・福音というものは、確かにこの世の知惠とも常識とも異なるのです。

 

そういう訳ですから私たち教会・キリスト者は、この世の常識や経験を絶対視するのではなく、むしろこの世にはない神の測りがたく深い御心に素直に聽き従って、キリストの言葉・福音の網をこの社会の沖へ、浅瀬ではなくて深みへ、 つまり私たちの知識や経驗を超えて、滅び行く人の心の深みまで、福音の網を投げる努力をすることによって、神の恵み深い支配〔摂理〕を知って行くのであります。そのようにして人を天国へ移し漁る、この西谷伝道所の舟「西谷丸」の使命を果たして頂きたいのです。この光ある使命に感謝しつつ共にイエス・キリストに仕えてまいりたいと思います。

 

《祈祷》

天地万物の造り主にして、救いの主でいます父.御子.御霊なる神様。御名を讚美し、その豊かな御心と、大いなる愛の御業の故に心から感謝を申し上げます。

愛する西谷伝道所の公同礼拝に奉仕を許され感謝致します。あなたは私共を、この世から御名を礼拝するようにと、御許へと呼出して下さり、御言葉を通してあなたの御心を教え、大いなる 恵みを与えて下さいましたことを深く感謝申上げます。

私共は、しばしばこの世の生活の中に埋没して、あなたの深い御心を意に介さず、社会の風潮や習慣、自分の知恵.力に賴んで生きる愚かな罪ある者であります。しかしあなたは、そのような私共の現をご存知であって、時宜に適って御言葉を語りかけ、あなたの惠み豊かなご支配を明らかに示して下さいます。又あなたは私共を常にあなた御自身の御許へと招き、神の国の御用に用いようとしていて下さることを教え示されました。どうか、私共が如何なるときも、あなたのみ言葉とあなたの御用を優先する自由で開かれた心を常に抱いて生きて御言葉に從い、御心を行う者とならせて下さい。そして、あなたの大いなる恵み深い摂理の中に感謝しつつ生きる者として下さい。

神よ。昨年の震災の苦から回復出来ない東北の人々を顧みてください。そしてそれに伴い生じた原発事故は、正に人間の傲慢と、至らぬ知患に過信した結果が招いた災いでありました。神よ、どうか今なお先が見えないままにみ苦しむ福島県の人々を憐れみ助けてください。国が相応しい援助を与えるべく用いて下さい。渦中にあります教会・ 伝道所を顧みて下さり、主の豊かな恵みに支えられて、周囲の人々に希望を与えるために福音の光を高く掲げ、主の恵みを執り成すものとしてください。尊き主イエス・キリストの御名によって祈り願います。アーメン。

2013年11月24日 | カテゴリー: ルカによる福音書 , 新約聖書

2013年11月17日説教「神様の愛」姜 世媛先生(WEC宣教師/神戸改革派神学校聴講生)

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20131117日説教「神様の愛」姜 世媛先生(WEC宣教師/神戸改革派神学校聴講生)聖書:Ⅰヨハネの手紙4章7~21節。

7 愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。8 愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。9 神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。

10 わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。11 愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。12 いまだかつて神を見た者はいません。わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです。

13 神はわたしたちに、御自分の霊を分け与えてくださいました。このことから、わたしたちが神の内にとどまり、神もわたしたちの内にとどまってくださることが分かります。14 わたしたちはまた、御父が御子を世の救い主として遣わされたことを見、またそのことを証ししています。

15 イエスが神の子であることを公に言い表す人はだれでも、神がその人の内にとどまってくださり、その人も神の内にとどまります。16 わたしたちは、わたしたちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。17 こうして、愛がわたしたちの内に全うされているので、裁きの日に確信を持つことができます。この世でわたしたちも、イエスのようであるからです。

18 愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します。なぜなら、恐れは罰を伴い、恐れる者には愛が全うされていないからです。19 わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです。

20 「神を愛している」と言いながら兄弟を憎む者がいれば、それは偽り者です。目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません。21 神を愛する人は、兄弟をも愛すべきです。これが、神から受けた掟です。

 

(説教要約 文責近藤)

おはようございます。一昨日から風邪のような症状がありましたが、今朝は神様に助けられて元気にここに来ることが出来感謝しています。

準備も十分でなく今日どうなるか心配でしたが、今朝の礼拝前のお祈り会とかここに座ってオルガンの奏楽を聞いていましたら神様は平安な気持ちを与えてくださいました。

 

【冬のソナタ】

わたしは韓国から日本にきて47ヶ月になります。この間たくさんの方にお会いしました。韓国から来たと言うと沢山の人が「私は韓国ドラマが好きだ」とか「韓国の料理が好きだ」と仰って嬉しいです。私より韓国ドラマに詳しくわたしも勉強させてもらいました。

 

韓国ドラマで日本最初のドラマは「冬のソナタ」です。実は私は日本に来るまで全部を見ていなかったのでもう一度見直しました。皆さん、「冬のソナタ」を見た人は手を挙げて下さい。ご覧になった方の中で、なぜこのドラマが好きになったのでしょうか。色々理由があると思いますが、その理由の一つ、それは変わらない初恋の美しさであると私は思います。時間が過ぎても全然変わらない初恋の愛です。いつでも自分を愛してくれる人がいるといいなと誰でも思うでしょう。愛というものはただ「冬のソナタ」のような愛だけでなく、人間の歴史の一番古くて普遍的テーマです。愛は文学、芸術、詩などで一番多く発見できるテーマです。

 

あるいはこの愛で笑ってあり、自分の命を捨てたりします。この愛というものは人間になくてはならないものです。私たちのキリスト教は愛の宗教と言われています。また神様の言葉である聖書は神からの愛の手紙、ラブレターだと言われています。

 

【神様の愛】

この世の中でもとても貴重である愛というものについて聖書のみ言葉を通して考えてみましょう。

今日は,ヨハネの手紙4章の7節から「神様の愛」というテーマで3つの事について考えてみましょう。

 

【神様は愛である】

1番目は「神様は愛である」ということです。今日の箇所の8節と16節を読みましょう。

 

ヨハネの手紙一48 愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです」。

 

16節「わたしたちは、わたしたちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます」

 

8節と16節、ここに「神は愛」と書かれています。神は愛だということはどういう意味でしょうか。神様は愛と同じもので、神様には愛だけしかないと言うことです。

 

私たちの信じている神様は私たちの間違いを罰するお方ではありません。それで神様の愛を受けるために何か特別なことをしなければならないわけではありません。神様は私たちが存在するだけで喜んでおられます。

 

創世記1章31節に「神はお作りになったすべてのものをご覧になった。それを見てそれはよく、極めて良かった」と仰いました。

 

神様の本質は人間に向かった愛で、神は愛の原点です。その愛が神様から流れ出て神様を知る人に届く。またその人から他の人々に流れ出すべきです。

 

ヨハネによる福音書1章の1節から5節は、神様は光で、この光なる神様には暗闇が全然なく、この光はすべての人を照らすと書かれてあります。

もし私たちが光である神様を私たちのうちに受け入れることができたら、わたしたちも光のように輝くでしょう。神様は私たちの中にあるすべての闇は追い出されます。それと同じ同じように、私たちが愛である神様を私たちの心の中に受け入れることができたら私たちは愛の人になれるはずです。

 

どんなに憎しみで悩んでいる人でも愛に変われるはずです。なぜなら神様は愛であるからです。神は愛ですから神様がおられるところでは驚くべきことが起こります。いちども味わうことのできなかった無条件の愛を経験できます。

 

【自身のエピソード】

私にも神様の愛に関するエピソードがあります。私は神様の愛の故にクリスチャンになりました。この時から私はいつも皆を愛することができるように祈りました。

 

また周りの人をいつも愛するように努力しました。その結果、私は学校でも教会でも、

また友達の中でも優しい人だなぁと言われるようになりました。それで私は自分のことを愛で溢れてれているように思っていました。

 

しかし大学4年の時の一つ出来事によって私の考えが間違っていることがわかりました。

ある日、私が一緒に活動していた宣教団体の先輩のリーダーが私を呼び入れました。

何か話したいことがあるそうです。

わたしもその先輩と一緒にその宣教団体の活動していました。

わたしは多分褒めてくれることを期待していました。

でも実際に言われたのは、わたしは彼の働きに役に立てないということでした。

彼とは30分から1時間も話しました。彼は4つ上の先輩で私が高校に行く時からずっと知り合って私のことをかわいがってくれました。多くのことを褒めてくれましたが、このリーダーである先輩が私をリーダーの一人に推薦してくれると思っていましたが、彼は1時間話したなかで良いことも多く話しましたが、しかし私の心に残った事は、

あなたは私の働きに役に立てないという一言でした。

わたしは宣教団体の中で一生懸命頑張っていました。私は自分のことを自分なりに犠牲にして、この団体のために、兄弟姉妹のために頑張っていたと思っていたが、その一言

「役に立たない」という一言が、私にとって非常にショックでした。それでその時から私は彼のことが嫌いになりました。

学校で彼が前から来ると挨拶を交わしてもあとは彼から遠ざかり、最後の6ヶ月ぐらいはその宣教団体から離れるようになりました。

私はそのすべてのことを彼のせいにしていました。今考えてみたら余り大事なことではなかったのです。

私がもっと大人でしたら、「そうですか、それは済みません。これからもっと頑張ります」と言えば何でもないことでした。

その時私は未熟だったし自分のことを率直に話すことが苦手でした。まだまだ未熟な女の子でした。今考えれば本当に何でもない事でしたが私の心の中の憎しみは2年ぐらい続きました。彼に会うたびに「きらい、きらい。嫌、嫌」と思いながら彼の顔を見ることも本当に嫌でした。私が思っていたのは感情というものは、複雑なもので頭の中で何ともないと思っていても心の中で思ってる、その憎しみが完全に回復するまでは2年ぐらいかかりました。その時、私は神様に私の弱さを告白しました。そうだ、私は他の人を自分の力で愛することができないということを、私の心の中には愛がないということを、実感しました。そう思ったあと、漸く神様の真実の、無条件の愛が深く感じられました。神様の愛はこの世のすべての愛に勝る絶対的な愛です

 

【神様はイエス・キリストを通して愛を示された】

2番目は神様はイエス・キリストを通して愛を示されたということです。今日の箇所の9節と10節を一緒に読みましょう。

ヨハネの手紙一4章「9 神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。

10 わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります」。

 

この節には神様がイエス・キリストを通して愛を示されたことが書かれています。これをもっと理解するためにはヨハネの福音書316節も読みましょう。

16 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。

 

神様は「この世を、私たちを、御子イエス・キリストをお与えになったほどに愛された」と書かれていました。

また「御子を信じるものが一人も滅びないで永遠の命を得るためである」と書かれています。

 

【罪の結果】

もともと神様と人間との関係は親しい関係でした。いつも神様の愛の中で御心の通りに従順に従いました。しかし人間の罪によって神様から人間は離れてしまいました。

その結果人間は必ず死ななければならないという運命になりました。それを哀れんで下さった神様はその独り子イエス・キリストを宥めの供え物としてこの世にお遣わしになりました。

 

またそのイエス様は私たちの罪のために十字架に架けられました。ローマの信徒への5章8節には、こう書かれています。

ローマの信徒への手紙5章「8 しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。」

 

神様は私たちを愛してくださいました。それは私たちがその愛を受ける価値があったからではありません。永遠からの神様の愛は私たちがその愛を受ける価値があったからではありません。永遠からの神様の愛は、ありのままの私たち一人ひとりに関心があります。聖書には私たちがまだ罪人であった時、神様が私たちを愛してくださった、と書かれています。

 

皆さんはこの世の誰かから命懸けの愛を与えられたことがありますか。

たとえその愛が人間の限りある愛としても愛されるという事は本当に素晴らしいことです。ましてそれが永遠に変わることのない神様の限りない真実の愛であるなら本当に幸せなことでは無いでしょうか。神様は私たちをその愛で愛してくださいます。

 

私たちが神様の愛を持って人を真実に愛するためには、もっと積極的な行動が必要です。今日の箇所の15節を一緒に読みましょう。

 

ヨハネの手紙一415 イエスが神の子であることを公に言い表す人はだれでも、神がその人の内にとどまってくださり、その人も神の内にとどまります。」

 

イエス様を神の御子と告白するのは、私たちの唯一の救い主として告白することです。このイエス・キリストが主である事を信じたら、私たちは裁きの日にも大胆さを持つことができます。

続いて17節を一緒に読みましょう。

ヨハネの手紙一4章「17 こうして、愛がわたしたちの内に全うされているので、裁きの日に確信を持つことができます。この世でわたしたちも、イエスのようであるからです。」

 

【永遠の命】

もし私たちが主であるイエス・キリストを真実に告白したら私たちは死の後のことを恐れる事はありません。なぜなら十字架のイエス・キリストの愛は私たちに永遠の命を保証してくださるからです。

 

【互いに愛し合うこと】

最後の3番目は神様は私たちが愛し合うことを願っておられるという事です。

よくキリスト教は愛の宗教だと言われています。その愛とはどんな愛でしょうか。

マタイによる福音書2236以下で、キリスト教の愛は、神様の愛と隣人の愛、この2つからなっていると書かれています。いっしょに読みましょう

 

マタイによる福音書22章「36先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」

37 イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』38 これが最も重要な第一の掟である。

39 第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』

40 律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」

 

聖書の中に書かれてあるこの2つの愛、神様への愛と隣人への愛、この二つの愛の中でどちらの方が易しいと思いますか。私は隣人を愛するのはあまり易しいことではないと思います。私も皆さんに証ししたように個人的に人を憎しみ、2年間悩みました。

神様への愛、教会にきて礼拝して神様と関係を持つのは一見難しく見えるけれども、実際私にとってもっと易しいことと感じられました。今日の箇所の11節を読みましょう。

 

ヨハネの手紙一4章「11 愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。愛する子達、神がこのように私たちを愛されたのですから私たちにも互いに愛し合うべきです。」

「このように」私たちを愛されたと書かれてあります。「このように」とはどんな意味でしょうか。

それは9節、10節に書かれてあります。ヨハネの第一の手紙4

9 神はそのひとり子を世につかわし、彼によってわたしたちを生きるようにして下さった。それによって、わたしたちに対する神の愛が明らかにされたのである。

10 わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して下さって、わたしたちの罪のためにあがないの供え物として、御子をおつかわしになった。ここに愛がある。

 

ヨハネの第一の手紙4章「11 愛する者たちよ。神がこのようにわたしたちを愛して下さったのであるから、わたしたちも互に愛し合うべきである」

 

神様の独り子を私たちのためにこの世に遣わしてくださった。それで私たちも互いに愛しあうべきです。私たちを自分の都合や気持ちによって愛したい人を愛しているだけではいけません。私たちの愛でなく神様の愛でお互いに愛さなくてはなりません。

 

ヨハネの第一の手紙3章16節と18節を共に読みましょう。

16 イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました。だから、わたしたちも兄弟のために命を捨てるべきです。

18 子たちよ、言葉や口先だけではなく、行いをもって誠実に愛し合おう。

 

【命を捨てる】

16節はどんなに驚かされる御言葉でしょう。時々映画などで恋人の為に自分の命を捨てる人がいます。また自分の子供の為に命を捨てる父親とか母親がいます。いま周りの方々をご覧になってください。皆さんの側に座ってる方をご覧になってください。聖書は私たちが愛すべき兄弟姉妹だと書かれていますね。皆さんは皆さんの側に座っておられる方々のために皆さんの命を捨てることができますか。正直言って私は自分の夫のために、命を捨てるべきと書かれているが、それは迷いますね。命を捨てる程でなくても、皆さんが少しでも犠牲を払うことはなかなか難しいことです。

 

愛する兄弟姉妹だと言っても何か一言言われたら顔を見たくもなくなります。それが人間である私たちの弱さです。

 

18節には「言葉や口先だけではなく行いをもって誠実に愛し合おう」と書かれています。このように愛するのは神様の御心です。

 

【愛の原子爆弾:ソン・ヤンウォン先生】http://yamaki-web.com/chapel05.html

韓国に孫良源(ソン・ヤンウォン)と言う牧師先生がおられました。この方は「愛の原子爆弾」というニックネームがあります。1902年生まれで、1939年からハンセン病患者の治療機関である愛養園で患者たち(1, 000)を家族のようにケアしました。1948年ある事件で、自分の愛する2人の息子が殺されました。しかしその時、自分の2人の息子を殺した犯人を許すだけではなく自分の養子にしました。1950年、韓国戦争の時に参戦し孫良源先生犠牲になられました。夫と私は何年か前、韓国全羅南道のほうにある「愛養園」に行ったことがあります。

 

皆さん、ソン先生の愛こそはイエス様が見せてくださった愛ではないでしょうか。

イエス・キリストはこの世の誰より大きい愛を見せてくださいました。その愛を学ぶべきではないでしょうか。自分の親しい人を受け入れて愛することができないのが私たちです。

 

ヨハネの福音書13章の34節から35節にこう書かれています。

 

34 あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。35 互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」

 

また今日の箇所の19節、20節にこう書かれています、

ヨハネの手紙一4章「19 わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです。20 「神を愛している」と言いながら兄弟を憎む者がいれば、それは偽り者です。目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません。」

 

もし私たちが本当に神さまを本当に愛するというなら私たちはお互いに愛し合うべきです。

 

今日のメッセージを通して3つのことを考えました。

1番目は神様は愛であるということ。

2番目は神様はイエスキリストを通して愛を示してくださいました。

3番目は神様は私たちが愛し合うということを願っておられることです。

これらをいつも忘れないで実践することができるように主が助けてくださいますように祈りましょう。(おわり)

 


2013年11月17日 | カテゴリー: ヨハネの手紙一 , 新約聖書

2013.10.6.説教「不可能を可能に」崔 宰鉉牧師(WEC派遣宣教師、神戸改革派神学校特別研修生)

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201310.6.説教「不可能を可能に」崔 宰鉉牧師(WEC派遣宣教師、神戸改革派神学校特別研修生)

マルコによる福音書91724

9:17 群衆の中のある者が答えた。「先生、息子をおそばに連れて参りました。この子は霊に取りつかれて、ものが言えません。9:18 霊がこの子に取りつくと、所かまわず地面に引き倒すのです。すると、この子は口から泡を出し、歯ぎしりして体をこわばらせてしまいます。この霊を追い出してくださるようにお弟子たちに申しましたが、できませんでした。」

9:19 イエスはお答えになった。「なんと信仰のない時代なのか。いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか。その子をわたしのところに連れて来なさい。」

9:20 人々は息子をイエスのところに連れて来た。霊は、イエスを見ると、すぐにその子を引きつけさせた。その子は地面に倒れ、転び回って泡を吹いた。

9:21 イエスは父親に、「このようになったのは、いつごろからか」とお尋ねになった。父親は言った。「幼い時からです。9:22 霊は息子を殺そうとして、もう何度も火の中や水の中に投げ込みました。おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助けください。」

9:23 イエスは言われた。「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる。」

9:24 その子の父親はすぐに叫んだ。「信じます。信仰のないわたしをお助けください。」

 

(説教要約 文責近藤)

【不可能を可能にする道】

今日の御言葉から不可能を可能にする道を考えてみたいと思います。

 

私たちは解決できない問題に直面するとき2つの選択があります。

 一つは「余の辞書には不可能は無い」と言う信念を持って問題に立向かうことです。負けず嫌いな前向きな考え方をする人はこのような選択をするでしょう。

私たちの人生には多くの試練や苦難がありますが強い信念を持ってこれに立ち向かう事は大切なことです。

 

大きな問題に直面した時もう一つの選択は、問題に立ち向かうのでなく諦め、妥協することです。ちょっとした問題にぶつかっただけでもすぐにあきらめる人がなんと多いことでしょう。

 

【クリスチャンが困難な問題に直面するとき】

ところで私たちクリスチャンも自分の力で解決できない問題に直面するとき、どうすれば私たちは良いでしょうか。この世に解決不可能な問題が存在することを認めます。しかし一方で私たちは神様を信じています。

 

私たちは神様に助けていただき不可能を可能にすることができると信じます。それでは試練や逆境にあったときそれをどのようにして乗り越えるでしょうか。このことを考えてみましょう。

 

【弟子たちは癒せなかった、なぜか】

今日の箇所には悪霊によって口が訊けなくされた息子を持った父親が出てきます。この人は悪霊を追い出してもらうために弟子たちの所に息子を連れてきましたが、この時弟子たちはどうしても悪霊を思い出せませんでした。弟子達は打ちひしがれていました。ちょうどそのときイエス様は山から3人の弟子ヤコブ、ペテロ、ヨハネを連れて帰ってきました。主イエスを見つけた瞬間父親は新たな希望持ったでしょう。彼は主の御前に癒しを求めました。この息子の病気は現在の医学でも治療困難です。新約聖書の時代のことでなおさらです。しかしイエス様は皆が治療不可能だと思った息子を治しました。

 

ここで私たちは不可能を可能にする道で三つのことを考えてみましょう。

 

【主イエスの御もとに】

番目は主イエス様の前に自分の問題を携えていくことで問題を解決できる道です。19節の最後の所「その子を私のところに連れてきなさい」と言われ、ここで強調されるのは「私の所に連れてきなさい」です。韓国では「私のところに連れてきなさい」という伝道方法があります。困難な状況に悩み苦しむ人がいれば「私たちの教会に来ませんか、神様が解決してくださいます」。

 

招かれた人は問題を抱えて教会を訪れます。皆さん教会に来ただけで問題は解決できるでしょうか。もちろんそうではありません。がそういう可能性を完全に否定するわけでもありません。

 

教会で神様に出会い真の神様を信じれば問題は解決できるでしょう。ただ私が強調したいのは教会に来ただけで問題が解決することではないということです。

 

「教会に行こう」と言わないで「神様の家に行こう」と言う母親がいました。そのように言うとその子供は「行かない。神様はその家にはいないから行きたくない」と。その子供は神様に会いたいと思って教会の内外を探していましたが、神様は見つかりませんでした。

本当に素直な反応だと思います。

 

教会は何をするところでしょうか。教会は人々に神様を見せるところだと思います。なぜ私たちは礼拝捧げるのでしょうか。わたしたちが聖書を学ぶ目的はなんですか。神様を体験するためではないでしょうか。単に知識を得るために聖書を学ぶのではありません。神様に会うために神様を礼拝し聖書を学ぶのです。教会の頭は誰ですか。聖書はイエス・キリストが教会の頭だと記しています。

 

教会という建物の中に入っても奇跡的な力が起こるのではありません。心から礼拝するときに、御名を信じるところに、神様は御臨在されます。そこで神様を体験できます。

主イエス様は問題を解決してくださいます。本当に大切なのは神様に出会い神様を体験することです。イエス・キリストに目を向けてください。イエス・キリストこそ神です。イエス・キリストこそは私たちを神様に連れ行くことの唯一の道です。

 

なぜ悩み苦しんでおられますか。解決できないと思う問題を抱えておられますか。すべてを携えて主イエスのもとに来てください。そうすればすべての悩み苦しみ、あらゆる問題は解決されます。

 

【イエス・キリストを信頼する】

二つ目はイエス・キリストを信頼することによって不可能を可能にする道です。主の御前に問題を携えていくとき徹底的にイエス・キリストを信じなければなりません。主イエスは私を癒すことが出来ると言う確かな信仰が必要です。弟子たちは主が悪霊を追い出された後で主に聴きました。今日読まなかったのですがマルコによる福音書9章28節「 イエスが家の中に入られると、弟子たちはひそかに、「なぜ、わたしたちはあの霊を追い出せなかったのでしょうか」と尋ねた」。19節に答えがあります。

 

マルコによる福音書9:19 イエスはお答えになった。「なんと信仰のない時代なのか。いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか。その子をわたしのところに連れて来なさい。」

 

弟子たちが悪霊を追い出せなかったのは何故ですかと主に密かに聞きました。

神様の栄光を体験できない理由は何ですか。信仰がないからではないでしょうか。

神さまは神を信じるものに栄光を現わされます。

 

主イエスは弟子たちがこの息子の悪霊追い出せなかったのは神様を信頼しなかった、信じない信仰の為に悪霊追い出せなかったと言われる。

 

今日と同じ箇所がマタイ1719節、20節にあります。

 

マタイによる福音書17

17:19 弟子たちはひそかにイエスのところに来て、「なぜ、わたしたちは悪霊を追い出せなかったのでしょうか」と言った。17:20 イエスは言われた。「信仰が薄いからだ。はっきり言っておく。もし、からし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向かって、『ここから、あそこに移れ』と命じても、そのとおりになる。あなたがたにできないことは何もない。」†

 

 

ここでは「弟子たちの信仰が薄いからだ」と言われております。「信仰がない」とは言われないで「薄い」と言われました。

 

信仰は主イエス様の弟子になる時与えられたと思いますが信仰が全くないとは思いません。私たちも確かに信仰を持っております。信仰があるからこそ今日もここに来て礼拝に出席し説教に耳を傾けます。

 

私が皆さんにどうしてあなたは信仰がないんですかと言うと、あまり皆さんは良い気持ちなりません。イエス・キリストも弟子たちに信仰が無いとは言われませんでした。しかし信仰が薄いと言われた。弟子たちの信仰が無いからでなく薄いから奇跡が起こらず悪霊を追い出せなかった。

 

主の弟子たちのイエスに対する信仰が十分ではなかったのです。ところで信仰と言うとき大切なのは信仰という言葉そのものでなく、信じる対象です。イエス・キリストを信じる信仰こそが大切です。キリスト教において信仰の対象は、天地万物を創造された神様です。また御子イエス・キリストです。

 

私たちも挫折を経験したことがあり、絶望したことがあり自分が無力あることも知っています。しかし私たちは救い主イエス・キリストの前に出てイエス様を信じました。神様に仕える生き方を与えられました。

 

ところで私たちは本当に神様を信頼していますか。いつの間にか神様でなく自分自身を信じているのではないでしょうか。

 

信じると強調しながら自分自身を信じているのではないですか。このとき弟子たちは全部で9人で、あとの3人ぺテロ、ヤコブ、ヨハネは主イエスと山に登っておりました。

 

この9人の弟子たちは悪霊に憑かれた子供を癒せませんでした。9人の弟子たちは3人の弟子がいなかったのでこれは良いチャンスだと思ったかもしれません。私の推測ですが、 3人のいない間に自分たちの良いところを見せてやろうと思った。私たちもペテロと同じことができる。悪霊を取り出して見せましょうと言ったかもしれません。しかしイエス・キリストの御名によって悪霊に出て行けと命じても悪霊を退治できませんでした。

 

確かに彼らはイエス・キリストの御名を用いました。しかし心の中では思い上がっていたと思います。クリスチャンは気をつけなければなりません。思いあがる時よく失敗します。信仰の弱さをわきまえている時私たちは聖霊に満たされ真のクリスチャンになります。

パウロは自分の弱さを感じるとき聖霊の力に満たされ強くなると申しました。私たちはパウロのように自分の無力を携えて徹底的にイエス様を信じるとき神様は私たちの中に臨在してくださいます。

 

弟子たちは主イエスに従っていましたがイエス様を心から信頼していませんでした。自分自身を信頼する誘惑に負けたのです。