イザヤ書

2013年12月8日説教「落ち着いて静かにしていられるために」赤石純也牧師

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マタイによる福音書1章18~23節

イザヤ書7章1~14節
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2,013128日.説教「落ち着いて静かにしていられるために」伊丹教会赤石純也牧師 


新約聖書:マタイによる福音書118 イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。

19 夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。

20 このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。21 マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」

22 このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。

23 「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。                              

 

説教(天野千尋子姉、内田いさ姉受洗記念説教)  

【処女が妊って男の子を産む、その名はインマヌエル】

今日お読みしたところはよく知られているクリスマスの箇所ですけれども、今日は思い切ってこの23節のみ言葉のみに集中したいと思います。

23 「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。                              

 

つまりどうしてこのクリスマスにキリストがお生まれになったか。何故ここに23節のみ言葉が引用されているかと言うことですね。「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」

 

どうして旧約聖書のこの言葉を新約聖書は引用したかと言うことの意味を今日はハッキリさせたいと思います。ここにクリスマスの意味が非常に明確な言葉で書かれているからです。

 

【イザヤの預言】

そこで今日はこの新約聖書のページを離れて元々の旧約聖書の箇所であるイザヤ書7章に移りたいと思います。7章の1節ですから14節をお読みしましょう。

イザヤ書71 ユダの王ウジヤの孫であり、ヨタムの子であるアハズの治世のことである。アラムの王レツィンとレマルヤの子、イスラエルの王ペカが、エルサレムを攻めるため上って来たが、攻撃を仕掛けることはできなかった。

2 しかし、アラムがエフライムと同盟したという知らせは、ダビデの家に伝えられ、王の心も民の心も、森の木々が風に揺れ動くように動揺した。

3 主はイザヤに言われた。「あなたは息子のシェアル・ヤシュブと共に出て行って、布さらしの野に至る大通りに沿う、上貯水池からの水路の外れでアハズに会い、彼に言いなさい。落ち着いて、静かにしていなさい。恐れることはない。アラムを率いるレツィンとレマルヤの子が激しても、この二つの燃え残ってくすぶる切り株のゆえに心を弱くしてはならない。

5 アラムがエフライムとレマルヤの子を語らって、あなたに対して災いを謀り、6 『ユダに攻め上って脅かし、我々に従わせ、タベアルの子をそこに王として即位させよう』と言っているが、7 主なる神はこう言われる。それは実現せず、成就しない。

8 アラムの頭はダマスコ、ダマスコの頭はレツィン。(六十五年たてばエフライムの民は消滅する)エフライムの頭はサマリア/サマリアの頭はレマルヤの子。信じなければ、あなたがたは確かにされない。」

10 主は更にアハズに向かって言われた。11 「主なるあなたの神に、しるしを求めよ。深く陰府の方に、あるいは高く天の方に。」

12 しかし、アハズは言った。「わたしは求めない。主を試すようなことはしない。」

13 イザヤは言った。「ダビデの家よ聞け。あなたたちは人間に/もどかしい思いをさせるだけでは足りず/わたしの神にも、もどかしい思いをさせるのか。

14 それゆえ、わたしの主が御自ら/あなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み/その名をインマヌエルと呼ぶ。

 

今日はこの箇所から説教をしましょう。一読してもなんだか分かりづらいですね。歴史上の人の名前だとか国の名前が出てまいります。

今日は思い切って過去の歴史の国の名前や王様の名前を考えずに、込められているメッセージだけを取り出したいと思います。ここに込められている意味は何なのか、そのことだけをはっきりさせたいと思います。

 

【木々が風にゆれ動くように動揺した】

まずは歴史の事件は置いておいて今どういう状況なのかを見ていきたいと思います。7章の2節あたりをご覧ください。どこかの国とどっかの国が同盟し、そういう報がユダの王に届きました。その時にこう書いてあります、「王の心も民の心も森の木々が風にゆれ動くように動揺した」。

 

聖書の中でも珍しい見事な比喩、聖書の中にこんな文章があるんですね。森の木々が風に揺らぐように動揺した。いま民の心も王の心も動揺している時だと思います。風に揺れ動くように私たちの心が揺れ動くときを想像して頂きたいと思います。その時に何が言われるかということですね。

 

【深く陰府に、あるいは高く天に】

動揺している王様に主は言われた。何を言われたか。4「主なるあなたの神に印を求めよ。深く陰府のほうに、あるいは高く、天のほうに」、どっちなのでしょうか。高いんでしょうか、深いんでしょうか、どちらにしても今のあなたの立っている場所でなく、別の次元で神の答えを求めよ。神の印を求めてみよと言われます。

 

10節の頭で主はさらにアハズ王に向かって言われた。動揺しているこの王様に向かって預言者イザヤを通して言われたのです。私たちで言えば説教を通して神は私たちに何かを問われる。その時に今なんと言われたかというと「神に印を求めてみよ。高いか、深いか、いずれにしても今のあなたの立ち位置でなく、別の次元から神がお答えになるから、その神に求めてみよ」と言われています。

動揺している民たち、王たちという事は、今あなたの問題や悩みがあるでしょう。あなたの身の回りに具体的な問題があるでしょう。だからあなたの心は森の木々が風に揺れ動くように動揺する。その時に説教を聞いて別の次元で答えてくださる神に求めてみよ、いうことが言われています。

私たちがそれぞれの生活、事情、身の回りの事柄がありますが、そういう中で心が揺れ動く、私たちは自分の立ち位置であれこれ悩むしかありませんけれども、今言われる事は神に求めてみよ。その時に今のあなたが立っているその立ち位置から違った次元から神の答えが与えられる。それは説教の中で与えられる。こんな状況なんですね。

 

【あなたは神にも、もどかしい思いをさせる】

それに対して王様はなんと言うでしょうか。12節をご覧下さい。「私は求めない。主を試すようなことはしない」。何かもっともらしいですね。神様はそんな試してみてもいいような方ではない、こんなもっともらしいことを言っている。今自分の心はゆれ動いているけれども、こんなささいな問題で神様を試すなんて、そんな事を私は求めない、そんな風にずいぶん強がっている感じですね。

それに対してイザヤと言う預言者の説教の最後の言葉、結論が13節です。「よく聞け、あなたは神にも、もどかしい思いをさせている」こういうのですね、今のあなたの現実の問題がある、その中であなたは強がって神様に求めたりしない、そのような強がりは実は神にもどかしい思いをさせているのだ。聖書はこう言うのですね。

 

どうやら神様は私たち一人ひとりがいろんな出来事の中で、心が揺れ動く時に、もう助けようと思って待ち構えていてくださる方なんでしょうね。

 

【信仰以前の自分】

それなのに私たちは何か強がっている。尤もらしいことを言う。心は本当に揺れ動いているのに神様には頼られない。こんなふうに思っているようですね。私にも覚えがありますけれども私たちは誰しも信仰というものに入る前は皆こうだったんじゃないでしょうか。

 

神様に求めるなんて私は私で頑張る。身の回りにいろんな問題がある、悩みがあるけれどもそんな風に言って私たちは誰しも信仰より前の時代と言うものに覚えがあるわけです。

 

【不確かな自分】

そのことは実は神様には、もどかしいことだと言われているんですね。9節の最後をみてください。「信じなければあなた方は確かにされない」

今私たちにはこの言葉がよく分かると思います。かって信じていなかった自分が、どれほど確かでなかったか。

 

それに比べて今は神様に求め、身の回りのどんな出来事もその解決を神様に求める、神様を信じていいんだ。そういう信仰生活に入っている時に、やっぱり私たちは誰しも、確かさというものを感じることができる。それは自分には無いはずの確かさなんですね。信じなければ私たちは確かにされないのです。今日、天野さんとイサさんが信じるという告白を神と教会の前にされました。

 

今日からお二人は確かにされたと言ってよいのであります。身の回りの色々なことに心を揺れ動かすような出来事がありますが神に頼ることができる、信じて行くことができる。信じなければあれこれ思い悩むだけではないですか。

だけど今日からお二人は信じていい、他には無い確かな生活をこれから立てて行くことと思います。

 

【信仰生活の長い者も】

皆さんの多くの方々はずっと信仰生活をされています。けれども私たち長く信仰生活を送ってきた者たちでもやっぱり心が揺れ動くという事は毎日の生活の中でも出てきます。

しかも信仰を与えられた後も私たちの内にはどこか強がっている信仰があるということがありうると思います。

 

あるいは先の王様のように尤もらしいことを言うだけで本当は心は様々に揺れ動いている。「神様を試すようなことをしない」こんな風に尤もらしい事を言っている態度では、やっぱり神様は遠くにいることになってしまう。

そして神様はそんな風に強がっている私たちのことをもどかしく思っておられるかもしれません。

 

【様々に揺れ動くわたしたち】

具体的な毎日の現実の中で私たちの心は当然様々に揺れ動きます。そういう全く身近な悩みの中でそのまま私たちが神様に向かわないなら、それは神様にはもどかしいことなんだ。

そういうとき私たちは実は「確かにされていないんだ」ということが言えそうです。

わが身を振り返ってみると確かにそうだと言えそうです。だとすればすでに何10年も前に洗礼を受けた私たちも、そして今日洗礼を受けられたお二人も、なお現実の生活の中で様々なことがあるわけです。心が動揺するわけですね。

天野さんもイサさんも、私たちも含めて私たちを確かで無くするいろんなことが、やっぱり起こってくる。いろんな試練というものがあるでしょう。人には言えない、人には共有できない自分の問題というものがあるでしょう。

あるいは身内の死ということだって起こりますね、最終的には自分の死と言うものが近づいてきますね。そんな時に私たちの心が揺れ動いて当然ではないですか。

 

【主は共におられる】

私たちは確かな心でいられなくなるのが当然ではないですか。そういう時、実は神様はいつも待っておられるのですね。

信じなければあなた方は確かにされない。心の動揺を抱えたまま神様に求めるという事を私たちはいつもやり直していいんですね。

そしてこのクリスマスのような機会にこそ私たちはもう一度自分の問題というものをはっきり見据えてこの現実の中から神様に頼っているということを意識してきてみてよさそうですね。

その時、違う次元から自分が確かにされると言う事がもう一度起こる。こう言うんじゃないですか。14節。

 

イザヤ書714 それゆえ、わたしの主が御自ら/あなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み/その名をインマヌエルと呼ぶ。」すなわちイエス・キリストです。

 

先程イサさんと天野さんはこのイエス・キリストを信じますと誓約しました。この方のみを受け入れると誓約された。この誓約をもってお二人は確かにされた。イエス・キリストのことを「その名をインマヌエルと呼ぶ」と言ってますね。最初にお読みしたマタイの福音書がインマヌエルという意味を教えてくれましたね、「神は我々と共にいる」。

 

キリストによって神は我々と共におられる。これが「乙女が身ごもって男の子をクリスマスに産んだ」という意味です。

キリストを受け入れる、キリストを信じるという事は神を味方につけた、神が我々と共におられるということで、神様は遠くにおられるのではなく、遥か上に居られて、遠い空の下でその方を私たちはただ拝むんだ、そういうことでは無いのです。

神は我々と共におられる方だ。なんだかもっともらしいことを言って遠ざけてしまうお方では無いのです。もっともらしい信仰の言葉なんか言わなくていいんじゃないですか。

そんな風に神様を遠くに敬って、遠くから拝んでいるというのではなく、そんな信仰は私たちの信仰には無いんですね、神様はそんな神様でなくて、揺れ動くあなたの隣にいてくださる、来てくださっている神様です。それが「インマヌエル」、「我等と共におられる神」です。

 

【主はクリスマスに来たりたもう】

イエス・キリストを味方につけたのですから、あなたの具体的な問題の解決を求めていいのです。求めることができるのです。そのためのクリスマスだ。

そのためにこそ、いま現に悩んで心を迷わしているあなたのすぐ隣にまで降りて来てくださった。それがクリスマスなのだ。

そして今新たに思いもよらないような解決をいわば別次元からあなたに与えてくださるために主はクリスマスに生まれてくださった。

確かでなかったあなたに確かなあなたにされるためにクリスマスがある。

 

いかがでしょうか。今天野さんとイサさんはそういう確かさに入った。私たちはともどもにもう一度この確かさ帰って行く事が出来る、それがクリスマスだということが言えそうですね。

 

【落ち着いて静かにしていられるために】

最後にもう一つだけ4節の言葉を見ていただきたいと思います。

「落ち着いて静かにしてなさい」。今こんなふうにいわれてるこの人は落ち着いていることのできない状況にあった。静かにしていることができない状況にあった。何かその試練に襲われようとしていた時です。

どうしてその人は落ち着いてることができなかったでしょうか。静かにしていることができなかったでしょうか。それはさきほどの12節の言葉に現れています。

彼は言った「私は求めないし、試すようなことはしない」。こんなふうに強がっているから、神様に頼っていないから聖書の事柄が知識に終わっているからです。

だったら私たちのそのような信仰は神様にはもどかしいことですね。

私たちが聖書の解き明かしを礼拝ごとに聞いても、その聖書の言葉がただの知識に終わってしまって、そんなことを置いていて自分ひとりでそんなことに悩み強がっているなら、それは神様にはもどかしいことです。私たちはそんな風に自分で強がって神様に頼るるということをしないなら、私たちは落ち着いてることができません。悩みばかりのせわしないばかりの人生ではないですか。

 

次から次に問題が起こってくるではないですか。落ち着いていることなんかできませんよ。

私たちは本当は落ち着くことができる。落ち着いていいんですね。静かにしていていいんですね。あたふたしなくていい。

そういう確かさを、落ち着いていられる生活を、これが私たちに与えられた最大の恵みでないですか。そういう生活の中に今日天野さんとイサさんが加わってくれました。

これは全くクリスマスのシーズンにふさわしい。私はともどもに今年のクリスマスを喜ぶことができます。

繰り返します。クリスマスは私たちが強がることをやめて、そして真実に神様に頼るという事を、それによって「落ち着いて静かにしていることができる」ための祝いです。

せわしなく自分の悩みと戦い体調と戦い、また様々の試練と戦うだけであったら私たちの人生は忙しさと虚しさだけしか残らない。それでは生きた心地がしないからクリスマスが今年も来たのです。クリスマスにこそ私たちはもう一度本来の私たちの落ち着きを取り戻すことができる。

 

そのために「見よ。乙女が身ごもって男の子を産む」だのですね。

あっという間に2013年も終わりです。振り返ってみると今年も私たちにはそれぞれ揺れ動くことがあったと思います。

だからこそ今年もクリスマスがきた。私たちがもう一度「落ち着いて静かにして確かな自分というものを取り戻す」。そのために今年もクリスマスが巡ってきました。

 

【クリスマスに与えられたイエス・キリストとともに歩む】

確かに私たちはこのクリスマスにせっかく与えられたイエス・キリストと共に生きるものです。

この方に真実頼る私たち、それが落ち着いて静かにしていられる私たちなのですね。

これからだって来年も様々なことが起こると思います。

今年中にも色々な事が起こってくる。しかしその中にあって私たちは落ち着いて静かにしておれる。ゆったりとした心で静かにしていることができる。

不安な病があるでしょう。あるいはだんだん年齢を重ねて身内の死ということを味わい、また自分の死というものが思いよぎってきます。そんな時に私たちの強がりは何にもなりません。

強がっている限り私たちの心は森の木々が風に揺れ動くように動揺している。皆そうです。だからそれが「もどかしい」から神様はクリスマスを約束してくださった。その時を今私たちは過ごしているんですね。

 

皆さんの中にはまだ洗礼を受けておられない方もおられるでしょう。どうぞこの確かな生活にその方々にも入っていただきたいと思います。

安心して静かに落ち着いていられる、そのゆったりとした命の味わいという物を本当に味わっていただきたいと思います。どうぞ自分のことを例外だと思わないで、洗礼を受けていただきたい。

 

【光と確かな道を】

やはり光の道というものはあるのです。そしてこのクリスマスに私たちの光の道が確かに示されているのですね。

試練が、身内を襲う様々な事柄に、自分も向かっていかなければならない死という恐ろしさ、そんな物を前にして私たちは怖じ惑うばかり、心配ばかりです。

だけどここに別の次元から神様は本当の確かさというものをお与え下さった。この道を本当に見つめたいと思いますね。

そして私たちは皆、この道に入ることができるという、この道を共に安心して歩んでいくことができる。どうぞ皆さんお一人ももれなくこの道を、ともに歩みたいと思います。

 

その光の道を今日、天野さん、イサさんは歩きはじめられました。私たちもともどもに歩みを続けたいと思います。

 

【祈り】

お祈りしましょう。クリスマスは私たち一人一人にとって本当に喜ばしい命の祝祭です。

本当に安息できる生き方を、神様が今日、天野さんとイサさんお二人に与えてくださったことを心から感謝いたします。

これからも担っていくべき課題がお二人にはあると思いますが、私たちにも皆ありますけれども、どうぞそのような時に私たちは一人一人静かに落ち着いて神様に助けられると言うことを味わうことができるように、神様に助けを求めればよいのだということを、私たちはそれぞれの現実の中で味わうことができるように、クリスマスに、そしてこれからの私たちの歩みを祝福してください。主イエスの名によってお祈りします。
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2013年12月08日 | カテゴリー: イザヤ書 , 旧約聖書

2012年12月16日説教「天を裂いて降られた神」ウイリアム・モーア宣教師

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20121216日説教「天を裂いて降られた神」ウイリアム・モーア宣教師

聖書:イザヤ書

旧約聖書

イザヤ書6319どうか天を裂いて降ってください。御前に山々が揺れ動くように。

641 柴が火に燃えれば、湯が煮えたつように/あなたの御名が敵に示されれば/国々は御前に震える。2 期待もしなかった恐るべき業と共に降られれば/あなたの御前に山々は揺れ動く。3 あなたを待つ者に計らってくださる方は/神よ、あなたのほかにはありません。昔から、ほかに聞いた者も耳にした者も/目に見た者もありません。

4 喜んで正しいことを行い/あなたの道に従って、あなたを心に留める者を/あなたは迎えてくださいます。あなたは憤られました/わたしたちが罪を犯したからです。しかし、あなたの御業によって/わたしたちはとこしえに救われます。

5 わたしたちは皆、汚れた者となり/正しい業もすべて汚れた着物のようになった。わたしたちは皆、枯れ葉のようになり/わたしたちの悪は風のように/わたしたちを運び去った。6 あなたの御名を呼ぶ者はなくなり/奮い立ってあなたにすがろうとする者もない。あなたはわたしたちから御顔を隠し/わたしたちの悪のゆえに、力を奪われた。

7 しかし、主よ、あなたは我らの父。わたしたちは粘土、あなたは陶工/わたしたちは皆、あなたの御手の業。8 どうか主が、激しく怒られることなく/いつまでも悪に心を留められることなく/あなたの民であるわたしたちすべてに/目を留めてくださるように。

 

説教要約(文責 近藤)

 

【人類の願い】

イザヤ書63章後半「どうか天を裂いて降ってください。」と今日の箇所で神の民は切に祈りました。「どうか天を裂いて降ってください。」は人類の願です。遠い天国を去り降ってきて私たちを助けてくださいと大昔のユダヤ人は願いました。

 

【人の罪】

当時の人々だけでなく多くの人の願でもあります。この切なる理由が少し考えただけで私たちにも分かると思います。どんな楽観的な人でも自分と周りの人と社会を見ればあらゆる点で良くないことに気付くはずです。人はあらゆる点で罪と欠点の存在であると分かります。自己の我侭で悪いと知りながら隣人に罪を犯し、そのことを正当化します。愛する者をさえ傷つけます。ニュースを見ると日々実にひどい事件があり、犯罪、殺人、暴力、暴行、戦争などがあり、これが普通だと思われると絶望的になることもあります。

 

【人は進歩したか】

私たち人間は素晴らしい存在だと言うものもあります。昔と違い人類は科学において素晴らしい進歩を遂げました。科学を通して神の創造が理解できます。ロケットを飛ばして宇宙でロボットを使い調べることなどは素晴らしく進歩しました。

 

【人の本性は変わらない】

しかし残念ながら人間の性質は昔と一つも変わりません。少しでも良くなったでしょうか。実は昔と全く同じです。人は自己中心的です。神が人を創られたとき人間の幸福のために神の戒めを守るように教えられました。しかし人は自分の知恵に頼り自分の思いで歩むようになりました。その結果、悲しみ、苦しみが起こってきました。聖書ではこの状態を罪と言います。

 

イザヤ書645節に記されたとおりです。

わたしたちは皆、汚れた者となり/正しい業もすべて汚れた着物のようになった。わたしたちは皆、枯れ葉のようになり/わたしたちの悪は風のように/わたしたちを運び去った。」

 

私たちが神を拒否することで神と人の関係は悪くなり、人と人との関係も悪くなりました。ある人はキリスト教は罪を強調するので暗い宗教だと言います。

 

人は嫌なことや悪いことに関して言いたくないので隠す傾向があります。例えば福島では放射線から逃れたいけれど、他に選択のない人は黙って耐えてそこに住むしかないのです。

嫌なことは避けたい忘れたいのですが、それで決して問題が無くなるわけではありません。

 

【罪から逃れられない人間】

罪もそうです。ある人は人間は基本的に良い存在と言い、本能的にふるまえば大丈夫だと言います。私もそう考えたいです。醜い社会の罪は忘れたい。しかしその考えは間違っている。罪のことを考えなかったら罪は無くなりません。ストレートに言えば罪を認めるしかありません。罪は明らかなことで避けられないことです。

 

この深刻な問題に直面した預言者イザヤと同じように神に「どうか天を裂いて降ってください」と祈り願うしかありません。罪の力があまりに強いので自己の力で解決しようとすれば絶望するしかありません。私たちの力で罪は解決できません。

 

【御子の受肉】

憐れみ深い全能の神は人間のこの切なる願いを聞き、丁度良い時に天からキリストを私たちを助けるために遣わして下さいました。神こそが天を裂いて降って下さいました。

 

そればかりか神は謙遜になって天の栄光を捨てて人間になりこの世に来られました。聖書によると

言葉、すなわち神の御子キリストは肉体となり私たちの内に宿りました。

 

来週はこの素晴らしいニュースを聞きます。神が人となり私たちと同じ誘惑と闘い、同じ疲れ、同じ歓びと悲しみを経験してくださいました。それはイエス・キリストを通してです。

 

【幼子イエス様】

愛する創造主なる全能の神が栄光と力を捨てて人間の赤ちゃんとなられました。これは驚くべきことです。私たち罪人の為に天国のあらゆる特権をイエス様は自ら捨てて私たちのために人間の赤ちゃんになられたのです。イエス様は私とあなたのために人間になって下さいました。しかしイエス様は罪を全く犯されませんでした。父の神に完全に従われました。

 

【ある家出した妻】

ある若い婦人が何不自由のない生活をしていましたが、毎日のつまらない変化のない生活から我慢できなくなり逃げ出したくなりました。

 

そして家出をしました。その夜夫に電話して自分は大丈夫だが、もう家には帰らないと言いました。夫は妻を愛しているから直に帰ってくるように懇願しました。しかし妻はそれを断りました。妻は何度か家に電話し、そのたびに夫は妻を愛しているから早く帰るように頼みました。

 

遂に寂しくなった夫は探偵を雇い彼女の居場所を探してもらいました。ある遠い街の宿屋にいることがわかったので夫はすぐに飛行機で彼女の所に飛びました。妻のいる部屋の戸を夫は震えながら開けました。彼女は夫を見て一瞬驚きましたが、途端に夫に抱き着き泣き出しました。そして家に一緒に帰りました。

 

帰ってから夫は妻に聞きました。なぜ電話で貴女を愛していると何度も言ったのに帰ってくれなかったかと。彼女は夫に答えました。あなたはいつも愛していると言ってくれたが、それは口先ばかりの愛ではないかと思ったのです。しかし私を探してわざわざ私の所まで来てくれたのであなたの愛を確信できましたと答えました。だから帰ろうと思ったのです。

 

【神の愛】

全能の神様は口先ばかりの愛でなく犠牲的愛でその証拠をお示し下さいました。主イエスはこの世に来られたばかりか、もっと大きな問題、罪を解決するために御自身を十字架に架けて死んで下さいました。その贖いの御業によって神様の御前に出る特権が与えられました。

 

私たちは神の愛された子供となりその父なる神様の全ての祝福を与えられました。

 

愛する兄弟姉妹。私たちにとって御降誕のイエス様は飼葉桶の可愛らしい赤ちゃんに過ぎないだけでしょうか。それともこの世の救い主、あなたの救い主ですか。

 

主が天を裂いて肉体をとって世に降られた神の愛に私たちは驚きを覚えますか。主イエス・キリストを通して天のあらゆる恵みを下さいます。そのことを覚えて心からの感謝を主なる神に捧げましょう。(おわり)

 

 

 

 

 

 

 

 

2012年12月16日 | カテゴリー: イザヤ書 , 旧約聖書

2012年12月2日説教「クリスマスの準備」ウイリアム・モーア宣教師

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2012122日説教「クリスマスの準備」ウイリアム・モーア宣教師

 

聖書:旧約聖書イザヤ書401~5

1 慰めよ、わたしの民を慰めよと/あなたたちの神は言われる。2 エルサレムの心に語りかけ/彼女に呼びかけよ/苦役の時は今や満ち、彼女の咎は償われた、と。罪のすべてに倍する報いを/主の御手から受けた、と。

3 呼びかける声がある。主のために、荒れ野に道を備え/わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。4 谷はすべて身を起こし、山と丘は身を低くせよ。険しい道は平らに、狭い道は広い谷となれ。5 主の栄光がこうして現れるのを/肉なる者は共に見る。主の口がこう宣言される。

 

説教要約(文責 近藤)

【預言者イザヤ】

今日は教会歴ではAdvent待降節の第1主の日です。1223日クリスマスの4週前になります。

キリスト教会はこの季節に特に救い主の来臨と再臨について学びます。御子イエス・キリストの誕生は預言者を通して啓示してくださいました。今日はクリスマスの準備のために旧約聖書におけるイエス・キリスト来臨についての預言を新たに学びます。

 

今日与えられた御言葉の背景を簡単に説明します。

イザヤは主の御降誕の前700年にイスラエルで活躍し神の御言葉のメッセンジャーとして働きました。

当時のユダヤ人は主の恵みと教えを忘れ周りの国々に倣って偶像礼拝に陥り反省も悔い改めもせず、預言者の声にも聞かず、それゆえに主はアッシリア帝国を用いて紀元前722年北イスラエルを滅ぼされました。その住民はアッシリアに連れて行かれました。

 

【神の懲らしめと慰め】

更にイザヤは紀元前586年南ユダのバビロン捕囚を預言し、それは100年後に実現しユダヤ人はバビロンに連れていかれました。神の民には神の懲らしめが必要でしたが同時に神は慰めと希望のメッセージをも与えてくださいました。それは懲らしめはいつまでも続くことなく捕囚からの解放と故国帰還の預言です。イザヤ書40章1~2節の御言葉に預言されています。

 

イザヤ書401 慰めよ、わたしの民を慰めよと/あなたたちの神は言われる。

2 エルサレムの心に語りかけ/彼女に呼びかけよ/苦役の時は今や満ち、彼女の咎は償われた、と。罪のすべてに倍する報いを/主の御手から受けた、と。

 

この預言は赦しの宣言です。主は憐れみの神ですから私たち人間を赦し神との良き正しい関係を復帰させたいのです。それ故にこの素晴らしい赦しの約束を宣言しました。2節後半、

 

「・・苦役の時は今や満ち、彼女の咎は償われた、と。罪のすべてに倍する報いを/主の御手から受けた、と。」

 

まことに嬉しいメッセージです。外国でイスラエルの民は主の懲らしめを受けたが、もう一度主の豊かな恵みを受ける確かな希望です。実にこれは主イエス・キリスト来臨の預言です。

 

人の罪を赦すことのできるお方は神の御子イエス様だけです。

2012年前、初めてのクリスマスに神は私たちを慰めるため、主イエスを遣わして、主イエスはすべての罪の咎を私たちに代わって贖ってくださいました。主は私たちの罪の全てに倍する報いを受けられました。

 

それが2節の御言葉です、2 エルサレムの心に語りかけ/彼女に呼びかけよ/苦役の時は今や満ち、彼女の咎は償われた、と。罪のすべてに倍する報いを/主の御手から受けた、と。」

 

【救い主の到来の備え】

私たちがこの救いを受けるためには準備が必要です。

 

3節以下の御言葉、3 呼びかける声がある。主のために、荒れ野に道を備え/わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。4 谷はすべて身を起こし、山と丘は身を低くせよ。険しい道は平らに、狭い道は広い谷となれ。5 主の栄光がこうして現れるのを/肉なる者は共に見る。主の口がこう宣言される。」

 

大昔、中東では大王が領土を通るとき、その道が安全であるかどうかを調べるために使者を送りました。道が悪ければ道を整えました。そうして王は速やかに安全に道を通ることができました。王の王、主の主なる救い主を迎えるために整えられた道路とは私たち人間の心の準備です。

 

私たち人間が世界と宇宙の創造者、王の王、主の主である御子を受け入れるのに為すべき準備とは何でしょうか。

 

【預言が成就】

イザヤから700年後にこの預言が成就しました。

新約聖書マタイ福音書3章に書かれています。それは主の道を整えるために洗礼者ヨハネが現れました。

 

1 そのころ、洗礼者ヨハネが現れて、ユダヤの荒れ野で宣べ伝え、2 「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言った。3 これは預言者イザヤによってこう言われている人である。「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、/その道筋をまっすぐにせよ。』」。

 

【クリスマスの準備:悔い改め】

クリスマスの準備とは悔い改めることです。私たちの罪が道を曲げています。罪を自覚しそれを失くすことの第一歩は悔い改めることです。誤った自己中心を改め、何よりも自分が変わること、自分の罪を認め、悔い改めて神との正しい関係に入ることです。そのことによって主イエスの霊は私たちの心に入る余地があります。

 

皆さん、尊敬する客人を家に迎えるには準備します。家を掃除してきれいにします。おいしい料理でもてなしをして客を歓迎します。同様に悔い改めると私たちの心に主を歓迎することになります。

 

今年のアドベントに自身を吟味し自分の罪の掃除をしませんか。家を清めるのと同じように、心を清めることで神の御子なる主イエスをお迎えするのです。

 

プレゼントや料理も良いですが第一にすべき準備とは悔い改めること、自分中心に考えるのでなく、相手を中心に考えると、わたしたちの行動もずいぶん変わります。主にあって私たちは一つになれるのです。

 

親が変われば子も変わるという言葉があります。私が変われば周囲も変わる。

アドベントに際して悔い改めることによってこの世の唯一の救い主、主イエスの御降誕を祝う準備ができます。

 

【主の再臨を迎える準備】

アドベントに際してこれから来られる主の再臨も切に待ち望みます。主は再び来られます。再臨のとき全ての人は主の御栄光をはっきりと仰ぎます。

主の再臨を迎える準備は主のアドベントの準備と同じです。

 

「悔い改めよ。天の国が近づいた」。今悔い改め救い主イエス・キリストを心から受け入れ主に従うことは同時に再臨の準備になります。

愛する兄弟姉妹。今年も共に恵まれた待降節を過ごしたいと主は願っておられます。(おわり)

 

 

 

 

2012年12月02日 | カテゴリー: イザヤ書 , 旧約聖書

株からひとつの芽が萌えでた ウイリアム・モーア宣教師

イザヤ書11章1−10◆平和の王

1:エッサイの株からひとつの芽が萌えいで/その根からひとつの若枝が育ち2:その上に主の霊がとどまる。知恵と識別の霊/思慮と勇気の霊/主を知り、畏れ敬う霊。3:彼は主を畏れ敬う霊に満たされる。目に見えるところによって裁き を行わず/耳にするところによって弁護することはない。 4:弱い人のために正当な裁きを行い/この地の貧しい人を公平に弁護する。その口の鞭をもって地を打ち/唇の勢いをもって逆らう者を死に至らせる。5:正義をその腰の帯とし/真実をその身に帯びる。6:狼は小羊と共に宿り/豹は子山羊と共に伏す。子牛は若獅子と共に育ち/小さい子供がそれらを導く。7:牛も熊も共に草をはみ/その子らは共に伏し/獅子も牛もひとしく干し草を食らう。8:乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ/幼子は蝮の巣に手を入れる。9:わたしの聖なる山においては/何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。水が海を覆っているように/大地は主を知る知識で満たされる。10:その日が来れば/エッサイの根は/すべての民の旗印として立てられ/国々はそれを求めて集う。そのとどまるところは栄光に輝く。


【近所の空地】
うちの近所を散歩する時、いつもある空き地を通ります。その空き地はただ何もない駐車場のような所ではないし、また、手入れを全然していない雑草のジャングルでもありません。誰かがその空き地で美しいお庭を作りました。オリブの木とか、ハーブとか、お花も奇麗に植えてあります。その所を通ると、特に立ちこめるハーブの香りは歩く人を引き付けます。ですから、私達も例外ではありません。散歩する度に、家内と私はその所でよく足を止め、一分でも庭を眺め、楽しむのが習慣のようになりました。

2008年11月30日 | カテゴリー: イザヤ書 , 旧約聖書

私達はどのような神に仕えていますか ウイリアム・モーア宣教師

聖書 燃え盛る炉に投げ込まれた三人
ダニエル書3章8−30

8:さてこのとき、何人かのカルデア人がユダヤ人を中傷しようと進み出て、9:ネブカドネツァル王にこう言った。「王様がとこしえまでも生き永らえられますように。10:御命令によりますと、角笛、横笛、六絃琴、竪琴、十三絃琴、風琴などあらゆる楽器の音楽が聞こえたなら、だれでも金の像にひれ伏して拝め、ということでした。11:そうしなければ、燃え盛る炉に投げ込まれるはずです。12:バビロン州には、その行政をお任せになっているユダヤ人シャドラク、メシャク、アベド・ネゴの三人がおりますが、この人々は御命令を無視して、王様の神に仕えず、お建てになった金の像を拝もうとしません。」

13:これを聞いたネブカドネツァル王は怒りに燃え、シャドラク、メシャク、アベド・ネゴを連れて来るよう命じ、この三人は王の前に引き出された。14:王は彼らに言った。「シャドラク、メシャク、アベド・ネゴ、お前たちがわたしの神に仕えず、わたしの建てた金の像を拝まないとい うのは本当か。15:今、角笛、横笛、六絃琴、竪琴、十三絃琴、風琴などあらゆる楽器の音楽が聞こえると同時にひれ伏し、わたしの建てた金の像を拝むつもりでいるなら、それでよい。もしも拝まないなら、直ちに燃え盛る炉に投げ込ませる。お前たちをわたしの手から救い出す神があろうか。」

16:シャドラク、メシャク、アベド・ネゴはネブカドネツァル王に答えた。「このお定めにつきまして、お答えする必要はございません。17:わたしたちのお仕えする神は、その燃え盛る炉や王様の手からわたしたちを救うことができますし、必ず救ってくださいます。18:そうでなくとも、御承知ください。わたしたちは王様の神々に仕えることも、お建てになった金の像を拝むことも、決していたしません。」19:ネブカドネツァル王はシャドラク、メシャク、アベド・ネゴに対して血相を変えて怒り、炉をいつもの七倍も熱く燃やすように命じた。20:そして兵士の中でも特に強い者に命じて、シャドラク、メシャク、アベド・ネゴを縛り上げ、燃え盛る炉に投げ込ませた。21:彼らは上着、下着、帽子、その他の衣服を着けたまま縛られ、燃え盛る炉に投げ込まれた。22:王の命令は厳しく、炉は激しく燃え上がっていたので、噴き出る炎はシャドラク、メシャク、アベド・ネゴを引いて行った男たちをさえ焼き殺した。23:シャドラク、メシャク、アベド・ネゴの三人は縛られたまま燃え盛る炉の中に落ち込んで行った。24:間もなく王は驚きの色を見せ、急に立ち上がり、側近たちに尋ねた。「あの三人の男は、縛ったまま炉に投げ込んだはずではなかったか。」彼らは答えた。「王様、そのとおりでございます。」25:王は言った。「だが、わたしには四人の者が火の中を自由に歩いているのが見える。そして何の害も受けていない。それに四人目の者は神の子のような姿をしている。」26:ネブカドネツァル王は燃え盛る炉の口に近づいて呼びかけた。「シャドラク、メシャク、アベド・ネゴ、いと高き神に仕える人々よ、出て来なさい。」すると、シャドラク、メシャク、アベド・ネゴは炉の中から出て来た。27:総督、執政官、地方長官、王の側近たちは集まって三人を調べたが、火はその体を損なわず、髪の毛も焦げてはおらず、上着も元のままで火のにおいすらなかった。28:ネブカドネツァル王は言った。「シャドラク、メシャク、アベド・ ネゴの神をたたえよ。彼らは王の命令に背き、体を犠牲にしても自分の神に依り頼み、自分の神以外にはいかなる神にも仕えず、拝もうともしなかったので、この僕たちを、神は御使いを送って救われた。29:わたしは命令する。いかなる国、民族、言語に属する者も、シャドラク、メシャク、アベド・ネゴの神をののしる者があれば、その体は八つ裂きにされ、その家は破壊される。まことに人間をこのよう  に救うことのできる神はほかにはない。」 30:こうして王は、シャドラク、メシャク、アベド・ネゴをバビロン州で高い位につけた。


【最近の恐ろしい出来事】
最近新聞に大きく取り上げられたニュースです。 「八王子殺傷、現場近くで包丁購入『誰でもよかった』。 消費者物価1.9%上昇、92年来の上げ幅。 千葉で民家火災、焼け跡から母子4人の遺体。 秋葉原通り魔事件、男が通行人や警察官17人を車ではねて刺す、3人死亡。 東北地方で震度6強地震。 14歳が東名高速でバスジャック。」

2008年07月27日 | カテゴリー: イザヤ書 , ダニエル書 , ヨハネによる福音書 , ローマの信徒への手紙 , 新約聖書 , 旧約聖書 , 詩篇

御名を知る人 ウイリアム・モーア宣教師

詩編9:1−21

1:【指揮者によって。ムトラベンに/合わせて。賛歌。ダビデの詩。】

2:わたしは心を尽くして主に感謝をささげ/驚くべき御業をすべて語り伝えよう。3:いと高き神よ、わたしは喜び、誇り/御名をほめ歌おう。4:御顔を向けられて敵は退き/倒れて、滅び去った。5:あなたは御座に就き、正しく裁き/わたしの訴えを取り上げて裁いてくださる。6:異邦の民を叱咤し、逆らう者を滅ぼし/その名を世々限りなく消し去られる。7:敵はすべて滅び、永遠の廃虚が残り/あなたに滅ぼされた町々の記憶も消え去った。8:主は裁きのために御座を固く据え/とこしえに御座に着いておられ る。9:御自ら世界を正しく治め/国々の民を公平に裁かれる。10:虐げられている人に/主が砦の塔となってくださるように/苦難の時の砦の塔となってくださるように。

11:主よ、御名を知る人はあなたに依り頼む。あなたを尋ね求める人は見捨てられることがない。12:シオンにいます主をほめ歌い/諸国の民に御業を告げ知らせよ。13:主は流された血に心を留めて/それに報いてくださる。貧しい人の叫びをお忘れになることはない。14:憐れんでください、主よ/死の門からわたしを引き上げてくださる方よ。御覧ください/わたしを憎む者がわたしを苦しめているのを。

15:おとめシオンの城門で/あなたの賛美をひとつひとつ物語り/御救いに喜び躍ることができますように。16:異邦の民は自ら掘った穴に落ち/隠して張った網に足をとられる。17:主が現れて裁きをされるとき/逆らう者は/自分の手が仕掛けた罠にかかり〔ヒガヨン・セラ

18:神に逆らう者、神を忘れる者/異邦の民はことごとく、陰府に退く。

19:乏しい人は永遠に忘れられることなく/貧しい人の希望は決して失われない。20:立ち上がってください、主よ。人間が思い上がるのを許さず/御顔を向けて異邦の民を裁いてください。

21:主よ、異邦の民を恐れさせ/思い知らせてください/彼らが人間にすぎないことを。〔セラ


【あるインデイアンの成人式】
昔のアメリカインデイアンのある部族には青年の訓練の独特のやり方がありました。先ず、13歳位になる青年達は一人前になる為にその父親はもちろん、部族の長老達によって色んな技術を教えてもらいました。魚釣り、狩猟、乗馬、弓術などのような必要な事をしっかり訓練させられました。そして、最後には青年達は試練を受けなければなりませんでした。それは独りで森林の中で一夜を過ごす事です。その時点まで青年はいつも家族の保護に囲まれ、部族から離れた事が一度もありませんでした。しかし、試練の夜、彼は目隠しされ、深い森の中の知らない所へ案内されました。そして、「暫く目隠しを取ってはいけない」と注意されてから、案内する人が去ってしまいました。言うまでもないが、青年は目隠しを外した時、恐れを感じました。暗い夜に色んな不気味な音が聞こえました。そして、その全ての音は襲って来る野獣の現れだと想像したのです。寂しくなってどうしても家に帰りたかったのです。更に、夜の寒さを感じると、震えました。眠る事が出来なくて、地面に座り泣きたいのを我慢し、声も出さず息を抑えて、ただじっとするしかなかったのです。

2008年07月13日 | カテゴリー: イザヤ書 , マタイによる福音書 , 新約聖書 , 旧約聖書 , 詩篇

幼子イエスに出会ったシメオンとアンナ ウイリアム・モーア宣教師

ルカによる福音書2章22−40
 
 
2007年のクリスマスはもう終わりました。先週まで何所へ行っても聞こえて来たクリスマスキャロルは聞こえて来ません。クリスマスの飾りは来年の為にもう物置きに納められています。子供達は既に憧れたクリスマスプレゼントを忘れ、来年に頂きたい物を考えています。あっと言う間にクリスマスが終わってしまい、お正月と故郷帰りの準備で皆はばたばたしています。
 
【幼子イエスのお宮参り】
同じように、2007年前に、最初のクリスマスが済んでから、幼子イエスの両親、マリアとヨセフは忙しくなりました。しかし、それはお正月と親戚の訪問の為ではありません。実は、大事な宗教上の儀式を行わなければなりませんでした。それは長子イエスをエルサレムの神殿へ連れて、ユダヤ教の掟に従ってその子を神に献げる事です。旧約聖書の律法によりますと、

「人であれ、家畜であれ、主にささげられる生き物の初子はすべて、あなたのものとなる。ただし、人の初子は必ず贖わねばならない。また、汚れた家畜の初子も贖わねばならない。初子は、生後一ヶ月を経た後、銀5シェケル、つまり1シェケル当たり20ゲラの聖所シェケルの贖い金を支払う。」


(民数記18:15−16)

2007年12月30日 | カテゴリー: イザヤ書 , ルカによる福音書 , 新約聖書 , 旧約聖書 , 民数記

驚くべき恵み ウイリアム・モーア宣教師

ルカによる福音書2章1−20節
 
【日本でもクリスマス?】
毎年、クリスマスが近づくとアメリカの教会の人々からこのような手紙をよく頂きます。「日本のクリスマスはどうですか。そちらはキリスト者があまりいないと聞くので、大変寂しいでしょう。わたしの町はクリスマスの為にとても明るくなりましたが、日本はそうではないでしょう。辛く、寂しいけれども頑張って下さい。」
 
返事として私はこのように書きます。「多くの日本人はクリスマスを一生懸命に祝って下さいますので私達の事は心配しないで下さい。ここでは、十一月上旬からクリスマスの宣伝が始まります。どこでもサンタクロースとクリスマスツリーの姿が見えるし、店のスピーカではクリスマスキャロルもアメリカに負けない程よく聞こえます。クリスマスパーテイーも流行っていますし、クリスマスプレゼントを買う為に人々はデパートへ押し寄せます。その上、日本では我々アメリカ人にないクリスマスの伝統も結構あります。ここは12月24日にケンタキー•フライド•チキンとクリスマスケーキを食べます。また、青年達はクリスマスイブに特別なデートをします。私達の事を考えて下さって大変有りがたいのですが、日本人はクリスマスが大好きですので、私達の事は心配しなくてもよいのです。」
 
今年も、日本とアメリカだけではなく、全世界の多くの人々はクリスマスを祝っています。アフリカでは太鼓の音と激しいダンスでクリスマスの喜びを表しています。ヨーロッパでは色々な昔からのクリスマス伝統が守られています。南米では教会はクリスマスの為に満員になります。そして、パレスチナでは人々は主イエス・キリストがお生まれになった町ベツレヘムへ集まって礼拝を行います。本当にクリスマスは全世界の人々のものになり、一番良く守られた祭日ではないかと思います。

2007年12月23日 | カテゴリー: イザヤ書 , ヨハネによる福音書 , ルカによる福音書 , 新約聖書 , 旧約聖書

インマヌエル-神は我々と共におられる ウイリアム・モーア宣教師

マタイによる福音書1章18−25
 
【主イエスの呼称】
聖書には主イエスが数多くのお名前で呼ばれています。例えば、平和の君、キリスト、救い主、世の光、ユダヤ人の王、神なる言(ことば)、油注がれた者、アルファでありオメガである。それぞれの素晴らしいお名前は私達に主の役割と重要性と存在を豊かに教えます。つまり、そのお名前を通して私達は主イエスがどう言うお方であるかを悟るのです。
 
今、アドベントを守っている私達には主イエスの多くの名前の中でもっとも意味深いものが一つがあります。そのお名前は先程読ませて頂いた個所に載ってあります。マタイによる福音書1章22と23を見ますと、こう書いてあります。

「このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。『見よ、おとめが身ごもって男の子を生む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』この名は、『神は我々と共におられる』と言う意味である。」

 
【インマヌエル】
インマヌエル、すなわち、神は我々と共におられる。実は、神の独り子イエス・キリストが人間の赤ちゃんになり、この世に誕生されました。天国の全ての特権と栄光を捨てて、我々と共におられる為、又、私達を罪から救って下さる為、この世に生まれました。しかも、神の御子は貴族や大金持ちなどの家庭に誕生されませんでした。却って、普通の大工と許嫁(いいなずけ)になっている若い娘に生まれました。そして、宿がなかったので、主の生まれた所は馬小屋で、ベッドは飼い葉桶でした。御自分の救いは全人類の為であるので、人間としてこの世に入った時、主イエスが自分を非常に低くして我々と共におられました。

2007年12月09日 | カテゴリー: イザヤ書 , マタイによる福音書 , ヨハネによる福音書 , 新約聖書 , 旧約聖書

愛する神と悪の諸問題 ウイリアム・モーア宣教師

ローマの信徒への手紙8章28節
 
【偶然の悲しい出来事】
この間、ロスアンジェルス•タイムズと言う新聞でこの悲しい記事を読みました。記事の題は、「生まれたての赤ちゃんが流れ弾で殺された」とありました。「ベビーカーに寝っていた23日の新生児がロスアンジェルスのマッカーサー公園で流れ弾に撃たれました。日曜日の午後9時30頃、母親が赤ちゃんを公園へ連れたときに撃ち合いに巻き込まれました。三人のラテン・アメリカ系男性と屋台の主人との間で射撃事件が起きて、一人の男も銃で打たれました。彼は病院へ運ばれ、安定した状態で治療を受けています。しかし、赤ちゃんルイス•ガシアが午後10時過ぎに病院で死を宣告されました。当局は事件を調べていますが、犯人達とその動機はまだ不明だそうです。
          
公園の周辺には小さい売店と屋台が沢山あり、その殆ど全部はラテン系の人の経営です。事件の近くの店の店長が事件についてこのように語りました。「多くの家族が買い物と公園に、ここに集まって来るのに、 残念ながら、ここは危険な所です。 近辺は暴力で悪名になってしまいました。」
 
皆さん、このような悲惨な出来事を聞くと、その赤ちゃんの家族の悲しみと怒りを容易に想像出来ると思います。もし、自分の家族にそのような酷い乱暴があったら、もちろん悔しくてたまりません。産まれたばかり無邪気な赤ちゃんがそのように無意味に殺されたのは悲劇の中の悲劇になります。その事件はこの世にあるもっとも酷い悪の縮図であると思います。

2007年09月23日 | カテゴリー: イザヤ書 , ガラテヤの信徒への手紙 , ヤコブの手紙 , ルカによる福音書 , ローマの信徒への手紙 , 新約聖書 , 旧約聖書 , 民数記 , 詩篇

真の自由 ウイリアム・モーア宣教師

聖書:ヨハネによる福音書8章31−38
 
 
【ウオレス将軍】
「パッション」と言う映画で有名になったメル•ギブソン監督は1995年に「ブレイブハート」と言う他の映画でスコットランド人のウオレス将軍の役を務めました。その映画はウオレス将軍が無残なイギリスから自分の国スコットランドの自由を回復しようとするストーリです。ウオレス将軍は立派にイギリス軍と戦って多くの勝利を得ましたが、最後に彼は友人によって裏切られ、イギリスの王に渡されてしまいました。そして、イギリスの王はウオレス将軍を処刑するつもりでした。しかし、処刑する前にイギリスの王はウオレス将軍に恥をかかせる為、慈悲を乞わせようとしました。ウオレス将軍はあざける群衆の前に連れ出され、唾を吐かれたり、物を投げられたりしました。それから、死刑執行人は拷問をかけ始め、ウオレス将軍に言いました。「もし、慈悲を乞うなら、死刑を速く進めよう、しなかったら、もっと酷い拷問をかける」と脅しました。また、ウオレス将軍の声が聞こえるように、執行人は群衆を黙らせました。しかし、将軍は恥をかきませんでした。むしろ、残った力を全部奮(ふる)い起こして、大きい声で「自由」と叫びました。
 
【自由】
「自由。」その言葉は力強いです。自由の為に多くの人々は自分の命を犠牲にしました。又、自由の為に敵を殺す事も少なくありませんでした。歴史が始まった以来、自由の為に数え切れない程の戦争が起りました。又、現在も自由はいたるところで重んじられています。自分の自由を束縛されたいと思う人は珍しい事でしょう。

2007年08月19日 | カテゴリー: イザヤ書 , エフェソの信徒への手紙 , マタイによる福音書 , ヨハネによる福音書 , 新約聖書 , 旧約聖書

新しいことを行ってくださる神 ウイリアム・モーア宣教師

イザヤ書43章

18:初めからのことを思い出すな。昔のことを思いめぐらすな。 19:見よ、新しいことをわたしは行う。今や、それは芽生えている。あなたたちはそれを悟らないのか。わたしは荒れ野に道を敷き/砂漠に大河を流れさせる。  20:野の獣、山犬や駝鳥もわたしをあがめる。荒れ野に水を、砂漠に大河を流れさせ/わたしの選んだ民に水を飲ませるからだ。  21:わたしはこの民をわたしのために造った。彼らはわたしの栄誉を語らねばならない。  22:しかし、ヤコブよ、あなたはわたしを呼ばず/イスラエルよ、あなたはわたしを重荷とした。  23:あなたは羊をわたしへの焼き尽くす献げ物とせず/いけにえをもってわたしを敬おうとしなかった。わたしは穀物の献げ物のために/あなたを苦しめたことはない。乳香のために重荷を負わせたこともない。 24:あなたは香水萱をわたしのために買おうと/銀を量ることもせず/いけにえの脂肪をもって/わたしを飽き足らせようともしなかった。むしろ、あなたの罪のためにわたしを苦しめ/あなたの悪のために、わたしに重荷を負わせた。  25:わたし、このわたしは、わたし自身のために/あなたの背きの罪をぬぐい/あなたの罪を思い出さないことにする。

          
【難船の男】
ある男が難船の故に独りで大海の中の小さい無人島に流れ着きました。彼は半死半生の状態でしたが、やっと雨と太陽から身を守る為に流木で小屋を建てる事が出来ました。彼は救われるように毎日一生懸命に神に祈りましたけれども、何週間経っても助けられませんでした。ある日、彼は食べ物を漁り歩いてから、小屋に帰ると、酷い光景を見ました。稲妻が小屋を打って、もうもうたる煙が立っていました。小屋は全焼してしまったので、男の人は怒りと悲痛で神に叫びました。「神よ、どうしてこんな酷い目に遭わせたのですか。もう我慢出来ません。私の命を取って下さい。」

2007年04月29日 | カテゴリー: イザヤ書 , コリントの信徒への手紙二 , 列王記下 , 新約聖書 , 旧約聖書

復活の約束 ウイリアム・モーア宣教師

マタイによる福音書28章1−10
 
【守られない選挙公約】
皆さんも十分お気付きと思いますが、私達は選挙シーズンに入りました。何所へ行っても宣伝車が走り回り、政治家、あるいは政治家になりたい者は車のスピーカで国民にアピールをしています。また、駅前でも、昨日のような雨でも、政治家は選挙運動に励んでいます。他の時は分かりませんが、選挙のシーズンの政治家は大変だと思います。一票でも取る為に必死の努力をしているようです。朝早くから夜遅くまであちこちへ行って住民に顔を売っています。彼らはスピーカで色んな事を叫びますが、そのお話の中で約束事が多いようです。たとえば、「私が国家議員になったら、日本は美しい国になる。」「明るい政治の為に私を選出して下さい。」「我が党は安定した生活を保証します。」何所の国でも同じ事だと思いますが、選挙に勝つ為に、政治家は国民に約束する事が多いのです。しかし、多くの場合、約束を果たすのは全く別の事になります。政治家は約束する時、恐らく皆は心からその約束を守りたいですが、色々な理由で誓った事を実現出来ません。政治的力が足りないか、約束した事は実際的でなかったりします。あるいは、事情があって止むなく約束した事を実現出来ない。また、政治家は選挙に勝つと、選挙の時、約束した事をすっかり忘れる場合もあるかも知れません。とにかく、色々な理由で政治家の言う事を割引して聞いた方が良いと思います。

2007年04月08日 | カテゴリー: イザヤ書 , エレミヤ書 , マタイによる福音書 , ヨハネによる福音書 , 創世記 , 新約聖書 , 旧約聖書

イエス・キリストの犠牲 ウイリアム・モーア宣教師

マルコによる福音書15章33−39
 
【主イエスの受難】
私達の主イエス・キリストの受難記念日はもうすぐです。実は、今週の金曜日になります。主イエスの受難の全ての犠牲はあなたの為、私の為でしたので、この際、主の犠牲を改めて思案すべきだと思います。来週、いよいよイエス・キリストの復活をお祝いします。しかし、この受難がなければ、復活もなかった事でしょう。そして、イエス・キリストの十字架の死の意味が分からなかったら、その復活の意味と喜びも分かるはずがありません。ですから、今朝、主イエスの犠牲について一緒に思案したいと思います。
 
イエス・キリストの犠牲を考えるとき、すぐに残酷な十字架を思い出します。十字架に掛けられた間、イエスが言い尽くせない程、肉体的苦しみを経験されました。ローマ帝国の処刑の方法として、十字架の死は一番酷い拷問でした。普通の犯罪者は他のもっと速い方法で死刑に処されたのですが、国に対して謀反(むほん)のような重い罪を犯した場合、十字架刑を使いました。つまり、これ以上の厳しい刑罰がありませんでした。一日の拷問に限られなくて、死ぬまで大抵二日、三日程の時間がかかりました。あまり残酷なので、私達は主イエスの十字架の死の肉体的苦しみを十分想像出来ないと思います。

2007年04月01日 | カテゴリー: イザヤ書 , マタイによる福音書 , マルコによる福音書 , ルカによる福音書 , 新約聖書 , 旧約聖書

私達の弁護者 ウイリアム・モーア宣教師

聖書:ヨハネの手紙一2章1−6節
 
 
【高価なシガーに保険を掛けたずる賢い弁護士】
 アメリカで実際に起こった事件です。ある弁護士が一箱の非常に高価なシガー、すなわち葉巻を購入しました。ちょっと信じがたいですが、その24本の葉巻を手に入れる為に1万五千ドル(約170万円)程の代金を支払いました。あんまり高かったので弁護士はそのシガーに火災保険をかけました。そして、彼は一ヶ月以内でその24本の高価なシガーを全部吸ってしまいました。そうすると、彼は保険会社に対して要求を起こしました。葉巻が一連の小さい火事で焼けてしまったと弁護士は主張しました。保険会社は弁護士が通常のようにシガーを消費したともちろん支払いを拒否したのです。しかし、弁護士はその判断を受け入れなかった為、保険会社に対して訴訟を起こしました。そして、驚くことに彼は勝ちました。裁判管は原告の主張が軽薄であると保険会社に同意しました。しかし、保険の契約書にはどのような火事は当たらないと言う事が詳しく載ってないので、残念ながら、保険会社は原告の要求を払う義務があると裁判官が述べました。その判決を受けると保険会社は弁護士にシガーの価値、1万5千ドルをちゃんと払いました。そして、保険のお陰で無料でその優れたシガーを楽しめたと弁護士は大笑いしました。
 
しかし、弁護士がその代金を受け取ると、保険会社は弁護士を裁判での証言に基づいて、すぐに放火罪で彼を逮捕させました。そして、弁護士は保険をかけられた資産を故意に燃やした罪で有罪判決を受けてしまいました。放火罪で彼は刑務所の24ヶ月と2万4千ドルの罰金を宣告されました。驚きますが、この事件は本当にあったのです。

2007年03月18日 | カテゴリー: イザヤ書 , ヨハネの手紙一 , ローマの信徒への手紙 , 新約聖書 , 旧約聖書

「平和を実現する人々は幸いである」田村英典

聖書:マタイによる福音書5章9節

「平和を実現する人々は幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる。」

 

【平和を実現する】

今朝はマタイ福音書5章9節に注目します。イエスは言われます。

「平和を実現する人々は幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる。」


何度もお話していますが、イエスは3~10節で、真の信仰者の幸いな特徴、特質を8つの角度から光を当てて描かれ、全てのクリスチャンがこうであることを強く願っておられます。で、真のクリスチャンの7つ目の特徴が「平和を実現する」、あるいは平和を造り出すことです。

まず私たちは、これが人間の様々なあり方や行動の中でも最も価値あることの一つであることを深く心に刻みたいと思います。私たちはこの世で生きる上で色々なことに携わり、様々な行動が要求されます。

勉強すること、働くこと、社会的、文化的なことに関与するなど、多くのことがあります。しかし、最終的に平和を私たちの周りに造り出すことに貢献しないようなものは、主イエスによれば余り価値がないとさえ言えます。

聖書で言う平和は、単に戦争や争いがないだけではありません。平和とは、国と国、人と人が、互いに愛をもって理解し、助け合い、そうしていわば人が人として造り主なる神の前で完成される上で必要な大切な環境と条件と言えます。大国も小国も、大企業も中小企業も、健康な者も病める者も、皆が夫々の固有性を失わず、全体の益のためにも夫々の存在を守られ支えられ、最終的には造り主なる神に喜ばれるように自らを完成することの出来る環境と条件。これが聖書の言う真の平和と言えます。そうだとするなら、これは極めて尊いものであり、本当は全ての人間が意識的にこのために貢献すべきことと言えます。

2007年02月11日 | カテゴリー: イザヤ書 , テサロニケの信徒への手紙一 , マタイによる福音書 , マルコによる福音書 , ヤコブの手紙 , ローマの信徒への手紙 , 新約聖書 , 旧約聖書 , 詩篇

子供のようにクリスマスを ウイリアム・モーア宣教師

ルカによる福音書2章1−20
 
【最初のクリスマス】
皆さん、メリークリスマス!私達は大きな喜びを持って、この世の唯一の希望、私達の救い主、イエス・キリストの御降誕をお祝い致します。
2006年前にマリアと言う乙女が全能の神の独り子をベツレヘムと言う町にある馬小屋でお産みになりました。宿屋には彼らの泊る場所がなかった為、マリアはその御子を布にくるんで飼い葉桶に寝かせた、と聖書に記されています。万物の造り主で永遠の神は自ら進んで非常に低くなり、この世に下って、人間として私達と共に宿りました。そして、主は、「神の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」と書いてあります。ですから、クリスマスは非常に大切な記念日になります。唯一の神が天から下って人間の赤ちゃんの姿でこの世に入るのは決して普通の事ではありません。歴史上、その最も素晴らしい出来事を通して神は私達に対する御自分の驚くべき愛を具体的に表されました。
 
愛する兄弟姉妹、私達は救い主である、神の御子の誕生の記念日をどういうふうに祝うべきでしょうか。この世の人々は色々なかたちでクリスマスを迎えようとしていますが、恐らく、私達は今年、幼子のようにクリスマスを迎え祝いたいのです。

そして幼子のようにクリスマスを迎え祝う事によって神の恵みと祝福をより豊かに受けたいと思います。
 
先程読ませて頂いた聖書の箇所はクリスマス•ストーリーです。その中に「初めての子」と「乳飲み子」と言う表現が見られます。神は御自分の全ての栄光と力ある姿で私達に現れる事が十分お出来になりました。しかし、主はわざわざ防御出来ない人間の赤ちゃんとしてこの世に下りました。全能の神が御自分の全勢で私達に現れたら皆は恐れる事でしょう。その故に皆が見た事がある可愛らしい赤ちゃんの姿で私達の世に現れて下さいました。
 
ですから、幼な子が現れないうちはクリスマスの出来事が不可能のように、私達は子供のようにならないと、クリスマスを豊かに祝う事が出来ません。主イエスはこのように言われました。

「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入る事は出来ない。自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国で一番偉いのだ。」(マタイ18:3−4)

2006年12月24日 | カテゴリー: イザヤ書 , マタイによる福音書 , ルカによる福音書 , 新約聖書 , 旧約聖書

「心の貧しい人々は幸いである」 田村英典牧師/淀川キリスト教病院伝道部長

マタイによる福音書5章 ◆山上の説教を始める 1:イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。2:そこで、イエスは口を開き、教えられた。 ◆幸い 3:「心の貧しい人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。 4:悲しむ人々は、幸いである、/その人たちは慰められる。 5:柔和な人々は、幸いである、/その人たちは地を受け継ぐ。 6:義に飢え渇く人々は、幸いである、/その人たちは満たされる。 7:憐れみ深い人々は、幸いである、/その人たちは憐れみを受ける。 8:心の清い人々は、幸いである、/その人たちは神を見る。 9:平和を実現する人々は、幸いである、/その人たちは神の子と呼ばれる。 10:義のために迫害される人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。 11:わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。 12:喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。


【山上の説教】

今朝は、主イエスの語られた山上の説教の冒頭の教えに注目したいと思います。

3~10節で主は


「~は幸いである」

と言われます。どういう人のことを、主は語っておられるのでしょう。実は真の信仰者、真のクリスチャンとは、どういう特徴を持つ人かを、8つの角度から描いておられるのです。従って、これらにより、私たちはクリスチャンとしての自分を様々な角度から吟味することができ、また何が真に幸いなのかも再確認できます。

2006年09月10日 | カテゴリー: イザヤ書 , コリントの信徒への手紙一 , コリントの信徒への手紙二 , テモテへの手紙一 , マタイによる福音書 , ヤコブの手紙 , ルカによる福音書 , ローマの信徒への手紙 , 出エジプト記 , 新約聖書 , 旧約聖書

「神に背負われる幸せ」 田村英典牧師・淀川キリスト教病院伝道部長

聖書:イザヤ書46章1~4節

1:ベルはかがみ込み、ネボは倒れ伏す。彼らの像は獣や家畜に負わされ/お前たちの担いでいたものは重荷となって/疲れた動物に負わされる。 2:彼らも共にかがみ込み、倒れ伏す。その重荷を救い出すことはできず/彼ら自身も捕らわれて行く。

3:わたしに聞け、ヤコブの家よ/イスラエルの家の残りの者よ、共に。

あなたたちは生まれた時から負われ/胎を出た時から担われてきた。4:同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで/白髪になるまで、背負って行こう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す。

【キリスト教信仰が私たちに与える祝福】
キリスト教信仰が私たちに与える祝福には色々あります。一番大切なものはイエス・キリストの十字架の死と復活が、そのイエスを心から信じ依り頼む者に罪の赦しと永遠の命を与えることです。

しかし、これだけでなく、この中心的なものの回りに様々な祝福があります。例えば、ガラテヤの信徒への手紙5章22、23は、主を心から信じる者に御霊が結ばせて下さる実を9つ上げます。

霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。

愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制で、どれも尊いです。これらが私たちの内に形成されるなら、どんなに幸いでしょう。

他に忍耐力もあります。聖書によると、忍耐力とは、物事がうまく進まず、万事が私たちの願っていることと正反対の状態にあると思える時でも、私たちが尚前進して行くことのできる力です。これもキリスト教信仰の与える優れた祝福の一つです。しかし、今朝はイザヤ46章4節の伝える

「神に背負われる幸せ」

を学びます。

【無力な偶像の神々】
ここはバビロンで崇められていた偶像の神々ベルやネボと比べて真の神はどういう方かを、神御自身が語られた所です。偶像は金銀で如何にうまくできていても、自分では動けず、動物に背負われて運ばれました。その動物が躓いたなら、偶像も転げ落ち、壊れます。偶像には何の力もありません。そんなものを信じていたら、人も疲れ、その挙句に悲惨な目に遭います。

【私たちを背負われる神】
真の神は違います。古代イスラエルは不信仰のために色々懲らしめを受けましたが、ここで神は、ご自分がどれ程慈しみ豊かであるかを示し、彼らに悔い改めを促されたのでした。それはともかく、ここで一番私たちの心に響くのは、神が私たち信仰者を背負って下さることだと思います。

少し想像してみます。親に背負われてスヤスヤ眠り、あるいは親の背中で嬉しさと喜びで一杯の幼子!何とも言えない心和む光景です。それを見る者にも温かいものが伝わって来ます。親に背負われている幼子程、平安で幸せなものはないでしょう。実はイエス・キリストへの信仰の故に神の子とされた者も、同じように神に背負われる幸せに与っているのです。聖書はこの素晴らしい事実を教え、私達を励まします。

2006年08月20日 | カテゴリー: イザヤ書 , ヘブライ人への手紙 , 新約聖書 , 旧約聖書

自尊心はどこから来ますか ウイリアム・モーア

聖書:エレミヤ書1章4-10

【確かな希望】
先週の説教に私達は希望の重要性を一緒に学びました。確かな生き生きとした希望があれば、私達はどんな事があっても絶望せず、積極的に、力強く生きられます。さらにその希望が全能の唯一の神の約束と愛に基づいているのであれば、私達はその希望に徹底的に委ねる事が出来るのです。神の御子イエス・キリストが提供して下さる永遠の救いを受け入れると、私達の生涯は大きな意味と素晴しい目的地を得て、神の賜物、真の希望を豊に経験します。常に変わりつつある周りの環境から来る希望と違って、神が授けて下さる希望は誰も、何も、私達から取り上げられません。豊に生きる為には、神からの大きな、また、確かな希望が絶対に必要であります。

【神に喜ばれる適切な自尊心】
今日は、また人間には絶対に必要なものについて考えたいと思います。それは自尊心です。つまり、それは自分の尊厳と価値を正しく意識する事です。適切な自尊心があると、私達は自信を得て、生涯に起こる事を積極的に扱う事が出来、勝利と成功を経験します。また、自分を正しく評価する事によって、人間関係がより豊になります。なぜなら、自分自身を適切に愛すると、周りの者も愛し尊敬出来ます。

【自尊心の欠如】
その反面、自尊心が足りなかったら、自信を失う事があり、惨じめになります。そして、生涯に襲って来るチャレンジに積極的に扱う事が出来ず、失敗が大きくなります。さらに、自尊心が少ない場合、人間関係が上手く行く事が難しくなります。やはり、自分自身をあんまり愛さないと、相手の愛を信じ、受ける事が困難であります。最近、引きこもりの問題が深刻になりました。原因は色々あると思いますが、恐らく自尊心を段々と失った結果であると思います。

【過度の自尊心】
自尊心が足りない場合があれば、自尊心があり過ぎる場合もあると思います。つまり、適切な自尊心が自負心と高慢になります。自分が誰よりも優れていると言う態度をとり、周りの者の存在はただ自分に仕える為であると思い込んでしまいます。もちろん、そう言う自己中心的態度をとると、人間関係がすぐ駄目になり、極端な場合、人に対して酷い事をします。

2006年04月30日 | カテゴリー: イザヤ書 , エレミヤ書 , コリントの信徒への手紙一 , フィリピの信徒への手紙 , ヨハネによる福音書 , 創世記 , 新約聖書 , 旧約聖書

十字架上の御言葉(その4):「我が神、我が神、なぜ私をお見捨てになったのですか」ウイリアム・モーア

聖書:マタイによる福音書27章45-50

【父に縁を切られたエリザベス】
英国の詩人エリザベス・バレットは四十一歳で詩人同士のロバート・ブラウニングと結婚しました。しかし、残念ながらエリザベスの父親はその結婚を認めず、娘との縁を切ってしまいました。何故なら、奥さんを亡くした彼には、今度は娘がお嫁に行く事は大変辛かったからです。ですから、エリザベスが家を出た時から、父は彼女とまったく連絡せず、彼女を死んだ者のように扱いました。

結婚してからエリザベスとロバートはイタリアへ移りました。年月が経つにつれて、お父さんの心が和らいで来ると信じたエリザベスは、毎週お父さんに手紙を書きました。その手紙に彼女はお父さんに対する愛を表し、これからどうしても父と和解したい熱望も伝えたのです。しかし、彼女が父に数百枚の手紙を書いたのにも関わらず、返事は全く帰って来ませんでした。

エリザベスはやがて英国に帰りました。そして彼女は仲介者を通して父との関係を回復しようとしました。ある日、突然父からの小包が届きました。しかし、小包を開けて見ると、心が沈みました。そこには彼女が今まで父に送った手紙が全部入ってありました。そして、手紙を詳しく見ると、エリザベスは大変なショックを受けてしまいました。それは父がその手紙の一つも開けなかった事が明白になりました。心の慰めのない状態で父によって見捨てられた彼女は国をもう一度出て、終生愛した父と会う事はありませんでした。

見捨てられる事。きっとそれは我々人間には大変恐ろしい事です。特に、愛した者によって縁が切られる事は、涙と心痛と耐えられない孤独感を伴います。

【十字架上の第四のお言葉】
今日、続けてイエス・キリストの十字架からおっしゃった御言葉を学びたいと思います。そして、今日与えられた第四の御言葉はこの苦悶に満ちた主イエスの叫べです。


「我が神、我が神、なぜ私をお見捨てになったのですか。」

聖書に記されていますが、主イエス・キリストの処刑は6時間程かかりました。朝9時頃兵士達は主イエスの手と足を釘で打ち十字架につけました。そして、9時から12時の間に、苦しみを受けながら最初の三つの御言葉をおっしゃいました。皆さんはそれを覚えているでしょうか。第一は、

「父よ、彼らをお赦し下さい。自分が何をしているのか知らないのです」

と主が祈られました。そして、第二は、共に十字架に掛けられた一人の犯罪人に永遠の救いの約束をして下さいました。

「あなたは今日私と一緒に楽園にいる。」

また、先週学びましたけれども、第三の御言葉として御自分の母マリヤに弟子ヨハネについてこのように言われました。

「婦人よ、ご覧なさい。あなたの子です。」

次に、ヨハネに向いて、マリアの事について、

「見なさい。あなたの母です」

とおっしゃって、マリアの将来を保証しました。

2006年04月02日 | カテゴリー: イザヤ書 , マタイによる福音書 , 新約聖書 , 旧約聖書

十字架上のお言葉(その2):「あなたは今日私と一緒に楽園にいる」 ウイリアム・L・モーア

ルカによる福音書23章39-43節

【有名人物の最期の言葉】
有名な人物の最期の言葉はその者の性格と価値観をよく表しますから、意味深くて大変面白いです。美術家で科学者でもあり、建築家でもある、天才と呼ばれた、イタリア人レオナルド・ダ・ダヴィンチは亡くなる直前にこのように言いました。「私の作品は物足りなかったので、私は神と人間に対して罪を犯しました。」また、アメリカの大統領グローバ・クリ−ウ゛ランドの死にぎわの言葉は、「私は一生懸命に正しい事をしようとしました。」また、有名な映画プロデューサー、ルイス・マイヤーはこのように言いました。「何もかもない。全ては空しいです。」そして、メキシコの革命家パンチョ・ウ゛ィヤは最期の言葉として補佐官にこのように言ったそうです。「このまま終わってはいけません。私が偉いと皆に知らせてくれ。」共産主義の創始者カール・マルクスは死にかかっていた時、家政婦が、「書き記す為、臨終の言葉をおっしゃって下さい」と言うと、このように返事して亡くなったんだそうです。「速く出て行け。臨終の言葉何かない。そんな事は大事な言葉を言った事のない人の為だ。」

先週から始まりましたが、受難節の際に、私達はイエス・キリストの十字架からの御言葉を学んでいます。その七つの言葉は結局、主イエスの大事な最期の言葉になります。目的と意味と愛に満ちているお話です。実は、その主の最期の言葉は神が御子の十字架の贖いの死を通して、どのようにして、私達人間の最も重要なニーズに答えたかをはっきりと啓示されます。つまり、神は十字架を持って、どのような救いを私達に提供するかを説明して下さいます。

先週私達は十字架上の主イエスの第一の御言葉を学びました。それは、御自分に罪を犯す者、また、御自分の敵の為の赦しの言葉です。

「父よ、彼らをお赦し下さい。自分が何をしているのか知らないのです」

とおっしゃいました。つまり、十字架の贖いを通してイエス・キリストを救い主として信じる者は誰でも神から罪の赦しを受けられます。自由に主イエスの義を頂き、神の愛された子供のように受け入れています。その赦しの言葉が十字架上の第一の御言葉です。

【十字架上の第二のみ言葉:「あなたは今日私と一緒に楽園にいる」】
今日の第二の御言葉は永遠の救いの御言葉です。主イエスは

「あなたは今日私と一緒に楽園にいる」

と側の十字架に掛けられていた犯罪人の一人に約束して下さいました。

2006年03月19日 | カテゴリー: イザヤ書 , マルコによる福音書 , ルカによる福音書 , ローマの信徒への手紙 , 新約聖書 , 旧約聖書

クリスマスの平和 ウイリアム・モーア

ルカによる福音書2章1−20

【パックス・ロマ−ナ】
真っ暗なパレスティナの夜でした。羊は牧場の草の中でぐっすり眠っていました。しかし、羊飼い達は狼や泥棒などの危険の為、寝ずに夜番をして、羊の群れを見守っていました。夜は寒いので羊飼い達は焚き火を囲んで体を暖めました。そして彼等は長い夜の時間を潰す為、羊の群れの番をしながら、ゆっくりとお互いに色んな話をしました。町に住んでいる自分の家族の事や、次の日の予定や、病気の羊の問題や、最近のうわさ話などもしました。話は様々ですが、最後に彼等はいつも一つの話題に戻っていました。それは自分の国イスラエルの不幸な状態です。つまり、長い間、外国の支配を受けて、イスラエルはローマ帝国の三流植民地になってしまいました。以前は独立した国としての自由な存在であったのに、ローマの兵士は自分の国に侵攻して、剣で住民を食い物にしてしまいました。ローマの暴君によってこの状態は「パックス・ロマ−ナ」と呼ばれました。すなわち、the peace of Rome 、ローマの支配による平和と言う意味です。しかし、イスラエルの人々にはそれは決して平和ではありませんでした。却って、何よりもテロの状態でした。イスラエルの住民はローマの政権に厳しく監督され、ローマの市民ではないから、人権は殆ど守られていなかったのです。更に、貧しい者からも無理に税金が徴集されました。また、ローマの政権は全ての反対者を冷酷に扱いました。必ず謀反の報酬は拷問と残酷な死でした。

羊飼い達は自分の国の悲惨な現状を話し合うと、彼等にとって一つの事が明白になりました。いくら言っても、外国の兵士の靴がイスラエルの土地を踏む限り、平和は自分の国に来ません。何よりもローマの圧迫からの解放の日を待ち望んでいました。イスラエルの預言者イザヤはその日を予告して、このように宣言しました。

「主は、御自分の右の手にかけて力ある御腕にかけて、誓われた。私は再びあなたの穀物を敵の食物とはさせず、あなたの労苦による新しい酒を異邦人に飲ませる事も決してない。穀物を刈り入れた者はそれを食べて、主を賛美しぶどうを取り入れた者は聖所の庭でそれを飲む。」(イザヤ書62:8--9)

2005年12月04日 | カテゴリー: イザヤ書 , ルカによる福音書 , 新約聖書 , 旧約聖書

ひとりのみどりご ウイリアム・モーア

イザヤ書9章1-6

【巷のクリスマス】
歳月は本当に速いですね。私だけがそう思うのでしょうか。もうすぐクリスマスをまた迎えます。もう二週間前から神戸の町はクリスマス・ツリーが飾られているのです。あちこちではクリスマス・パーテイーが計画され、人々のスケジュールは12月はもう一杯だそうです。また多くの人はクリスマスの買い物で忙しいです。昨日、アメリカのニュースで、クリスマス・セールの為に人々は遠い所から朝早くショピングに来て並んでいました。そして、セールの商品の量が限られているから、その物を勝ち取る為、客さんが殴り合う映像が流れていました。

【アドベント(来臨)】
一般社会よりちょっと遅れていますが、実は、キリスト教会のクリスマスの準備は今日から始まります。今日はアドベント(来臨)、すなわち待降節(又は来臨節)の始まりです。待降節はイエス・キリストの誕生日の前の四番目の主の日から始まり、クリスマス・イブに終わります。大昔からキリスト教会は、特にアドベントの間に主イエスの御降誕の意味を新に覚え、クリスマスを祝う準備をしました。そして、同時に、将来、主が再びいらっしゃる主の再臨を心から待ち望んで来ました。

【アドベント・リース】
待降節を祝う為に毎年の事ですが、津村姉妹が今年もまた私達の為にアドベント・リースを準備して下さいました。長い伝統ですから、リースはシンボルとして色々な深い意味が生じましたが、簡単に説明します。始めに、リースの円形によって、父なる神の素晴しさを覚えさせられます。リースと同じように神は始めもなければ終わりもありません。つまり、永遠の神です。また、神の愛と憐れみは限りがないと言う意味もあります。そして、リースにある緑色は大事な徴(しるし)になります。常緑の葉っぱはイエス・キリストが賜る新しい生まれと永遠の命を示します。さらに、ろうそくは神の光、イエス・キリストのシンボルです。世の光である主イエスの御降誕は、神、御自身がこの世にいらしゃって、救いと愛の光を私達に照らして下さいました。

今日の聖書の朗読に書いたように、主の御降誕の際


「暗闇の中を歩む民は、大いなる光を見、死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。」(イザヤ書9:1)

アドベントの毎週、主の日に、外側の赤いろうそくを一本ずつ灯す事によって、イエス・キリストの御降誕を待ち望んでいると言う意味なのです。そして、真ん中のろうそくは「キリストのろうそく」と言われています。私達はクリスマスの日、来月の25日に、そのろうそくを灯します。神の光であるイエス・キリストはクリスマスの中心であり、主イエスのいないクリスマスは全く意味のない空しい事になってしまうと言う徴(しるし)なのです。

2005年11月27日 | カテゴリー: イザヤ書 , ヨハネの黙示録 , 新約聖書 , 旧約聖書

命を選びましょう ウイリアム・モーア

マタイ7章13-29

【豊かな命を与える主イエスの教え】
今朝の与えられた個所はイエス・キリストの山上の説教の結末になります。二ヶ月に渡って私達は山上の説教を通して、主イエスの基本的な教えを学んで来ました。主の八福や、心からの義と心からの敬虔や、お金の使い方や、人を裁かない事や、神に求める事などを一緒に学んで来ました。この主イエスの一番大事な教えを新に覚え毎日の生活に活用して、私達の信仰がよりもっと元気なものになったでしょうか。また、その主の教えに従う事によって、私達は周りの者に、よりもっと大きな祝福と証になりましたか。

イエス・キリストの教えを聞いて、それを実際に行うと、きっとその実を結びます。更に、イエス・キリストを心から信じ、主御自身の教えに従う事によって、私達は神が賜る本当の命を歩みます。すなわち、真の希望と目的、また力ある生活が与えられます。その意味で主イエスはこのように宣言しました。


「私が来たのは、彼等が命を受ける為、しかも豊に受ける為である。」(ヨハネによる福音書10:10)

【二つの門、二つの道】

山上の説教の結末にイエス・キリストは御自分のみが提供するその「豊かな命」を受ける為、色々な大事なアドバイスを私達に与えて下さいます。

今朝の御言葉の13と14節に、この主イエスの御言葉が記されています。

「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。」

2005年11月20日 | カテゴリー: イザヤ書 , マタイによる福音書 , ヤコブの手紙 , ヨハネによる福音書 , 新約聖書 , 旧約聖書

神と津波 ウイリアム・モーア宣教師

2004年12月19日ウイリアム・モーア宣教師 


詩編34編
2:どのようなときも、わたしは主をたたえ/わたしの口は絶えることなく賛美を歌う。
3:わたしの魂は主を賛美する。貧しい人よ、それを聞いて喜び祝え。
4:わたしと共に主をたたえよ。ひとつになって御名をあがめよう。
5:わたしは主に求め/主は答えてくださった。脅かすものから常に救い出してくださった。
6:主を仰ぎ見る人は光と輝き/辱めに顔を伏せることはない。
7:この貧しい人が呼び求める声を主は聞き/苦難から常に救ってくださった。
8:主の使いはその周りに陣を敷き/主を畏れる人を守り助けてくださった。
9:味わい、見よ、主の恵み深さを。いかに幸いなことか、御もとに身を寄せる人は。
10:主の聖なる人々よ、主を畏れ敬え。主を畏れる人には何も欠けることがない。
11:若獅子は獲物がなくて飢えても/主に求める人には良いものの欠けることがない。

【巨大津波】
一人残らず、私達はこの間の恐ろしい津波の事でぞっとさせられたと思います。このところ毎日、テレビを通してその生々しい現場が見られ、私達の想像を超えた津波の破壊的力に驚くばかりです。現場から遠く離れていても、被害統計を聞くと、津波がもたらした災害の範囲が分かってきます。死者は15万人以上、家族のメンバーを無くした者と怪我人は数十万人、住む家を失った人は5百万人、職場を無くした人は数百万人、そして飢えている人は2百万人程です。国連によりますと、今回の自然災害の被害の程度は60年ぶりだそうです。津波の為の精神的と肉体的の苦しみはきっと私達の想像を超えるものです。

【神は何故】
その災害がもたらしたひどい悪に対して、多くの人はこのような質問を聞いています。もしこの世と宇宙を創造された神が愛する全知全能の完璧な神であるなら、いったいどうして津波のような大きな災害を許すのでしょうか。本当に力があるなら、善い神は御自分の被造物をそのような非常な災いから守るべきではないでしょうか。
ある人は神を弁護するかのように、こう語ります。「神には力があるんですが、津波までは足りてないのです。神は実際に全ての悪をこの世から除去したいけれども、地震や津波のような自然災害の場合は神の手におえません。」
その反対に、ある人は神の全能を認めますが、神の善と愛を疑います。すなわち、「主は実際に天地万物を治める力がありますが、ただ巨大な宇宙の中にいる小さい私達までは忘れているのです。」あるいは、「神は私達を見るのですが、哀れみをあんまり感じてません。」

2005年01月09日 | カテゴリー: イザヤ書 , ヨハネの黙示録 , 新約聖書 , 旧約聖書 , 詩篇

【イエス・キリストによる神のみ言葉(預言)の実現】ウイリアム・モーア 待降節第2週

ウイリアム・モーア先生

ルカによる福音書4章16:イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった。
17:預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、次のように書いてある個所が目に留まった。
18:「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、
/主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、
/捕らわれている人に解放を、
/目の見えない人に視力の回復を告げ、
/圧迫されている人を自由にし、
19:主の恵みの年を告げるためである。」
20:イエスは巻物を巻き、係の者に返して席に座られた。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた。
21:そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。



(旧約聖書)イザヤ書61章1~3
◆貧しい者への福音
1:主はわたしに油を注ぎ/主なる神の霊がわたしをとらえた。わたしを遣わして/貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。打ち砕かれた心を包み/捕らわれ人には自由を/つながれている人には解放を告知させるために。
2:主が恵みをお与えになる年/わたしたちの神が報復される日を告知して/嘆いている人々を慰め 3:シオンのゆえに嘆いている人々に/灰に代えて冠をかぶらせ/嘆きに代えて喜びの香油を/暗い心に代えて賛美の衣をまとわせるために。彼らは主が輝きを現すために植えられた/正義の樫の木と呼ばれる。

2003年12月07日 | カテゴリー: イザヤ書 , ルカによる福音書 , 新約聖書 , 旧約聖書